第百六十二話
晩ご飯の親子丼、わかめと豆腐のお味噌汁、お総菜たちに混じるプリンは特にコバトちゃんの心を射止めました。
いや、あの。スイーツ食べたくて。つい。ついね? 出来心なんです。
洗い物を済ませてひと息ついた時でした。ポケットの中が振動して取り出して画面を見た私は固い声で、そばにいるカナタに外出を告げて扉の外に出ます。
少し離れたところにある公園のジャングルジムの上に、その人はいました。
金の髪を揺らして、青い瞳で月を見上げているの。
名前も知らない、遠い地から来た罪人。
「早いね。一人で来てくれてよかったよ」
「……、」
言いたい言葉が頭の中に浮かぶけれど、声には出せなかった。
スマホの画面に映っていたもの。
うちの部屋でトウヤが女子と楽しそうに笑っていたところ。上空から望遠で覗くようなアングルだ。
それだけでも総毛だつのに、銃身が映りこんでいたから……それは明確な悪意であり、脅迫だった。
「正攻法でここまできたけどすぐに気づかれるだろうから、高飛びする前に話しに来た」
「……なに」
相手は敵だ。絶対に。シュウさんを襲うような人が、味方なはずがない。
そもそも伝えた覚えのない連絡先に無理矢理繋がってきた時点で、相手の言葉を信用できるはずがない。
だから、
「世界中の誰もが隔離世に行けたらいいと思わない?」
赤いお鼻をつけて笑う彼の言葉は、ある意味では理想だ。
彼が最初に手を差し出し、繋いだ後に言ったのなら……或いは。
けど、
「シュウさんを拉致したり、私を脅すようなあなたの言葉に夢は見れない」
「嫌われちゃった」
「好きになる理由がないよ」
「僕は好きだよ、遊びがいがあって。驚いたろ? いい写真だと思うんだ」
刀はない。メールの文面を思い出す。「うう、」
『引き金をしぼったら赤い華が咲くね。誰にも言わず、刀を持たずに一番近い公園においで。約束を違えたら……あんまりにお約束すぎるかな?』
手を伸ばしたい。「うううう、」
黒い感情に叫び出したくてしょうがない。「ううううう!」
「気が変わったら声を上げて。いつでも迎えにくるからさ」
「うううう!」
尻尾が弾ける。
本当の目的くらい言えないの? 逃げてわざわざ嘘をつきにきたの? 悪意しか見えない。こいつの存在が許せない。
怒りが膨らんでいく。
髪が逆立つ。
尻尾が弾けていく。力が満ちていく。
『――』『――っ!』
二人の声すら聞こえない。
だめ。だめ。だめ。
あいつを――してやらなきゃ気が済まない。
「もっとも、いつでもきみの家族くらいめちゃめちゃにできるから。これはある意味、命令といってもいいんだけど」
「ううううううううううううううううう――ッ!」
気づいたら飛んでいた。
振り下ろした拳は、けれど空を切る。
地面に着地した私の後頭部に当てられた固い感触と同時。
「ベタだけど言うよ。動くと撃つ。水鉄砲かな、本物かな?」
怒りが爆発しそうだった。
こいつを斬れないなら。
――せないなら、いらない。何もかもいらない。
ただ力が欲しい。
こいつを――……殺せる力が、今すぐに!
「ううううう。ううううう! ううううう――!」
絞り出した唸り声はまるで自分の物じゃないみたいで。
「今回の目的は達した。キミを怒らせにきたんだ。金が黒に染まって、その力はもしかしたら世界の境界さえ壊せるかもしれない。見てみなよ」
地面が揺らめく明かりに照らされる。
ぼやぼや、ぼやぼや。
宙に燃える炎が私の周囲に浮かんでいた。
「狐火だ。隔離世を世間に照明するにはね、超常現象を山ほど起こすのが手っ取り早いと思ってさ。百聞は一見にしかず……おっと」
飛び退り離れる気配にふり返る。
ソウイチさんが、シュウさんが彼を追い掛けていく。
カナタが瞬時に私に飛びついて刀を構えた。
敵は離れ、消えてしまう。だめ。だめ。逃がしたら、逃がしたらトウヤが――……
「――ハル!」
耳元で叫ばれてやっと、自分の名前を呼ばれていた事に気づいた。
カナタがすぐに言うの。
「だいじょうぶだ! お前の家の周囲は安全だ! お前が危険だとわかった時点で、既に兄さんが手を回している! 隔離世も現実にも警察と侍が常駐している!」
理解できなかった。
簡潔に告げられているのに、まるで頭に入ってこない。
だって、スマホに写真がある。写真があるの。
震える手で取り出して、カナタに差し出そうとして落とした。
手が強ばってまともに動かなかった。私の周囲に浮かぶ炎がカナタの身体に近づいて、私の大事な人の顔が歪む。
それでも、カナタは構わずにスマホを確認して言うの。
「悪辣な手だ。合成に間違いない。お前の弟も家族も無事だ。兄さんの事件前にドローンか何かで撮った映像だろう」
「――あ、う」
縋るような目で見つめる私にカナタは力強く言うの。
「お前の家族は無事だ。大丈夫だ」
はっきりとした断言をやっと理解する。
「じゃあ、じゃあ……」
「お前の家に行ったから知っている。こんなアングルで撮れるほど、お前の実家の周囲に高い建物はなかったはずだ。大丈夫だ、大丈夫だから」
私のことを抱き締めて断言される。続けて言われるだいじょうぶだけが、やっと遅れて頭の中に広がっていく。
どんな声をあげたかわからない。なにを言ったのかわからない。
それでもカナタになだめられて、いつしか火は消えていた。
お尻から生える尻尾は一つ。まるで力を使い果たしたかのように疲労が襲ってくる。
涙でにじむ視界でカナタはずっと、私を案じてくれていた。
悔しい。あんな悪意に容易く揺さぶられてしまう自分が、情けなくて。悔しくて悔しくてしょうがなかった。
けれど指先さえ満足に動かせないまま、私はそのまま気を失って――……
◆
三日が過ぎて病室のベッドで目が覚めた。
金と黒が入り混じる髪、一本のままの尻尾。尻尾の毛の色もまばら。
心の中に感じるはずの二人の御霊を、今は感じない。
ただからっぽになったような気持ちで息を吸う。
痛む身体を起こして、ぼんやりと窓の外を見た。
陽気に包まれた世界は何も変わりなくそこにある。
ベッドのそばに立てられた二本の刀も、きちんとある。
「タマちゃん……十兵衞?」
呼びかけてみるけど反応はなかった。
嫌な予感が胃の中からせりあがってきて、吐き気をこらえながら刀を抜いて言葉を失った。
錆びていた。ぐずぐずに。なんで。なんで……。
自失する私の肩が揺さぶられる。
ふり返るとカナタがいた。
「ハル……起きたなら無理はするな。まず、横になって……ほら」
肩をとられて、そっと寝かされる。私の手にある二本の刀をそっと取り上げて。
「ねえ、」
「腹は減ってないか? 水を飲むか?」
「ねえ、なんで、」
「今は無理をせず――」
「なんで、錆びちゃったの……?」
私の声にカナタは痛みを堪えるような顔をして俯いた。
「……すまん」
「なんで?」
責めているんじゃない。そんなつもりない。ただ、ただ……知りたかっただけ。
「タマちゃんと十兵衞、もどってくるよね?」
「ハル、」
「おかしいの……呼びかけても返事がないの。なんでかな」
「……ハル、」
「声が聞こえないの!」
気づいたら叫んでいた。
不安に押しつぶされそうで、怖くて。
だって、こんなの、まるで。
「……いないの、二人が……いなくなっちゃった、みたいなの」
言葉にしてしまったから、もう……ごまかせない。
なのに……気を失う前に言ってくれた言葉がこない。
「だいじょうぶって、言ってくれないの?」
縋る相手はもう、カナタしかいなくて。
けれど私を見つめるカナタは、あの公園で見たときと違って痛みを堪えるものでしかなくて。
「無理、なの……?」
いやだ。いやだ。いやだ!
こんな、こんな形で失うなんて……絶対にいやだ!
「――っ」
せり上がってくる甘えを、息さえまともにできずに舌を強く噛んで言えなかったのは……たぶん、僥倖に違いない。痛みが強引に引き寄せる冷静さに気づいた時、ベッドに落ちる自分の涙の量に気づいた。
「……ごめん」
カナタを責めたいんじゃない。
違う。そうじゃない。
呼吸を必死に繰り返して、めいっぱい空気を取り込んで。
頭に酸素を送り込んで、それから尋ねるの。
「錆びた刀は、もどせるの?」
確信に触れずにはいられなかった。
「保証はできない」
心が挫けそうだった。
弱さがカナタに縋ろうと叫んでいた。どうしてって。なんでこんなことにって。
でも同時に気づいた。
あの時、私は確かに思った。あいつを殺せない刀はいらないって。それは明確に、私の心のあり方と……二本の刀に願う力と相反するものだ。
「――……錆びつかせちゃって当然だね。二人の声が聞こえないのも」
怒りで我を失った私は聞くことを忘れてしまったもの。
口にした瞬間にせりあがってきた嗚咽を必死にかみ殺す。下唇が裂けて血が滲むほど、強く噛んだ。
必死にベッドを掴んで、涙を振り払って頭を何度も振って。
深呼吸をしようと何度も試みて。冷静になろうと努めて、尋ねるの。
「可能性がある、なら……それはなぜ?」
「お前にはまだ、耳と尻尾が残っている。刀も朽ちてはいない。お前の心が折れていないのなら……可能性はゼロじゃない」
カナタの言葉には、けれど百でもないという意味がある。
そう言わないのはなぜか。私への気遣いだけじゃない。こういう時に願いに繋がる現実を言うことができる人だと思うから、受け止めるなら前向きであるべきだ。
「あいつらは?」
「敵は……国外へ逃亡した。ご丁寧に、海外から兄さんが確認できる全員のメンバーが映ったビデオメッセージが届いたそうだ。ネットを通じて、当日の海外の新聞の画像つきでな……間違いなくお前をおびき寄せた後のものだ」
いかにもやりそうだし、腹立たしい。
「日本の警察宛に、それも兄さんを名指しして送られた。不愉快で悪意に塗れた愉快犯だが、脅威のレベルは無視できない。アメリカをはじめ各国が警戒に入ったそうだ。そう簡単には日本に戻ってはこれないだろう」
「……うん」
悔しい、けど……仕返しなんて考えている場合じゃない。
切り替えよう。むかつくけど。許せないけど。仕返しだって考えるけど。
でも、そんなことよりもっともっと大事なことがある。
「わかった。じゃあ……研ぎ直したいの」
「いいのか?」
「タマちゃんと十兵衞の方が大事。私の力は誰かを傷つけようとしたら錆びるんだ。だから……許せないけど、いい」
断言する。心に強く刻みつけたいから。
「お願い。刀を――……私を、研ぎ直して欲しい」
私がそう言うと、カナタは微笑んでくれた。
「お前ならそう言ってくれると信じて準備していた。前例はないから荒療治になるが、耐えられるか?」
「二人のためならなんでもする」
「わかった」
するとカナタは扉に鍵を掛けた。
改めてみると個室の病室で、カナタはカーテンを引いて完全に衆目をシャットアウトすると真顔で言うの。
「裸になってもらえるか?」
「……えっ?」
「激しく体力を消耗するから、水が飲みたければ先に言ってくれ」
「……えっと、そうじゃなくて」
いきなり困る。
「俺も脱ぐ、待っていろ」
そういう問題じゃない。そういう問題じゃないよ。
「……え、いま? ここでするの? え、そういう空気じゃないよ? 歓迎するかどうかで言えばそりゃあ私は歓迎するけど、でも今じゃないっていうか」
「何を考えている。そうじゃない」
「えっ」
でも、裸って。私いまベッドの上だし。
そんな私の考えなんてお見通しなのだろう。
カナタは少しだけはずかしそうに目を伏せた。
「余分な情報があるとうまく出来る自信がない。裸で刀を持ち、意識を集中して欲しいんだ」
「……裸である必要性とは?」
「ありのままの姿をさらけ出す。剥き出しになったハルの心の兆しを捉え、刀を研ぎ直す。その最中に服が擦れただのの感覚は邪魔だ。やるなら万全を期したい」
「で、でもう……それは、あのう。いつかの時みたいに自分の身体に刺して抜けばどうにかなるのでは?」
「既に試した。断っておくが、起きて錆びた刀を見たらショックだろうから何とかしたかったんだ」
「ふうん……」
半目&眉間の皺攻撃にカナタが若干怯んだ。
「そんな目で見るな。断じていやらしい気持ちからではない」
「私の裸は見たくはないと」
「……そういうことでもなく。だが、今じゃないだろう?」
確かにそう。その通りだ。でも、なんていうか、なんていうか!
「カナタってさ……カナタってさ。いつもは惚れ直し続けちゃうくらい王子さまなのにさ。たまに過程を飛ばすところあるよね」
いい具合に気持ちがほぐれたからいいけどさ! いいけどさ!
いつもの気持ちが戻ってきたから全然いいんだけどさ!
「……すまん」
あのさ。あのさ。んーっ。もどかしいこの気持ちをどう伝えればいいんだろう。
真っ先にぽんと浮かんだのは気絶したあの日みたカナタのお母さんのレシピノートの教え。
甘えちゃえばいいじゃない。れっつとらい!
「あのう……いつもみたいに、こう。素敵なノリで促してくれてもいいのよ」
「刀が錆びてるのに何を言ってるんだ」
「うっ」
正論!
「……まあ、でも確かに俺が悪かった。あの日も……すぐに助けに行けなかったから」
「あ……」
ぎゅう、と胸が締め付けられて思わず言わずにはいられなかった。
「黙って出て行った私が悪かったの! ……助けに来てくれたから、それでいい。私こそ、ごめんなさい」
「じゃあ……仲直りだな」
「うん」
ベッドに歩み寄ってきて腰掛けたカナタが差し伸べた手を取る。
お互いに微笑みあえるこの瞬間がきっとなにげないありふれた特別なんだ。
負けない。あんな悪意に折れたくない。そう強く思えたから、もう大丈夫。
「じゃあ、その……」
「待て」
病衣に伸ばそうとした私のもう片手をそっと取って、指先にキスをしてくれるの。
「……よく、無事でいてくれた」
「あ……」
褒めてくれるキスが手の甲に。
「悪意に晒されて尚、尻尾が残ったお前の可能性を……素直に凄いと思う」
それは手の甲へ。そして、
「最高の侍になるまで、その刀を俺は折らせない。誰にも……触らせない」
手首へ。
「どうか俺に――……偽りのない姿を見せてくれるだろうか? 愛するお前の姿を、俺は何度でも見たいと思う」
そして、手のひらへ。
「……どうかな」
不安が覗く瞳を見つめて、ときめきながらも私は言うの。
「唇にキスしてくれたら、きっとなんでもできると思うの」
カナタは笑ってくれた。
互いにキスをして、繋がりを……気持ちを確かめ合う。
だいじょうぶだ。あんなのに負けない。私の気持ちは絶対に負けない。
「――……いくぞ」
カナタの指が離れて私の病衣を脱がす。
カナタも――……脱いで、ベッドの上で腰掛ける私を背中から抱き締めてくれた。
刀を持つ手に手を重ねる。
背中に唇の感触が落ちた。
「……だめなら、取り返せないかもしれない。それでも、いいのか?」
「うん、お願い」
「わかった――……」
カナタの霊子が身体に伸びてくる。
息を吸いこむ。身体に感じるカナタの熱と霊子の冷たさを感じながら、それでも私は不思議と落ち着いた気持ちだった。
「愛は折れないの」
言葉にすると不思議と心に染み込んでいく。
黒く歪むのが私なら、青く澄み渡るのもまた私。
曇らせない。染まるなら常に一色。それが私だったはず。
「――……お願い」
刀に気持ちを注ぐ。
私の心に願い奉る。カナタの霊子が一気に魂へと伸びた瞬間、
「帰ってきて」
呟いた。
痛みが広がる。一度染みついた悪意が私の身体を蝕む。
それは或いは退治した邪と同じ穢れなのかもしれない。
けれど、一度抱いたものを否定せず。
「愛は折れない」
それでも越えて、心を伸ばす。
真っ直ぐ真っ直ぐ、ただ一つを願う。
「だから、戻ってきて――……お願い!」
カナタの霊子が私の願いを掴んで刀へと伸ばす。
光が――……満ちる。
さび付いた刀身から弾けるように、赤い汚れが吹き飛ばされて――……
『くあああ! 死ぬかと思ったわ!』
『――……ふ、なかなか堪えた』
刀身が戻った。輝きが確かに戻ったの。二人の声もはっきりと聞こえた。
染まった悪意を歓喜で黄金に塗り替えて――……上書きしていく。
見なくてもわかる。尻尾も髪もすべて、金に戻ったって。それに尻尾がどんどん生えていく。その数は九つだ。
元通りになったの。ちゃんと。ちゃんと戻ったの。
「ごめん。ごめんね……っ」
ただただ自分が情けなくて刀に触れる。
カナタの霊子を吸い上げて二本の刀がぽん、ぽんと弾けてぷちタマちゃんとぷち十兵衞になったの。
二人はそれぞれにぴょんと飛んで、私のおでこにぱんちした。
「おうっ」
な、なかなかの威力でした。
「これでちゃらじゃ。頭がいっぱいになるのはわかる、怒りで歪むのもわかる。じゃが、それでも妾たちは共にあらねば」
「俺を宿しておきながら、鬼ごっこといい戦い方を知らなすぎる。夏休みとやらはまだまだあるのだろう? しっかり鍛えるぞ」
「ほんと、すみません」
ぷんぷん怒って腕組みしている二人には平謝りです。
刀を置いて慌てて頭を下げる私に二人は顔を見合わせて、それから意地悪く笑いました。
「それで? 気を利かせて出て行った方がええんかの?」
「なかなか刺激的な光景だな?」
「あっ」
そ、そうだった。今は裸なのでした。
「ふ……服、着るか?」
「う、うん。そうだね。裸なのはだって、別にそういう理由じゃないもんね」
慌てる私とカナタに二人は笑って、それから言うの。
「やれやれじゃの」
「まだまだ……未熟な侍だ。俺たちがついていなければな」
くぬぬ!
ああ、でも。本当に、もう。
「……よかったよう」
思わず二人を力一杯抱き締めた私に二人は優しく微笑んでくれたのでした。
八月が迫っている。夏休みはまだまだこれからだ。日常が私を待っている。
強くなろう。
私の心に恥じないように。支えてくれる大事な人に恥じないように。
愛は折れない。
それを証明するのは、きっとこれからの過ごし方に掛かっているから。
つづく。




