第百五十九話
朝早くに起きて、私は霊子を注いでノートを睨みました。
『なにごとも楽しく明るく前向きに』
いい標語。だけどレシピノートになぜこんなことが書いてあるんだろう。
料理の心構えかなあ。
『緋迎家の食卓でおいしいと言われたあなたに捧げる、緋迎家との食卓を通じたコミュニケーション方法はこちら』
ページを捲る。
『気分屋さんがいる時の朝ご飯の立ち向かい方 ~入門編~』
ソウイチさんのことだ。確か気分で朝ご飯を和食にすることがあるって話だった。
『朝ご飯で和食が好きな男性は、包丁の音と味噌汁を煮込んだり魚を焼く匂いに弱い可能性があります(独身時代の私調べ)』
言われてみれば、そうかも?
実家でお母さんが立てる包丁の音とかいいよね。お味噌汁の匂いがして涎が出たことあるよ、朝に。あんまり日常的過ぎて意識したことなかったけど。
『刺激してみましょう。寝室の前でまな板を包丁で叩いて物音がしたら和食です』
……うん?
あれ? 読み間違いかな? パワーワードに対して割とお茶目な悪戯が書いてあるのは、私の気のせいかな?
『うめき声が聞こえた時にはもう間違いなく和食の気分です』
すごい。断言してる。カナタのお母さんって、そんなことしてたの? 音が音なら嫌がらせのレベルだけど。包丁の音のトントンならありなの? 私はありだけど。
ま、まあとりあえずやってみよう。
いそいそと着替えて洗顔を澄ませ、髪の毛を整えてからキッチンへ。包丁とまな板を出して二階へあがってみる。
ソウイチさんの寝室の前で聞き耳を立てた。
すう、すう、と健やかな寝息が聞こえます。
起きるかな? とてもそんな気配ないけど、恐る恐る包丁でまな板をとんとんとん、と叩いてみました。するとね?
「ん、んん……」
うめき声だ! うめき声が聞こえたよ!
しかもね?
「う……ん……」
「ん……?」
シュウさんとカナタのうめき声まで!
やばい、吹き出しそう。
親子だー! って思ったし、条件反射ができてるーって思ったから。
唇を必死に閉じて一階へ降りた。
ノートに霊子を注ぐと、朝ご飯のページに出てくるの。
『うめき声が聞こえたら、あとは和食の朝ご飯を作るだけ。といっても朝の和食にありがちな魚を焼くのは大変ですか?』
うん。買ってないし、あってもコンロから何から用意するのちょっと面倒かも。
『そんなあなたに目玉焼き』
ええ? 和食なのに?
『しょうゆを出しておけば大丈夫なように調教済み』
調教って!
『目玉焼きはバターたっぷりで作りましょう。緋迎家の男達は片面焼きで黄身がとろとろが好みですが』
あ、好み。そうだよね、目玉焼きの焼き加減って結構好みあるよね。
どうすればいいの?
『だめだった時は「失敗しちゃった、ごめん」ってかわいこぶればだいたいなんとかなります』
お母さん……!
『冗談はさておいて』
冗談に思えなくなってきましたけど。
『あんまり好みにうるさくない彼らですが、とてもうるさい時があります』
え、そんな時あるの?
『寝起きが悪い時です』
料理と関係ないじゃない……!
『なのでキッチンに来た彼らの顔つきがちょっとぽやっとしていたら、顔を洗うように言いましょう』
目を覚ませ、と。そういうことなの……。
『面倒くさがった時には、いつもの素敵な顔が台無しなの悲しいなあってしょんぼりすると、基本的に彼らは紳士なので従ってくれます』
ああ……うん。たぶんそうなんだろうなあ、と思います。
『問題なのは娘です』
そ、そうだね。これまでコバトちゃんには触れてこなかったよね。
『私の娘なので、これは断言しますが野菜が嫌いです。間違いありません』
すごい! 見抜いている……!
『しかし甘い物は好きです。恐らく野菜ジュースだけは、あげ方を工夫すれば飲むでしょう。冷蔵庫になければ今すぐコンビニへダッシュ!』
そ、そういう対策でありなの?
『きっと私の娘なら寝起きはいいはず。時間の猶予はありません。肉と野菜ジュースを与えるのです。それできっとなんとかなります。自分を信じて!』
信じられる要素とは……!
ノートを手に震えていたら、二階から物音が聞こえた。コバトちゃんかな。
や、やばい、どうしよう。えっと、えっと。
とりあえず冷蔵庫を見た。野菜ジュースはない。けど卵とか、キュウリとかキャベツとか。あと豚肉とかもある。最低限、朝ご飯に出せるだけの食材はありますね。
ならもう、迷っていられない。どうせ朝ご飯についてはろくに準備ができてないんだ。
やるだけやっちゃおう! それから判断しても遅くないよね?
急げ、コンビニへ!
◆
コンビニへの買い出しを済ませて戻ると、パジャマ姿のコバトちゃんがリビングでテレビを見ていた。膝を抱えてぼうっとした顔で朝の顔であるアナウンサーを見つめていたけど、私の帰宅に気づいて顔を向けてきた。
「……おかえり、なさい」
「ただいま」
くすぐったいけど答えてみたら、コバトちゃんはテレビに視線を戻してしまった。
おかえりは言ってもらえたけど、まだ打ち解けるほどじゃないか。
ううん……よし。
「コバトちゃん、ジュース好き?」
「……甘いもの、あんまり飲ませてもらえない。パパが怒る」
「じゃあ……そうだなあ」
あのノートの文面を思い返してから、私は意識して笑ってみた。
「内緒のジュース、飲んでみない?」
「……ないしょ?」
「そ」
コンビニの袋から野菜ジュースを出そうとして、その手を止めた。
野菜嫌いなら、野菜っていう文字面が既にアウトかもしれない。
急いでキッチンへ行ってコップを探していると、コバトちゃんがやってきて可愛いヒヨコのイラスト付きコップを出して渡してくれた。
「これがコバトちゃんの専用コップ?」
「うん……」
少しはずかしそうに俯くところがすごい可愛い。
「かわいいね」
そう言った途端にはっとした顔をして私を見ると、駆け足でリビングに戻っちゃった。
照れ屋さんかな?
コバトちゃんのコップに野菜ジュースを注ぐ。濃縮タイプにするかすっきりさわやかにするかで悩んだけど、野菜嫌いさんが相手ならすっきりさんかな? というチョイスです。
色はもう直球でトマトかニンジンジュースだよね。
どう乗り切ろう?
リビングへ行くと、コバトちゃんが子供向けアニメを見ていた。溢れる年相応感にほほえましい気持ちでいっぱいですが、とにかく。
「はい、これ」
「……真っ赤」
やっぱり警戒するよね。
「匂いも、なんかやだ」
ああ、恐れていた事態が……う、ううん! えっと。えっと。考えろ。トウヤが子供の時、お母さんはどうしてたっけ? ……無理矢理食べさせてたっけ。うちは男子には容赦ないからなあ。んー、そうだなあ。
「これ、なあに?」
「内緒のジュースなの。一見危険で、匂いも刺激的ですが……飲んでみると、あら不思議! おいしいジュースなんです。みんなが内緒に気づかないようにそんな見た目と匂いなんだよ?」
ど、どうだ? 私なりに精一杯考えたんだけど。
「……ひとくち、だけだよ?」
あふれる、大人がめんどくさいことを言うからしょうがなく付き合ってあげますよ感!
でもいいの、飲んでくれれば! 気に入ってくれればもっといい!
コップを受け取ってくれたコバトちゃんが中身をちび、と飲んだ。
「……あまい」
「でしょ?」
思わず飛びつきたくなる気持ちをぐっと堪えて見つめる。
「……ちょっと、やな感じする」
恐るべし、子供の嗅覚……!
「でも、味は好き、かも」
よし……!
「飲むね」
少しだけ笑ってくれたコバトちゃんを抱き締めたい私です。
でもコバトちゃんはアニメに意識を戻してコップをちびちびやり始めたので、私は気持ちを切り替えてキッチンへ。
置いてあるエプロンを装着。
ご飯を炊かなきゃなので、土鍋投入。あんまり時間に余裕はないけどやるしかない。
ショウガと醤油、みりんでタレを作って豚肉を浸す。
お鍋に豆腐とわかめ、お出汁の粉末を入れて茹でる。
包丁で洗った野菜を切っていたら二階から足音が降りてきた。それも複数人だ。
見るとキッチンの入り口に男三人がぽやっとした顔で来たの。
揃いも揃って寝起きです、という顔だ。これはあのノート的に危険信号だぞ! えっと! えっと!
「お顔、洗ってきてください」
だけだと、ちょっとあれかな。
「時間掛かるし、三人ともせっかくのイケメンが台無しですよ?」
あのノートのノリだとこんな感じかなあ、と思って三人を見たらね。
「あ、ああ」「そうだね……」「うむ……」
三人とも妙に眩しそうな目で私を見るのはなんでなの。
よたよたと離れていく三人を見送って、プレートを並べる。
キュウリはお塩を振って、キャベツはマヨネーズを添えて。
あたためたフライパンにたっぷりのバターを投入。
じゅわーと音を立てるそこへ卵を五つ割り入れる。
少しだけくたびれたテフロンに卵の一部が張り付きそうになっていたので箸で剥がす。
その時にはお鍋の汁が沸いていたので、火を止めて味噌を溶かして味見。
「ん! いい感じ」
刻んだネギを入れて、蓋をして保温しておこう。
もう目玉焼きはいいよね。プレートに並べてしまって、さっとフライパンを洗う。そのまま火にかけて、今度はつけておいた豚肉を焼いた。
ご飯は昨日の残りもあるから、レンチンしちゃおう。明日からはもう少し時間配分考えないと。蒸らし終えたご飯を前に唸る。昨日の夜に比べると、もうちょっと頑張れた気がします。
その頃にはメンズ三人がずらずらとリビングへ移動してきた。
コバトちゃんが空気を読んだのか、それともアニメが終わったのかチャンネルをニュースに切り替える。
新聞を広げる音がした。朝の音だ。
すっきりした顔のカナタが入ってきて「手伝おう」と言ってくれたので、ご飯と味噌汁をよそうのを手伝ってもらいました。
目玉焼きのそばに豚肉のなんちゃって生姜焼きをよそって、食卓に並べる。
カナタがテーブルにランチョンマットを敷いてくれていたので、それぞれに配膳。
箸が並ぶ中で、醤油差しを置いてひと息だ。
「食べましょう!」
手を合わせると、コバトちゃんがテーブルにうつってきた。
新聞を広げていたソウイチさんが閉じて、ニュースを見ていたシュウさんがテーブルを見る。
みんな揃って、不思議なものを見るような顔をしてテーブルを眺めていたの。
食べる気配ゼロなんですけど。我ながら慣れないなりにすっごく頑張った方なのですが。
「……あれ、だめでしたか?」
どきどきしながら聞くと四人が四人とも、首を横に振るの。
「何か……不思議なんだが」
カナタがどう表現するべきか迷った顔で私を見た。
「和食が食べたい気持ちだったので、意外で」
ソウイチさんが首を捻っている横で、シュウさんはぽつりと呟くの。
「昔を思い出す朝だね。キッチンにいる青澄くん、朝に父さんじゃない人が作った和食なんて……とても意外だ」
「まだ食べないの? お腹すいた」
コバトちゃんの指摘に三者三様に咳払いをして、手を合わせるの。
「「「「 いただきます 」」」」
「めしあがれ」
どきどきしながら見守る。
コバトちゃんは迷わずお肉だ。豚肉の生姜焼きを食べて何度も頷いていた。
隣にいるカナタは目玉焼きに醤油を垂らして白身をぱくり。頷いてから、口元を緩めて幸せそうに食べている。
対するシュウさんとソウイチさんはまったく同じ所作で味噌汁を啜るの。
ど、どうだろう。結構ご家庭によって味が変わると思うのですが。
「うん」「やはり、朝は和食だな」
二人揃って笑顔だ。よかったあ……。
朝だから正直まだ実況する元気もないけれど、これは勝利の予感です。
「いいな……シュウではないが、妻が戻ってきたような……そんな光景に胸が詰まった。よく見れば息子の恋人だから、次に驚いたが」
今日の朝は実にいい、と噛みしめるソウイチさんにシュウさんも笑顔。
「味もいい。カナタはいい恋人を見つけたね」
当のカナタはというと、咳払いしてから私を見たの。
「朝からこれだと大変だろうから、起こしてくれていいんだぞ?」
「だいじょーぶ」
割と胸を張れるんですよね。不思議と、ではなくて。
「その自信……もしや青澄くん。ノートを読むことができたのかな?」
「そうなんです!」
どやあ、としながら私はノートを広げました。
そしてみんなにお披露目しようと霊子を注ぐのですが……あれ?
「あれ?」
文字が出ない。なんで?
さっきまでは確かに出てたよね? 私の見間違えなのかな?
「よ、読めたんですよ? ほんとに」
慌てて全力で「ふおー!」とか「ふんぬー!」と力を注ぐけど、だめ。
「誰も疑いませんよ、この朝の食卓を見ればね」
「あ……」
ソウイチさんの穏やかな声に我に返る私です。
「よほど母にとって私たちには見せたくない舞台裏が書いてあるのかもしれないね」
フォロー半分、冗談半分のつもりでシュウさんは言ったんだろうけど。
なんとなく、それが答えのような気がしました。
「今朝の食卓は気持ちが良い。とはいえカナタの言うとおり、手伝うし代わりもする。気軽に言ってくれ」
「はい……」
もそもそマイペースに食べているコバトちゃんがひと息ついたタイミングを見計らって言うの。
「おかわり!」
「あ、うん!」
立ち上がる私にお茶碗が三人分も続いた。みればみんなしておかわりだ。
……お米まだ残ってたかな。あ、明日からもっと炊くのは必要な準備事項ということで!
ノートを置いて急いで土鍋を取りに行きながら考える。
不思議なノートだ。まるでカナタのお母さんが私を助けてくれる窓口みたいな――……
「まだあ?」
「はーい!」
コバトちゃんの食に対する素直な要求に可愛いって思った時にはもう、頭に浮かんだ考えはどこかへいってしまって。
土鍋を持とうとした私は、
「あっつ!」
思い切り火傷をしてしまったのでした。
◆
食事を終えてスーツ姿で決めたシュウさんを見送ってひと息ついた私は、カナタに言われるままに胴着姿に着替えてお庭を挟んだところにある道場へ行きました。
そこには胴着姿に着替えたソウイチさんがいたの。
そっか。いよいよ特訓なんだ。
素振りをしたり、それとも組み手をするのかな。これは大変なことになりそうだぞ……。
「揃ったな」
カナタと私を見たソウイチさんはその場に腰を下ろして、座禅を組みました。
当然のようにカナタも刀を置いて座禅を組むの。
そして私を見て頷いてきた。一緒にやろうということなのかな。
胡座を掻いて、手を組み合わせるのかな。
刀を脇に置いて、カナタの見よう見まねをする。
「――……」
沈黙。
え、ええと。
「あ、あのう。何をすれば?」
「このまま三時間だ」
おおう。おおう。ほんとに? マジですか? このまま三時間ですか? 精神修行的なことなの? だとしてもいきなり三時間座禅なの?
こ、これは……思った以上に大変なことになってきたぞ!
もつのか……! 私の足腰……!
「雑念は身体に出る。尻尾にも気をつけろ」
ええええええ!
無理。だめ。どうしよう。これは大変なことになってきた!
いつも尻尾の動きを気をつけているわけじゃないもの……!
「ちなみに集中できていないと見抜かれるし、この後の特訓で厳しくしごかれる」
なんてこった! なんてこった!
助けて……! 乗り越えられる気がしないよ……!
つづく。




