第百四十一話
身体をすくい上げられる感覚がして、目を開けるとそこは隔離世でした。
ふり返れば殺生石があって、カナタとシュウさんに手を引かれて私は抜け出したのです。
その開放感に思わず叫び出したくなって、その衝動がユウジンくんを見た瞬間に凍り付きました。
「……あ、あ、あ」
なんでだろう。ユウジンくんは変わらないのに、まるで私の心の何かが切り替わったかのように全身に恐れと怒りが広がっていくのは。
「安倍くん、手はず通りに」
「はあ……面倒やわ」
息を吐いたユウジンくんが近づいてくる。
それだけで身体中が震えた。逃げずにはいられず、走りだそうとせずにはいられない。
ぱんぱんぱん、と弾けるように尻尾が膨らむ。九つが暴れるように私の足の間に我先にと入り込んできた。
カナタが力強く抱き締めてくれなければ、とっくに飛び出していたに違いない。
『――……ッ!』
タマちゃんが苦しみ喘ぐ。声にならない叫びが頭にがんがん鳴り響く。
そんなタマちゃんと、振り回されて我を見失う私を叱るようにユウジンくんと拳で額をこつんとノックした。
「しゃんとしいや。えらいお狐はんになったんやろ?」
広がった手のひらで囚われた額、もう片手が切る記号を目にして私の中の乱れが整えられていく。震える尻尾の一つ一つから力が抜けていく。
「自分の名は、なんやっけ?」
頭の中で十兵衞の声が紛れてしまうくらいにタマちゃんの怒声が響き渡る。
一つになって失った怒りと恨みを取り戻したかのように、安倍ユウジンくんを――……その目と顔立ちに見る私の知らない誰かの面影を見て、荒ぶらずにはいられない。
そんな怒りを拒絶するよりも、深呼吸して飲み込んで……受け入れて。
耳は熱く、獣耳も身体中も怒りに震えるけれど、それは今の私にとって未だ正体のしれぬもの。ならばそれに振り回されて暴れる道理もない。
「青澄、春灯」
「せやね。きみの刀の名は、なんやっけ」
「柳生十兵衞……そして、」
幾つもの名前が頭の中に木霊する。
まるで高熱を出した時のように痛むし、眩暈がするけれど。
深呼吸してから紡ぐ名前はもう、決まっている。
「タマちゃん。かつて過ちを犯し、けれど成仏して神さまになって……私のそばに来てくれたお狐さま」
「そうや」
私が口にする度にユウジンくんの指が動く。
それを目にする度に不思議と心が落ち着いていく。
かっと熱くなった頭が次第に冷めて、はっきりとしていくのは……どういう理屈なんだろう。
「半身を取り戻しても、神としての器は乱れず汚れず尊くある。大神狐、そう名乗るなら――……器の気高さに応えて乗り越えんとあかんよ」
彼の言葉は私に向けられているようで、違った。
『――、』
すう、と息を吸いこむ音。次いで口から出たのは、
「わかっておるわ。それよりもいい加減、その手を離さんか。妾はいいが、ハルには心に決めた男がいるのじゃ」
「おおこわ」
おどけるように笑って手を離したユウジンくんを見ても、もう怒りは湧かず。
カナタの手を離して立ち上がったタマちゃんから身体に満ちていく力は溢れんばかりです。実際身体の端々から金色の光が漏れていくの。
けれど不思議なのは、金色は黒へと色を変えて消えてしまうところ。
「ハル、ちと準備運動をするぞ」
え。ど、どういうこと?
「邪退治、してきても?」
ふり返ってタマちゃんが尋ねると、ヒノカを鞘に戻して腕を組んでシュウさんは頷いた。
「手を貸そうか?」
「いらん世話じゃ。元より、ハルの強化とやらが済んだらそのつもりだったんじゃろ? だから隔離世に来ても放置してまず最初にここまで来た……違うか?」
シュウさんは笑顔だった。
その表情がタマちゃんの問い掛けに対する答えに違いない。
「ハル、玉藻の前……俺も、」
「いい。そこで見とれ」
カナタの提案を一言で蹴りはするけれど、浮かべる顔は穏やかなもの。
だからカナタも頷いて引き下がった。
「さあ、ハル……慣らし運転じゃ。いくぞ」
少ししたらすぐにお主に自由を預けるからな、と言われて慌てる私に構わず、タマちゃんは飛んだ。まるであるべき姿に戻ったことを喜ぶかのように、全力で。
取り戻してみれば歓喜へと変わる力のすべては、私と溶け合い混ざり合って、今夜を支配する全能者へと私を変えたのだった。
◆
宿で寝そべる私はカナタにマッサージをされてました。
「まったく、お前は」
指を一つ動かそうとするだけでも激痛が走るので、ちゃうねんって言いたくても無理。
「あー! あーっ!」
カナタの指がふくらはぎを滑るだけで痛い。すっごく痛い。物凄い筋肉痛に全身が襲われています。しかもいつもは一本用の尻尾穴に九本もの尻尾が生えているので、窮屈でしょうがなくて尻尾を動かそうとするんだけど、尻尾の根っこがそのたびに痛むので無理。
あんまり痛くて仕方ないので、服を脱いで下着姿。上半身はカナタの武士の情けで浴衣を羽織っていますが、ちょっと人様には見せられない姿です。
討伐を済ませて戻った直後には今の状態になって、ユウジンくんが「強化の結果やろ」と指摘。カナタに抱きかかえられて宿に戻るも瀕死、そしてこの状態ですよ。
「ほおおおお! ほおおおおお!」
「変な声を出すな」
「あ、あしうらむり! むりむりむり!」
「……色気の欠片もないな」
「だって痛いんだからしょうがないでしょー!」
「やれやれだ」
呆れられても反応する余裕が正直ない。
なんでこんなに痛いのかな。泣きべそを掻きますよ。
ふり返りたいけどふり返られない。カナタがマッサージしてくれるのありがたいけど、痛みしかないんですけど。
「そ、そっとしておいてもらうわけには」
「だめだ。身体の状態を確かめている」
「うー」
ぐすんぐすん。
「いくら一緒の部屋で生活してるからって、こういう姿はあまり見せたくないです……」
「今更だな。俺が先に目覚めて見る、お前の寝ている時のアホ面といったら」
「ふんっ!」
痛かろうが知ったことか! ナインテイルビンタを食らえ!
「……悪かった」
「ふんだ」
それはカナタと一緒にいて安心するから見せている顔なのであって。
あんまりな言い方じゃないか。
「好きなんだけどな、そういう油断したところを見るのも」
「ええ」
それはそれで複雑なんだけど。私めんどくさっ。
「さて、だいたいわかった。兄さんと安倍の見立て通りで、それ以外に異常は見られない」
「どういう状態なの?」
振り返りもできない私の足に布団をかけてくれて、それからカナタは隣に寝そべってきた。
やっと顔が見られてほっとする私です。
「玉藻の前の霊子が以前よりも何倍にも増して強くなっている。それにお前の身体が順応しきれていない。お前の霊子が受け入れるのに時間が掛かっているのだろう」
「……つまり?」
「心は強くなったけど、身体は追いついてない」
「……ううん?」
「頭も追いついてない」
「むっ!」
「冗談だ」
半目で見る私をカナタは笑って見つめ返すだけ。
「筋肉痛だけで済んでいるだけで十分すごい。明日か明後日には落ち着くはずだ。今日は温泉にでも浸かってゆっくり休むといい」
そう言って起き上がるカナタに思わず手を伸ばす。
いやだ。なんか無性にいやだった。
寂しさがこみ上げてくる。脆い部分が顔を出して、痛い痛いと騒ぎ出す。
かろうじて掴めた浴衣の裾を引っ張りたいけど、むり。痛すぎて。
「無理をするな、涙目だぞ……なんだ?」
「一人でお風呂、はいれない」
「……すまない、どういうことだ?」
「家族風呂とか、あるでしょ?」
「まあ……あるだろうが」
「…………お風呂いれてほしいです」
私が甘えたことを言った瞬間にカナタが耳まで真っ赤になった。
「しょ、正気か?」
「だって、起き上がれないくらい痛いんだもん」
「だ、だからって」
「……せっかく温泉来たのに、入れないまま帰りたくないなあ」
「いや、しかし」
「……だめ?」
「は、裸だぞ?」
「タオル巻けば見れないし」
「そ、そうはいうが」
「……カナタはもう見たことあるし?」
「――、」
何かを言おうとして、けれど言葉にならずに飲み込んで。
照れた視線をどこかへ向けて困惑した顔を隠さずに言うの。
「急に甘えん坊になって、どうした。いいけど、お前が望むなら……俺は応えるけれど」
大丈夫かって心配されると、言わなきゃいけないかなあと思うので。
「タマちゃんのね、昔の姿に会ったの」
「……ああ」
私を見つめるカナタの顔を見つめる。
毎日目にして、毎日誰よりそばにいる人の顔を見ていると心が安らぐし、脆い部分がどんどん露わになっていく。
ただそばにいるだけの熱にさえ刺激されて、欲と願いがしみ出て止まらない。
「かつてのタマちゃんも、今の私も……愛されたいんだなあって思いまして」
「それで、甘えん坊モードか?」
「だ、だめでしょうか」
ドキドキしながら顔を見たら、本当におかしそうに笑われてしまいました。
「……いいよ」
髪を優しく撫でられて広がる安堵感はすごい。
「電話で家族風呂が空いているかどうか確認してくる」
離れるカナタを見送るだけの元気が戻ってきた。
けどすぐに寂しくなる。
二人になって知っていく。一人の寂しさを、愛したい熱を知っていく。
ああ、確かに愛を知るのは一人からで。
それを知るためには二人からじゃないと……見えない世界がある。
カナタとだけじゃない。
きっと誰とでもそうだ。
シロくん、トモ、ギン、タツくんやレオくん、狛火野くん。
シュウさん、ユウジンくん……星蘭の人たちもそうだし。
メイ先輩やラビ先輩、南先輩やシオリ先輩……ノンちゃんやコナちゃん先輩ももちろんそう。
十兵衞に、ヒノカに……タマちゃん。
いろんな人とふれあい、知っていく。
私の愛の形、私の住みたい世界の形……私の形そのものに。
出会いが私を作っていく。
縁ですべてができていく。
しみじみ思っていたらカナタが戻ってきてくれた。
空いているみたいだから一時間おさえてくれたみたい。
私を抱き上げて運んでくれようとするの。
「な、なんかすみません」
「今日は甘えん坊モードなんだろう? なら、俺に任せて」
「……うう」
やばいくらいきゅんきゅんする。
素直に身体を預ける。抱き上げられてカナタが歩く度に痛むけれど、でもそれさえ今の私には嬉しいもの。カナタが甘やかしてくれるから感じられる痛みだ。
いつかちゃんとお返ししようと心に誓う私ですが、ふと顔を見上げるとカナタがおかしそうに笑っているの。
「どうしたの?」
「いや……兄さんと二人で安倍がどんな思いでいるのか、と思うと。少し悪いことをしたと思ってな」
「あー……」
確かに二人が二人きりで何をするのかちょっとわからない。
「ユウジンくんなら、余裕でシュウさんのお酒のお相手してそう」
「あいつは飲めないけどな」
「……お酒っておいしいのかな?」
「何に興味を持っている。二十歳になるまで我慢しろ」
「はーい」
一口くらいならいいじゃんね、と思ったのですが。
『ふ……やめておけ。ハルが飲んだら、俺は我慢できん』
『うまいからのう!』
十兵衞もタマちゃんも飲酒に前向きっぽいので、カナタの言うことに従おうと思ったのでした。たぶん一口飲んだら二人が我先に私の身体の自由を奪って飲むに違いないよ。
『否定できん』『うむ!』
楽しそうな二人の声に笑う私にカナタが不思議そうな顔をしているから、肩に頭を預けて言うんです。
「ちょっと……幸せすぎるから。お風呂でカナタがして欲しいこと、何かしたいなあと思います」
「変なことを言うな」
「なんにもない?」
「一緒に入れるだけで幸せだよ」
ほんとかなあ。
まあいいや。ほんとかどうかは入ればわかるもんね。
家族風呂の扉を開ける。
ドキドキがないと言ったら嘘になる。
けどカナタになら、と思うので。
ここは怖い以上に素直になってみよう。さあ、がんばるぞ!
気張った私ですが、パワーアップの余波は思いのほか大きくて痛すぎてまともに動けないのでした。しょんぼりです。
温泉はすごく気持ちよかったし……カナタがてれてれしながら手を繋いで一緒にお風呂に入れただけでとても幸せそうだったから、それでいいかな? ううん。
つ、次はもっと頑張る方向性でいこう!
つづく。




