第百二十三話
ベッドでカナタに抱き締めてもらいながら、私は耳を澄ませていました。
カナタがさっき、特別体育館でスマホを操作していたのはね? 音声を収録するためだったみたいなの。だから、いま。
『じゃあ、そうだな……ほら、やっぱり僕の言った通りになった。二人で幸せにならなきゃ祟るぞって、おどかしてやってくれ』
『ま、待って、他には!』
『いいんだ……もう。死人はもう、これ以上は望まない――……』
カナタに頼んで、私とシロウさんの会話を再生してもらっている。
間違いなく音声として収録されていたの。
改めて聞いてみると、やっぱり……これは。
「つらいね……」
「ハル……消すか?」
「ん……待って。すぐには決められないよ。明日、メイ先輩に相談してみる」
はあ。
「すっごく怒られる気がする」
「以前、交流戦の時には手ひどく叱られていたな」
カナタはカナタで気にしているのかな。
スマホを操作して置いた手で私の頭をそっと撫でてくる。
「叱ってくれる人って、大事だなって思う。あの時の私の行いは確かにだめだったもの」
「そうか……なあ」
「ん?」
見上げると、照明の消えた暗がりの部屋で窓から入る星明かりにカナタの顔が淡く照らされていた。
「もし、俺が先に倒れたら……ハルはどうする?」
「……わかんないよ」
「そうだよな……」
「カナタこそ」
呼びかけて私へと向いた瞳の奥にどんな感情が浮かんでいるのだろう。
「カナタこそ……私が先に倒れて、他の人を好きになっていいんだよって言ったら、どうする?」
「……わからないな」
「……だよね」
その時になってみないと、きっと本当の答えは出ないんだ。
今だってどうありたいかという願いは口にできる。
でも現実としてそれを言えるかどうかは別だ。
「シロウさんって……すごいね」
「ああ……獅子王先生が二の足を踏む理由もわかる」
「……相手がすごい人だから、気後れしちゃうの?」
「それもあるかもしれないけどな……それよりもっと」
短く息を吐いて、私の頭を自分の胸に引き寄せて。
「シロウさんが好きだから、踏み出せなかったんだと……俺は思う」
カナタの胸の鼓動は静かに高鳴っていた。
顔を上げて目にしたカナタの顔は遠くを見つめていた。
「好きって……時に狂おしく苦しいものなんだな」
「……そうだね」
「お前と同じ学年だったらって思うことがある」
「そうなの?」
「……沢城や結城を羨ましく思うこともな」
意外だ。カナタはいつも余裕を見せているから。
よく言えばね。でもかっこつけな気もする。大好きだけど、そういうところ。
「でも、俺の腕の中にお前がいてくれて……それは幸せなんだと、今日はつくづく身に染みた」
「カナタ……」
「愛しているよ、ハル」
「ん……」
近づいてきた唇を受け止める。
大好きな人の熱に包まれて私は眠りについたのだった。
◆
翌日の放課後のこと。
カナタに送ってもらった録音データをシオリ先輩に渡して、それを部室で再生しました。
部室にはメイ先輩、南先輩、ラビ先輩にシオリ先輩がいる。
要するに士道誠心お助け部フルメンバーなんです。
音声を聞き終えたメイ先輩は目を伏せたまま腕を組んでいました。
南先輩はメイ先輩を横目で見てから、手を合わせます。ぽん、と音を鳴らしてから先輩は言いました。
「ハルちゃんの発言から後は消していいと思う」
「ボクも賛成。使うなら、だけど」
シオリ先輩がすかさず頷いた。
「元データは取っておくべきだ」
ラビ先輩はいつもの笑顔でそっと意見を述べた。
そして、みんなでメイ先輩を見る。ずっと黙ったままなんです。
「メイ先輩……あの」
私が呼びかけると、目を開けて深呼吸をしました。
「ハルちゃんが受けた依頼だから、まずあなたがこれをどうしたいのか教えて?」
真顔だ。真剣な強い瞳で私を見つめている。
メイ先輩には嘘やごまかしは一切通用しない。ラビ先輩くらい、かわし方がうまければ別かもしれないけど今の私には無理。
生唾を飲み込んでから言いました。
「……私は、届けたいです」
「獅子王先生は初婚。だから獅子王先生のご両親からすれば、これは……余計なことだよ? それでも?」
「う……」
正論だ。メイ先輩の言葉は真実に違いない……でも。
「それでも、届けたいです。もし、二人の未来に進む力になるのなら……私は届けたいです」
「既に付き合っているのだから、十分じゃない?」
「……うう」
苦しい。メイ先輩の言葉は正しい。確かにその通りだと思う。
でも。それでも。
「それでもです。もしライオン先生にとって過去が鎖になっているのなら、私はそれを解きたい」
「犬井先生の……ううん、それは獅子王先生自身の仕事じゃない?」
「そうだけど! そうだけど……」
わかってる。わからされていく。
これは私のわがままなんだって。でも。それでも。
「あの人の声を私は聞いたんです! なら、もう……届けたいじゃ、ないですか」
支離滅裂だ。ああ、最悪だ。なんでこんなに泣きそうなんだろう。
「ハルちゃん、深呼吸しようか」
ラビ先輩に背中をそっと撫でられて、一生懸命深呼吸をした。
頭に酸素が回っていくのかな。乱れた気持ちが少しだけ落ち着いた。
「落ち着いて。メイ先輩は決して君を怒っているんじゃない。君の意志を確かめているんだ。だから……思ったことを素直に言ってごらん」
優しい言葉に促されて、もう一度深呼吸してからメイ先輩を見た。
真剣な顔で今も私を見ている。私の意見をはねつけようとしているわけじゃない。私の意志を挫こうとしているわけでもない。ただ、私の気持ちを全力で確かめようとしているだけ。
そうだ。ラビ先輩の言うとおりだ。落ち着こう。落ち着いて……話すんだ。
「ニナ先生に聞いたんです。ライオン先生が気にしているって。私はライオン先生はすっごく強くて、なんでもできる最高の先生だと思います! でも、だから……」
もう一度、深呼吸。
「だから、大好きだから……力になりたいです。それが傲慢でも。それが、余計なお世話かもしれなくても」
だって。
「だって、シロウさんは未来を願っていました。強くあるその姿にもしライオン先生が悩んでいるなら言いたい。ライオン先生が私たちに見せてくれた姿だって、すっごく強くて輝いてるって!」
だから願う。
「お願いします。このメッセージを使わせてください」
深く、深く頭を下げる。
床に水滴が落ちてやっと気づく。ああ、もう。ほんと、最近涙もろい。
「……みんな、どう?」
メイ先輩の声に恐る恐る顔をあげた。
「どうもなにも、メイはいいって思っているでしょ? ならそれが答え。なにより……今の言葉でめいっぱい伝わったもの。だから大賛成!」
南先輩は花が咲くような笑顔で言ってくれた。
「ボクもいいと思う。コンピ部は少し休んで全力でお手伝いするよ」
シオリ先輩も微笑んでくれている。
「もう少し安定してもいいけれど……十分伝わったよ、ハルちゃん。よくがんばったね」
ラビ先輩もだ。
みんなの意見を聞いてメイ先輩がやっと太陽みたいに眩しい笑顔を見せてくれました。
「コナちゃんのサプライズ案、全部やろう! ハルちゃんの気持ちめいっぱい受け取ったから、全力でね! こっちの依頼もなんとかなりそうだ」
「ありがとうございます……って、メイ先輩の依頼とは?」
「目元ぼろぼろだよ、ハルちゃん。ルルコ、ちょっと直してあげて」
私はちょっと出てくる、と言ってメイ先輩は出て行ってしまいました。
なんだろう? と思っている私は「いいから、動かないの」と南先輩に促されて目元を綺麗に拭ってもらったのでした。
◆
ラビ先輩にきちんとお伝えするように、と言われた私はシオリ先輩が編集してくれた音声データを持ってニナ先生に会いに行きました。
職員室の扉をノックして開けると、先生達が談笑していたの。
士道誠心の先生の名前はまだ正直ぜんぜん覚えてない。学年が違う先生だと特に。だからちょっと居場所がなくて戸惑うんだけど。
「に、ニナ先生」
私が恐る恐る呼びかけると、机の影からひょこっと頭を出して、すぐにニナ先生が歩いてきてくれました。
「どうしたの? 大丈夫?」
南先輩に整えてもらったけど、泣き痕が残っているのか真っ先に心配されちゃった。
だいじょうぶです、と言いながら職員室を見る。そこにはライオン先生もいて、私に気遣わしげな視線を送ってくれるの。だから心配されなくて済むように笑ってみせつつ。
「先生、ちょっといいですか?」
「ええ……じゃあそうね」
少し席を外します、と先生達に告げると、ニナ先生は私を連れて生徒指導室に連れて行ってくれました。
お茶とお茶菓子を用意しようとしてくれる先生に、どう切り出すべきか悩んでいたら……気がついたときにはどちらもテーブルに出されていました。
「それで、なにかしら。進展があったの?」
「あ、あの、えと……」
言葉に詰まる。
けれど、言わなきゃだめ。始まらないのだから。
どきどきする。怒られたらどうしよう。叱られるだけじゃすまなくて、なじられたら。
優しいニナ先生が変わってしまったら。幸せにもし水を差すことになったら。
……ああ、でも。
『ハル』『……ハル』
タマちゃんと十兵衞が呼びかけてくれる。
わかってるよ。私はもう、やるって決めたんだ。
「先生に、聞いてもらいたいことがあるんです」
「なあに? 改まって、怖いわね」
「……緋迎先輩と、二人で。御珠から、ある人の声を聞いてきました」
「――……え」
驚いた顔で私を見て、それから胸に手を当てると……ニナ先生は私でもわかるくらいの深呼吸をして、尋ねてきたの。
「あの人のことを言っているの……?」
縋るような声だった。
それを聞いた瞬間に繋がった。繋がってしまった。
カナタが昨日、もうやめようって言ったその理由に。
ニナ先生の声はそれくらい、渇望していた。ただ一つの奇跡を。
どれだけの爆弾を抱えているのか自覚せざるをえない。けれどここまできて、ごまかすわけにもいかない。
「はい、そうなんです」
「……聞けるの?」
希う声。それは先生としてではない、きっと一人の女性としての声に違いない。
胸に手を当てる。ブラウスを握りしめる。
保証はない。どうなるかもわからない。けれど、きっと。きっと。深呼吸して、スマホを操作した。
流れ出た音声を聞いただけで、ニナ先生の瞳から大きな涙が落ちた。
「ああっ……」
顔を押さえて、目元を隠して。
それでも足りずに肩を揺らして……声も出せずに泣いている。
「……そう、そう……そうなの……」
「あ、の……」
「そういえば……そういう人だった」
目を腫らして、鼻をそっと啜って、視線を窓の向こうに向けて……ニナ先生は言ったの。
「付き合ってって……私から告白した時も。ライに報告した時もね?」
ニナ先生の瞳はいま、きっと。
「あの人は……二人ならお似合いなのにね、って冗談みたいに笑っていたのよ」
過去を見つめているんだ。
「ライは悪い冗談だって居心地悪そうにして……私はあなたがいるのに、ライは私のことなんて全然わかってないしって……怒ったりもした」
何かを求めるように、一点を見つめて……瞼を伏せる。
雫が落ちて。
「もう一度、聞かせてくれる?」
「はい……」
スマホを操作した。
『そうだな……ほら、やっぱり僕の言った通りになった。二人で幸せにならなきゃ祟るぞって、おどかしてやってくれ』
深く息を吐いて目元を両手で覆ったニナ先生の口元は微笑んでいた。
「ずるい人。そう言って……私たちの中に生き続けるんだから」
わからない。ニナ先生の言葉の意味が。それは私が子供だからなのだろうか。
「そうね……幸せになってやるんだから」
目元を拭い、鼻元をそっと拭うとニナ先生は尋ねてきたの。
「これを、サプライズで流してくれる予定だったの?」
「だめ……でしょうか」
どきどきした。すごく緊張する。
ここで怒られたら。怒鳴られたら。静かに軽蔑されたら……もう顔を上げられない。
「だめね」
「あ――」
傷つけたんだ、と思って俯こうとしたんだけど。
「データをもらって……二人きりの時に使わせてもらえる? 彼、ああ見えてデリケートだから」
その言葉は拒絶ではなかった。思わず顔をあげたくらいだ。
「じゃ、じゃあ」
「ありがたくいただくわ……本当に、心から……お礼を言います」
手をそっと伸ばしてきたから思わず掴んだの。
きゅっと握られて、増していく。ニナ先生の肩が震えている。ずっと涸れていた井戸に水が溢れるように……涙がぽたぽたと落ちていく。それは。
「ありがとう……未来へ進む力にするわ」
まるで雨のようだなあと思わずにはいられないのでした。
つづく。




