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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十五章 まじないは強欲に
1192/2984

第千百九十二話

 



 留置所。風通しのよさそうな鉄格子の扉に簡素なベッド。

 取り調べを受ける被疑者の段階では、これ以上を望むべくもない。

 手は回してある。魔術師と名乗り、浸透してきた今ごろに、現世の象徴とも言うべき場所で情けなくも横になるだけの男。

 みっともないなあ、とは思うが、しかし姿形を真逆の属性の人間に変えられた教授に比べたら百倍もマシだ。己のアイデンティティーを失いつつあったあの男には似合いの罰だが、自分は違う。

 偽名がやまほど。情報のねつ造くらいわけはない。もっとも古びた書類状でのみ管理された戸籍制度だったなら、偽造の巧みな人間に頼らざるを得なかった。ちなみに伝手はある。

 キティを捨てて女優として、侍として、そしてゲーム企業のトップとして生きるつもりのシオリの人脈の大半は自分がきっかけを与えて得たものだ。悔しいかな、企業発足に絡む人脈に関しては違うが。仔猫は自分の手元を放れた。ずうっと愛でたかったのに。いつも誰かが自分を置いていく。

 ため息を吐いた。

 眠れるし、眠るのはもったいない。

 目の前で火花が散り、次の瞬間には火の玉が浮かぶ。


『人に告白しておいて、罪人確定でムショ暮らしになる予定?』

「ド深夜によく起きていましたね、師匠」

『べっ、別にあんたが心配だったわけじゃないし?』

「監視されていて手間取っただけなんですよね?」

『そこは言い当てないでよ』


 火の玉から響いてくる彼女の声と語り合う。

 危険もはらむ。場所が場所だ。


「生憎と話せることがないですね」

『なにか妙なの作って、ばかなことしてるんじゃないでしょうね?』

「だとしたら、吸血鬼か、あるいはあなたが気づくでしょう?」

『――……え? はぐらかして終わり?』

「はぐらかすもなにも、話題がないので」

『退屈させるのね?』

「デートは素敵な夜景の見れる時間帯と場所でするのがモットーで」

『ヤりたいだけなんじゃないのぉ?』

「トーク、ノリ、雰囲気。あえばあと気になるのはベッドの相性くらいでしょう?」

『爛れてんなあ……あなたをそんな風に育てた記憶はないんだけど』

「師匠は放任主義ですからね」

『うっ、い、痛いところを!』

「さあ、寝てください。夜更かしは美容の敵ですよ」

『いいもんね! ばーかっ!』


 ぶわっと燃え上がってすぐに消えた。

 彼女の魔力の残滓を手で払いのけて、腕を組む。

 侍隊の監視もあってしかるべき。

 だから監視の目をかいくぐって、自分が作成した道具と繋いでみたらどうだ。

 それなりにはいて、だけど表には出そうにない闇の深そうな少女が拾っているじゃないか。

 伝え聞く限りでは、自分が見初めた若者ふたりは妖怪にされ、既に討伐されたようだ。

 インスタントは弱い。粗製濫造にもあまり意味がない。

 型に嵌めるメリットは、クオリティの担保が取れることにある。しかし型に注ぐ素材がまずいと、これまたクオリティに影響が出る。

 そこへいくと、一瞬だけながら繋いだ少女の霊子からくみ取るバックボーンはどうだ。十分じゃないか。あの青年たちよりも、よほど好感が持てる。

 彼女と欲は都合がいい。一瞬だけながら、彼女の部屋に転がり込んで陵辱を尽くす兄も見た。

 兄は兄で、そこそこに素質はあるといえばあるのだが。

 如何せん、底が浅いというか。

 侍隊までいかず学生侍たちさえ層が厚い昨今じゃ、あっさり成敗されてしまいそうだ。

 もっと曇らせないと、使い物にならない。

 外に出ることができたら?

 あるいは堕とすこともできると思う。思うのだが、それで一体なにが得られるのか。

 ふたりの青年が妖怪になって起こした大騒動にも、まったくもって心が揺れなかった。

 被害は大きいという。取り調べの警察の剣幕で察するに余りある状況だが、で? という感じだ。少女も同じように感じているようだった。

 だからこそ、彼女には芽がある。

 誘いかけて黙れと言った胆力も気に入った。ただし保身がまだ強いから、今後の成長を期待したい。

 教授や、邪を吸収させられた女に語った悪役になる発言は半分本気で半分嘘。

 本当の目的ほど人には話すべきではない。

 手のひらに周囲に漂う魔力を集める。それも黒く染まった欲望の魔力を。

 小さな芋虫に変化する。迷わず手のひらで握りつぶした。黒い魔力に散って消えていくだけ。

 しかしこれを物質に変えて人に喰わせたらどうなるか。

 既にその実験は一定の成果を得ている。蜘蛛女たち、青年ふたりよりもずっと前から動かしている計画は、退屈なことに予定どおり進行中。

 変化がなければつまらないし、そこでの修正と対応力こそ自分の持ち味が出るところなのに。

 まだ、誰も気づかない。

 青澄春灯と黒輪廻の決着がついて、世界に魔力が満ちあふれた。

 いまや魔力を集めて虫にして現世で可視化させることすらできるほどだ。

 なのにいまだに隔離世には行ける人と行けない人がいて、夢を力に変える術を得るのは一部の者だけ。

 夢がダメなら、欲はどうか。

 ビジネスチャンスは逃す気はない。

 彼女を救ってみせたのも、もちろん理由がある。

 邪を吸収させられた人間がどうなるか、知る必要があった。

 次の段階は?

 いまの時点で、既に杖も銃も彼女にありようを変えられたが問題はない。

 製品としては、既にさばける段階にある。これ以上は火遊びだ。個人的な趣味の範ちゅう。だからこそ大事だ。人生には趣味がなきゃ。

 退屈な人生はごめんだろう?

 それに彼女が可能性を見せてくれたなら、より刺激的な商品開発に繋げられるかもしれない。

 警察は自分を危険な犯罪者として扱ってきているが、爆発物を仕掛けたり、車で暴走したりはしていない。教唆の可能性を模索しているようだが、自分は落とし物をしただけ。それさえ突き止められない限り、彼らにできるのはたいしたことじゃない。

 必要悪という言葉もある。

 世の中は綺麗事だけで成り立っているわけじゃない。だから売れる。だから儲かる。

 さあ、そのためにも少女よ。

 欲に苦しめられ、欲をため込む少女よ。

 家庭を守りたいのだろう。ならば、その欲をどう用いる? どんな可能性を見せてくれる?

 魔術師ただいま情けないはなし外に出られないので、ぜひとも面白いショーを見せて欲しい。

 キミが罪を犯すなら、それはキミだけの罪だ。

 それさえこちらは商売に利用させてもらうだけのこと。

 とっくの昔に表の社会でまっとうには生きられない身の上だ。

 キミがこちら側にくるのなら大歓迎だが。容姿も身の上も好みなのでね。

 もっとも、キミが罪を犯さず乗りこえられるというのなら。たとえばマドカたちが介入したとして、それすらも歓迎しよう。

 今後の対策になる。

 どっちに転んでも、負けはない。勝ちが待っているだけ。

 そう思うと、少女の魔力の欠片が愛しくてたまらない。

 キミはいったい、なにを見せてくれるんだい?

 ひとつだけ注文をつけるのなら、


「感動ポルノだけはごめんだぜ」


 そんなのはマドカのそばにいる、あの金ぴか狐娘で十分だ。


 ◆


 不意に肌寒さを感じて目覚めた。

 すぐに異変に気づいた。兄がいない。

 父が私の部屋を勝手に開けることはないし、母が訪ねることも滅多にない。

 せいぜい私が大層吐いたときか勉強をしている時間くらいだ。来るのは。

 だから兄は部屋に居つくことのほうが多い。寝てから起きるまでの間は。

 なのにまだ深夜で、兄は部屋からいなくなっている。

 急いでピアスを確認するが、どちらも問題ない。兄はどちらにも気づくことはなかったのだから、いまさら奪われるはずもない。傍目に見ればただのピアスだ。

 穴を開けたのは高校に入ってからで、それもだいぶ前の話。

 体を起こしてベッドを降りる。

 兄の服はない。扉も閉まっている。むしろこうあるべきなのに、私には妙に落ちつかない。

 ピアスをきちんとつけて、服を着る。

 恐る恐る深夜の廊下に出た。リビングから淡い光が漏れていた。誘われる私は虫かなにかだろうか。明かりにぶつかって傷つくのは私。わかっているのに、近づかずにはいられない。

 怖いものみたさ。好奇心。猫をも殺す。それでも扉の隙間から中を覗く。

 ぷん、と。お酒の匂いがした。濃い匂いだ。


「ああ――……起きてきたのか、未来。入れよ」


 血の気が引いた。

 全身が震える。異様な寒気に襲われて。

 なのに、兄の言葉に逆らえない。逆らえた試しがない。

 扉を開ける。

 ソファに兄が座っている。私に背中を向けるようにして。テーブルにはお父さんがため込んだお酒の瓶が並んでいた。封が開いているものが多い。どれほど飲んだのか。

 酔っているに違いない。

 現実逃避の飲酒だろうか。それにしたって大量だ。

 そんなに強くはないのに。これで急性アルコール中毒になんてなられたら?

 誰がどうする。たまったものじゃない。

 兄はいつもそうだ。いつだって逃げてばかりで、私を直接か、あるいは結果的に傷つける。こんなヤツがいなければ。少なくとも私は汚されずに済んだのだ。


「俺はさあ……未来がいなきゃ、今ごろ人を殺すか、ろくでもないことして刑務所ん中にいたよ……」


 なにを言いだしたんだ。


「親父の不倫、気づいてるんだろ?」


 後ろ手に急いで、ただしなるべく音を立てないように気をつけながら扉を閉めた。

 ふり返ると兄は私を笑うのだ。


「はっ……そうだよなあ。親父がなんで不倫するか、知ってるか?」


 推測はしている。

 でも直接話せる話題じゃない。断じて。だからすべては推測でしかない。


「……母さん、モテてさ。親父が一番だった。どんなに尽くすヤツが出てきても、どんな金持ちだろうと、どんなイケメンだろうと、どんな優しいヤツだろうと、親父が一番だった」


 妙なことを。

 訝しむ私に兄は語り続ける。

 酒で饒舌になっているのか。決して飲酒で人格は変わらない。酒のせい、なんていうのは昔にしか通用しない、ただの嘘だ。


「でも母さん、昔から重くて、妙な行動力もあって。父さんと揉めてさ。その頃、何人かと付きあったうちのひとりとデキてた。それが俺なんだとさ」

「――……え」

「親父は許せなかったんだろうなあ。俺より未来に優しいしさ。イベントに来てくれたこと、母さんがごねない限りはないもんなあ」


 来てくれてるじゃない、と。そんな弱々しいフォローさえできなかった。


「俺は俺で、母さんと結ばれなかった男の執念でもあるのかなあ……ずっとさあ。ダメだよ。俺はクズのままだ」


 目元が歪んだ。怒りが湧いてどうしようもなかった。

 誰かのせいにしたって、許さない。

 すべてはあなたが選んでしたことだ。それしか選べなかったとしても。私がどれだけ傷つけられ、汚されてきたか。あなただ。あなたのせいだ。それを、会ったこともない誰かになすりつけようなんて。


「母さんも負い目があるんだ。親父に。でも母さんは、ああいう人だから。父さんしかいないんだよな。いらないんだ。俺は未来がいなきゃどうしようもない。母さんも、そうなんだ」


 身勝手な男の身勝手な理屈にめまいがして、殺意さえ湧く。

 なのに。


「これしかできないよ、未来。俺には未来しかいないんだ……最近できた彼女としてるとき、未来の名前を呼んで振られた。婚活パーティーで会った子でよかった。会社の子だったら、死んでた」


 笑えないほどのクズっぷりを疲労しながら、さらに笑い話にさえできない最低男の残念なエピソードを披露されて、私は腰が砕けそうだった。

 そりゃあ死ぬだろう。社会的に。彼女との最中で妹の名前を呼ぶって。授業で教師をママとかパパと呼ぶよりも、人として致命的な大失態だ。そもそも許されない。

 兄の話がもし仮に本当なら、種違い。血のつながりは母としかない。とすると、扱いは繊細だがガチ血縁者と比べたらどうか。どっちもどっちか。どっちもどっちだな。

 それにしたって、どうなんだ。

 振られた理由が、ここまで人として腐りきっている人って、そうはいないのではないか。

 気持ち悪さの極値の権化である兄だが、しかし、身から出た錆だ。いい気味だ。大笑いしてやりたい。

 兄が泣きださなければ、笑えたのに。

 両手で顔を覆って、めそめそと泣くのだ。

 男の方が女々しいし、女の方が残酷だと聞くけれど、私は事実だと思う。

 ざまあみろと思ったし、さんざん罵倒してやろうとも思った。

 ちょっとでも気分が違えばドン引きできたのに。

 深夜にひとりで起き出して、たったひとりで父親の酒瓶を開けて飲酒しまくった現場を妹に見つかったと思ったら、白状した内容がそれだ。

 兄の妄執の理由、母と父の関係。いろいろあるのだろう。どれも無視はできない。大事な話でもあるとは思う。

 ただ、私にとってより身近なのは、地獄に堕ちるのは間違いない兄の告白が自業自得に過ぎて、いっそ愉快だということだ。


「私はあなたを捨てるよ。外の世界で素敵な人と出会う。あなた以外の人に歌で誘って踊りを踊るの。あなたじゃない人と腰を振るよ」


 呪ってやりたかった。

 これまで何度もされてきたような呪詛を、兄に返すのだ。

 ずうっとずうっと我慢してきた。口が動いたら、もう止められなかった。

 兄のそばに行く。歩みよる? ううん。詰め寄る。


「あなたじゃない人の子供を産む。そして私はあなたじゃない人と、子供と、幸せな家族を作る。最中にも、寝言にも、愛のささやきでも、あなたの名前は決して口にしない」


 兄の顔が歪む。

 さらに涙が溢れる。

 両手で顔を必死に撫でている。聞きたくないと頭を振って。

 こんなに弱いヤツだったんだ。


「パパに望んでる? ママがパパに、パパがママに。あなたがふたりや私に望んでる? 欲してる? 知らないよ、そんなの。それでうちは、うちの誰かは、幸せになった? なってないじゃない」


 叫んでやりたかった。真夜中じゃなければよかったのに。


「あなたがどんなに私を求めたって、何度も犯してみせたって、私はあなたにYESと言わない。断じて。あなたが兄だから? 呪いを吐いて私を貶める卑劣なクソ野郎だから? 昔から強姦し続けた犯罪者だから? ええ、そう。すべてYES。だからね」


 頭が怒りの熱でどうにかしていた。

 気づけば兄の顎を掴んでいた。


「お兄ちゃんになって。ママなんか、あなたに比べたらよっぽど健康。あなたのほうが重症だ」


 しってるよ、と。泣きじゃくりながら兄が呟いた。

 本当に、弱い。こんなに惨めで、哀れなヤツだったなんて。

 気づけたはずだったのに、こいつに襲われるのがつらすぎて目を背けてきた。

 いや、背けるものだ。あまりにつらすぎたから。


「私を汚すのが怖くてつらいくせに。薬を渡して避妊を徹底しておきながら、それでも犯して感じられる私の熱に縋らずにいられないなんて……そんなのもう、依存症でしかないよ」


 いいながらも、カウンセラーの言葉が脳裏を過ぎる。

 共依存。なんで、いまのタイミングで蘇るのか。

 私を支配することで満足できる兄と、兄の干渉によって勉強だなんだが維持されていることに依存している私とが、もしかして――……?

 ちがう。ちがう! ぜったいにちがう! こんな奴なんかに!

 否定するのに、頭にふつふつと蘇る。

 カウンセラー曰く。

 お兄さんはキミへの性的な陵辱行為に強く依存している。一方で、キミはお兄さんへの対処だけで終始していて、実際に解決するための行動に出ていない。実際に現状の問題行為がなくなるように行動しないのは、どうしてなのかな。

 その問いに答えられなかった。兄が悪いから。それでよかった。それだけでよかった。もちろんそうだ。兄が悪い。圧倒的に。間違いない。間違いないけど、じゃあ――……私が回復するための行動って、なんだろう。

 自己否定が積み重なると、認知も行動も歪んでしまうのが人というものだとカウンセラーは語った。私も兄も、否定する材料はやまほどある。兄はパパとママに理由を求め、私は兄に理由を求める。実際、それぞれの立場でたくさん傷つけられてきた。


「――……」


 泣きじゃくりながら兄が膝を抱えて、耳を手で塞いでいる。

 酔っているのもあるんだろうけど、それにしたってあまりにも子供じみている。

 ただ、荒ぶる時期の続いたママとの付きあいで、一歩引いて冷静に見れてもしまう。

 強いストレス下にあった。

 犠牲にされた私にしてみれば、たまったものではない。

 それこそ苛烈な仕返しにでる人もいるだろうし、社会的な風潮からしても許される気がする。

 ただし、それでも思ってしまう。

 ママを通じて経験したからこそ、負荷が人をどれほど破壊するのかを知ってしまった私だからこそ。

 なんで、誰もこの人に、大丈夫だよって言えなかったのだろう。

 なんで、この人が私におかしなことをする前に、ストレスをきちんと解消する術を教えてくれなかったんだろう。

 そんなの教えてくれる人なんていないから、ママのストレスは爆発した。

 兄は私を汚すのだ。

 これが闇じゃないなら、なんなのか。

 重石が天から降り注いで、孫悟空を押しつぶして身動きを取らせなくしたくらいの勢いで私をがんじがらめに縛りつける。

 世の中をはびこる自業自得という言葉は、本当に冷たくてきびしい。

 私たちの家族は、誰も彼もが自業自得でいまの状況に陥っている。

 救いはない。

 平等でないという一点において、人は平等だ。

 しかし見えている景色しか観測できないものだから、私たちみたいな人間の苦しみなど、見つからず。

 すると、どうなる?

 私はいつか、兄を刺すかもしれない。

 それより早く、兄が私以外の誰かやなにかに対して罪を犯すかもしれない。

 パパが浮気で揉めて、煽りを食らったママがパパを殺すか、追いつめるか、自殺してもおかしくはなかった。今後もそんな局面が訪れたとして、おかしくはない。

 幸せなら、わざわざ罪など犯さない。

 あるいは問題として騒がれるような罪など、いちいち起こす必要がない。

 罪は苦しみから生まれるのだと私は兄に汚された夜から、ずうっと思っている。

 泣きたいのは私のほうだ。

 ずうっと昔からそうだった。

 なのにいつだって、兄が先に泣いてしまうのだ。

 この人は卑怯だ。卑劣で、愚かで、惨めで、情けない。

 誰もこの人を救おうとしなかった。

 この人自身、自分を許せずに否定し続けてきたのだろう。いやだいやだと思いながら。それで耐えきれずに私に手を出した。

 到底許されるはずがない。私が許さない。

 なぜ許さないか。

 私はこの人のまじないによって、どれだけ自己否定をしてきたか。信じ込まされてきたか。

 なにより自分に言っていたんじゃないか。姫だなんだの性別絡みの単語を兄に置き換えて、すべて自分への呪詛を私に必死に注いで逃げていたのだ。

 卑怯者。どんなに叫んだって、過ぎた時間は戻ってきてくれやしない。

 あなたを許せるはずがない。どれだけ苦しんできたと思っている。あなたのせいで、私がどれだけ多くのものを失ったのか、考えてみたことがすこしでもあったのか?

 問い詰めるどころじゃ済まない。何度も寝ているあなたの口に枕を押しつけようと思ってきた。

 罪悪。

 積み重ねられてきたものに名前をつけるなら、ただただ、罪と悪。

 罰を自らに与え、それで余計に苦しくなって私にさえ罰を横流しにして。

 パパもそう。ママだってそうだったのだろう。

 この関係性で救われる可能性はゼロだ。

 ママと、ママの望む、ママの知る幸せを再現し続けて実感している。

 いまのやり方では、誰もまともにはなれない。誰も楽にはなれないし、救われるはずがない。

 他の大勢は許さなくていい。

 他の誰も、兄のような人がいたらしかるべき手段に則って、罪を償わせるべきだ。

 償いがいる。

 けれど、兄には不可能だろう。いまの幼すぎる兄には、到底無理だ。欠片も期待できない。

 償いで私の気は晴れない。そんな次元はとうに過ぎた。それほど兄によって、私は自己否定を注がれ続けてきたのだ。

 そんな私だからこそ、ママと一緒に求める可能性がある。たったひとつだけ。


「――……心の次に体を壊しても、誰も喜ばない」


 感情が暴走している。

 頭を掴んでアクション映画よろしく真横に思いきり捻りたかった。

 なのにお腹に引きよせて抱き締めている。


「治らないのは、つらいし。話せないで抱えても、つらくなるよね」


 誰かがやってくれると信じてた。

 誰かが救ってくれたり、なにかがどうにかしてくれるって。

 期待はしている。特にピアスには。

 でも、否応もなく気づかされた。

 苦しみは救わない。

 痛みは救いにならない。

 そして手を差し伸べるなにかなんていやしない。

 自分の問題すべてをかっさらって、どうにかしてくれる存在なんて、いない。

 求めるだけでは届かない。

 行動しない限り、つかみ取れない。

 ママと叶えてきた家の変化を裏切れるか。無理だ。私にはできない――……。


「やめようよ。もう。二度とさ。大人が止めるべきだった。でも、いなかった。それができる人が。だから私かお兄ちゃんが止まるべきだった。もう、終わった話だ」


 いまの幸せを壊せない。壊せるはずがない。


「お兄ちゃんに期待しても、できないんでしょ? だから私が言うよ。もう、しない。でも、家族としてハグならするよ。生まれがどうとか、私にはどうでもいい。どう一緒に過ごすかが問題」


 最後の一言は特大の威力を持つはずだったし、実際に兄はより一層体を大きく震わせて泣いた。泣きながら謝るのだ。本当に、つくづく、惨めな人だった。ずうっと前からそうだったのだ。

 諦めていた。誰も彼も。私の家がそうだった。諦めきれない母と兄が蓄積したストレスが、ふたりの心のグラスを破壊したのだ。結果はどうだ? 惨憺たる有様じゃないか。何年も続いたこの状況下で、この期に及んで「助けて誰か」って。

 誰かがなんとかしろよ、と。そんな態度の人間を救うほど、人は暇じゃあない。私がそうだ。大ザル男も牛男も、正直どうでもいい。あんな奴らがどんな目に遭おうと知ったことじゃない。兄よりも冷徹に言える。自業自得だと。


「幸せな実家っていう、究極の居場所をまず一緒に作ってよ。罪を犯すより、よっぽどいいよ? 私より頭いいって何度も言ってきたあなたなら、わかるはずだよ」


 兄の肩が丸まっていく。

 無理だと叫ぶ感情の声が聞こえてくるようだった。


「趣味を作ろう。なにかひとつ成し遂げたら、うちでパーティーをしよう。いままでみたいなことは許さないけど、自慢のお兄ちゃんに近づくたんびにめいっぱい褒めるよ。ゆっくりでいいからさ」


 絞り出す。

 苦しくてつらい。

 殺してやりたいほど憎い人に、私はいったいなにを言っているんだろうと思う。

 なのに、言わなきゃ引きずる。延々といまのまま、致命的ななにかが起きて、私たちを破壊し尽くす。それはきっと、遠くない未来なのだと思うから。

 堪える力は、私さえ加担して惰性で流れていた時間をせき止めるために必要だ。慣性の分だけ抵抗が増して、痛む。私の心が砕け散りそうになる。

 耐えられないのだろうと思う。みんな、そんな痛みを自分を貶めた相手のために負いたくないし、許せないから耐えたくないのだろうと思う。そのほうが、より自然だと思う。

 ただ、それでも抗うのはなぜか。

 母と過ごして変わってきたのだ。ゆるやかに。

 私はそれを奪われたくない。誰にも。絶対に。

 涙ながらにうなずいて、謝罪を繰り返す。

 いままでずうっと惰性で続いてきた行為を突然なしにして、耐えられるわけもないだろう。達観した思考がささやく。きっとこの人は、つらくなって弱音を何度も吐く。私への加虐行為に走る可能性もある。

 しかし、いきなりなくなるわけでもないだろう。それができたら、とうにやれていたのではないか。だから、前提として高望みはしない。長い覚悟でいなければならない。それだって、終わりのないマラソンよりは何億倍もマシだ。

 よろけながら立ち上がって「手を繋いで寝たい」と二十代の兄が甘えるので「ぬいぐるみひとつ貸すから部屋で寝て」と両断する。狼狽しながらも食い下がるので、部屋に来たら明日の朝食の席で、一緒に眠りに入ってきたとバラすと言ったら、酔いも手伝ってか項垂れて了承した。どうせだし下着はもう二度と奪うな、持っていくな、汚すな、持っていたヤツは全部処分しろと厳命して兄の了承の言質も得た。

 酔わせれば簡単だったのか。いや、それは危険だ。

 いまはこれでよしとする。

 だが油断はしないし、許したわけでもない。

 許せるのは、あの人がしっかり真面目になって、しゃんとして、私に一切の不埒な行為をせずにいられるようになった状態で、シラフで頭を下げられたときか。

 あるいは、これほど惨めで情けない弱すぎた兄に悩むことはなかったし、そんな兄の否定などものともせずにいられるようになった自分になってからか。

 繰り返す。

 通報していい。するべきだ。刑罰に頼っていい。重大な身の危険に繋がることもある。そもそも行為自体が多大な危険をはらんでいる。私はピアスを手にしたから、余裕があるのかもしれないだけ。それだって、いまだけの話かもしれないのだから――……通報したほうがいい。

 それが私たちの家族のためになるのなら、むしろ私は迷わなくてよかった。悩むことなどなかったのだ。

 ああ。

 でも。

 じゃあ。

 やり場のない怒りはどうしたらいいのだろう。

 求めても与えられない苦しみに苛まれている人は大勢いるのではないか。

 自業自得、自分の責任。たしかにそうだ。けど、でも、あまりにも惨いその言葉によって死ぬしかない人たちはどうしたらいい。

 欲している。

 私はずうっと欲している。

 兄への小手先の使い方など放棄するくらい、強いなにかを。

 それをすべて肩代わりさせようとするから、士道誠心に拒まれたと考えることはできる。

 じゃあ、私が私で、ピアスを用いて成すのなら?

 私はいったい、私になにを欲している?

 わからない。

 部屋に送り返した兄の代わりにリビングに戻って、大量に並ぶ酒瓶に片付けないとと気づいて、即座にめげてソファに座る。

 リモコンが転がっていたので、拾うついでにテレビをつけたら深夜番組に彼女が出ていた。

 金色の九尾。

 彼女が話題になった頃に、一度調べてみたことがある。

 妖狐。人をかどわかす狐。

 士道誠心学院高等部に入ると、侍か刀鍛冶になるのだそうだ。侍になったら妖怪だのなんだのが刀となって自分の心に宿り、力をくれるという。

 彼女が宿したのは玉藻前だという。

 平安時代末期に出現し、鳥羽上皇の寵姫になったという存在だ。安倍泰成に正体を見破られ、狐に戻されて宮中を脱出して行方を眩ませるも、討伐軍によって追い立てられ、やがてはふたつの矢で貫かれ、斬りつけられて命を落としたという伝説があるそうだ。

 男をかどわかし、民の心を乱す。

 そのものずばりな反応を彼女は得ているように思える。

 自分の恨みを、兄が自分にするように彼女に当てはめて呪詛をためているような自覚はあるのだが。


「――……消えちゃえばいいのに」


 呟かずにはいられない。

 それくらい、彼女は眩しい。

 小学校の頃から顔は丸かったけど、あの頃よりもふくふくとより丸みを帯びている気がする。

 妖狐を宿しているにしては丸顔過ぎるがスタイルはいい。とびきり艶めかしいと自分から見ても思う。

 消えちゃえなんていうのは、本当に上っ面の言葉。

 彼女に重ねて私が欲しているものがある。

 やまほどある。


「いいなあ……」


 小学校のとき、それも運動会のときだ。授業参観でもそうだったけど。

 彼女は家庭円満だった。もう絵に描いたような仲の良さ。

 彼氏がいて、SNSで見れる画像はだいたい誰かと一緒のもの。

 幸せそうだった。いつも。

 自分との違いはなんだろう。

 知りたい。

 知れば、学べる。得られる。

 ママが求める幸せみたいに。

 こつこつやれば、私は変われるかもしれない。

 兄があんまり飲み過ぎたせいで、アルコールの匂いに当てられて酔っているのかな。

 寝る前は我ながら陰気に満ちていたのに、いまはすこしだけ前向きになっている。

 兄のかけたまじないはいらない。呪いでしかないから。

 私は私を救い、ママが家を満たしたくて作りたかった幸せのような、あったかさのようなものを手に入れたい。まじないが必要だというのなら、幸せのために求める。

 なぜならば、私は強く欲しているからだ。

 ありふれていて、全然かまわない。

 ただただ、まず幸せでありたいと、私は自分にまじないをかけていたい。

 そのためなら、正直死ぬほど面倒だしうんざりもするが、兄の酒瓶の片付けもしよう。

 ママが驚く。心臓によくない。いらぬ心配はかけたくない。兄の対処で、揺れそうだし。うちの刺激はしばらくそれくらいでいい。


『壊すか、消せばいい。求める成果が得られる』


 はっきりと、ピアスから声が聞こえた。

 男の声と女の声が混じったもの。

 正直、聞き心地は悪い。

 まばたきをする。

 だが鼻で笑い返した。


「それじゃ幸せになれない。黙ってろ」


 それきりピアスは喋らない。

 それでいい。

 口を出すな。

 これは私の人生だ。




 つづく!

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