第百十話
困ったことになった。
獅子王ライにとってまず最初に浮かぶ女性といえば目の前で鯖味噌定食を食べる彼女だ。
国崎ニナ。
「あら……どうかした? 食べないの?」
「いや」
咳払いをして、彼女から視線を外す。
学校では着物を着て過ごす彼女は今も着物姿で、我の行きつけの定食屋に溶け込んでいた。
とりあえず冷めては店主に申し訳がたたぬ。
肉味噌定食を粛々と食べるのみである。
色褪せた白い土壁、古びたラジオにブラウン管のテレビ。
長細い店内でカウンター席を抜けた先の座敷に座るのは、二人で来たときだけ。
つい先日の――……交流戦までは座ったことのないこの場所にいるのは、正直未だ落ち着かない。
食べるものしてもいつもと同じ安心する味のはずなのに、今日は何かが違って感じる。
塩気を感じない。甘さも感じない。
正直に言えば彼女といるのは……ひどく、落ち着かない。
「ふう……」
一足先に食べ終えた彼女がお茶を啜って、艶のある吐息をもらす。
それからどこかあたたかい瞳で我を見つめ続けるのだ。
それが落ち着かないのだ。
食べ終わって手を合わせると、彼女は微笑みながら口を開いた。
「ここ……いつ来ても良いけど、たまには手料理を作りに行きたいなあ」
「う、うむ……」
目をぎゅっと伏せて、眉間に皺を寄せる。
困った。今まではこうも露骨に主張してくることはなかったのだが。
交流戦の後、三人で飲みに行って、さんざん飲まされて……朝になって。
それ以来、ずっとこうだ。
正直潰されるくらいに飲まされたので特に記憶もないので、焦る。
「だめですか?」
「だ……だめでは、ないのだが」
お茶の熱にか頬に朱の差した彼女の顔は艶やかに違いなく。
右の瞼を開いて目にしたその美しさにただただ戸惑い、急いで瞼を伏せる。
「く、国崎は――」
「犬井です。二人の時は旧姓で呼んでください」
「……う、ぬう」
唸る。瞼の裏に浮かぶ像は、彼女の夫。我の盟友である。
もう亡くなって何年も経つ。それでも我にとって大事な存在だ。彼女にとっても同じはず。
けれど……彼女は未来へ進もうという。
その意思表示なのだろう。旧姓で呼べ、というのは……彼女なりの覚悟なのだろう。
わかっている。わかってはいるのだが。
「ライ」
彼女に名前を呼ばれると、胸がかきむしられるようだ。
いてもたってもいられなくなるのだ。
――……盟友とほとんど同じタイミングで恋をして、身を引いた初恋の相手なのだから。
「手料理を作りに行きたい、という……その言葉の意味は、わからない?」
わかっている。
これまでの友人関係よりも先へ進みたいという願いだ。
彼女の願いだから嬉しいとも。
それでも、割り切れない。浮かんでしまう。これはただの……我の弱さに他ならない。
大人になると臆病になるのか。それとも、違うのか。
たった一度の恋に身を引いた我にはわからぬ。
「ライ」
千々に乱れる思考の網からそっと引き抜いて、救い出すように彼女は慈愛に満ちた声で言った。
「一緒に幸せになりませんか?」
「む……」
「あの人を知ってる私とあなただから、乗り越えて共に幸せに歩き出せると私は信じているの」
それはきっと、考えに考え抜いて切り出された言葉に違いなかった。
思わず瞼を開くと、彼女は俺を見つめていた。
けれど唇が僅かに引かれていた。彼女の緊張している時の癖だと、我は知っている。
「だめ?」
「……だめでは、ない」
「そう! よかった……じゃあ、約束よ。明日の夜、お宅に伺います」
「う、む」
「……帰る気はないですからね?」
全身に緊張が走る。
艶やかに微笑む彼女のそれは、我にとってはいつ弾けてもおかしくない爆弾のようなものだ。
「わかりましたか?」
「わ、わかった」
「では決まりです」
ぽん、と手を合わせる彼女に項垂れる。
大変なことになってしまった。
◆
彼女を家に送り届け、家に帰って急いで片付けをする。
几帳面な方ではない、と知り合いに言うと「嘘だ」と言われるのだが、家は綺麗にできている方ではない。
いい年の男だ。ずっと独り身ゆえに、雑なところもかなり多い。
とはいえそんな部屋に彼女を来させるわけにもいくまい。
目に付いた洗濯物の衣服を畳み、箪笥の中へ。ついでに中を整理する。
防音性が高いとはいえこの時間に掃除機というのも気が引けるが、四の五の言ってはいられぬ。目に付いた埃は拭き取った。
インテリアにかまける趣味もないから、困った。
気の利いた部屋であればよいのだが、それは今更手の付けようもない。
新聞紙と古紙を出す日が明日であってくれればよかったのだが、溜まった新聞紙の山はちょっとあまりにみすぼらしいのではないか。
悩んでいたらキリがないが、仕方ないか。いいや、しかし。
そんなことを繰り返していたら良い時間になっていた。明日の授業の準備をして眠らなければならない。
コンディションで言えば最高とは言いがたいが、どうしたって時は流れてその時は近づいてきてしまう。
職員室で落ち着かずにいたら、向かい側の席から「もし、もし」と声を掛けられた。
見れば狸田先生が我を見ていたのだ。
「国崎先生、今日は妙にご機嫌ですが、何かご存じですか?」
「……う、ぬう。ご機嫌といいますと?」
唸る我に狸田先生が視線を職員室の端を見た。
学院長と彼女がソファに腰掛けて談笑をしていた。
「学院長の案内を買って出てますし、今日は洋服姿ですし、朝なんて珍しくうちの嫁さんにってお菓子の差し入れももらってしまいましたよ」
あれは間違いなく上機嫌です、という断言に唸る。
今日という機会を彼女は楽しみにしてくれていた、ということなのだろうか。
だとしたら、部屋はもっと――……。
「ううむ」
「獅子王先生?」
「……ううむ」
「もしもーし? ……だめだこりゃ」
悩んでいても時は過ぎるのが困りものだ。
◆
結局その時が来てしまった。
放課後になって部活動の面倒を見終えて夜遅く。
彼女と一緒に自宅へと帰る。
途中でスーパーに寄って食材を買うのも、二人で自宅へ向かうのも何もかもが新鮮すぎる。
時折鼻歌を歌う彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。つい何度も、
「あまり綺麗ではないからな」
と言ってしまう。家の前で言った時には彼女も笑っていた。
「そんなに言うなんて、よほどなんでしょうね」
落ち着かない胸中もそのままに鍵を開けて照明を付けた。
それから彼女を部屋へと招き入れる。
「どうぞ」
「お邪魔します」
静まりかえったマンションの部屋に彼女の足音が入り込んでくる。
靴を脱いであがりこんだ彼女は玄関口の新聞紙に笑い、楽しそうに部屋中を見渡しながらリビングへと入ってきた。
「2DK?」
「ああ。給料を持て余してな、畳一間から引っ越したが広さを持て余している」
「なるほど……」
顎に指を当ててリビングに荷物を置いた彼女にお茶を出そうとキッチンに向かう。
ついでに買い出しの食材をシンクに置いて、ふと横を見ると彼女がそばにいた。
いつの間にかエプロンを身に付けている。
「じゃあライは待っていて」
「い、いや、お茶を」
「そういうのは後。ね? いいから待っていて」
背中を押されて追い出されてしまう。
居場所に戸惑いリビングへと戻った。
ふり返ればキッチンで彼女が鼻歌を歌いながら料理を作っている。
買った食材は豚のバラ肉、タマネギ、ジャガイモ、人参。それと一緒にカレー粉とチョコレートも。
米を手早く炊飯器にセットした彼女がまな板に並べた野菜に包丁を当てる。
耳に心地良い音がリズミカルに聞こえてくる。
それが妙にくすぐったくてテレビをつけた。
日本の技術開発をクローズアップして取り扱う硬派な報道バラエティで、霊子モニタリング技術がクローズアップされていた。
我のクラスの八葉の兄をはじめとする住良木グループの技術開発部門で働く若き技術者たちが隔離世に漂う霊子を目視する技術について語っている。
そして実際に霊子を目の当たりにする映像まで公開されていた。
海外との技術提携も踏まえて、将来的には古来より続く侍が退治する邪の存在を誰もが知覚できるようにする、というのだ。
コメンテーターが「もし仮に邪という存在を知覚できるとして、それが一般の人にとってどれほど利益のあることなのか……このあたりが当面の課題になってきそうですね」と締めくくっている。
「ふむ……」
緋迎シュウの一件を踏まえて、あの男の刀の特性を活かせば、案外その技術はすぐに発展するような気がするのだが。
学校に伝達された情報によればあの男は我のクラスの青澄に自身の刀を預けたという。何かしらの思惑があるとみた方がいい。
となれば……我は自身のクラスの生徒を守らねばならない。
そう思った時だった。おいしそうな匂いを感じてふり返ると、彼女が口元にお玉を近づけて言うのだ。
「ん、これでよし」
気づけば料理が完成していたようだ。どれほど物思いに耽っていたというのやら。
配膳してくれる彼女が作ってくれた料理、それはやっぱりカレーだった。
さあ食べましょう、と笑顔の彼女に促されて、食事を取る。
最初の一口を食べるのには非常に勇気がいる。
けれど食べてみて口中に広がった味は、ご家庭カレーとは思えないほど美味しいものだった。
「これは……うまい」
「チョコとソースと、ちょっとした工夫なんですが。それで十分おいしいでしょ?」
「……うむ」
「覚えてます? 士道誠心に通っていた頃、林間学校で作ったカレーがひどくて」
昔を懐かしむように彼女は我を見つめながら感慨深そうに言うのだ。
「獅子王もあの人も、渋い顔をして二人でなんとか完食してくれましたよね」
「……あったか、そんなこと」
いいや、覚えている。
だからこそ一口目は怖かったし、凄く驚いてもいる。
「その顔はよく覚えてるって顔ですね」
「む。なぜわかる」
「言わせたい?」
まるでカードの切り合いのような会話に緊張せずにはいられぬ。
「好きなんですよ、あなたのことが。だから見ればわかるんです」
「ごほ! ごほっ!」
「お茶をどうぞ」
渡されたお茶を飲む。
飲んでから戦慄する。我の反応は、ここまで読まれていたのか。
「いい大人だからこそ、あえて直球でいいますけど」
「な、なにをだ」
「こういう風に、毎日あなたにご飯を作りたいです」
「ごほっ! うぉほっ!」
「お茶のおかわりをどうぞ」
飲んでも飲んでも動悸がおさまらない。
「逃げ続けて、遠ざけ続けていたらもういい年です。でも……あの人の死を受け入れて、自分を幸せにしようって思った時に真っ先に思い浮かんだ顔は誰だったと思いますか?」
笑顔の彼女の口元を見た。
緊張している。
それもしょうがない。
これは捨て身の勝負だ。
そこまでせねば我が動かぬとみての、捨て身。
守ってばかりの我の壁など容易く壊すくらいの、捨て身に違いなかった。
ならば我は何を守るというのか。自分か。自分の思い出か。今ある関係性か。
その先にある未来を今までの人生で一度も夢見なかったと、誰に言えるだろう。いいや、言えないからこそ後ろめたいのだ。
けれど、だからこそ自分を守ってなんになる。
たった一人の部屋に死ぬまでずっと帰り続ける日々を送りたいというのか。
……否。断じて否だ。
「ライ、あなたです」
「ああ……わかっているとも、ニナ」
名前を口にする。それだけで彼女の顔がはっとする。
そして一気に耳まで真っ赤に染まっていく。
「……が、学生時代以来ですね、あなたにそう呼ばれるの。あの人と付き合ってからは、もうずっと名字呼びで」
たった一度の呼びかけで彼女はうろたえている。
切り込むならば、今しかない。
全身に汗が滲む。手に滲むそれをふるい落とす術など、我はとうに知り尽くしている。
でなければ生徒を背負って戦い続けることなどできぬ。
今まで、何年も守り続けてきた距離感を――……乗り越えるなら。それは、
「今からキミを幸せにしたい」
「あ――」
未来への宣告以外にあり得ない。
「さしあたって、最初に言うべきことがある」
「な、なんでしょうか」
「……このカレーはすごくおいしい。できれば、毎日キミの手料理が食べたい。作ってもらえるだろうか」
「――……あ、あ」
「もしよければ……週末、キミに贈る指輪を買いに行きたいのだが。我一人では、難しそうでな。他に頼る人もいない。一緒に来てはくれないか?」
「もう……」
目に涙を浮かべて、彼女は胸一杯とばかりに喘ぐように息をした。
「じゃあ、それは……婚約指輪で、いいの?」
縋るように伸ばされた手を取る。すぐに握りしめられたその力は強い。
「ああ。それでいい」
「……本当に、いいの?」
「ああ。我に二言なし」
「――っ」
身を寄せてきて抱きついてくる彼女の身体を受け止めた。
背中にそっと腕を回して抱き締める。
目を開いて我を見つめ、その瞼を伏せる。その意味くらいは、この朴念仁でもわかる。
そっと唇を重ねた。勝手がわからぬゆえに、言わずにはいられない。
「ニナ、カレーが冷めてしまう」
「だめ、カレーはあたためなおせばいい。けど、今の気持ちが冷める前に、あなたと繋がりたい」
「……我は、経験がないゆえ。優しくはできんぞ」
「じゃあ、とっておきの秘密を教えてあげます」
耳元に唇を寄せて彼女は言った。
「……私も、したことがないの」
驚き目を見開く我に、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「一度もないの。付き合っていたけれど、犬神憑きだったから……とうとう、一度もなかった。だから……」
目を伏せて、もう一度開いたときには潤んでいた。
「ライ。私の初めての人になってくださいますか」
甘えるような彼女の声が、より一層愛しく感じられる日が来るなんて思わなかった。
「……もちろんだとも」
身体を抱き上げて、ベッドへと向かう。
さて、とびきり大変な戦が始まりそうだ。
カレーは名残惜しいが、あたためなおしに期待するとしよう。
さしあたってはまず――。
「ど、どうしましょうか」
戸惑う彼女に笑いながら言った。
「キスからはじめよう」
つづく。




