第百七話
今来むといひしばかりに長月の 有明の夜を待ち出づるかな――
「古今集、素性法師に」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして――
「これは在原業平、古今和歌集だったか? ……やれ」
ため息を吐いて、和紙の手紙を机に置いた。和紙にこめられた香りに目を細める。
トーナメント以来、毎週送られてくる達筆のそれは俺――月見島タツキ宛てだ。
宛名はいつも同じ。
「日ユリカ」
名前を口にして胸に広がる思いはなんなのか。
頭を振って廊下に出る。
月夜の時分に向かう先は一つ。馬小屋だ。
士道誠心高等部には馬術部がある。飼育している馬は二頭。そこに俺の愛馬が加わり、現在三頭。当然、俺も馬術部にいる。
庭で見かけるのはユウ。一人鍛錬に打ち込む姿は毎夜見られる姿だ。
剣道場へ行けば仲間がいる。ギンはそこかしこでケンカしているだろう。
レオだけは何をしているのやらという感じだが。
「よう」
馬小屋に入ると、他の二頭をよそに愛馬だけは起き上がって俺を待っていた。
近づくと耳を俺に向けて機嫌のよさそうな顔を近づけてきた。
そっと手を出してみせる。頭を寄せてきたから気の済むまで撫でてやる。
そうしていると落ち着く俺をこいつは見透かしているんだろう。
満足した時にはもう頭を離して離れる。
「すまん」
一声かけて馬小屋を出た。
すると……いやがった。
「……タツさま」
着物姿の少女が俺を待っていた。
こいつがユリカだ。同じ一年生の少女である。
お互いの実家がそばにある、言うなれば幼なじみだ。
「なんだ、会いに来たのか。手紙で思いを告げる作戦は撤回か?」
俺の言葉に俯く。
白く色の抜け落ちた長い髪、青白い肌、日に当たれば赤くなる瞳。
子供の頃から霊子が欠けて弱った身体で、いつも俺の後ろをついてくる女の子。
「……待て」
近づいて額に触れる。
少し熱くなっていた。
「寝ていなくていいのか?」
「……今日、お会いしたくて」
ため息を吐く。
「何の用だ」
「聞きました。タツさまの刀鍛冶が、お隠れしたと」
「……お隠れ、ね」
それだと死んだって意味にならないか。ちゃんと生きてるぞ。
ただ……緋迎シュウの一件で俺から離れ、それを悔いて戻らないと決めただけで。
「ユリカに鍛冶をさせてはくださいませんか」
「……佳村じゃあるまいし、お前にはできんだろう。御珠は輝いたのか?」
頭を振る。代わりに駆け寄ってきて、俺のシャツの布地を摘まんでくる。
「どうか、どうか……後生です」
「なにゆえに」
「タツさまを……お慕い申しております。ユリカはタツさまのために生まれたのです」
離さない、という意地が手の力にこめられていた。
振り払おうか。それとも……取るべきか。
もう一度額に触れる。熱が増していたから抱き上げた。
「た、タツさま」
「いいから部屋へ行く。敷地内の寮生でもねえのに無茶をして。どこで待っていた」
「う、馬小屋です」
「……少し匂うぞ」
「そんな」
いいから黙ってろ、と告げて部屋へと連れて行く。
外出していいのなら送り届けるし、元気ならタクシーだって呼ぶ。
けど熱が出ているのに無理はさせたくない。部屋へと連れ帰り、ベッドに寝かせると、俺は床で雑魚寝をした。返事は保留のままにして。
◆
しっかり熱を出したユリカの体温は九度八分。高熱だ。
氷枕を用意して、冷却シートを額に貼る。
寮のスタッフさんに声を掛けて様子を見て貰い、登校した。
俺がいると気にして体調を崩すから、と何度も言われて渋々である。
よく体調を崩すので、士道誠心に入ってもあいつはほぼほぼ保健室登校だ。
そんなユリカを思って窓の外を見る。
雨がぽつぽつと硝子を濡らしていく。
「タツ、おはよ」
「……おっす」
「朝食にこないとは珍しいな、何かあったのか」
教室にユウ、ギン、レオが入ってきた。
なんて答えようか悩み、けれど頭を振る。
刀たちに触れて、特に何も、と答えて瞼を伏せた。
思い出すのはいつの月夜か。
『無理して俺にかまうなよ』
小学生の頃にそう言ったことがあった。
ケンカに剣道に馬術に。その頃の俺は体力が有り余っていて、無茶ばかりしていた。
そんな俺に体力のないアイツが付きまとうのだ。
幼なじみなんてのは、小学生や中学生時分なんかではよく周囲からからかわれる原因になる。
そんなものは……当時の幼い俺からしたらうっとうしくて仕方のないものだった。
だがユリカにとっては別だったようだ。理由はずっと、口にしなかったが。
『ついていきます、どこまでも』
アイツの献身の理由がわからなかった。
互いの親が仲がいいとか、俺の家に代々仕える家柄だとか、そういう何もかもが手の届かない、けれど視界に入ったら意識してしまう数多の星のようで。
とりわけ目立つあいつは俺に寄り添う月のようで。
理由のわからぬ好意にどう反応すればいいのか、俺は今もわからずにいる。
幼稚園の頃に結婚の約束でもしたか。
小学生の頃にいたずらに好きだと言ったか。
中学生になって成長するあいつを意識したか。
答えはたぶん、肯定で。
けれど命を賭けて俺に寄り添う熱量なんか、どうすればいいのか。
作ってもらう飯はにぎりめしでいい。魂をかけた料理を毎食出して死に向かうなら、それくらいでいいのだが。
そんな気持ちはある一瞬に揺らいだ。
トーナメントのハルを見てから、ユリカを遠巻きにする理由をなぜだか失ったのだ。
ハルもギンも、魂かけて語り合っていた。恋心をぶつけあっていた。
それがわかっちまったらもう、逃げられない。
あの時の二人が胸に焼き付いて消えないんだ。
なのに今も、答えを出せずにいる。
新しい何かを手にできると信じてこの学校に入った。
初めて士道誠心で出会った少女はその生き様で、俺に色んなものをくれた。そいつは――ハルはきっとそんなこと知らないだろうけどな。
「はあ」
目を開ける。
頭の中はいま、ゆっくりとユリカに満たされていく。
幼い俺なら無自覚に遠ざけて欠けたものが、今の俺には満ちていくばかりだ。
「わりい、授業ふけるわ」
そう言って教室を出た。三人は笑って見送ってくれたさ。
◆
寮に戻り、部屋へと入る。
ユリカの看病をしてくれたスタッフさんと白衣の眼鏡男がいた。
「学生がサボって看病とはな。だが間に合った、というべきか。危険な状態だ」
ふん、と鼻息を吐きながらも、白衣の眼鏡男は立ち上がって説明してくれた。
「先日体調を崩された養護教諭に代わって赴任した、医者の霜月トオヤだ。少し様子を見たが、妙だと言わざるを得ない」
「妙というと?」
「まるで誰かに自分の霊子を捧げているようだ。常時、霊子が欠損して、そのせいで体調が悪くなっている」
それは誰だ、と言い返すよりも気になってユリカの手に触れた。
喘ぐように息をする彼女の顔は普段の青白さから信じられないほどに赤く染まっていた。
額に浮かぶ汗を見ていると心中穏やかではいられない。
「ユリカ」
「――……タツ、さま」
触れた手の熱は高い。
「――……ふむ」
スタッフさんに指示を出した霜月が懐から御珠を取り出す。
何をする気だ、と言う前に霜月が隔離世へと俺たちを導いた。
「何を――」
「彼女を見ろ」
は、と尋ねることさえ出来なかった。
ユリカの身体の端々が粒子となって、俺へと注ぎ込まれている。
それは淡い光となって、俺の刀に注がれていく。
「な、にを――」
「タツさまの、お力に、なれてますか……」
弱々しい声になんて言えばいいのかもわからなかった。
「やめさせられないのか」
「彼女の意志、か。或いは特異体質か。どちらにせよ、治す方法は限られている」
「どうすればいい」
「……欠けたのなら、満ちるまで補えばいい。今の状態は例えるなら、片思いだ」
それだけを言うと、俺の顔を見て霜月は言った。
「廊下に出ている」
本当に廊下へと出て行ってしまう。
ふり返ってみればユリカはどんどん身体の端から消えていく。
ユリカの片思い、か。
俺はそれに向き合わずにいた。
確かに片思いだな。
ならば、やるべきことは一つしかない。
「色々話したいこともあるが、どこかへ行かれてしまっては困る」
「タツさま……」
「昨夜の願い、それだけで足りるのか?」
背中に腕を差し伸べて引き起こし、抱き寄せる。
頭を胸に置いて、髪を撫でる。
泣きじゃくったユリカの涙がこうすれば止まることを俺はいつ知ったのか、もう覚えてはいない。
「……おそばに、いたいです」
「ああ」
「これまでも、これからも。ずっと、おそばにいたいです」
「……他にはないか?」
「他なんて、他なんてありません」
「欲がないな」
「……そんな、こと、ないです。叶いませんでした」
「何を言う。叶っているだろう?」
額を重ねて囁く。
「すまなかった。置き去りにして、構わずにいて。俺のそばにいてくれ、ユリカ」
「――……、」
泣きじゃくるユリカの目元を拭い、心の中で霜月に感謝する。
誰にも見られずに済むのならいい。
「お慕い申しております……おしたい、もうして、」
「ああ」
お前が消えないで済むように、これからは全力で愛するよ。
そう誓い、口づけを落とした。
俺を受け入れるユリカが煌めいて、俺の中の力がユリカへと流れ込んでいく。
放出はやんだ。互いに満ち足りてようやく、俺たちは一人前になれたのかもしれない。
気づけば現世に戻っていて、霜月がユリカの体調を診察してくれた。
問題ない、と言われてほっとする。
「彼女との繋がりが消えれば状況は元通りだ。人生を文字通り背負うんだ。その選択に後悔はないか」
霜月を送るために廊下に出て、部屋を離れた時に言われた言葉に俺は迷わず言った。
「重たくはない。ユリカの重さなら背負うさ、どこまでも」
胸にまだ焼き付いている。
ハルとギンが魂をぶつけあった、あの瞬間が。
それは刹那的だと言えるかもしれない。
けれど俺はあの姿を見て思ったのだ。
「全力で恋心をぶつけられていた。なら……俺もぶつけ返す」
幼い頃の俺ではなく。
あの二人のありように目覚めた俺として。
そばに輝く月の美しさを、今なら理解できるから。
ふっと笑って立ち去る霜月と別れて、部屋に戻る。
ユリカは眠りについていた。
長い睫毛、二重の大きな瞳は閉じられたまま。
垂れた目尻に涙が浮かんでいる。指でそっと拭うとユリカがうっすらと瞼を開けた。
「タツさま……」
「なんだ」
「……今宵の月は、満ちるでしょうか」
「満ちては欠けて、姿を変える。けれど常に寄り添い輝くさ」
震える手を握りしめて囁く。
「やっとその美しさに気づいたんだ。手放さんぞ」
「……ああ、」
よかったと囁いて、涙をぽろりとこぼすユリカの微笑みは、淡く溶けるような可憐なものだった。
つづく。




