第百三話
尾張シオリにとって、目下の悩みは並木コナの存在に集約される。
「復習の手伝いに行ってきたけど、ハルは本当に残念ね」
「そう言いながらも嬉しそうだね」
「出来の悪い妹みたいで……可愛いのよ」
「一時は恋のライバルだったのに?」
「それはもう終わった話なの」
つんとそらした顔を見るのは……飽きない。むしろ好きだ。大好き。
「それは何よりだね」
「ええ、そう。だからあなたの部屋に来たの」
でも大好きだからこそ、困ることもある。
「ユリアの刀鍛冶になったなら、ユリアの元に行けばいいじゃないか」
「あの子も大変な目に遭ったからもちろん行くつもりだけれど」
「ならなおさら、ボクの部屋にこなくても――」
寮部屋のデスクに向かってかたかたキーを打つ。
コナを見ていられないし、意識していられない。
少しでも見たら、顔が熱くなる。そんな自覚がボクにはある。
好きだから。大事だから……特別すぎるから。
でもボクの気持ちは友愛なのか恋愛なのかどうかさえわからない曖昧なもので……なにより、普通の人にとってはきっと、気持ちの悪いものだ。
二次元ならどっちでも綺麗。
でも現実だと恋愛だったなら重く、どろどろと溶けるような生々しい熱情になる。独占欲とか、そういうすべてを向けたくないし、意識だってしたくない。
だから誰も傷つけず、自分さえ傷つけないためにも答えを出さずに距離を置いて、なあなあで済ませよう。
そう思っていたのに。
「ユリアは勉強するでしょうけど、あなたはしないでしょ?」
チェアーの背もたれに腕を預けて身体を寄せてくる。
コナはただ何気なくパソコンを覗き込んでいるだけ。緋迎シュウが起こした――いうなれば五月病事件の調査レポートを作成している。ラビたちに提出するためにだ。
「ほら、やっぱり違うことしてる。パソコンを使って勉強している、なんて言い訳は去年うんざりするほど聞いたんだからね。もう通用しないわよ!」
だめよ、学生なんだから勉強しないと!
ただ素直にそう言って、世話を焼いてくれる友人……いや、親友にだからこそ、言えないことがある。
やっぱり、ボクの悩みは並木コナに集約される。
「勉強するわよ。明日は手強いわよー」
「……わかったから。ひっつかないでくれ」
逃げるように椅子から降りることしかボクには出来なかった。
◆
素直に従っておけばコナは変に干渉してこない。
だから勉強だってするし、刀を求められれば預けもする。
でも、ああ。
「さあ、手を出して」
これは想定外だった。
「……なんで」
「ハルで感覚を掴んだの。人の霊子の調律は刀の鍛錬にすごくいいってね」
「い、いや、あの」
「まあちょっと気持ちとか記憶とか共有しちゃうけど、別に問題ないわよね?」
笑顔のコナを前にいきなり人生最大のピンチが訪れた。
これならまだ、緋迎シュウやプロの侍達を前にした時の方が戦えた。
「も、も、問題ある」
あわてて手を振った。
「なにが?」
「……あまり気持ちの良い過去じゃない、というか」
「シオリの過去なら受け入れるわ。あたしの過去も同じだし」
う、ぐ。
「じ、実はコナに対する不満を持っているかも?」
「そりゃあ人間なんだしあるでしょ、不満の一つや二つ。でも大事な仲間なんだから気にしません」
なんなら直すし、いい切っ掛けよ。
なんて笑顔で言われて退路がなくなって。
近寄ってきたコナが手を伸ばしてきて思わず本気で避けてしまった。
「……シオリ?」
「いや、あの、違うんだ」
「へえ……そう」
あ、やばい。コナの目が据わってきた。
「ふっ」「あぶなっ!?」
手刀が振り下ろされて慌てて避けた。その手が途中で軌道を変えてボクの胸ぐらにのびてきた。
慌てて屈む。その足下をコナが右足で払った。お尻からベッドに落ちて、上から覆い被さってきたコナに押し倒されてしまった。
「体術くらいは修めているのよ」
「だ、だからってこれは本気すぎないかな?」
「いいから、本気で嫌ならその理由を教えなさい」
「その理由を言いたくないから教えないんじゃないか!」
ええい、とコナがボクの首に手を重ねてきた。
もがこうとするボクの額に自分の額を重ねてくる。間近に迫る顔に戸惑うボクの身体の中に、熱くてたまらない何かが広がって――
「え」
コナの顔がぽっと赤くなった。
けれど広がる何かはどんどんボクの中に入り込んできて、止まらない。
「や、やだ、まって、ど、どうしよ、とまらないんだけど――」
テンパるコナを見ると、広がる何かはコナの力なのかもしれない。
一節に聞いたことがある。
刀鍛冶は刀を鍛える他に、霊子を操る術を使って侍に干渉し、刀や侍の性質を見極めるのだとか。ただしそれをすればお互いの霊子が混ざり合い、魂同士で繋がり合ってしまう。
露わなそれは……ひょっとしたら身体で繋がるよりも、深くてごまかしようのないふれあいなのかもしれない。
「――……それ以上、触れないでよ」
コナの額を押して、コナの手を離して囁く。
「溶けちゃうだろ」
言いながら、コナの身体を押し返して上半身を起こす。
けれど……コナの顔は見れなかった。
コナの狼狽からしてボクの気持ちは伝わってしまったに違いなくて、だからどうすればいいかわからない。
ああ、だからコナに抱き締められるなんて思ってもなかった。
「……シオリがそんなに私のこと好きだったなんて、知らなかったのだわ」
「え、と?」
下手な返事ができなくて戸惑う。
「くっつきたかったり、甘えたかったり、色々したいって思ってるのもわかったし」
「うあ」
待って、と囁くボクに構わず。
「あるわよね! ちゅっちゅしたりしたいっていう気持ち! わかるわ!」
わかっちゃうの?
「でも大丈夫。ぜんぜん変じゃない。私だって今日復習した時に妙ちくりんな答えを書いたハルを見て思わずキスしたくなったもの! だからそんなの隠さないで甘えてくればいいのよ!」
いや、あの、あのね。ちょっと待って。待ってよ。
そんな子供が言うわがままみたいに言われると、めちゃくちゃはずいだろ。
「シオリはあれね。いちばん心を許している相手が私なのね。いま触れてみてわかったわ」
うああああああ!
「あと、本当はとっても寂しがり屋で……人のぬくもりに飢えているのだわ。だから刀が氷に根ざした力なのかもしれないわね。ボクの氷を溶かす誰かと出会いたい、みたいな」
うああああああ!
「だからいいの。それは気持ち悪くない、ただ……人に愛し愛されたい気持ちの表れなのだと思うもの。シオリがしたいことの先が私なら、どんとこいよ!」
なにこれ……なんなんだ、これ。
「さあ、何がしたいのかしら!」
きらきらした目で明るい笑顔で言われても、困る。
「……と、とりあえず、一人にしてくれないかな」
「だめよ。今のあなたの真っ赤な顔を見ると、このまま放置したら今週は部屋から出ないに違いないわ」
「くっ」
見抜かれている……!
「距離を取られると悲しいじゃない。シオリはいろんな人にたくさん愛されていいと思うし、だからこそ私がまず愛したいなあと思います」
「い、いや、適切な距離感がないと……溶けちゃうだろ。いろいろと」
「溶けてもいいのだわ。私が触れている間だけでも、本音を教えて欲しい。そうできる相手が、少しだけ増えるといいなとは思うけれど。たとえば生徒会の面子だけでもいいから」
そもそも離す気なんてないのだわ、なんて言われてしまった。
「……コナは昔からそうだ」
ため息を吐くボクの背中に回ってコナがさらにきつく抱きついてくる。
離さない、逃がさないというように。
「教室の片隅でパソコンいじってたら、声を掛けてきたの覚えてる?」
「最初の出会いね」
「無視してもきついこと言っても、しつこく毎日構ってきたよね。むちゃくちゃな理屈をつけて、ボクを笑わせようとしたりしてさ」
「同じように声を掛けていたユリアの方が先に仲良くなったけど」
「……それで二人になって、ラビがついてきて三人に増えて。クラスのまとめ役のカナタまで絡んでくるようになって」
「先輩達の課外活動に混じって外に行くようになって、色々あったわよね」
語る機会があるのか、ないのか。
ボクたちにとってはたった一年前の、けれど遠い過去の話だ。
「ずっとコナはボクのそばにいてくれたけど、なんで?」
「だって学校にパソコン持ち込んで難しそうな顔してるんだもの。なんだか気になるじゃない」
「そりゃあ……そうかもしれないけど」
もうちょっと違う方向の返事がよかった。
ぶすっとするボクに笑ってから、コナがそれと、と笑う。
「それと?」
「私、人を見る目には自信があるの。シオリは絶対に面白い子だと思ったのよ」
「……コナの方が面白いと思うけどね」
「あら。ラビやユリアには負けるわ」
「どうかな。良い勝負だと思うけど」
少なくともボクの中ではコナが大勝だ。
「シオリは何を怖がってるの?」
「……だって」
お腹に回ったコナのやわらかな拘束に手で触れて、熱い頬で俯き、囁く。
「触れたら好きになっちゃう。そういう人が増えれば増えるほど……失うかもしれなくて、怖くなる。溶けたらなくなって、元には戻らないだろ」
だから世界は冷たいくらいがちょうどいいんだ。
そうしていれば、ボクは純粋に世界を……人を愛することができるから。
「ばかね」
首元にコナの熱を感じてふり返ると、彼女はとびきりの笑顔で言うんだ。
「溶けることを知って尚、今を固めて凍り付く。シオリの氷は願いそのものじゃない。溶けたらまた凍らせればいい。離れた手は、ね」
ボクの手をきゅっと握りしめて。
「こうしてまた繋げば済むじゃない」
伝わってきた熱はやっぱりとびきり熱くて、ボクの氷をたやすく溶かしてしまう。
やっぱり、特別だ。
ボクにとって。恋でも愛でも友情でもなんでもいい。
並木コナは尾張シオリにとって特別なんだって、わかったから。
「むちゃくちゃだよ」
笑って、ボクは目を伏せて言うのだ。
「そういうところが好きだ。ずっとね」
つづく。




