第百二話
僕……結城シロにとって、試験は特別な意味がある。
勉強の試験は特にそうだ。
厳格な思考の経路を、客観的に判定し、点数をつける。
たとえば天然で面白いことを言えてクラスの人気者になったり、或いは運動で溢れる才能を発揮したりするような人たちがいる。彼らに敵わない僕でも、自分を肯定できる特別な力。それが勉強だ。
あらゆることでギンに敵わなくても、トモほど強くなくても、僕は問題を解くことができる。それが僕にとっての大事な自信に繋がる。
それに……士道誠心に入ってからは毎日が楽しい。勉強も、楽しい。
必死にしがみついてやっていた時よりも、余裕が生まれたのかもしれない。
「……わかんないよう」
困り眉になるトモにゆっくりと説明をしながら思う。
僕が楽しめるなら、彼女にだって楽しめるように何かができないだろうか。
「勉強つらい……つらいです……」
死んだ魚のような目になるトモを見て、少し考えてから彼女のノートを引き寄せる。
「大丈夫だ。えっと……」
ただ必要な知識だけを喋っても脳が拒否するんですモードになるから、色んな手を考えた。
現代社会は彼女が興味を抱ける角度からの雑学を。
理科は実験動画などを見せて興味を持ってもらって。
英語はツッコミどころ満載の例文を作ったり。
少しでも興味を持ってもらえるように意識しながら解説文を書き記す。ライオン先生の真似事をして絵だって描いた。
それが僕にとっての復習にもなるから、一石二鳥だ。
「楽しもう」
「……ん」
背中を叩いて二人で机に向かう。
そんな時間を過ごすのが……僕は最近、すごく楽しいんだ。
◆
中間試験が始まった。
「うーっ」
隣の彼女は様子が少しおかしい。
「はっ!?」
びくっと身を震わせて周囲をきょろきょろ見渡して、ニナ先生が名簿で頭をそっと叩いていた。
「こら。カンニングしないの」
「い、いえ、その、殺気を感じまして。ハリセンで殴られる気がして」
「あなたは何を言っているの? それに私語厳禁」
「す、すみません」
慌ててテスト用紙に向き直っている。
それを見て微笑んだニナ先生の視線が意味ありげに僕を見つめてきた。
「結城くんも叱られたいの?」
「……いえ」
はいおれ叱られたいです! と挙手した茨にテスト中で緊迫していた空気が弛む。
ニナ先生は手を一度叩いた。
その音を聞くとなぜか身体が引き締まるような錯覚を抱くから不思議だ。
「テスト時間中ですよ。集中なさい」
テスト用紙に意識を戻す。
昔の僕なら多分、内心で茨を馬鹿にして、隣の彼女に呆れていただけだった。
今の僕が思うのは……なんだろう。
「シロ、答え教えてくれ」
「俺も」「俺も頼む」「僕も」
カゲの囁き声に何人かが続く。
視線を感じて隣を見たら、彼女が僕を縋るような目つきで見ていた。
「あのな……君たち。これは自分で解くことに意義があるんだ、そもそも今は」
「テスト時間中ですよ」
みんなで顔をそーっと前に向けると、教卓の上にニナ先生が正座していた。
士道誠心の男子生徒憧れの女性教諭の笑顔は確かに美しい。
こめかみに血管さえ浮いていなければ、誰もが見惚れていただろうに。
やれやれ。
◆
午前で終わった試験一日目に、既にみんなはグロッキー状態だった。
潜り込んでいたあのツバキという子に青澄さんが慰められている。
男の子だが見た目は可憐な少女にしか見えないから、クラスのみんなが気にしている。青澄さんも日を追うごとに綺麗になっていくから、意識するのも無理はないのかもしれない。
そう……彼女は綺麗になっていく。
それに気づくくらいには……僕は彼女が好きだった。
とはいえ、終わった話だ。
男の恋は別名保存というが、付き合っている女性がいる男にそれは許されないと……僕個人は思う。
彼女に会いに行こうと荷物を手に廊下に出た時だった。
「あ、ああああの、結城さん!」
狼狽しながらも声を掛けてきた少女に目を向ける。
佳村ノンさんが教室に来ていたのだ。
「青澄さんか?」
「い、いえ。こないだいただいたお話の答えをお伝えしたくて」
「あ、ああ」
そうだった。
ギンの刀鍛冶である彼女に、相棒のいなくなった僕は刀鍛冶になってくれとお願いしたのだった。
その目的は表面的な内容だけに留まらない。
佳村さんの能力なら色々な人に声を掛けられるに違いないから、どうするのか考えた方がいいんじゃないかと――……
「くそ……そうだった」
その件でトモに怒られたんだった。
あなたが干渉するのはいくら沢城くんが好きでもやりすぎだ、と。やり方も下手だ、と。
そう言われたし、今では僕も自覚している。
「答えはNOでいいんだよな?」
「あ……はいです。えっ、わかってたんですか?」
「ギンのことは知っている。ギンが選んだ子なら……絶対にそう答えると思っていた」
「……じゃあ、なんでノンにお願いしたんです?」
ただ不思議、という顔で言われて僕も困る。
「困らせてごめん。ギンのこととなると、僕は少し……冷静ではいれなくて」
「「「 えっ 」」」
佳村さんだけでなく、教室にいた青澄さんとツバキまでもが揃って声を上げた。
な、なんだ?
「とにかく、大丈夫だ。伝手はあるから」
「は、はあ」
頷く佳村さんに別れを告げて、一組へと向かう。
試験後とはいえ一日目の後ではみんな、そんなに騒ぐ気にもならないのかもしれない。
うんざりした顔で帰る者、手製の暗記カードや本を手に帰る者、すべての望みを捨てて机に突っ伏している者。人生、色々だ。
一組の様子は少し異なっていた。
「あははは」「その間違いはない」「いやだから、わからなくてさ」「でもそこいくと、トモが教えてくれたの役に立ったよ」「あたしもー」
どこか華やかな女の子たちの声に続いて、トモの声がする。
「ふふー。あたしが考えたわけじゃないんだけどね」
「その彼氏さん大事にした方がいいよー」「それな」
女の子たちとトモが和やかに話していた。
女子が多いクラスで男子の姿は既に無い。
扉をノックするとトモが僕に気づいてクラスメイトに別れを告げて出てきた。
「待たせたかな?」
「べつにー。だいじょぶ」
いこ、と歩き出す彼女は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
それは図書室について、勉強道具を出して……二人で山ほど勉強しても変わらなかった。
図書室を閉める時間になって、みんなが出て行く。
荷物をまとめる僕と違って、彼女は机に頬杖をついて僕を見ていた。
やっぱり……笑顔だ。幸せそうに緩んでいる。
「……なんだ」
「んー。ねえ、シロ」
「どうした?」
椅子に腰を下ろすと、彼女が手を伸ばして握ってくる。
「今日の試験はさんざんだったの」
「そうか」
「間違え方もあんまりで。わからないことが山ほどあって」
「……最悪だな」
「ううん、違う。最高なの」
「なんでだ?」
思わず尋ねてしまった。
彼女の答えが予想できなくて。
一瞬、なんて言われたのか理解できなくて。
「わからないことがあるってことは、シロにこれからもっと教えてもらえるってことだし」
指先から伝わってくる。
「さらに世界を知ることができるの。それはきっと、わくわくすることなんだ」
彼女の熱が。
「間違えて間違えて……そのたびに思う。いつか理解できた時、間違えた分だけあたしはぜったい幸せになれるって」
その言葉を言われた瞬間、頭によぎった。
『簡単にわかる答えは、その簡単さと同じくらいの重さしかないんだ』
いつの頃だっただろう。
授業中に青澄さんに言った言葉を思い出していた。
『……山ほど負けてでもいいから、僕はその先にある僕だけの勝利を、強さを掴みたい』
あの時の話なんて彼女には一切していないのに。
「剣道の時と一緒でさ。勉強もそうやって楽しめるんだなって……シロといるとなんでかな。思うんだよね。シロが教えてくれるのすっごく楽しいし」
だからもっと勉強教えてね、出来は悪いかも知れないけど、と微笑む彼女は眩しくて。
僕はそっと目元を拭うのだった。何度も……何度でも。
どうしたの、と慌てる彼女を抱き締めずにはいられなかったんだ。
ああ。
こんなに幸せなのに、ふり返る暇もよそ見する暇もない。
これほど眩しい彼女が、僕にはいるのだから。
つづく。




