魔王
心臓の辺りが熱い……。
僕の意識はまるで微睡みの中にあるようで、どこかはっきりしない。自分が何をしゃべっていたのかさえ、わからなくなる。でも、ニールの手の温もり、僕を呼ぶ声のおかげで、僕は僕を保っていられた。
凍土を進んでいくと、吹き付ける風や雪はあるときを境に止んだ。空には極光がたなびき、僕らの前には二本の巨大な柱が見えてきた。
「なんだ、この建造物は……」
「魔王の玉座へようこそ」
シトーの疑問に答えると、なぜか彼はビクリと肩を震わせてこちらを見た。レムとオリク様、ニールを順番に見て、僕は柱の先を指し示した。白い柱と黒い柱、そこからは階段が続いていて、下るにつれて幅が狭くなっていく。最初は大人が十人並んでも余裕だったものが、最後にはひとりしか通れないほどになるのだ。そこから先は氷をくりぬいて作られた道になっていて、僕はともかく他の四人にとっては辛いかもしれない。
「さあ、階段を下っていこう。ちょっと暗闇をくぐり抜けなきゃいけない場所があるけれど、どうにかして。僕が先頭に立つ。オリク様は一番最後にお願いします」
「待ってくれ、オリク様に殿なんてさせられない。わたしが最後に行く」
「……死にたいの、レム」
「………………」
僕の言葉になぜか皆が身構える。僕が首を傾げると、オリク様が口を開いた。
「ジョーの言うことはもっともだ。宝珠の加護のある私が殿を守ろう。正直、何が起こるかわからんからな」
「しかし……」
「レム、ここから先は異界だ。きみたちの常識で計れるものではない」
オリク様はそう言って、剣に手をかけていたレムを落ち着かせた。渋々という表情で引き下がるレム。ニールが僕の手を引いて顔をしかめている。
(もしかして、怖いのかな。ニールってば、可愛いとこあるよね……)
本当なら胸が高鳴るような場面だけれど、残念ながら偽物の心臓はうんともすんともいわない。僕はとにかくニールを安心させてあげようと、その手を両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ、ニール。ニールには僕がついてるから。絶対に手を離さないでね。そうしたら安全だから」
「そういうことじゃなくて……って、なんだよ?」
「……シトーは別に繋がなくてもいいんだよ?」
「……念のためだ」
シトーが真面目な顔をしてニールの手を握っていた。僕はそれを指摘するのを諦め、とにかく進むことにした。暗闇に入ると湿った生温い空気に包まれる。くぐもった呻きは誰のものか……。ごつごつしてまるで岩のように荒い氷面に手を触れつつそこを抜けると、満天の星空の下にきらめく氷山が、そしてその麓に立つ人影が見えた。
「師匠……」
懐かしいその姿に思わず涙があふれ出していた。別れたときと、まるで変わらない。師匠はにっと歯を見せて僕に笑いかけてくれた。
「よく来たなぁ、ジョー」
「師匠!」
走り出そうとする僕を、ニールの手が引き止めた。振り向くと、皆が険しい顔をして立っている。その視線の先には氷山が、そしてそこに閉じ込められている黄金の髪の少女がいた。体の前で指を組み合わせた少女は裾の長い白い衣装を身に着けている。立ったままというよりは氷の山の中に浮いているようにしてその姿はあった。
「どうして、ジョーにそっくりなんだ? 誰なんだよ、あれ」
「…………?」
ニールの声は震えていた。そんなに似ているだろうか?
魔王の瞼は閉じられていて、その顔はよく見えない。僕にはまるでわからなかった。
「もしやあのお姿は……古の聖女、アリステア様か?」
感極まったように言うシトーもまた震えていた。アリステア……その名は聞いたことがある。師匠が一度だけ、僕のことをそう呼んだ。ならば、炎の魔王を倒そうとした彼女は聖女なのか。
「シトー、聖女かどうかはわからないけれど、彼女はアリステア。氷の魔王だよ」
「っ、どういうことだ!? 魔王はあの老人だろう!」
「いいや。師匠は魔王じゃない。あのひとは大魔導……この世界の守護者であり、導き手だ」
理解できないという表情のシトーをよそに、オリク様が前に進み出て膝を折った。
「おお、大魔導……我らが師よ。お久しゅうございます、オリクです」
「おお、おお……オリクか。久しいの」
師匠は笑い、オリク様を立ち上がらせて親しげにその肩を叩いた。どのくらい会っていなかったんだろうか、オリク様の嬉しそうな様子に僕も嬉しく思った。
「どういうことなんだ、魔王は、討ち果たすべき敵はどこだっ!?」
「レム、落ち着いて。心を波立たせるとよくない。またあの巨像と戦いたいの?」
「…………どうなっている? わたしは命も捨てるつもりでここまでついてきたというのに、これでは……!」
「レム……」
そこまでの覚悟で来ていたなんて思ってもみなかった。そうだ、僕も最初はそのつもりだった。だからこそ闘いに怯え、先延ばしにしてきたんだ。今ならわかる、なぜDが、ディーヴルがあんなに楽観視していたのかが。僕の心臓が紅玉に置き換わったときから、その知識は僕に引き継がれていたから。
「レム、聞いて。魔王は今、見ての通り眠りについている状態だ。彼女は僕が止める、戦う必要はないよ」
「……どういう意味だ」
「僕たちの世界は、白い陽の気と黒い陰の気によって作られ、生まれたと言われているよね? それは真実だよ。そして、陽の気と陰の気は常に、互いが互いを食んでいるんだ。けど、どちらかが勝ってしまうと世界が終わる。氷に覆われれば命は絶え、火竜が目覚めて大地を焼き尽くすだろう。陽の気が勝ちすぎれば命は際限なく大地に満ち、やはり火竜が目覚めてすべてを破壊し焼き尽くす。
そうさせないために、僕や……ロランのような人間が、宝珠の力を呼び起こしてこの流れを止めるんだよ。ただ、宝珠の力に飲み込まれてしまったら、その人間はまるで傀儡のようになってしまう。アリステアもきっと、炎から世界を守るために宝珠の力に頼って、そして飲み込まれてしまったんだ。彼女は魔王になった。僕なら彼女を解放してあげられる……彼女の抱く宝珠を眠らせて、この凍土の拡大を止められるよ」
レムだけでなく、誰もが無言で僕を見ていた。「できるのか」と問われている気がして、僕は下唇を噛んだ。ここまで来て、後には引けるもんか。僕はひとり、氷山に閉じ込められた魔王アリステアへと足を向けた。
「ジョー。アリステア様に連なる血を持つお前さんが、こうしてここに立っているとは……奇縁じゃな」
「師匠、こうなることがわかって、僕を……?」
「いいや。わしが選んだのではない、お前さんがわしを見出したんじゃ」
「……そう。良かった」
「さあ、解放してやっておくれ」
「うん」
僕が右手を差し伸べると、氷は退いていった。彼女の体があらわになり、僕はそっとその心臓の辺りに触れた。すると、アリステアの体は黄金の塵に変わって、極光の翻る空へと昇っていった。最後に彼女が微笑んだように思ったのは、もしかしたら僕の気のせいかもしれない。けれど、そうだったらいいと願った。
ふらついた僕を、師匠が掬い上げるようにして支えてくれた。そして、氷山から青くきらめく蒼玉を取って僕に言った。
「さて。ジョー、お前さんは魔王を宝珠の力に飲み込まれた者と言った。じゃが、それはちと違う。魔王は二つの気の拮抗を見守る調節者でもあるんじゃ。何事も一方に傾きすぎてはいかん」
師匠はがらりと声を変えて続けた。
「選ぶがいい、少女よ。宝珠を持って人間を統べる王となるや、それとも魔をもって世界を統べる魔王となるや? 力を持ち、力を振るえ。己の気の向くままに。すべてはお前にひれ伏すだろう、助けるも滅ぼすも、好きにして良い。さあ……どうする?」
僕は心臓の辺りが冷えてきているのを感じていた。宝珠は、魔王を止めるために力を使いすぎたのかもしれない。僕が今、ここで新たに魔王になれば、きっとアリステアのように今の形を保ち続けることもできるかもしれない。死なずに、ニールの側にいられるかもしれない。
ニール……。
彼のことだけが、心残りでしかたがない。
かすむ視界の中でニールの姿を探した。何も言っていないのに、僕の側に来て、僕の手を握ってくれた。ニールはいつもそう、何も言わないのに助けてくれるんだ。
「僕は……どちらも選ばない。王にも、魔王にもなりたくないんだ。僕はただのジョーでいたい。あなたの弟子で、それ以上でも、それ以下でもない。僕は人間として、ニールの側でこの命を終えたいんだ」
「……それが、答えか?」
「うん。師匠、ごめんなさい……」
「そうかの。それじゃあ、しかたがないわぃ」
師匠は優しく笑った。
僕も笑い返した。
「ジョー、お前、笑って……? おい、どうしたんだよ、しっかりしろ!」
「いかん、体が冷えていく……。師よ、なんとかしてください、貴方の弟子でしょう!」
「おっと。こりゃいかん。そうさのぅ、頑張った褒美をやらねば……ちと乱暴じゃが、怒るでないぞ。ちゃんと紅玉は渡したというのに、使い切ったのはお前さんたちじゃ」
「いいから早くしろよ、ジイさん!!」
目を開けていられなかった。声だけが僕の耳に届いている。うるさいくらいに。ニールが師匠に暴言を吐いた。まったく、お年寄りには親切にしなさいっていつも言っているのに……。後で、叱って、おかなきゃ……。
胸に何かが押し当てられたかと思うと、無理やり押し込まれたような感触があった。穴がないはずの場所に穴が開いて、中に何かを入れられたような感じ。痛みはないけれど、ちょっとした異物感がある。カツン、と心臓の辺りで音がして、体がじんわりと温かくなってきた。胸から体の方々へ、温かいものが伝わっていく。
「これで宝珠に飲み込まれることもなかろうて。感謝するんじゃな。ひ、ひ、ひ。さあ、人の子らよ、お前たちのいるべき場所へ送り届けようぞ。……またいつか、道が交わるときに会おう!」
抱きかかえられ、運ばれていく中、目を開けるとニールの顔が見えた。虹色の光が僕たちを包み込んでいく。これですべてが終わったのだ。心地よい疲れに身を委ねて、僕はまた瞼を閉じた。
(ありがとう、師匠。また、会えるよね……?)
なくなった心臓の代わりに、僕の中で宝珠が澄んだ音を立てた。
次回でエンディングです。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
明日、更新いたします。




