奇蹟
ニールが宝珠の導く通りに進んでいくと、雪景色の中に立つ三つの影が見えてきた。逸る気持ちを抑えながらニールは雪を踏み分けるが、動揺は如実に乱れた足跡に現れていた。
「ジョーは!? ロランは、なにか見つかったのか!?」
三人が場を開けると、その雪の褥にはロランの亡骸が、どこか満足そうな笑みを浮かべて横たわっていた。胸の傷といい、半ば氷に埋もれた姿といい、動きだしそうな様子はない。その手の中にジョーのナイフがあるのを見、ニールは鋭く息を吸った。
進み出てきた寡黙な聖堂騎士の腕の中には、あどけない寝顔を見せるジョーの姿があった。だが、その胸には刃によって切り裂かれた傷が、凶行の痕跡が刻まれている。彼女の心臓は、その動きを止めてしまっていたのだ。
「くそ…………ちくしょう!!」
ジョーを守れなかった悔しさからロランの躯を蹴飛ばすニールを誰も止めなかった。そのニールもその一撃以降は死体を辱しめようとはせず、ただ拳を震わせていただけだった。
「ニール、紅玉を」
「わかった」
賢人オリクが促す。ニールはジョーを汚れていない雪の上に横たえた。恨み言ならたくさんあった。だが、瞼を閉じて真っ白い顔をしているジョーを前にすると、何も言えなかった。そっと傷口を見る。鋭い刃物で裂かれたそこに宝珠を埋め込むには小さすぎて、拡げなければならないようだ。ニールはそこに手を差し入れた。肉を割く嫌な感触が伝わる。嫌悪感に顔をしかめながら、それでも懸命に穴を拡げていった。
心臓よりも小さな、こんな玉なんかで、本当にジョーは生き返るのか、疑念が拭っても拭っても沸き上がる。まるで額の汗と同じだ。ニールは掌で紅玉をぐっと押さえ込み、心臓の位置へ嵌まるようにした。ニールの横にしゃがみこんだシトーが囁く。
「名を呼べ、ニール」
「は? なまえ……?」
「そうだ。名はその人間の根幹だ、あやふやな輪郭をただし、方向づけるものだ。どの名で呼ぶ。どうあってほしい?」
シトーの言葉に、ニールは迷わず答えた。
「ジョー。ジョー、帰ってこい。勝手に置いていくなんて、許さねぇぞ!」
だが、呼んでも揺さぶっても、返事がない。ニールはオリクを仰ぎ見た。
「そうか、息吹だ! ニール、息を吹き込めろ」
「……わかった」
オリクがはっと開眼し、ニールに指示をした。息を吹き込むとはつまり……ニールは、これで駄目ならもう何をしても無駄だとばかりに、思いきりよくジョーの唇に自分のそれを重ねた。ふうっと土笛を鳴らすかのようにして空気を送り込んでやると、腕を置いていた肩が跳ね、ジョーは咳き込み始めた。ニールは、体を横にして咳と呼吸を繰り返すジョーの背をさすってやった。
「よかった! お前、大丈夫か? ゆっくり息を……」
「どうして……どうして僕を呼び戻したりしたんだ! なぜあのまま眠らせておいてくれなかった!? 僕は……」
「っ、この、馬鹿野郎! 目が覚めてすぐ言うべきことがそれかよ!? どれだけ心配したと思ってやがるんだ!! 俺がどれだけ…………。置いていきやがって、馬鹿野郎……」
「ニール……どうしてそこまで僕のことを?」
「お前が好きだからだよ! 俺の側にいろって言っただろ、あれは、あれは俺の女になれって意味だ!」
「えっ……ええっ?」
「返事は!?」
「は、はい……」
ニールが真っ赤になってそう叫ぶと、ジョーはそれよりももっと顔を赤くして小さく言葉を返した。そして、黒い双眸からポロポロと涙をこぼし、しゃくりあげてニールの胸に飛び込んだ。ニールは、
ジョーがようやく見せた弱さを抱きしめ、泣き止むまで背中をさすってやった。そんな初々しくほほえましい二人を、大人たちはそっと気配を殺して見守るのだった。
ようやく落ち着きを取り戻したジョーは、ニールから受け取った金剛石をロランの首にかけた。ニールが苦々しげに言う。
「そいつも、生き返るのかよ?」
「いいや。金剛石は彼を認めはしたけれど、今は拒絶している。ロランは生き返らない」
「このまま、氷の割れ目に葬るのが良かろう。金剛石の輝きが、凍土を暖め、風を止めてくれるであろう」
オリクの言葉にジョーは頷いた。レムとシトーが深い割れ目まで遺体を運び、縁から滑らせるようにして落とすと、ロランの姿はすぐに見えなくなった。
「さよなら、ロラン……」
ジョーの苦しげな決別には、今までの様々な出来事への思いがこもっていたのに違いない。ひとりそっと裂け目を見下ろすようにして立ち、しばらく黙って佇んでいた。やがて、ゆるゆると振り向いたジョーは、よく通る静かな声でオリクたちに呼びかけた。
「さあ、行こう。魔王のところへ。ここからは僕が案内してあげる。ニール、手を」
「へ? あ、ああ」
「……我々も同行して良いものだろうか? 足手まといならここで待とう」
「オリク様、あなたにも知る権利が……いや、知らなきゃいけないんだ。そして忘れないよう語り継いでほしい、世界の、真実を」
少女の発する言葉に男たちは息を呑んだ。薄く微笑むその姿はまるで別人のように妖艶で、ぞくぞくと背筋が震える。魔王、そして世界の真実とはいったい何なのだろうかと、聖堂騎士たちは胸中で問い、賢人は深く考え込むように目を閉じた。
「ジョー……?」
どこかぼんやりした様子を見せるジョーの意識を手繰り寄せるかのように、ニールは思わず呼びかけていた。どうしても不安がつきまとう。それはジョーが姿を変えたときからずっと、意識の隅で思い悩んでいたことだった。
「お前、ジョー、だよな……?」
「…………ニール。僕は、僕だよ。師匠がくれた名で呼んでくれて、ありがとう、嬉しかった……。僕は、ジョーだよ。ジョーでいて、いいんだよね? ニールの隣にいても、許されるんだよね?」
「ああ、当たり前だろ! さっさと終わらせちまおうぜ!」
いつも通りの無表情を少しだけ緩めて、ありがとうとジョーは言う。ニールはその肩を力強く抱き寄せ、笑って見せた。まるで、そうすることで少しでも不安が消えるかのように。
「全部終わらせて、一緒に帰ろう!」
「うん。今度こそ、一緒に」