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決着 上

 二頭立てのヤックゥの牽く車を奪い、ロランとアレクスは凍土を進んでいた。ロランが吹雪を脇へ追いやるかのように腕を振ると、はるか彼方の、国の果ての壁まで見渡せるほどに視界が冴え渡った。足元も乾き、命を脅かすほどの冷えが嘘のように引いてしまっている。


「兄貴……」

「何も聞くな」


 アレクスのかすかな怯えを感じ取り、ロランは無表情に言い捨てた。あまりにも並外れた力である。アルファラでアダマンタイトを手に入れてから、湧き上がる暴力的なまでの活力と怒り、憎悪。それらを抑えるのは、いっそ身を任せてしまった方が楽に思えるほどの苦行だった。内なる声が「もっと力を寄越せ!」と渇望するのを御しながら、アダマンタイトを捜し求め、ようやく手に入れた。すると今度は逆に無風の湖面のように静まり返ってしまった。これでは落ち着かないどころではない。すべてに心を動かされなくなってしまったのだ。


 贅を尽くした食事を口にしても、極上の美酒だと差し出された杯を空けても、全く酔えない。女も抱いた、賭け事にも手を出した、どうしようもないクズ共をなます斬りにもした。それでも心が動かない。高揚しない。平坦になってしまった心とは反対に、あふれ出す力は勢いを増していた。それを望まないにも拘わらずだ。だが、リリアンヌのことを考えるときだけは以前のようにふつふつと滾るものがあった。そしてそれは非常に心地よかった。


 リリアンヌを泣かせたい、犯したい、滅茶苦茶に引き裂いて赤い血の華を咲かせてやりたい。あの少女を灼けた鉄杭で刺し貫いたらと想像するだけで心が躍り、幻想の裡に悲鳴を聞いては無聊を慰めた。


 だが、まさか、長年の友人であるガストンの死にすら動揺しないとは……。さすがのロランもそこまでとは思っていなかった。大地に(たお)れ無念そうに顔を歪めていた親友の姿に、彼の無残な死に様に、ロランの心臓は何の異常もみせなかった。動悸も息苦しさもなく……。


 ただただ、どうでも良かった。


 獣のような生き方をしてきたロランであっても、そんな自分に恥じ入る、わずかながらの人間性は持ち合わせていた。だからこそあのとき、あの広場から逃げてきたのである。すぐ目の前に、あれほど求めていた獲物が、リリアンヌがいたというのに。


 ロランは無言のまま車を走らせ続けた。廃棄された街や村を抜け、まっすぐに壁を目指して進んでいく。鞭打たれたヤックゥたちは、障害物もない道をまるで風のような速さで駆け抜ける。一心不乱に、後のことなど何も考えていないかのような疾走だった。この強行はいったい何のためであろうか、死んだ仲間を葬るためだろうか、それとも……。


 アレクスが抱きかかえているダンの体は強張り、今朝まで生きて、笑って、温かな血を通わせていたとは信じられないほどだった。風の唸る声だけが聞こえる。それはいかにも鎮魂歌のような、物悲しさを秘めているようにアレクスには思えるのだった。


 やがて、二人の旅は唐突に終わった。休みなしで走らせてきたヤックゥの一匹が、ついに膝を折ったのだ。悲鳴を上げて前方へ投げ出されたのは残りの一匹だ。先に倒れた方はすでに絶命し、止まれぬまま滑り行く車の後方へ置き去りにされていた。ソリはヤックゥの骨を砕きながら勢いを殺し、止まった。


「……チッ。アレクス、無事か?」

「あ、ああ。大丈夫だ……。兄貴は?」

「こっちは心配ない」


 聖火国と凍土の境である三重の壁のすぐ側でのことだった。人々の安寧を守護してきた高い壁は、それを越える山のように大きな氷の巨像によっていとも容易く破壊され、無惨な口を開けている。冷たい空気が絶えず流れ込むその穴から外を覗けば、濃霧のような細かい雪が常に舞い、彼方にもう一つの破壊された壁、見えはしないがさらにその奥にも分厚い、要塞のような壁があるのだ。だが、それも今や何の意味もない。


「寒いな……」


 凍土から吹き寄せる風に晒されて、アレクスは急に寒気を覚えた。ロランの側にいれば、芯から凍えるということはないのだが、荒涼とした景色のせいだろうか、取り残されたかのようなひどく不安定な心地がするのだった。ロランはソリから荷物を取り出すと、「どこか夜を明かせる場所を探すぞ」と言った。


 運良く見つけた、三方に壁が残った場所の瓦礫をどけ、火を焚いた。味も素っ気も感じない乾燥した食料を、調理する手間すら億劫に感じてそのまま齧っていた。アレクスはダンを横に座らせ、壁にもたせ掛けてやると、がっくりと首を折っている彼の、その髪の毛まで丁寧に整え、梳いてやっていた。


「ああ、ダンの毛布を替えてやらなけりゃ……。それに、服も……。朝が来たら体を拭いて、着替えさせてやるからな」


 まるで恋人にでも囁くように、甘く優しい言葉で亡骸に話しかけるアレクス。ロランはそれをぼんやりと眺めていたが、急にぱちりと目を開いた。つんざくような風の悲鳴に耳を澄ませると、それに混じって獣の咆哮が聞こえる。超人的な身体能力を得たロランだからこそ聞き取れた、かすかなものだった。ロランは立ち上がり、アレクスの名を呼んだ。


「これを、持っておけ」

「兄貴、これは……。いや、駄目だ。受け取れねぇ。そりゃアルファラで見つけたお宝だろう。俺に託してどうする気だよ」

「いいから。これはただの宝じゃねえ。オレがお前から離れても、これさえ持ってりゃ寒さから身を守れる。ダンによろしく言っといてくれ」

「兄貴……?」

「くく……、追いかけてきやがった」


 ロランの口の端が大きく吊り上がる。凶悪な笑みが表すのはただひとつ、彼の歪みきった情熱を向ける相手の接近である。白百合の蕾のように固く閉じきった痩身から強く匂い立つ背徳的な色香。春に愛された、陽光のような金の髪に包まれた美しく繊細なその姿と、濁りきったドブのような死んだ目がアンバランスに嗜虐心を刺激する。けっして笑みを浮かべることのない薄い唇、虚ろなそれに相応しいのは死者に捧げられる色褪せた花だけだ。


 不意に一陣の風が吹いたかと思うと、ロランの頬が縦に裂け、血飛沫が舞った。ロランは動じることなく崩れそうな壁を見上げる。そうだ、彼には予測できていた。半歩体を退げることで致命的な一撃を避けたのだ。アレクスは壁から剥がれ落ちた煉瓦の欠片が音を立てるまで、それに気づくことはできなかった。彼らの頭上には男の格好をした小柄な人影がしゃがみこんでいる。こぼれた金髪は月の光を反射して真白く、無表情な小さな顔は首に巻かれた布のせいで見えにくい。だが。こちらを冷たく見下ろしていたその白い顔から、ちらりと紅い舌が覗くと、ゆっくりと見せつけるように手にしたナイフを舐め上げた。ぞくりと、アレクスの背を甘く淫靡な悪寒が駆け抜ける。


白百合(リリィ)……!」

「……決着を」


 強い意志を秘めた声だった。そのひと言だけですべてが伝わる。そこにはもう、弱々しい、生気のない表情の子どもはいなかった。血に飢えた美しい獣が戦いを求めて牙の並んだ口を開いて待っているのみ。ロランは凍土へと顎をしゃくった。百合の名を持つ少女は軽い音を立てて月光に体を躍らせると、またも風のように走った。生命の絶えた地、凍土へ向かって。

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