シトー、病床にて
外典の者たち……。
シトーの祖母は、彼の枕元で夜毎に昔話をしてくれたものだった。多くは聖典にまつわる物語で、中でも強く記憶に残っているのがヒト族すべての敵である“誘惑者”についてだ。その者たちは力を追い求め過ぎた余り、聖典に書かれていないやり方で自らを強化する方法に辿りついた。そしてありとあらゆる悪徳を成したのだと言う。その代償として肉体を失ったのだと。だからこそ彼らは求めている。新しい依り代を。
その話を聞いたとき、少年だったシトーは他の者が寝静まっても眠ることができずに、震えて過ごした。いつ何時、その亡霊のような者たちが訪ねてこないか、締め切ったよろい戸を叩く音が聞こえてこないかと。
暗い暗い、水底のような黒い瞳は凶事を招く不吉なもの。その身に纏う陰の気はひどく淀んで死の臭いがする。彼らは女やこどものようなか弱いものの姿を借りてやってくる。そして囁くのだ。
『力が欲しいか?』と。
その声に耳を傾ければ、待つのは破滅だ。心を蝕まれ、魂は砕かれる。そうすると“永遠の円環”に迎え入れられることができなくなってしまうのだ。尊い巡りは破断される。そして憐れな犠牲者は安らげることなく、すべては凍土の下の泥に沈んでいくのみだ。これほど惨めで救いのない終わりがあるだろうか。これほどの絶望と悲しみがあるだろうか。世の人々は、死が終わりではないことにこそ生きていく希望を見出していると言うのに。
幼い頃から聖典と炎への祈りを欠かさない、心根の真っ直ぐな少年にとって“誘惑者”の物語は恐れを掻き立て、彼のあり方を変えてしまうものだった。シトーは聖典に従わない者を憎み、外典の者を見つけたら即座に捕らえることができる様、常に気を配るようになった。それは成長し、聖堂に仕える騎士になっても変わらなかった。
だから、ジョーに出会ったときにはすぐにその小さな体に染み付いた魔の気配に気がついた。濃い魔力とうっすらと漂う死の臭い……。年に不相応に大人びた態度、血の通わない白い膚、そして何よりあの黒い瞳が気に入らない!! 白と黒、聖典を表す色であるそれらは尊いとされ、普通なら喜ばれるものだが、黒い瞳だけは違う。それは祖母が言っていた外典の者の印なのだ。無感動で、生きることが苦痛だと訴えかけているような目をして、そのくせいつも誰かに擦り寄るようにして立ってるジョー。シトーは自分自身もまた無表情でありながら、考えが読めないあの少年を心底嫌った。
それが和らいだのは、おそらくあの二弦楽器の音を聞いてからだろう。ジョーの奏でる曲は優しく甘く、郷愁を誘った。楽のしらべは心を映すと言う。ならば、あの淀んだ目をした少年はその内側に、何とも繊細で美しいものを宿しているというのだろうか、と。
監視を続けても、ジョーは尻尾を見せなかった。それどころか魔王討伐には積極的な姿勢を見せたくらいだ。宝珠を求めて遠征したときには寒さに震えていた姿に庇護欲をくすぐられた。そして、うちひしがれた泣き顔を見たとき、シトーは完全に彼を許した。
ーーこの少年は、悪ではない。
駐屯地に置き去りにせざるを得なかった仲間を救うため、賢人オリクに直訴したと聞いたときには驚いたが、それよりも安堵と喜びが勝った。やはり、自分の判断は間違っていなかったと思った。カダルの屋敷に飛び込んでいったと知り、追いかけた。
そして秘密を知った。知ってしまった。憎たらしい仮面を取り去ったそこには、弱々しい少女がいた。
眼帯の男の不意打ちを受け、シトーは前後不覚に陥った。何度か意識が浮かび上がっても、またすぐに沈んでしまう。時間の流れも分からぬまま、何を口にしたかも、誰と会ったのかも……。彼の脳裏にあったのは泣いている少女の姿だけ。
幻影のジョーは何度も何度も、シトーに呼び掛けていた。「死なないで」「目を覚まして」と。だから、柔らかい手の少し冷たい感触と、体内をまさぐられる違和感とで覚醒したとき、耳に入ってきた優しい声と眩い金の髪に何年も夢想してきた女性の体現だと思った。聖女アリステア、国のためにその身を捧げた古の乙女である。
感謝の言葉を捧げたとき、ジョーは驚いたような、はにかんだような表情でシトーを見返してきた。淡い金髪に縁取られた白い貌、小さな唇。黒い瞳だけは輝きの失せた黒曜石のようだったが、シトーはもう嫌悪を抱くことはなかった。レムの手により彼女は乱暴に連れ出され、戻ってくることはなかった。
代わりに、レムがやってきた。目覚めてすぐに身を清め、食事を摂っていたシトーに、レムは労りの言葉をかける。核心に触れようとはせず、遠まわしに観察されているようなやり口に、シトーは居心地の悪さを覚えた。
「あの男は捕まえましたか」
「……あの男って?」
「おれが地下で逃した、眼帯の男です。宝珠は奴が持っている」
「…………」
「レム?」
シトーが長く補佐してきたこの男が、こんなにも歯切れが悪そうにしているところは今まで見たことがなかった。シトーは彼と違って口が回るほうではないが、それでも懸命に訴えかけた。
「ジョーは、いえ、聖女はどこに? おれは今までの非礼を詫びて、もう一度きちんと礼をしなければならないんです。宝珠は聖女の物だ、まだあの男が見つかっていないなら、おれが探しに行きます。行かせてください」
「……だめだ。まだ本調子じゃないだろう」
「しかし……!」
「許可が下りるまで寝ていろ」
「はっ!」
シトーは普段通りの返事をしたが、内心では不満だった。それでも上司の言葉に逆らうことはしない。そんな彼の態度をどう思ったか、レムは溜め息を吐いてぽつぽつと事情を語り始めた。それは正誤があべこべの、どう捉えてよいか分からないもので、シトーは反駁せずにはいられなかった。
「何故! 勇者アディだろうが何だろうが、奴が宝珠を奪ったのに間違いはない。それなのにジョーが盗んだことになっているとは! しかも“魔女”だなんて言いがかりだ、アディに引き渡したりなぞしたら、今度こそ殺されてしまう……!」
「……もう、決まったことだ。明朝には連れて行かなきゃならない」
「堂主様にお会いしたい!」
「無駄だよ。あの娘は、あまりにも……派手にやりすぎた。それにシトー、お前の態度だって“魔女”疑惑に一役買ってるんだよ」
「どういう意味です?」
「目覚める前と態度が違いすぎて、心を操られてるんじゃないかと思われている。わたしもそう思った。あの娘は……危険だし、どこか人心を惑わせるようなところがあるしね」
レムは困ったような笑顔を浮かべていた。それは彼自身も迷って判断がつかないときに見せる表情だ。シトーは黙って続きを待った。
「勇者殿が怪しいのは知っている。かまかけに反応したところから、まず間違いない。証拠は出なかったから、わたしとしては堂主様を支持する他ないが、ジョーの言うことが確かなら、アディを追い詰められるかもしれない。とにかく、お前さんがいきり立たなくたってあの娘を助けようとする仲間はとっくに揃っているということさ」
「それはつまり、おれは必要ないということですか」
「そうなるね。……ただ、もうここにいる必要はないから、自室待機を命じよう。明日は一日休みだ、好きにしなさい。ただし、いつ指令が下ってもいいように武器と防具だけは新しい物を受け取って整備して置くように」
「……ありがとうございます!」
「うまくやるんだよ、いいね」
「はっ!」
「いやいや、そういうの、いいから」
敬礼するシトーに手を振り、レムは頭を掻きながら部屋を出て行ったのだった。
★レムさんの優柔不断★
レム「う~ん、どうしようかなぁ」
シトー「まだ悩んでるんですか」
レム「うん。だってね、A定食の魚の酢漬けも美味しそうだし、B定食のハムたっぷりのサンドも美味しそうじゃない?」
シトー「おれなら両方食います」
レム「この年じゃ両方はキツイっていうか……むしろ定食は両方頼むもんじゃないよね? せめてハムサンドは単品で頼もうよ」
シトー「早く決めないと休憩時間なくなりますよ」
レム「う~ん。オススメ聞いてこようかなぁ」
シトー「(あのオバチャンはいつ聞いても『お好み焼き(意訳)』としか言わない……)」
レム「決まったよ。『お好み焼き(意訳)』にする」
シトー「(やっぱり……)」