羽化のとき 下
ニールは私を床に叩き落とすと、すぐに寝台からリリアンヌを抱き起こした。リリアンヌは術が解けている、もし気が変わって逃げられたりしたら…………なんて、逃がさないけどね! 私はまずリリアンヌの体を操って部屋の戸を閉じ、音も漏れないようにしっかりと術をかけた。
「ジョー、ジョー、しっかりしろ」
『リリアンヌに触るな、ゴミ!!』
「とっととズラかるぞ」
私の声はこの下等生物には届かない。それでも叫ばずにはいられなかった。この汚物にリリアンヌの指一本でも触れさせるなんて我慢ならなかったが、それだけで確実に葬れるのだ、多少は目こぼししてやる。
『原初の黒き流れよ、大いなる母よ、今ここに贄を捧げん……。彼の者の心の臓を穿ち、その流れをとどめたまえ! いさ、【死蝕】!!』
「やめて! やめてよ、ニールにひどいことしないで!!」
リリアンヌは私の黒術に抵抗し、左腕をニールから遠ざけようとした。
『邪魔しないで! ズレたらそいつ殺せないでしょ!?』
「嫌だ! D、お願いだから止まって!!」
『うるさい、黙れ!!』
「な、なんなんだよ、いったい……」
リリアンヌがしゃくりあげるのも構わず、その体を使ってニールに迫る。派手な術じゃ私自身も巻き込んでしまう、この方法しかなかった。ちょっとでも触れれば死ぬのだ、さっさと殺してしまいたい。リリアンヌの意思で「契約したい」と口にした、それだけで半分は終わっているというのに……!
『オマエさえ、オマエさえいなければぁぁぁ!!』
リリアンヌの体を寝台から転がすようにして床に落とし、私は自分の本体をニールの視線から隠した。そのまま、いつでも飛びかかれるよう体勢を整える。
「逃げて、ニール! きみを傷つけたくない!」
「ジョー、お前、操られてるのか!」
『わかったところで、どうにもできるもんか! 死ね、ニール!』
「だめぇっ!!」
瞬間、視界が暗転した。
「ぅあっ!!」
『くそっ、術を同時に……!?』
私の術を止めようと、リリアンヌは足りない頭で必死に考えたのだろう。自分の体が傷つくというのに、反対の属性の気を体に導いた。反発しあった二つの気は、リリアンヌの体を巡ってその柔肉を内側から引っ掻いた。用意していた術の力量を殺しきれず、リリアンヌは派手に壁に叩きつけられ、動かなくなってしまった。
『チッ、このグズが! まあいい、焼き切れようが構うものか。どうせすぐに修復できる。まずはあの餓鬼を……っ!?』
ふと影が差した。私を覗き込む男の顔。憎くて憎くてたまらない、今一番殺したい相手だ。
『ニールゥゥゥゥ!!』
「この本が原因……だな。さっきから、妙だったんだよ」
『おい、やめろ、私に触れるな!! リリアンヌ、リリアンヌーっ!!』
まさか私をそのちゃちなナイフで刺そうとでも言うのか、低能下等生物の汚い雄餓鬼の分際で!! ふざけるな! そんなことが許されるはずがない! おいよせ、近づくな!! くだらないことを考えつきやがって、この私の価値が分からないのか? おい、冗談だろう……くそ、これだから思念波も受け取れない失敗作共はっ。そのナイフ、私に刺す前にオマエの友人だという女に刺さるぞ。リリアンヌは私を助ける。絶対にだ。
『リリアンヌ、早く起き上がって私を助けなさい! 今ならニールを見逃してあげる! リリ…………まさか。嘘でしょう? 起き上がって! 気絶してる場合じゃないんだよ、早く、早く起きろ!』
術で覚醒を促すが、反応があまりにも鈍い。もしやあのとき頭を……?
『よせ……! よせよせ、やめろ! ……お願い、お願いだから、リリアンヌ! 嫌だっ、助けて、死にたくないっ!!』
迫り来る刃先を、どうすることもできない。術が、導けない。
『そんなバカな、私が、私がぁぁぁあああ!?』
表紙に嵌まった大きめの玉に銀のナイフが亀裂を入れたとき。それが私の終焉。永遠を約束されたはずの私の、それが終焉だった。最期はあまりにもあっけなく。私の抵抗や懇願や未練にまったく耳を貸さない野蛮な者の手によって。乾いた音と共に幕を下ろしたのだった。
* * * * * * * * * * *
「あああああああっ!!」
「ジョー!?」
本を掴んだニールがその背にナイフを束まで埋め込むと、なぜかそれに呼応するように絶叫したのはジョーだった。まるで胎児のように体を折り曲げて、女のように高い声で泣いていた。ニールは念のためにとナイフを引きながら本の傷を広げ、それがもう微塵も動かないことを確かめるや、ジョーへと近づいた。
「大丈夫か……? な、なんだ……?」
床にうずくまる友人に手を伸ばそうとして、ニールは狼狽えた。小さな頭を覆っていたクセのある黒髪は、今や黄金の輝きに変わっていた。まるであふれ出す泉のように、さらさらと絹のような音を立てて床を覆う髪の毛。ニールはそれを踏んでしまわないように後退りした。
「うう……、痛い……! 痛いよぅ……」
苦しげな呻きと嗚咽。ジョーは自分の体を抱きしめて泣いていた。どこが痛むのか、そう尋ねようとしてニールは黙った。ジョーの体が大きくなっていっていると錯覚する。いや、実際にその体は成長していた。髪は伸び、骨は軋みを上げ、着ていた簡素な衣服は縫い目から裂けてただの布へと変わってしまった。ひと際大きく悲鳴を漏らして、その少女は背を反らして天井を向いた。
「あ…………」
ニールは思わず感嘆の溜め息を漏らしていた。死蝋のようだった肌はその下に熱い血潮を湛えて色づいている。肋骨の浮く胸にあるささやかな膨らみは片手だけで覆ってしまえそうなほどだ。手のひらで押し潰せばとても柔らかいに違いない。その先端はまだまだ未成熟で、色もまったくついていないのかと見紛うほどの薄紅色だ。呼吸に合わせてふるりと揺れる、若い果実の下には金色の流れに沈む細い腰、しっとりとした太もも、そこに滴るひと筋の赤い流れに気づき、ニールは目を背けた。
「あ、ま、待ってろ……」
寝台から敷布を引っ剥がし、ジョーの裸身を覆ってやる。年頃の少年である彼に、じろじろ見るなというのも酷な話だろう。敷布に覆われてもまだ隙間から見えてしまう白い肌に、ニールの心臓は煩く音を立てていた。
(くそ、こいつ、本当に女だったのかよ……)
弟だと思っていた少年が、まるで蝶が羽化するようにして変身を遂げてしまった。その急激な変化に戸惑いつつも、ニールはなぜかそれを好意的に受け止めている自分に気がついた。色々な出来事が連続して起こり、感覚が麻痺していたのかもしれない。なんと声をかけて良いものかと思案しながら、ニールは少女の正面に膝をつき、項垂れて啜り泣いているその肩に手を乗せた。
「ひどい……」
「え?」
「ひどいよ! Dが、Dが……! どうしてDを殺したの!? ……もう、どうしたらいいのか、わからない。ああ、僕はまた、独りぼっちだ!」
ジョーの悲痛な叫びに、ニールは思わずその細い体を抱きしめていた。さらさらの髪の毛はまるで上等の布のようで、甘ったるい汗の匂いが彼の鼻腔をくすぐる。
「俺がいるだろ!」
「っ……」
「フィーもサムも。イレーヌも待ってる」
「イレーヌは死んだ!」
「死んでない。助け出されてたんだ、無事だったよ。みんな、お前を待ってる」
「ぁ…………」
あまりにも軽くて薄すぎる体の、どこにそんな力を秘めていたのか、ジョーはニールの首に手を回すと、ぎゅっと抱きついた。かすれた声で泣き続けるジョーを抱きしめ、ニールはその背中を撫でてやったのだった。泣きやむまで。ずっと。