深い闇
苦しい……。
嫌だ…………。
『苦しいかぁ? ははははは、もっと苦しめ、泣いて見せろ』
もう許して……。
私の上に馬乗りになったロランが、首をぐいぐい締めてくる。にやにや笑いながら、両手で私の首を包み込んでくる。息が苦しい。もがいても、もがいても、どこにも掴まるものがなかった。
『ほら、ほら! どうした? 死ぬのか?』
死にたくない……。
『赦しを乞え!! お前のしたことを、忘れるな!』
ごめんなさい。ごめんなさい。許して……!
「ごめんなさい……。っく、許して……」
揺すぶられている。やめて。嫌だ。
「これ、どうした? ジョー、ジョー?」
「ころさないで……」
「こりゃあいったい……。ほら、目を覚ますんじゃ」
誰かが私に覆い被さるようにしているのが目に入り、私は思わず叫んでしまった。もう見つかってしまった! 終わりだ! とにかく助けを呼ぼうと喉から声を絞り出す。
「これ、やめんか!」
「ん~! んん~!」
口を塞がれてしまった。早く、はやくナイフを……!
「いかん、【鎮静】、【温身】」
「………………」
あたたかい……。
それに、優しい……。
流れ込んでくる温かさに、体に変に入っていた力が抜けていくのが分かった。
「大丈夫か? 魘されておったぞ」
「し、しょう……?」
茶色の優しい目が私を覗き込んでいた。師匠だ。もう朝かな?
その時、誰かが唸って身動ぎするのが聞こえて、私も師匠も息を潜めた。そのひとはどうやらまた眠りについたらしい。ほっと息をつくと、師匠が「中庭に出よう」とささやく。私は寝藁の中のブーツを取り出し、裸足でついて行った。
真っ暗な中を手探りで歩くのは怖いと思っていたのだけれど、師匠が一言呟くと、その右手に明かりが宿った。私がびっくりしていると、師匠は口に指を当てて静かにするよう示した。ギシギシ言う階段を、騙し騙し下りて中庭に出た。ぼんやりとした暗闇。夜明けが近いのかもしれない。
「なぁ、ジョー」
「はい」
「今まで詮索せなんだが、お前はいったい何に追われておるんじゃ。何をそんなに恐れておるんじゃ」
「……」
「名もない、帰る場所もない。お前はどこに行くんじゃ」
「……」
「なぁ、ジョー」
師匠は痩せた体を曲げて、私の目を覗き込んだ。
「ワシが守ってやろう。どれ、話してみんか?」
優しい声が耳を撫でる。
限界だった。本当は誰かに話したくて、聞いてほしくて、安心させてもらいたかった。でも、巻き込むわけにいかなかったから。私は捕まれば裁かれるし、私なんかを庇ったら、そのひともどうなるか分からない。だから、黙っておくのが一番良い方法なんだ、って……。
黙ったままの私を、師匠は待ってくれた。ずっと頭を撫でていてくれた。どのくらいそうしていたのか分からなかった。
「長い話になるよ……」
「構わんとも」
ポツリポツリ、軒場の雨垂れのように、私は最初から話し始めた。父様、母様が亡くなった事故から、叔父の家でお荷物のように扱われ閉じ込められてきたこと。国王の命令で魔王を倒すために遣わされたこと。乱暴されそうになって逃げてきたこと……。
全てを話し終えたときには、もう白々と夜が明けていた。
「難儀な……。辛かったろう」
「ん……」
辛いってよく分からないや。
「お前さんが、どうしてそんなに感情を殺しておるのか、それが分かってしまったわい」
「感情を、ころす?」
「そうじゃ。お前さんには表情がないもの」
そんな事はない、はずだ。
私だって泣くことくらいある。
「こんな子どもに、魔王を倒してこいなんての。……酷すぎるわい」
「!」
「まだまだ守られてなくちゃならん歳じゃのに」
「………」
トントンと、背中を叩かれる。
「もう、ひとりじゃあないぞ」
「……っく、ひっく、ふぇ」
鼻の奥がつんとして、温かいものが目から溢れだしてくる。
ひとりじゃない……。
それはすごく素敵な言葉だった。
私は師匠にぎゅっと抱きついてバカみたいに泣いた。凍っていた心臓が、また動き出したような、そんな気持ちだった。両親が私だけを置いて旅立ってしまったことや、私ばかりが辛い目に合っているのじゃないかって家を追い出されてからの短い間に何度も何度も考えたこと。胸が痛くて痛くて仕方なかったこと……。それらがすっかり流れてしまうまで、温かさに縋っていた。
でも、ずっとこうしているわけにもいかない。しばらくして私は身を離して涙を拭いた。
「よしよし。おお、泣き止んだなぁ」
「ありがと、師匠」
「しかしお前さんが娘だったとはなぁ! ワシの目も曇ったもんじゃ。ワシの目はなぁ、直観でものを見通すことが出来るんじゃ。じゃが、お前さんは見た目は完全に男子じゃし?」
「…………」
「何より、お前さんの内には陰と陽、両方の気が流れておるんじゃ。稀なことじゃ」
「……?」
「古の血を受け継ぎし者……お前さんには魔術を操る才があるの」
「私が?」
「そうじゃよ」
唐突な話で、よく分からない。師匠の言う魔術とやらは、師匠の使う妙な呪いの事だろうか。
「それって強くなれますか?」
「なれるなれる」
「魔王も倒せる?」
「ん~~? 魔王じゃと? あれはどうにもならん」
「えっ?」
「えらく力をつけておる、氷の魔王じゃろ? 魔王は倒せん。いや、倒せはするが殺せんのじゃ。あれに触れてはならん。なんぴともじゃ」
魔王は殺せない……?
なら、今まで送られた戦士は、皆、何のために死んでいったのか。
私は?
挑むのか。無理だと分かっていながら?
「氷の魔王って、もし、もし倒せたら、何かが変わりますか?」
声が震える。
これで何も変わらないと言われたら、私はどうすれば…? 何を支えとして生きていけばいい?
「ふむ。氷の魔王を止められたら、か。そりゃあ、大地の氷は溶け去り、魔物は数を減らすじゃろうの……」
「なら、なら無意味じゃないんですね!?」
「ん? まあ、そうとも言うの。さて、魔法じゃが、お前さんが望むなら教えよう」
「教えて!」
「ひ、ひ、ひ。よしきた! しかし、その魔法はお前さんが幸せになるために使うんじゃぞ? 誰にも虐げられんよう、邪魔されんようになぁ」
「………」
「さぁ、まずは朝めしでもいただこうて。今日も仕事じゃし」
師匠は私に背を向けて中に入ろうとした。
「師匠。私、魔王を倒したい」
「いま、何と……?」
「私が、魔王を倒します」
師匠は黙っていた。
反対されるのだろうか。
でも、師匠の反応は思っていたのとは違った。
「お、おお、アリステア様……!」
「師匠?」
「尊き御方よ、貴女様が民のことを思われる気持ちはよくわかりますぞ。ですが、かの魔王を倒すことが出来るのは、男だけ。私めが探して参りましょうぞ」
師匠は跪いて私の手を取った。私を見つめるその目は潤んで見える。だが、私にとってこの人は師匠じゃない。知らない人だ。
私は曖昧に微笑んだ。
他にどうしたら良いか分からなかったからだ。
師匠の心はどこかに旅立ってしまっている。
ただ、一つだけ、分かった事があった。
『魔王は男にしか倒せない』
……私は、どうしたら良い?