宝珠の護り手 中
ジョーとニールを追って階段を駆け下りていたシトーは、あと少しのところでそれを逃がし、盛大に舌打ちした。階段は氷に邪魔され、これ以上は下に降りられない。陽の気で溶かして進むか、一度戻るか、シトーに判断が委ねられていた。
(忌々しい、外典の者め!!)
あの魔眼のこどもが階段を下り始めたとき、魔導師の娘、オフィーリアはすぐさまその後を追おうとした。レムはそれを押し留め、十名の聖堂騎士をつけてシトーを行かせたのだ。こんなところで魔導師を失うわけにはいかないという思惑と、陰の気しか持たない黒術士ではさして役に立たないだろうという見立てからであった。
順番は前後したが、それとて事に当たっては計画通りにいく方が稀だ、取り立てて気にすることではない。ただ、聖堂騎士を差し置いて先に行き、しかも後続を切り離すような妨害工作をしているとなると話は別だ。シトーはまだジョーを信じていない、あちらもそれを知っていての行動はつまり宣戦布告ということなのではないか。
「くそったれがぁっ!」
あのとき、あの広場で少年が奏でた二弦楽器の音があまりにも美しかったせいで、ほんの僅かだが警戒心を解いてしまった。シトーはそんな自分を殴ってやりたいほど腹が立っていた。裏切られたなど、そんなことは思いやしない。油断をした己の不甲斐なさが憎かった。相手は外典の輩、か弱く、美しいものを隠れ蓑にひとの心に付け入って誘惑し、不幸を撒き散らす魔の者だと言うのに!!
「氷を溶かす。第一、やれ」
「はっ!」
連れてきた部下のうち二人が前へ出、詠唱を始める。右の篭手から湯気が上り始め、ゆっくりと氷でできた斜面が水へと変わっていく。だが、それも数分と経たぬうちにシトーによって制止された。
「副長?」
「しっ……」
突き上げるような揺れを感じたシトーは、それがいったいどういう種類の物か確かめようとした。先ほどのような魔物らしき咆哮は聞こえない。だが、その一度ではなく続けて揺れが起こり、シトーは叫んだ。
「総員退避ぃ!!」
「退け、退けぇ!」
よく通る号令に最後尾から即座に引き返し始めたとき、唐突に冷気が襲いかかってきた。
――オオオォォオオオオォォォ……
「う……」
「ぐぁっ……」
それは吹きつける寒風とは違う。逆だ、体の温もりも、呼吸するための空気も、命すら、すべて持っていかれそうな、吸われる感覚。シトーは咄嗟に陽の気を体に流して踏み留まった。反応が遅れたか耐え切れなかったか、二人ほど音を立てて膝から崩れ落ちる。残る者も即座に動けるようになったのは半数ほどで、シトーはとにかく退避を急がせた。
「隊長に退くよう伝えろ、狼よりこちらの方がマズイ!」
「……はっ」
「おい、しっかりしろ。立て!」
項垂れていた聖堂騎士にはまだ息があった。死んでいなければやりようはある。シトーは白術で同輩の体を温めると、文字通り尻を蹴飛ばして立ち上がらせた。部下に発破をかけつつ階段を駆け上るシトー、だが、彼ら全員が地下への狭い口から逃げ延びる前に轟音と揺れがひと際高まった。
一方、地上のレムも地下の蠢動を感じ、事態に備えるよう十名の部下に申し渡した。また、交錯する笛の音から、魔狼の群れはまだ囲みを破っておらず、危なげなく戦っていることを確かめている。ただ、気がかりなのは……。
「私もここにいるわ!」
「フィー、頼むから……」
「私の【障壁】なしで戦うつもりなの? そんなこと無茶よ!」
オフィーリアの言う通りだった。彼女の力なしにこの作戦を続けることはできない。
宝珠が眠る場所までの地図もなく、おそらく低級の魔物が跋扈しているであろうと予測された。それらの動きを鈍らせるために張ってもらった結界が、魔狼の群れの押さえにも役に立っている。それに、彼女の【障壁】は精度が高い。なくてはならないものだ。特に、聖堂騎士でもないただの戦士であるサムにとっては【障壁】の有無は生死を分ける。
だが、この地下の魔物は最初に考えていたよりも厄介そうである。魔狼の処理を優先し、彼女だけでも逃がすこともあるかもしれない。聖堂騎士がここで全滅するのは構わない、だが、聖火国の希望の象徴となっている魔導師オフィーリアを失うことは許されないのだ。
レムは懐から取り出した笛を吹き、彼の家族同然であるヤックゥを呼んだ。笛の音のかすかな違いを聞き分けて駆けてくるのは、産まれ落ちた頃から面倒を見て育て上げたバルだけだ。この賢い雌のヤックゥなら、オフィーリアを背に乗せて大聖堂まで走り抜けることができるだろう。
「魔導師殿、今、私のヤックゥを呼びました。私が逃げろと言ったら、必ず従ってください。でなければ、気絶させてでもここから運び出しますよ」
「……わかったわ。貴方の指示に従います」
「オフィーリア!」
「危なくなったら絶対に逃げるから。無茶なんてしないわ」
「……死なないでくれ、絶対に」
「ええ、もちろんよ」
身を寄せ合う恋人たち、その姿から、全員が礼儀的に目を逸らしたとき、地下から急を告げる警笛が聞こえてきた。盾を構え、目をやると、ひとりの聖堂騎士が祠から頭を覗かせた。
「隊長! 逃げ……」
覆面兜でくぐもったその声は、轟音に掻き消された。大地がまるで水のように噴き上げ、祠と共に聖堂騎士が馬に蹴立てられたかのような勢いで飛ばされる。凍った土砂と破壊された石材とが混然として宙に舞う。
――ヴォオオオォオォォオオオ!!!
ついさっきまで祠があった場所には、こどもが廃材を削って作ったように歪な人形が腰から上だけ出して空に向かって吼えた。
訓練された聖堂騎士たちでさえ立っていられないほどの振動。怒号。魔術で護っていなければ鼓膜はとうに破れ、脳を揺らされて気絶、もしくはそのまま死んでいたかもしれない。よもや昔話にしか出てこない、そんな夢のような魔物がこの壁の内側に眠っていたとは……! アルファラやマイヤール王都の壊滅を聞いても、どこか現実味のなさを感じていたが、目の前にしてはどうだ! 聳え立つ塔の如く、だがその存在感は山のようにどっしりとしている。レムは興奮に兜の中で舌なめずりした。
「何だ、あれは……」
「呆けてる場合かっ!」
横で戦斧を投げ出し尻餅をついている部下の頭を盾で小突く。そして後続を待たずに走り出していた。
(こんな楽しい敵を相手に、立ち止まっているとは勿体ない!! それじゃあ切り結ぶ前に死んでしまうだろうがっ)
レムの頭の中にはもう、地下へ潜った盗賊のこども二人のことも、それを追っていったシトーのことも思いやる余地はなかった。彼の脳内では残った駒をどう配置し、目の前の巨大な魔物と戦うか、それしかなかったのである。
(まずは片腕だ。全身が出る前にカタをつける!)
「第三、私に続け! 第四、左腕をひきつけろ!」
「はっ!」
「はっ!」
第四分隊の五名を囮に、第三と魔導師の協力で巨像を叩く。それがレムの作戦だった。第四分隊が戦斧や戦棍を手に巨像の左腕をレムから遠ざけるべく動き出す。
(右腕を壊し、頭か心臓の動力部分を壊せばこういう手合いは動きを止めるはずだ。そのときに何人が生き残っていようが死んでいようが、魔導師さえ生きていればどうとでもなる)
レムは戦士に支えられて座り込んでいる魔導師の姿に、一瞬失望を覚えたが、すぐにその評価を取り消した。オフィーリアは恐怖にすくんでいたわけではない、聖堂騎士たちより先んじて詠唱を始めていたのだ。それを支える戦士も油断なく目を光らせ、盾で彼女を護っていた。
(これは……。新人よりよほど肝が据わっている。いい拾い物だったかな)
「……を退けたまえ! 【拡大障壁】!!」
大きく展開される半透明の美しい膜は曇天をさえぎり円く虹を描くようだった。それも緩慢な動きで振り上げられた巨像の右腕によって破壊されようとしている。
(好機!!)
レムはほくそ笑むとオフィーリアに顔を向け直した。
「魔導師殿、右腕はどちらに逸れる?」
「……おそらく、私から見て左側に」
「聞いたか! 機を逃すなよ!」
「はっ!」
「サム、と言ったか。攻撃は考えなくていい、魔導師殿を頼んだぞ」
「……もとより、そのつもりだ」
サムは低く唸るように答えたが、言葉を発したレムはすでに聞いていなかった。サムは涙を必死で押し殺しているオフィーリアの背を撫でることもできない自分に歯噛みした。今は使い慣れた長剣と盾だけが彼女を守る頼りなのだ。どちらも手放せない。オフィーリアもまた、あふれる涙を柔らかい皮の手袋に吸い取らせ、異なる詠唱を紡ぎ始めている。ここを投げ出してジョーやニールを探しにいくわけにはいかないと分かっているからだった。死闘が幕を開けていた。