アルファラ陥落
海に面した賑やかな都市、アルファラ。代々の太守が慈しみ、育て上げてきたマイヤール国きっての豊かさを誇る街だ。だが、その終わりはあまりにも突然にやってきた。
家々に主たちが戻り、夕飯の支度に追われている頃のことだった。轟音が北から押し寄せてきて人々に恐怖をもたらした。海を見ていた者は、波が氷と固まり、急に降りだした霙と濃霧の奥に、山が迫り来るのに気づいて胆を潰したことだろう。
アルファラを陸の敵から守るために建てられた、二百フィートの壁を優に越えるその山のようなものは凍った海をゆっくりと歩いて向かってきていた。濁った氷でできた、人形のようなもの。子どもが粘土をこねて作ったように歪でありながら、その顔だけは怨嗟に満ちたおどろおどろしい精巧さであった。
その氷の巨人たちはざっと見て五十、いや、百もの数が地響きを立ててアルファラへと雪崩れこまんとしていた。だが。その巨人の行進に紅い炎が突き刺さる。空気を炙り裂く音、巨人にぶち当たったときの破裂音も凄まじく、海岸にいた槍歩兵たちは慌てて耳を塞いだ。遠くでドロリと溶けて輪郭を失うひとがたに歓声が上がるも、彼ら無力なひとの子らは次々と乗り上げる巨人に蹂躙されて命を散らした。反撃など望むべくもなかった。
アルファラの端、灯台からまるで矢のごとく俊敏に放たれるのは、それは炎の槍であろう。槍兵の抱える十フィートと同じ長さの魔槍は、氷細工のひとがたをひとつ、またひとつと水に変えていく。それでも、全ては止められない。非常事態を告げる鐘がけたたましく悲鳴をあげ、アルファラの民が逃げようとしたときには、すでに遅かった。
「おい、ゲッカ、ガイエン、こりゃマズイぜ!」
「チッ、あんなデカブツとじゃ勝負にならねぇ! ……どうする?」
「中に隠れていよう。大きな建物なら、奴らも避けて通るかもしれないだろ」
「それじゃ、オレはちょっくら外で様子を伺ってくら。この建物がヤバそうになったら叫ぶぞ」
「頼む、ジャハル」
地響きや破砕音がひっきりなしの中、警告の鐘が急に途切れた。月華の背筋が冷たい危機感に震えた時には、すぐそこまで上陸していた氷のひとがたが、その腕を振り上げていたところだった。叩きつけられた鈍重な拳が大地を、建物をいとも簡単に割る。まるで積み木の城を壊すかのように、アルファラの街は滅茶苦茶にされた。巨人は嬉しそうにかん高いきしり声を上げ、さらに貪欲に生命を刈り尽くそうと拳を地上に近づけ……だがそれは果たされなかった。白術の炎のうねりが巨人を襲い、真横から顎とも首ともつかぬ部分に突き刺さり頭部を溶かし去った。丹田に響く音を立てて、出来の悪い氷人形はまた一体、アルファラの地に沈んだ。
「ぐぅっ……!!」
仰向けに投げ出された月華の噛み締めた歯の間から、呻き声が漏れた。肋が何本か折れているが、肺に刺さってはいないようだ。月華はそう己の体の状態を把握した。すぐには死なないと決めこんで動こうとし、痛みのために頭を反らせた。
「あがっ……クソ……」
「動くな、月華……」
「あ……?」
孩焔の声がすぐ側で聞こえた。いつものように傷口に手が当てられる。だが、今回は痛みをなくす術もなしに直接骨を接がれた。月華は、乱暴な施療にさらに呻き、終わり次第殴ってやろうと孩焔を睨みつけ、絶句した。抉れた腹、這いずった跡、吐血して真っ赤な胸元。
ひと目見れば分かる。
もう手遅れだった。
いくら治癒の力があるといえ、破れた腹からこぼれてしまった臓物を、千切れた部分もあるそれらを、治すには時間が足りない。孩焔は残った時間を、魔力を、月華の傷を治すことに使ったのだ。
それでも、月華は、言わずにはおれなかった。
「何やってんだ、ひとの心配してる場合かよ」
「無駄、だ……。お前、だけでも……」
「馬鹿野郎、いいから、自分の体を治せよ」
「…………」
「よせ、孩焔。オレ様はシン族だぞ、オレ様のことはいい、早くその腹……」
「生き、ろ、月華……。生きて……俺の子を、産んで、く、れ……」
「何言って……孩焔、孩焔!」
孩焔の震える手が、一度だけ力強く月華の腕を掴んだ。ふっと笑みをこぼしたかと思うと、身勝手な男はガクリと力を失って、そのまま息絶えた。笑ったままの死に顔の、薄く開いている目を閉じさせてやると、まるで眠っているようにも見える。月華は少しの間だけ瞑目した。
そして彼の首に下がっていた御守りを引きちぎり、乱暴に自分の首に結び直した。父の形見であるそれを、遠い昔に孩焔の首にかけてやったのは月華だ。シン族の支配する領域で、行き倒れになっていた父子を見つけたのが月華だったのだ。父親は死んでいたが、五つにも満たない子どもは生きていた。捨て置かれるはずだった少年を介抱し群れに加えたのは月華の兄で、孩焔という名を与えられた少年はシン族の中で育った。またしても形見として自分に戻ってきた御守りをぐっと握り締めると、牙が掌に食い込んで血の珠が浮く。
「………………」
月華は深く息を吐くと、瓦礫から荷物を引っ張り出して肩に掛けた。狼の血を引く彼女は遺体に取り縋って泣くような無駄な真似はしない。どこかにジャハルも埋まっているはずだ。もし生きていたらついでに拾っていくつもりだった。流れる空気の筋の中、煙と埃の臭いに混じって、ジャハルの体臭を嗅ぎ取った。辺りを見回すと安普請の薄い煉瓦壁の下、瓦礫の隙間にジャハルの姿がある。
力任せに壁を持ち上げると、くたびれた襤褸に身を包んでいる中年の小男がうつぶせに倒れている。その右のこめかみから出血しているのを見、月華はできる限り頭を動かさないよう、首の後ろを掴んで引きずり出した。気を失ってはいるが、死んではいない。まだ揺れが続いているため、この小柄な男を背負ってこの場を離れることにした。
だが、またしても大きな揺れが月華を襲った。あの巨人がまだ残っていたのだ。つんざく高音、その呼気はあちこちで出火し立ち上っていた煙を氷の粒に変え、大気から瞬時に熱を奪った。人々は肺をやられてのたうち回り、月華もまた息を止めてはみたが剥き出しの肌が凍りつく痛みに歩みが止まってしまう。
ぬうっとがらくたの街を覗きこむ影。先ほどの破壊がくり返されるのかと、月華はジャハルを抱えて走り出した。
(間に合わねぇか……!)
「打ち砕け、【大焔槍】!!」
朗々と響き渡る声が、枯れ枝のごとき右手が、空中に紅蓮の塊を導き氷人形の腹に大穴を開けた。さらにもう一発、今度は怨嗟を刻んだ顔をただの氷塊に変えた。まだ無事な建物の上にいたのは男、いつから生きているのか定かではない年齢の老人であった。丈夫そうでどこか上品な上衣には見覚えがある。
「アンタは……」
「うむ。久しいな、シンの娘よ」
月華の表情が不可解だという思いと戸惑いを写す。もう何体もの氷の巨人をあの魔槍で屠ってきたのが、デルタナで見知ったこの老人だとは、目の前で見ても信じられない。ただの酔っぱらいだとしか思っていなかった。だが、これが事実だ。二度も助けられてしまったのだから、信じるしかない。
無意識のうちに棒立ちになっていたせいで、月華が肩に負っていたジャハルが落ちてくぐもった声を上げた。すぐさま立ち上がってぶつくさ言っているところをみると、大事なかったらしい。
「魔術師、か? 助かった」
「なぁに、礼には及ばんとも。連れが少ないようじゃが……はて、記憶違いかな?」
「いや。孩焔は死んだ。だから居ねぇ」
「なんだと!? ガイエンが死んだぁ!?」
「そうだ。どうにもならなかった」
「この!!…………クッソ……!」
ジャハルは月華の物言いに殴りかかりそうになったが、握りしめた拳を下ろした。月華が駄目だと言えば、それはどう足掻いてもどうしようもないときなのだ。少しでも可能性があるなら、月華は諦めはしない。特に、仲間が絡んでいるときには。孩焔の首から下がっていた獣の牙の御守りが、月華の首にあることが、彼に仲間の死を如実に伝えていた。
「ふむ。はようこの場から離れるが良い。腹の子に障るぞぃ」
「はぁっ!? 何言ってんだよ、爺さん!!」
「…………」
「ひ、ひ、ひ。男の子だの。先が楽しみじゃわい。そら、わしは行く。壮健であられよ!」
ひらりと長衣の裾を翻し、老人は瓦礫に消えた。魔術師の言葉を受けても、月華は「本当か?」などとは問わなかった。嘘を言って何になる。ただ、彼女とて人並みに驚いてはいた。身に覚えがないわけではない、あの一夜を忘れることはないだろう。そっと、まだ膨らむ様子も見せぬ己の腹に手をやった。
「嘘だろぉ? おい、ゲッカ、お前……」
「ジャハル」
「なんだよ……」
青い顔をしていたジャハルが情けない声で答える。この小男はシン族の村から道案内兼、目付け役として同道していたのだ。それが知らぬ間に、預かった族長の妹御が子を孕んでいるとあってはその面目は丸潰れである。厳しい族長の、狼の顎を思い浮かべてジャハルは胃が痛みだすのを感じていた。
「ジャハル、お前、ムラに帰れ。嫌な予感がする……王都は通らず、このまま東に抜けろ」
「はぁっ?」
「兄上に伝えてくれ。月華は死んだ、と。もうムラには戻らん。今日からオレ様の名は、孩焔だ」
ジャハルがあんぐりと口を開く。
「お前、どうすんだよ……」
「デルタナへ行く」
「オレも行く!」
「いや、お前が契約したのは兄上だろう。……爺様の印章を頼んだぜ」
「それを言うなら……いや、ちゃんと伝えるよ。お前は、ゲッカは最期までシン族の誇りを忘れなかった、ってな」
「……色々と、世話になったな」
「いいってことよ! 元気でやれ、運よく生きてりゃ、また会えるさ」
「そうだな。楽しかったぜ、お前らと馬鹿やんのも」
「ああ、オレもだ」
「あばよ、ジャハル」
「またな、ゲッカ……いや、ガイエン!!」
二人は拳を握った腕と腕を勢いよく打ち合わせた。互いにニヤリと笑い、それきり背を向けて、振り返ることなくそれぞれの道を駆け出した。
後に、デルタナの南にガイエンという国が興る。そこは魔物が湧く土地であり、誰もが避けた土地であった。だが、一人の荒武者が魔物を全て戦鎚で薙ぎ払い、屠り尽くしたのだ。貧しい人々のために土地を拓いた王の名はガイエンといった。言い伝えによれば、その王の子は狼の頭を持っていたという。以後、どんな王が建てたとしても、この土地に興る国は全て、その狼王から名をもらいガイエンと呼称された。