つまびくは……
僕がイレーヌのためにできることといったら、二弦楽器を爪弾くことや、甘味を買ってあげること、後は花を咲かせるくらいか。どうせだから全部やってみた。その結果、なぜか僕は花冠と首飾りを幾重にも巻き付けられ、子どもやお年寄りに囲まれてしまった。僕の二弦楽器と手拍子や即席の打楽器による調べは街に響き、路地を覗きこんだ人々は皆、輪に加わって笑顔を交わした。
二弦楽器をひくのが楽しくて、気がついたら路地すら越えて表通りにまで賑やかな行列ができていた。勝手に食べ物を売っているひとや、木製の卓を引っ張り出してきて賭博を始めているお爺さんまでいる。呆気に取られていると、口の中に薄荷の飴が放り込まれた。すっとする清涼感が広がる。
「……ニール」
「ついさっきまで、ここにシトーがいたぜ」
「えっ? 殴る? 追いかけていって殴る?」
「落ちつけ」
だって、だって、腹が立つんだもの! 僕を目の敵にするし。外典の輩とかって、意味は分からないけれど、きっとすごい悪口だよね。
「きっとまた僕を睨んでたんでしょ」
「まぁな。でも、音楽を聞いてるうちに大人しくなって、最後にゃ座りこんで目ぇ瞑ってたぜ」
「ふぅん」
意外だった。ちょっとは可愛いところもあるんだ、とは思っても口にはしない。
「それ、ずっと見てたの?」
「おう。俺らはあっちで肉が焼けんの待ってんだ」
美味しそうな匂いがする。それってもちろん僕の分もあるんだよね? 僕、食べるなら楽器を抱えたまま食べられる物がいいな。持っていかれたら困るもの。それと、お肉なら兎より鴨がいいなぁ。薫製でも構わないから。丁子を刺して焼いてあったらもっと嬉しい。
「くいしん坊か!」
「お腹すいた……」
「わかったわかった、すぐに持ってきてやる」
その言葉通り、ニールは両手に串とシロメのカップを持って戻ってきた。お礼を言って受け取り、鴨肉をひとくちかじると、熱々の脂身がはじけるようだった。
「そういや、ここに来る途中、お前に似たヤツ見たぜ。ありゃかなりデキるな。……悪いヤツじゃなさそうだった」
レイ……?
まさか。レイモンがここに居るなら、僕が身代わりになった意味がない。
「それは、僕と同じくらいか、少し年上だった?」
「いや、かなり年上だったぜ」
「そう。なら、僕の知り合いじゃない」
「ソイツ、アディって名乗ったぜ。勇者と同じ名前だろ? でもポッソに聞いても見たことねぇから分かんねぇって言うし。もしかしたら偽者かもな」
「そんなこと、彼を知ってるひとがいないのに話してても仕方ないでしょ。本当に勇者なら、明日からの遠征にも参加するんじゃない?」
「それもそっか」
ニールは串焼きをかじって笑った。明るい色の瞳が輝いている。明日には凍土を溶かす宝玉が眠るという遺跡に出発する。本当に宝玉があるかは分からない。けれど、行くしかないのだ。三十人の聖堂騎士と共に、雪を掻き分けて進むヤックゥの曳く車に乗って。二日かけて遺跡に辿り着いても、魔物を切り捨てながらの発掘作業がいつまで続くか……。
しばらくここを離れると伝えたとき、イレーヌは泣きじゃくるばかりで、僕がどんなに宥めても話を聞いてくれなかった。僕はそんな彼女がいじらしくて可愛くて、ギュッと抱き締めた。
「ぜったい、帰ってきて……」
「うん、約束するよ。きっと帰ってくるから」
涙に濡れた頬に口づけて、僕は固く約束した。イレーヌとの約束だけは、絶対に破らない。
「か~っ、いい婿どのもらったな!」
ポッソ、婿どの違う。
「いいなぁ、ちゃっかり恋人作っちゃって~」
煩い。殴るぞ。
「ジョー、大好き!」
「……ありがとう、イレーヌ。僕も大好きだよ。僕がいない間、元気でね」
『うふふ、金髪ロリを二人ともベッドに並べてスリスリしたい~』
黙れ、恥知らず。
『ひどっ!?』
ひどいもんか。僕の心の癒しはイレーヌだけだよ。
願わくば、彼女がはやく周りと打ち解けて、信頼できる友だちを見つけられますように。
『ね、ね。明日から心臓を探しに行くんでしょう?』
(心臓って……そうだけども)
『私のことは置いて行ってくださいな。私、聖堂騎士って苦手なんですよね~』
(焚書されちゃうから?)
『ちょっと! 違いますよぅ、取り上げられて図書館の中に放置とかが嫌なんですぅ』
(そう? 焼き捨てられちゃうからじゃないの? シトーの言っていた外典ってきみのことじゃない?)
『失礼な。あれはリリアンヌが白術と黒術、両方いっぺんに使おうとしたからでしょ! それとその黒い瞳が気にくわなかったんじゃないですかね』
(そうか。……本当に来ないの?)
『うふふ、不安ですかぁ? 泣いてもいいよ、リリアンヌ』
(焼かれちゃえ)
『ちょっとぉ! もう!』
Dの文句を聞き流し、僕はもう一度二弦楽器を取り出すと、イレーヌのために優しい調べをつまびいた。師匠が好んで弾いてくれた曲を。見上げれば、高い壁に切り取られた空は青く澄んでいた。
イレーヌたちと別れて、ようやくフィーとサムとゆっくり話すことができるかと思ったら、そうはいかなかった。フィーはまるで女王様みたいに豪奢なドレスを着て、何人もの人間にかしずかれている。聞けば、聖火の国のひとたちに魔物を追い払うフィーの力を見せつけることで安心させたいと考えているお偉いさんたちが、こぞって贈り物を持って挨拶にきてるんだとか。道理でサムが抜き身の剣みたいな殺気を放っていると思った。
「なんだか、フィー、眠そうじゃない?」
「…………」
「フィーはねぼすけだからな。今日は早くに叩き起こされたんじゃね? なぁ、サムぅ」
「そうだな」
「そっか」
その後も、挨拶に来るひとの波は途切れることがなかった。きっと疲れているだろうに、笑顔で皆に手を振って、優しい言葉をかけているフィーは偉い。フィーが首を傾げて微笑むと、濃紫の髪が氷のように繊細なレースのドレスの上で踊る。そんなフィーのことを少しだけ羨ましいと思った。
「みんな、お待たせ~」
ようやく解放されたフィーが手を振りながらこちらへ来たとき、どこか遠くから凄まじい轟音が襲いかかってきた。僕は咄嗟に黒術で耳を守り、ニールは両手で耳を押さえて鼓膜を守った。なんだ、と辺りを窺っていると、今度はぐらっと足元が揺らいだ。悲鳴を上げるフィーをサムが抱き止め、僕は首根っこを掴まれて床に押し付けられた。真横でニールも同様に押さえつけられている。
(シトー……!)
石床がまるで生き物みたいに暴れ、大鐘が泣きわめく。ずんずんと突き上げてくる振動と、収まらない轟音に吐き気がする。黒術でなんとかこの揺れを小さくしようと躍起になっていた僕に、Dが低い、感情のない声で囁いた。
『無駄だよ、リリアンヌ。国中が揺れているもの。魔王の配下が動き出した』
「な……、どうして、いま……?」
『マイヤールの終焉は近い。アルファラが、陥ちたよ』
「……!!」
いつ終わるか知れない地震のさなか、Dによってもたらされた不吉な言葉が現実だという確証が取れたのは、日が傾いて月が顔を出す頃だった。