賢人オリク
朝が来て、僕は寝台に起き上がって伸びをする。窓を開けると狭く作られた寝室を朝日が満たす。今日は快晴だが風は冷たい。この国は凍土が近いせいかデルタナよりもずっとずっと寒いのだ。結局、フィーたちはまだ大聖堂の中におり、伝言のひとつすら届けられなかった。
素肌に纏わせていた敷布を落とし、僕は下着を穿き、ズボンの皮帯を締めた。シャツを着ようとしたところでニールが動く気配がした。
「ん~~。さみぃ!? 何やってんだお前!?」
「あ。ごめん……」
「しかも裸とか。貴族か! 寒くねぇの?」
「慣れてるから……」
「ったく。起こしてくれたのはありがてぇけど、窓は閉めといてくれよな」
「わかった」
ニールは寒い寒いとこぼしながら、寝間着をバサッと脱いで着替え始めた。一緒に寝泊まりするのだからと、ニールより遅く寝てニールより早く起きたのに、肝心なときに彼の目が覚めてしまうなんて。
『ぺったんこな胸、見られちゃったね』
(いいんだよ、ぺったんこで。成長しない方が好都合なんだから)
『強がっちゃって~!』
「……チッ!」
「おわっ、なんだ?」
「……なんでもない」
Dのせいでニールに変な目で見られちゃったじゃないか!
『えっ、ひとのせいにするの~?』
(煩い、話しかけてもいない独り言にまで反応するな!)
『ひっど……! 酷い酷いうわ~~ん!』
僕は泣きわめくDを無視して外套をきっちり身に付ける。僕たちの革鎧は「洗浄と修繕のため」とかで持っていかれてしまったので、体の軽さが逆に不安になる。昨日もそわそわしっぱなしだったし、早く鎧を着けて安心したい。
ああ、もちろん術で強化して短剣くらいじゃ刺さらないようにしておくんだけれど。昨日はニールの分の術はこっそりとかけてしまったから、今日は僕の力をちゃんと知ってもらうためにも見てもらおう。
「ニール、鎧がないと不安だよね。僕がその外套に術をかけてあげるよ。それで少しは身を守れるはずさ」
「へぇ~。んじゃ、頼む」
僕は左手に術を導き、そっと彼の外套に触れた。これでよし。終わったと告げると、ニールは大きく口を開いた。おお、驚きすぎて間抜け面になっている。
「えっ、まさかこれだけっ!?」
「うん、終わったよ」
「呪文は!?」
「僕には必要ないし……」
「え~っ、そんなので? 本当かよ~。もっとさあ、なんか格好よく長々と呪文唱えたりとかするんじゃねぇの? 地味ってかさ~」
「…………」
ぐだぐだと文句を垂れている訳知り顔の青年をじっと見つめてやれば、流石に僕が不機嫌な理由に思い至ったのか黙り込んだ。
「行こうか。ポッソが待っているよ」
「お、おう……」
朝の空気は気持ちが良い。大手門の辺りには朝食のスープを煮込む匂いが漂い、共同の水汲み場でおしゃべりする人々の笑い声、荷を運ぶ人足の張り上げる声が飛び交っていた。
「ジョー!」
イレーヌが煌めく金の髪を揺らして、僕の胸に飛び込んでくる。よろけながらも受け止めて、その小さな体を抱きしめた。丸い頬っぺたを赤く染め、可愛い白い歯をほころばせて、イレーヌは全身で喜びを表現していた。そのまま彼女に手を引かれ、僕は朝の街を走り抜けた。
「こっちよ、ジョー。こっち、こっち」
「ちょっと待ってイレーヌ、ここは違……!」
建物と建物の間、およそ通行するためのものではないただの隙間だ。イレーヌの勢いは止まらない。両肩を擦るほどギリギリで薄暗いそこへと飛び込んだ。
「ど、こへ……!」
頭でもぶつけるのじゃないかとヒヤヒヤしつつ、暗がりを走る。気を散らすとすぐに肩を擦ってしまう。出口から細く光が差し込んで、抜け出たと思った瞬間に強い光で視界が灼けた。
「うっ! ……うわぁっ!?」
眼球に痛みを感じるほどの刺激で、ぎゅっと瞼を閉じ、掌で目を覆った。ほとんど同時に脛あたりにある何かに引っ掛かって、大きく前に投げ出された。イレーヌの楽しそうな笑い声がする。柔らかい物を下敷きにしていることに気づき、慌てて飛び起きるとお婆さんと目が合った。
分厚い黒の服で全身が覆われている。垣間見える銀髪も黒い頭巾の中だ。細かい皺のある頬は春の花のようで、驚きに目を丸くしていた彼女はにっこりと笑った。まるで魔女のようなお婆さんだ。
「ご、ごめんなさい! 畑に落ちちゃったみたいで……」
「あらあら、気にしないで。それは土の下の部分を食べるものだから」
「ジョー、こっちよ!」
「あ、あの、本当にごめんなさい……」
「いいのよ。さようなら、イレーヌ。そしてあなたもね。オリク様のところへ行くのでしょう?」
「はい。さようなら、奥さん」
お婆さんは手を振って応えてくれた。にこやかなのにどうしてこんなに、背が寒くなるのだろう。足早に彼女の脇を抜けてイレーヌの後を追う。古びた木戸を潜ると常緑樹に挟まれた小路が二方向に伸びている。イレーヌは木々の深い方へ僕を手招きした。きっと本当はこの道を通るべきだったんだろう。
快晴の筈なのに薄暗くて湿った小路を行く。ポタポタと雫が落ちる音がそこかしこから聞こえてきて、まるで雨降りの森みたいだ。何度も曲がりくねった先は急に拓けて、高い大聖堂の石壁が聳えていた。
「こっちよ、ジョー。オリクさま~!!」
「あ、待って、イレーヌ……」
「イレーヌ、またカダルの大奥さんの庭を抜けてきたのか! よしなさいと言っておるのに」
張りのある銅鑼のような大声が響く。十ヤードほどの畑を背に、鍬を肩にかける男性は茶色い胴衣に身を包んでいた。胴衣についた庇のために顔は見えないが、六フィート半はある身長、服越しにも分かる丸太のような太腕、はち切れんばかりの大胸筋。シトーと同じ高さなのに、目の前の人物の方が厚みと横幅がある。すごい戦士だ。
ところで、オリク様はどこだろう。建物の中だろうか。見回してみてもこの戦士以外には誰も見当たらない。
「オリクさま、わたしのお友だちがオリクさまに会いたいって。ジョーって言うの。ジョー、オリクさまだよ」
「ほぉ、お友だちか。よろしく、ジョー」
「ひっ……」
大男はずんずんっと近づいてくると、僕の目の前に立ちはだかった。熱気がむっと押し寄せてくる。僕の顔くらい一握りで潰せそうな、ごつごつした手が迫り、思わず距離を取りかけたがきっと握手のためなんだと思いとどまった。
(D、D! こんなとき、なんて言えばいいんだっけ!? 「こんにちは」? それとも「はじめまして」!?)
『……………………』
(D!? っこの、役立たずがぁっ!)
「は、はじめまして……。よろしく、お願い、します」
「丁寧な挨拶ありがとう。私がオリクだ」
オリク様……オリク様!?
……………お年寄りだから、引退されたんじゃなかったっけ。まるで山犬に袖を噛まれて振り回されたときみたいな握手をされながら、僕は想像していた賢人像が崩れていくのを感じていた。もっと、こう、ちっちゃいお爺ちゃんか、師匠みたいなひとを思い浮かべていたんだよ。だってまさか、こんな、筋肉ムキムキの、笑うと歯が光る感じのひとが出てくるとは思わないじゃないか。
ああ、でも。なんだかとっても懐かしい。だって、まるでデルタナの探索者じゃないか。あの“庭”にいても何の違和感もない。いや、むしろ似合いすぎて困る。オービスの優勝候補者だよね、これ。
「ジョーはね、オリクさまに聞きたいことがあるんだって!」
「ほぅ。何かな? 何でも聞きたまえ」
「えっ!? え、と。す、すごい筋肉ですね。特別な鍛練を……?」




