宿屋
暗い……。
苦しい…………。
もがいても、もがいても、押さえつけられて動けない。
……押さえつけられてって、何に?
『くくくっ、逃げられると思ってんのか?』
だ、れ……?
『オレだよ』
ロラン!
どうしてここに!?
『オマエに会いに来たんだろ? よくも、オレの目を潰してくれやがったな。オマエの目玉もえぐってやる! 苦しんで苦しんで、死ね!!』
いやぁぁ!!
心の臓に、
冷たい、
刃が、
つきたてられた きが した。
「っ!!」
朝の鐘と共に起きた私は、まず水と布巾を借りて顔を洗った。布巾が無いのは不便だ。今日の仕事が終わったら、買い物をして、お風呂に行こう。
ああ、温かいお湯を使いたい……。
「大丈夫かい、顔色悪いよ?」
「大丈夫、です」
心配そうに声を掛けてくれたのはここの女将さんだ。女将さんと娘さんが宿を切り盛りしていて、ご主人が厨房を取り仕切っている。娘婿さんがお酒のカウンターで土産物やなんかも商売しているそうだ。
私のいた部屋は二階にあって、他にもいくつかあるうちの一番広い部屋だったようだ。でも、よく考えたら木枠、つまりベッドは六つあったから、もしかしたらこれが婆やに聞いた相部屋というものなのかもしれない。
お腹がぐぅと音を立てた。
そういえば、昨日は朝ごはん食べてからはお腹に水しか入れてなかったや。それも結局吐いちゃったし。宿賃と合わせていくらするか分からないけど、金貨があれば今日くらいは何とかなるだろうか。
「坊やに預かりものだよ」
桶と布巾を返しに行くと、女将さんが前掛けのポケットから取り出したものをくれた。何だろうと思ったら、小汚ない羊皮紙を丸めたものだった。何回か消した跡があるのは、失敗したからだろうか。確かに私の偽名であるジョー宛で、ソーンさんの名と探索者のシンボルがある。
「えっと、明朝、三の鐘が鳴る頃、探索者の庭にいらっしゃい。明日と明後日の仕事の半金として、三日分の宿と食事を、用意しておいてあげたから安心しなさいね? ジジイの居た場所には銅貨三枚で場所代を払っておいたよ。追伸、恋人になりたいならいつでもおいで、ボウヤ。愛を込めて?」
いらないよ!
「あんた字が読めるんだねぇ」
「あ……。す、少しだけ」
「近くの代書屋が急に越しちまって不便になってねぇ。もし商売するなら口きいてやるよ?」
「はぁ。考えてみます」
死にたくなけりゃ賢くなれ、って言われたのに、私は失敗ばかりだ。こんなところで文字が読める事を教えるような真似をするなんて。
けど、読めるかどうかの話もしていなかったのに手紙を渡してくるあたり、ソーンさんや探索者たちには私が貴族だと見破られているようだ。それはつまり、他にも私のことを貴族かもしれないと考えている人間は確実にいるということだ。ううん、そんなにわかりやすいものだろうか。
服と鎧と剣は、手放してしまった方が良いのか。
でも、これがないと困る。
ところで、ソーンさんは私をボウヤって呼ぶからには、私を男だと勘違いしているようだ。でも、男の子だと思ってるのに、恋人にならないかって……。
あれ? 何かおかしくない?
女将さんは私に朝食を出すと仕事に戻っていった。お客さんは少ない。街の門は最初の鐘と共に開くので、商売人はすでにいないし、相部屋の人たちはまだ寝ていた。部屋の中はすごくお酒臭かったからきっとまだまだ起きてこないと思う。
「美味しい……」
朝ごはんはパンとスープだった。野菜がいっぱい入っている。くたくたのキャベツとホロホロ崩れる芋が甘いし、お腹に優しい。ベーコンもちょっとだけど入っている。パンが温かくて夢中で食べてしまった。そんな私を見て、お姉さんがふふっと笑う。
「おかわり、あるからね。たくさん食べて」
「ありがとうございます」
「行儀の良い坊やねぇ」
違うんです。行儀良くしてるんじゃないんです、普通の男の子ってどんなのか分からないだけなんです。……どうやったらそうなれるかな。師匠に聞いてみよう。
やることがなかったので、食べ終わった卓を拭いたり、使ったシーツを洗って干したりした。思ったより大変だったけど、一枚だけだったから何とかなった。婆やの背中を見習ってハキハキ働いたら気持ちが良かったし、褒められた。嬉しい。
それにもう一つ良いことがあった。お姉さんが、宿の前を掃いたら干し葡萄をくれると言うのだ。頑張ったら、なんと十粒も貰えた。大切に食べよう。さて、雑事が片付いたら一番の難関が待っている。
「師匠、さすがにそろそろ起きてよ……」
二の鐘から半刻たったのに、師匠はまだ寝ていた。
揺さぶったらうんうん唸っているのに、全然起きない。
「朝ごはん食べて行こうよ、間に合わないですよ」
「んぁ? んー、まだ大丈夫じゃろ」
「駄目だよ、お金はもう貰ってて、その分食べちゃったんでしょ?」
「そうじゃったかの……」
「そうです!」
「坊主は誰じゃ」
「弟子のジョー、です」
「ふぅむ……」
師匠を肩に担いで階段を一緒に下りるのは、落ちそうですごく怖かった……。
「おぉ、酒が全部なくなっておるぅ」
「朝から……」
師匠は卓についてすぐに、自分の腰から陶製の酒瓶を取り外していた。昨日全部、空けてしまったんでしょうに。会った時には空っぽだったんだから、それ。
「ちょっと足してもらおうかの」
「お金、ないです」
「はて……、財布が空じゃ」
「もう飲むのやめませんか?」
「嫌じゃ!!」
ぷいっと他所を向いても可愛くなんてありませんよ?
「もう……。お仕事終わって、飲みすぎない程度なら……」
「よしよし、今夜は旨い酒にありつけそうじゃ」
あの酒瓶、ゆすぐフリして割ったら諦めてくれないかなぁ。
探索者の庭、とは昨日行った酒場のことだった。場所としてはこの宿のすぐ裏手にあると言って良かった。ただ他人の敷地や塀があるため、大通りに出て正規の道を通らないと酒場には行けない。近くて遠いなんて、ガッカリさせてくれる。
三の鐘が鳴るより少し前に着くつもりだったのに、四半刻くらい早めに来てしまったけれど、大丈夫だろうか。こっそり覗いてみようとしたら、師匠は勝手に開けて入ってしまった。
私も後を追うと、もうすでに三十人ほどが集まっていた。しかも、そのほとんどが私と変わらないくらいの子どもや、師匠くらいのお年寄り。若い大人は五人もいない。
「おはようございます」
「あら、おはよ、ボウヤ。ジジィ、寝るなら床で寝な」
「そんな、ソーンさん……」
ソーンさんは師匠に厳しい。
「早くにすみません。相談したいことがあって来ました」
「んー、恋人? それとも愛人契約でもいいよ」
「違います」
やっぱり、そういうお小遣い稼ぎとかは良くないと思います。
ソーンさんは私をカウンターの中、部屋の隅に呼び寄せた。ここには人が多すぎるから、私も小声になる。
「剣と鎧と服、どこかで売れないかと思って。紹介していただきたいんです」
「五十点」
「?」
「身許を隠そうとしたことと、言われる前に自分から来たのは良いんじゃない? アタシたちは詮索し合わないのが暗黙の了解としてあんのよ。見掛けだけでも変えりゃ、早々目立つことなんてなくなるし。けど、喋り方で大きく減点。アンタがただの子どもじゃないってすぐにバレちまうよ?」
ずんと人差し指で胸を突かれる。
「訳あり、なんだろ?」
「はい。気をつけているし、どうにかしたいのですがお手本がいなくて……」
「んー、お手本ねぇ。考えとくわ。ああ、服と鎧は買い取るよ。替わりも渡す」
「ありがとう……ござ」
「ありがとう、だけね」
「ハイ」
「よろしい。どっちみち汚れ仕事だし、中古装備の方が思いきり仕事できるってもんよ」
「はぁ……」
汚れ仕事って何だろう?
剣だけはそのまま取っておけと言われたので、奥の部屋でボロの服と鎧を受け取って身に付けた。厚革のベストは同じ型のようだが、大きさが、身に余る。
「これ、大きい」
「布でも詰めておきな」
「はい。今日の仕事、どんなですか?」
「ふ、おかしな喋り方だね。しかし、ドブネズミから聞いてないのか? ドブさらい、だよ」
えー……?
リリアンヌは知りませんが、書き直した跡のある羊皮紙は中古品です。そういう需要もあったのです(ソースはド忘れ)。
お読みくださりありがとうございます。明日も更新します。