旅路
凍えそうな朝だった。ゲッカは昨日大暴れしたというのに、またもやサムを一方的に蹴飛ばしていた。多分、サムのにやけ面に腹が立ったんだと思う。毛皮の旅装姿のゲッカは、とても旅慣れた様子で格好良い。やがて気が済んだのかこちらを向いて、いつもの無愛想さでひとこと、
「頼むぜ」
何を、とは言わなかった。僕も黙って頷くだけにした。ゲッカは、フィーのもとへ向かい、二人は涙を挟まず別れを済ませていた。サムとガイエンは握手をし、ソーンさんともふた言、三言交わしている。
僕はガイエンからは「頑張れ」という言葉と力強い握手をもらい、ソーンさんからは抱きしめられた。
「アンタが帰ってくんの、待ってるからね……!」
「……うん。ありがとう。小父さんたちも、ありがとう」
ソーンさんが頭を撫でてきて、その長い指に髪を掻き混ぜられる。小父さんたちの何人かにも同じようにされて、あっという間にグシャグシャにされた。ちょっと気恥ずかしい。
冷え冷えとした早朝の空気に響く、パンッと乾いた音に振り向くと、なんとニールがジャハルに拳を叩き込んでいた。しかしジャハルはそれを正確に掌に受け止めている。まさか、この場で乱闘が始まる……?
「よく育ったな、ニール」
「ちぇっ、隙を突いたと思ったの、に!」
「おっと!」
片手を捕られたニールは、今度は蹴りを放った。ジャハルはそれを屈んで避けると、後転でトンボを切った。惜しい、ニールの背丈じゃ下方に放てば跳んで逃れられるし、中ほどに放っても今のように屈まれたら咄嗟に追撃できない。そして、ジャハルはなぜか僕の背に隠れた。
「……ジャハル?」
「嬢ちゃん、イイ女になれよ。ニールにくれてやるのが勿体ないくらいにな。あばよ、ジョー」
僕よりちょっと背の高い彼は、ニールに対して盾にするように僕の両肩を掴んで突き出しながら、小さな声で耳に囁く。
「ありがとう。……また、会えるよね?」
「運がよけりゃあな」
ニヤリと笑って、ジャハルは行ってしまった。フィーが手を振りながら三人を送り出す。ガイエンが途中で振り返って片手を大きく振り返してきた。彼らが見えなくなるまで街道を見ていたら、ニールが無言で僕の肩を拳で小突いた。こんなの八つ当たりだ。やり返したらさらにやり返された。納得いかない。
「こ~ら、そこ、喧嘩しないの!」
「だってソーンさん、ニールが……」
「あっ、ジョーお前っ」
ふざけて掴みかかってきたニールの重みが、昔よりもずっしりとしていたから、僕らはそろって冷えきった石畳を転がった。
「危ないっ!」
鋭く叫んだのは誰だったか。柵も何もない、地下下水道へ流れ込む水路へ危うく落ちるところだった。上半身の浮遊感に心臓が嫌な速さで脈打つ。ニールに起こされながら、「僕のデルタナでの生活は、地下下水道で始まり、地下下水道で終わる」なんて馬鹿なことを考えていた。
「悪ぃ、大丈夫か?」
「うん。支えてくれたからね」
「ったり前だろ?」
ニールが僕の背を張った。……だから、痛いんだってば。何回言っても分からないなぁ。
「なんだか心配になってきちゃったよ、本当に大丈夫かい、ジョー?」
「大丈夫だから。そんな顔、しないで、ソーンさん」
さて、僕らも、そろそろ出発だ。
背嚢をぱんぱんに膨らませての聖火国への旅は徒歩だった。途中、荷物を大量に積んだ馬車が僕らを追い抜いていくのを何度となく眺めた。体力のないフィーに合わせて、こちらの歩みはゆっくりめなのだ。
聞いていたより馬車の通りが多いのは、水場の主であった“貪欲な顎”がいなくなったことと関係しているのかもしれない。商売も結構だけど、人間を見たら襲いかかってくる魔物はなにもあいつだけじゃない。馬車が軋むほど荷物を積んで、もし襲われたときに逃げ切れるのか、余計なお世話ながら心配になる。
そうそう、例の“貪欲な顎”を倒した報酬だけど、なんと準備や宴会に使った分を抜いたのにひとり頭、小金貨五十枚もあった。すごい。破格の報酬だ。おかげ様でこの旅のために装備をほぼ一新させることができた。
より軽く、より丈夫に、より小さく。それに、術の行使を見咎められなくなったので火打石や水袋などでかさばらないのは嬉しい。なだらかな丘を越える頃には、「やっぱり馬車に乗せてもらうんだったわ~」と、フィーが辛そうに言った。同感だね。開門してすぐに街を出て、歩き詰めで一刻半ほど、少し休憩してまたすぐに出発だもの。ニールですら疲労感を滲ませている。
それでも誰も、フィーですら文句を言わないのは、ひと一倍荷物を抱えながらも先頭を進んでくれるサムへの感謝があるからだ。実際、フィーの荷物なんて僕らに比べたらないに等しい。そのサムが立ち止まった。視線の先には、人間が寝そべることができるくらいの大きな平たい石がいくつか固まっている場所がある。
「そろそろ昼にしようか」
「ホント!?」
「は~、ようやくかぁ。腹減った!」
藤の籠の中には濡れ布巾に包まれた発酵パンがあった。これを二つに割り、根菜のマリネやハムを挟んである。乾燥させた香草が散らしてあり、見た目も味もフィーのお気に入りだ。ひとりにひとつずつ、足りない分は“庭”特製、というかジャハル特製の干し肉でもかじって、オーヴァ鍋で温めたスープでお腹を満たしてもらおう。食後には固くて酸っぱい林檎もある。
惣菜パンをひとくちかじると、また涙が浮かんできた。このマリネが酸っぱすぎるせいだね。お姉さんがまた失敗したかな。これは僕がお世話になっていた宿屋の女将さんとお姉さんが作ってくれたものだ。二年以上もの間、ずっとあのひとたちといたから、別れがとっても辛かった。まるで本当の家みたいだったから……。
お姉さんは特に泣いて泣いて、目が真っ赤になってしまうくらい泣いていた。鼻もだけど、それは言わないであげた方が良いだろうね。この昼ごはんも、小魚の油漬けも豚の塩漬けも、干し葡萄の長持ちするパンも、餞別だと言って持たせてくれた。僕からのお礼、届いているだろうか。
「ジョー、林檎くれ」
「ニールは食べるのが早すぎる」
「そっか? あ、パン持て余してんなら……」
「駄目」
「ちぇっ!」
ニールも好きだもんね、このパン。でも成人したんでしょう? 年下から取り上げようとしないで。背だけじゃなくて中身も成長して!
「ジョンの店のお料理はどれも美味しいから好きよ」
「良かった。聞いたら、喜んだと思う」
「ええ。昨日のお昼に誉めちぎってきたわ」
「……そう」
僕のいない時に来たのか。だったら騒がしくしたんだろうなぁ。なぜかニールもフィーたちも、自分のところじゃなくて僕のいた宿に入り浸って、ごはんを食べていくのが当然みたいな顔をしていたからなぁ。
「ねぇ、お湯を沸かしてお茶を淹れましょうよ」
フィーが自分の鞄からお茶っ葉の瓶詰めを取り出してにっこりした。のん気だなぁとは思う。けど、もう少しゆっくりしたいのは確かだ。僕らパーティの旅程を管理しているサムの意見を聞くべきだと思った。
そのサムは、丘の斜面の起伏がある辺りを厳しい目で見ていた。
「サム?」
「気配がする。少なくはないが、おれなら一人で蹴散らせる。追い払うか、全部殺るか、どうしたい?」
「殺すの……?」
「やむを得ない場合は」
サムとニールは、それぞれ武器を取り出して具合を確かめ始めた。その表情にいつもの頼りなさげな様子は一切ない、戦士の顔に戻っていた。
「フィー、離れて見ててほしい。ただ、警戒だけは怠らないでくれ」
「サム、取りあえず、様子を見ましょ? はい、お茶」
「…………」
サムはフィーには逆らわない。フィーが様子見と言ったら様子見だ。彼がストンと腰を下ろして、そういうことになった。