空白
翌朝の目覚めはあまり良くなかった。体の不調はなくなっていたけれど、Dのことを夢にまで見てしまったのだ。寝台の上に身を起こすと、ソーンさんはまだ寝ていた。鐘が鳴る。鎧戸の閉まった状態では、今がいつかは分からなかった。
ソーンさんがうーんと唸って敷布を掻き寄せる。僕のせいではだけた肩が寒いんだろう。僕は彼に毛布を寄せてあげた。
「D……」
(あんな風に襲いかかってくるなんて。前から、「私だけの貴女」とかって言ってはいたけど、まさか本気だなんて、そんな……)
Dの高笑いと、耳に入ってきた得体の知れない物の感触を思い出してしまい、僕は耳を塞いだ。どうして、と聞きたかった。でもきっと、聞いてしまえば後戻りは出来ない。彼女――と呼んで良いものか迷うが――Dとの対決は避けられない。
『そんな本、焼いちまいな』
ソーンさんの言葉がよみがえる。焼く、ということは、つまり、Dを殺すということだ。できるだろうか、僕に。
そもそも、怒らせてしまった僕が悪いのに。Dとの修行は辛いことも多かったけど、僕に丁寧に魔術を教えてくれたのは彼女だ。僕の初めての友だち。ずっと一緒にいて、相談にも乗ってくれた。
でも。
怖かった。
あんな風に縛られて。身動きできなくて。殺されると思った。ううん、殺されなくたって、ずっと痛みを与え続けられるんじゃないかと思ったら、急に息が苦しくなった。耳の痛さに、不快感に、涙が止まらなかった。Dは、術を使えば僕を殺すことも、生かし続けることもできるんだ。僕をいつでも好きに、できる。
Dが怒ったのは、僕がニールの名を呼んだとき。僕の心の中を全部知っているDは、ニールへの想いにも、もちろん気付いていただろう。いつもはからかうだけの彼女があんなに怒ったのは、Dを差し置いてその場にいなかったニールを求めてしまったから。
昨日はどうして怒ったんだろう。フィーのことが原因? それとも魔王のせい? もしかしたら、皆にDのことを話そうとしたからだろうか。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。Dのことは嫌いじゃない。大事な友だち、一番の親友だもの。でも、あんな風にされるのは二度とごめんだ。何とかしてDを止めさせられたら良いのに。Dを止める方法……、それは……。
『焼いちまいな』
ソーンさんのあの言葉が、ずっと頭の中で囁くように繰り返されている。 …………僕は、僕の自由と命、それと親友を天秤にかけなくちゃ、いけないのか?
目許を袖で拭って、そっと寝台を降りた。ストーヴの蓋を開け、石炭を掻く。灰を集めて吐き出し、石炭を足したら、右手から術を導いて火を点けた。
「さすが。ジジィの弟子だねぇ」
「ソーンさん、おはよ」
「おはよう、ジョー」
いつから目が覚めていたのか、体を起こしたソーンさんがこちらを見ていた。冬の朝は忙しい。顔を洗ったりするにも湯を沸かさないといけないから。今日は僕がいるから、お湯もすぐ用意できる。朝食は小麦粉を溶いて熱した鍋で平たく焼いたプラーノに、ハムと冷凍青菜を戻したものを巻いて食べる。ソーンさんが作ったプラーノ巻きは、マスタードとバターがたっぷりで、甘いお茶と交互に食べると美味しかった。
一度宿に戻ると言ったら、ソーンさんは屈みこんで僕の両肩に手を置いた。心配そうに少し眉をしかめて、綺麗な唇を吊り上げている。
「魔王のことや、ディーヴルって本のこと、アタシに教えてくれてありがとうね。でも、あれからジャハルとも考えたんだけど、その事はやっぱり今まで通り黙っていた方がいいよ。誰もが皆、受け入れられる話じゃないしさ」
「あ……」
「魔王については王に近い貴族しか知らされてないってのもある。ジャハルはアンタの力を知って、信じる気になったらしいけど、他のヤツラはどうだか」
「センセイも、言わない方が、良いって?」
「ああ、そうさ」
「そう……」
そうか、ジャハルが言うなら、そうした方が良いのかもしれない。
「ジョー、今日はガイエンと出掛けるんだろ? ちゃんと“庭”にもおいでよ?」
「うん、わかった」
「待ってるからね!」
宿に戻ってきて、扉の前に立つ。
僕の心を読めるDなら、きっともう、僕に気付いている。右手に炎を出し、扉を開ける。
『リリアンヌ! ごめんなさい、私ったら、貴女にひどいことしちゃった……!』
本当に後悔しているような、涙混じりの声だった。胸が痛い。僕は何も言わずに後ろ手で扉を閉めた。【固定】しておくのも忘れない。
『ああ、リリアンヌ、許して……。私、貴女のこと、取られちゃう気がして、だから……。ああ、まさか、まさか私のこと、焼く気なんですかっ!?』
「D……」
『嫌っ! 嘘でしょう? 今までずっと一緒だった私を? 殺すんですか!?』
「D……!」
『嫌、嫌です、お願い、リリアンヌ! 私、いい子にするから、今まで以上に貴女のためになる! もう嫉妬して貴女を縛ったりしない、約束する! お願い……』
「…………」
『殺さないで……』
「!!」
Dが泣きながら、僕に命乞いをしている。すぐにだって、許してあげたいけど……でも、口だけかもしれないと思うと、言葉が喉に貼りついて出てこない。
『リリアンヌ、大好き。もし、私を許せないなら、どうしても許せないなら……』
「D、待って。その先は言わないでよ。ね、僕にも言わせてよ」
『ああ、リリアンヌ! 来て……!』
朝日が窓から漏れて差し込む薄暗い部屋で、書き物机の上だけがぽうっと光っている。僕は炎を手にしたまま、Dに近付いていった。彼女の怖がっているような息の音が、やけに大きく聞こえた。
(D……。僕だって、きみのこと好きなのに、親友だと、思ってたのに……)
そっと、左手で表紙を撫でる。すると、いきなり頭まで衝撃が走った。息が詰まる。まるで【雷撃】でも食らった時みたいな…………。
『あは!』
「……D?」
『リリアンヌ、大好き! あははははっ、あっははははは!』
泥の中に沈んでいくように、僕の意識は落ちていった。Dの嬉しそうな、狂ったような笑い声だけが最後の記憶だ。
「っ!?」
跳ね起きると、自分の部屋だった。朝だ、今は何刻目だ?
『あ、リリアンヌ、おはよう。お寝坊さん、今、起こそうかなって思ってたとこ』
「いけない、今日はガイエンとゲッカと出掛けるんだった。遅刻するとゲッカに蹴られる!」
『うふふ、早く服を着て、何か食べなきゃね』
「うん。ごはんは良いかな、昨日食べ過ぎたみたいで、お腹減ってないんだ」
『そうですか? 貴女は食が細いから心配です』
「大丈夫。ありがとう」
僕は急いでシャツを身に付けた。素肌に麻のさらりとした感じが心地好い。
『あ、そうだ、魔王のこと……』
「もちろん誰にも言わないよ。僕が信じられるのは、Dだけだからね」
『……ニールにも?』
「何でニール? 変なD!」
僕は厚革の上衣の紐を締め、長靴もきちんと履けているか確かめた。背嚢を手に、Dに声をかける。
「よし、行ってきます。連れていけなくてごめんね」
『いいんですよ、そんなの。……えへへ。ね、キスして、リリアンヌ』
「急いでるのに……」
甘えんぼのDがおねだりをする。僕は革の表紙に軽く口づけた。
『ねぇ、リリアンヌ。契約、しましょ?』
「っ!? う……」
『あら、大丈夫ですか?』
頭が……割れる……!
『……ゆっくりで、いいですよ? 深く、息をして?』
僕は、どうして……? 何か、大切なことを、忘れている、ような……。頭が、痛い。何も、考えられな……!
『大丈夫ですから。ね? ほら、落ち着いて、リリアンヌ。【鎮痛】をかければいいでしょう? ね、大丈夫……』
「あ……、はぁ、だ、大丈夫……。ありがとう、D」
『いいえ~。いってらっしゃいませ!』
「……うん。行ってきます」
いつものようにDに見送られて、僕は“探索者の庭”へと向かうのだった。