回想~ソーン~
あれは夜も更けて月が中天を過ぎ、酒場も仕舞おうかという頃だった。いつも最後まで居残って安い酒を啜っているのは、アタシと同期の古い顔ぶればかり。ジョッキをカウンターの内側へ引き揚げ、床の上に転がっている、ゴミも同然の酔っぱらい共を蹴り起こす。
「邪魔だよ、アンタたち。さっさと帰んな」
「そんなぁ、兄貴ぃ……」
「親分、おかぁりぃ……」
「仕舞いだっつってんの!」
足にへばりついてくる弟分たちの背をバシバシ叩くが離れない。他の酔っぱらい親父たちは笑って見ているか机に突っ伏しているかだ。助けなさいよ、と言えばムニャムニャと言葉にならない寝言が返ってくる。さて、どうしてくれようか。
「アンタたちねぇ……!」
首根っこあたりの服を掴んで転がしてやると、二人とも気の抜けた悲鳴を上げて大げさに床の上でもがいた。観声が沸く。ふざけすぎだ。耳でも引っ張って立たせてやろうかと手を伸ばした時、小さな声がアタシを呼んだ。ソーンさん、と。
「!!」
思わず利き手が腰に伸びそうになった。だが今は丸腰だ、そこには何もない。周りも殺気立ったのが分かった。息を飲む音すら聞こえてきそうな沈黙が降りる。先ほどまでの騒がしさが嘘のよう。声がした方を瞬時に振り返ったのは、空耳じゃないかと期待したからだ。そこには小さな子どもが、今にも倒れそうに震える子どもがいた。血の気の失せた白い顔、くすんだ髪の間から覗く、真っ黒な双眸は虚ろだ。今はその感情をなくしたような顔のおもてを涙で濡らしている。
(何があった!?)
思わず足を踏み出していた。一歩で距離を詰め、アタシはジョーの小さな体を抱きとめていた。細い、あまりにも細い体を手で触り、怪我はないか、服に乱れがないかを確かめた。ジョーはさっき別れたときのまま、何もおかしなところはなかった。ひとまず安心する。
「……“歩く死体”」
「コイツ!」
その不気味で縁起の悪い、ジョーのあだ名を口にした馬鹿を蹴り飛ばす。今度こそ本気の悲鳴が上がった。そんなアタシを責めるような視線が注がれる。ジョーは探索者たちに嫌われているのだ。全く成長しない体や、病人みたいな肌、表情のない顔。それに、今みたいに気配もなく現れたりするところが、まるで夜の死の女王が遣わした眷属のようだと……。
いったい誰が言い出したんだか、この畏怖と蔑みのこもったあだ名はジョーのもうひとつの二つ名として定着してしまった。ウチでは絶対に呼ばせたりしないし、子どもの耳に入らないようにさせている。特に、本人であるジョーよりもニールには。知られないように気を付けている。
ジョーは女の子だから、背が伸びないのも男らしくないのも、仕方がないと言えば仕方がない話だ。【雷撃】とか言う魔術のせいもあって、ジョーは怖れられている。弱い人間は、自分が持たない、持てない力を持つ者を僻み、排斥する。他者を蔑み、見下すことでしか自分を保てない奴が一定数はいるものだが……ジョーに対するそれらは行き過ぎている気がする。アタシに出来ることは“庭《ここ》”にそれを持ち込ませないことだ。それが上手くいっているかは分からない。
「ジョー、どうしたの? とにかくアタシの部屋においで。ハンマー、ここ頼むよ」
「あいよ」
厨房にいた相方に声をかけ、アタシはジョーの肩を抱き寄せて自分の部屋へ向かった。背後から注がれる冷たい視線は無視する。ジョーは気付いているんだろうか。詮ない考えに首を振った。
ぽろぽろと涙をこぼしながら途切れ途切れに紡がれる言葉は、まるでお伽噺のように荒唐無稽な響きを持っていた。
……魔王の存在は、実際に見たことはないものの知っていた。アタシが女のなりで過ごさなくちゃならなかった遠因というか、建前として使われていたからだ。下々の民たちには知らされない、政治上の駆け引きに用いられる魔王は、妖精みたいにお伽噺の生き物じゃない。知られざる場所に眠っている、魔物たちの王にしてヒト族全ての、敵だ。
ジョーが「魔王を倒す」のだと言ったとき、正直、子どもの戯言だと思った。素人どころかねんねちゃんだったジョーが、どの分野でもめきめき実力を付けていくのを側で見て、もしかしたらと思ったのは確かだ。けど今度は何だ、しゃべる呪文書? 本が攻撃してきたって? 魔術が込められた品物の噂は聞いたことがあるが、そんなモンじゃなくてもっとちゃちな、精々が何度か小さな火を付けられる指輪とかだったはずだ。
(あのジジィの持ち物なら有り得るかも、ってのが嫌だね……)
取り合えず泣きたいだけ泣かせてやろうと、しゃくりあげる背中をさすってやる。ジジィとニールの前でだけしか人間らしい表情を見せなかったこの子だけど、二年の間でだいぶマシになってきた。それでもアタシの前ではこんな風に弱い部分をさらけ出したりはしなかったんだ、それが今、こうして頼ってきてくれている……。
「ジョー、大丈夫だよ。そんな本、焼いちまいなよ。アンタの魔術なら、やられる前に片付くでしょうが」
「……焼く?」
「聞けばアレでしょ、本なんでしょ? だったら火には弱いはずさ。だからあんまり心配しなさんな」
「…………」
驚いたように目をぱちぱちさせ、ジョーは僅かに笑ったように見えた。アタシもつられてホッと息を吐いた。男の子を飾り立てるのが好きで、本物の女の子は苦手だったんだけど、ジョーだけは別だ。
「ほら、よしよし! アタシたちがついてるよ!」
「ソーンさん、……ありがと」
「可愛いねぇ!」
ジョーをぎゅっと抱いていると、扉がいきなり開けられて、乗り込んできたチビがいた。
「ソーン、てめ勘定間違ってんぞ! ……お、取り込み中だったか?」
「馬鹿! そんなんじゃないよ、ったく……で、何の用、ジャハル」
「だぁから、勘定が合わねって。得したならともかく損してんだから取り返しに来た」
「……貰いすぎても返しに行くべきだよ」
「あン? 良い子ぶりやがって」
「…………」
「やめなやめな! ジョー、落ち着いたなら何か飲むかい? ジャハル、金ならハンマーから受け取んな。こら、勝手に座るんじゃない!」
「オレにもくれたって良いだろ?」
「やだね!」
「え~~」
小柄な二人が並んで腰かけているが、片方は髭面の中年だ、唇を尖らせてみせても全然可愛くない!!
火を入れていたストーヴの上で、湯が沸いていた。二つしかないマグはアタシとジョーの分だ。ジャハルにはボゥルで充分だろう。数種類の香辛料を混ぜてあるものを小匙ひとすくい、赤ぶどう酒に落として湯を注ぐ。ジョーの分はぶどう酒を少なめにし、蜂蜜を垂らした。
「ほら、ジョー」
「ありがとう」
「おいこれ、取っ手がねえ」
「ガタガタ抜かすな、蹴り出すぞ!」
一喝してやったらジャハルは肩をすくめて陶製のボゥルに口を付けた。舌先で慎重に温度を確かめている。そういえばいつもスープは一番最後に回していたっけ。自分のマグからスパイスワインのお湯割りを啜りつつ、親子みたいな二人を眺めた。ジョーもふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながらひとくち、ふたくちと飲んでいたが、いきなり体を深く折り曲げ咳き込みはじめた。小さな悲鳴が漏れ聞こえる。
「ジョー! だ、大丈夫かい? 酒がきつかった?」
「ソーン、水」
「あ、ああ、わかった」
ジョーの介抱をジャハルに任せ、アタシは水瓶から一杯すくって渡す。咳は一時的なもののようで、覗き込んだときには治まっていた。ジャハルがさすったり厚革の上衣をひもといて弛めてやっている。口許を押さえているジョーの手首の袖が汚れているのは、赤ぶどう酒か、それとも……。
「くそ、また血ぃ吐いてやがる……」
「また!? またって何!?」
「ンだ、知らなかったのか。こいつぁ、この前も……、まぁいい。嬢ちゃんよ、本当に白術が使えんなら自分で何とか出来ねぇのか」
「…………どんな怪我も病気も、僕が触れれば治せる」
「じゃあ自分を治せよ!」
疑問に答えたのは、吐き捨てるようなひどく冷たい声だった。聞いたことのないジョーの声に、アタシは怯んだ。そこをジャハルは意に介さずに言い返し、それだけじゃなく頭をびしゃりと叩いた。
「ジャハル!」
「っ……」
「この馬鹿が悪ぃんだろ?」
「む、無駄なんだよ」
「あン?」
「こ、これは、代償だから……。治しても、またすぐ、なるし……。大丈夫だから、放っておい……あっ!?」
今度は拳骨だった。ジョーは痛みのせいか涙目になってしまっている。
アタシの知らないところでジョーは無茶をしていたことがショックだった。それに薄々感じてはいたが、ジョーはジャハルに対してだけは素直に怒りや悔しさなどの感情を見せる。先日もジャハルを先生と呼んだし、二人の間にはアタシにない信頼関係があるようだ。……ちょっと、いや、だいぶ悔しいわ、これ。
「なぁにが代償だ、馬鹿が! 具合悪いなら寝てろ!」
「ちが……、これは魔術の……」
「知るか。無茶ばっかしやがるからだ」
ジャハルが寝台にジョーを押し込もうとして、ジョーはそれに抗って暴れる。はたから見たらアブナイ感じに見えないこともない。ジャハルをたしなめようかと思った矢先に、二人の揉み合いのせいでボゥルがひっくり返って赤ぶどう酒が小卓の上にこぼれた。ああ、気に入ってた織物が……。
「アンタたちさぁ……」
「離せバカ、ヘンタイ!」
「おとなしくしてろ! 本当に犯すぞ!」
「!!」
…………咄嗟に、手が出ていた。ぶん殴って床に沈めちまったけど、ジャハルのことだからきっと大丈夫、だよね?
「いてて……。売り言葉に買い言葉だろがぁ!」
「シャレになんないんだよ!」
椅子がわりに尻に敷いてやった男を叩くと、情けない悲鳴が上がった。しばらくそうしていたが、重いだの潰れるだのと煩いので、解放してやるついでに踏みにじっておいた。
「ぐえぇぇ!」
「…………いい気味」
「このガキ!」
「ジャハル!」
「ぎゅぅうぅ……」
頭を踏みつけると、今度は潰れたカエルみたいになった。ジョーがくすくす笑いながら、しゃがみこんでジャハルに話しかける。
「センセイ、治してあげようか? 僕は、自分の体は治してもすぐまた出血し始めるから治さないけど、あなたの傷を治すくらいはすぐに出来るよ」
「ああン……?」
ジョーが生気のない目で笑う。
「そこに座って。ついでに膝の古傷も治してあげる。魔物との戦いで気付いたんだ、長時間動くと辛い? ずっと馬車に乗ってたのもそのせいだよね?」
知らなかった。
だが、ジャハルの顔色からそれが本当のことだと分かる。
「……聖堂に行っても、無駄だっつわれたこの膝を、本当に治せんのかよ、え、嬢ちゃん? 黒術士だとばかり思ってたぜ。女に癒やしの技が扱えんのか?」
「出来る。白術は厳密に言えば癒やしの技じゃないけど、それはまぁ、いい。座って、膝を出して。……そう、それで良いよ。痛くはないから、じっとしてて。ずれると、大変だから」
「おいおい、こぇえな。あ、こらソーン、やめろ、押さえんな!」
「いやぁ、ほら、ずれたらいけないんでしょ?」
親切心でジャハルの肩を掴めば、面白がってんじゃねえか、と怒鳴られた。嫌だよ、そんな……何でバレたのさ。
「ああ、傷が古すぎて力が入っていかない……」
「だから言ったろ?」
右手をかざしたジョーが呟く。ジャハルは、言わんこっちゃないとばかりに溜め息を吐いてみせた。ジョーはしばらくじっと考えていたようだったが、やがてジャハルの剥き出しの膝に顔を近付けた。
「おい馬鹿、何してる。やめろ、やめ……!」
どこか幻想的な光景に思えた。跪いた短髪の少女が、腰かける男の膝に口付けをしている。だが、ジャハルよりもむしろジョーの方が尊く見えた。「王者の施し」……そんな古い言葉を思い出す。王は触れることで病を癒すのだ、では、口付けで傷を癒すジョーは……。
「お前、みだりにこの力を使うんじゃねえぞ」
「……?」
物思いから覚めると、怖い顔を作ったジャハルが立ち上がってジョーを見下ろしていた。
「これから先もニールと一緒に居たかったら、悪ぃこた言わねぇよ、その力は隠しとけ」
「……どうして?」
「オレの知ってる娘はな、ちっと黒術が得意だったばっかりに連れて行かれちまったよ。嫌だ嫌だと泣きわめく娘を、貴族にもらわれりゃ幸せになれると説き伏せた、金欲しさの両親に売られてな。後から聞いた話じゃ、冷たい地下で鎖に繋がれて、必要なときだけ外に出される生活だったそうだぜ。娘は……早死にしたってさ!」
「ジャハル、アンタ……」
「だから、黙ってろ。見せるな。見られるな」
「でも!」
「やるなとは言わねぇ、だがせめて、弱味を見せるな。世の中にゃ、人質って汚ねぇ手もあるんだ、隙を見せるんじゃねぇぞ」
黙り込むジョーの表情は読めなかった。ジャハルは舌打ちをひとつすると、ガシガシと頭を掻いて叫んだ。
「もう、寝ろ! ったく、つまらん話を思い出して、柄にもなく語っちまったぜ!」
素直じゃない男が、ジョーを構い倒す理由が垣間見えた気がする。
(ジャハルがねぇ……)
くすぐったいような温かさを覚えると同時に、その話にある貴族とアタシとは、無関係じゃ済まされないのだと考えてしまい、気が重くなる。貴族というものは、力ある術士を囲い込み、子を成そうとする。自分の血を継ぐ者が、力を持って産まれてくるようにと願って。術士が女なら尚更だろう。貴族を憎む、ジャハルの気持ちはよく分かる。でもアタシも生まれは貴族階級だ、彼らの理屈も分かる、分かってしまう……。
どんどん沈んでいきそうな気持ちを抑え、ジョーを寝かしつける。このまま朝まで寝ていけばいいと声をかければ、小さくお礼が返ってきた。ジャハルがぐちぐち言うのはこの際、無視だ。よほど疲れていたのだろう、敷布と毛布にくるんでやったら、すぐに規則的な寝息が聞こえてきた。
「…………」
「…………」
「いや、帰んなさいよ」
「お? オレかっ?」
「当たり前でしょ。他に誰がいんのよ……」
おどけたような中年男に肘鉄を入れようとしたら避けられた。
「で? 何を泣いてたんだよ、嬢ちゃんは」
「何で泣いてたことまで知ってんの? いつからいたのよ、アンタ!」
「出来る男は女の涙の匂いに敏感なんだよ、分かるか? ん?」
「そおいうトコが、アンタを近付けさせたくないトコなんだよね~」
「誉めんなよ」
「帰れ」
なんだかんだで、ジャハルにはジョーの事情を話しておくべきだと思った。聞けばジャハルは何も知らないと言う。
「こいつがオレに打ち明け話なんざしねぇよ。……しっかし、噂の“リビング・デッド”がこんな可愛くない嬢ちゃんだとはな」
「アンタ、それ……」
「言わねぇよ。王都の“探索者の庭”にも届いてたぜ。凍土の泥濘みたいな色の目ぇした、白蝋の肌をしたガキが夜中にうろついてるってさ。浮浪者とかガキを虐めてたらよ、「死ぬかやめるか選べ」って、後ろから声がするんだとよ。妙な術を使う、夜の死の女王の遣いだ、つってな。死んだガキの体を奪って動いてるから、“歩く死体”たぁ、単純よな」
「…………」
「嬢ちゃんからはな、死の臭いがすんだよ。放っときゃ死ぬって病人や大怪我した奴と同じ臭いがする。あながち、二つ名も間違っちゃいねぇかもなぁ」
「やめとくれよ、この子の悪口は……」
「事実だろが。代償っつうのはアレだ、術の反動だか何だかだ。魔王なんざ放っとけと言ってやれ。オフィーリアのことを考えてみても、黙っておかせた方がいいぜ。あのお嬢も危ういとこがある、本当は一緒に行かせたくねぇんだ、オレは」
「じゃあ……」
「どいつもこいつも、オレが言っても聞かねぇんだよ。オレはゲッカの親父さんに借りがある。東に行かなきゃなんねんだよ」
「そう、かい……」
「お前もデルタナを離れらんねぇだろ? それと同じさ」
ジャハルは言いたいだけ言って帰っていった。朝、起きてきたジョーに話した。ジャハルの言う通り、魔王については黙っていた方がいいと。ジョーは無言のまま聞いていたが、やがて小さく頷いた。
それから、何日も経たないうちにジョーはニールと一緒に四人で連れ立って聖火国へ渡り、ジャハルはゲッカらとアルファラ経由で東に向かった。思えば、彼ら五人やあの老人が揃ってデルタナにいた、ほんの短い期間が、ジョーにとって一番楽しかったひとときだったのじゃないだろうか。アタシもいて、ニールもいて、あの子が心から笑えていた時間がこんなに大切だったなんて、分からなかったんだよ、そのときには。
魔王なんざ、子どもを怖がらせるためのでっちあげだと、街の人々は思っている。魔王の存在を知る者は皆、口をつぐんでいる。そんな中であの子が「魔王を倒そう」と言ったところで、きっと誰も信じなかった。それについては、ジャハルが正しい。むしろ、寒さが厳しくなっていくに従って、デルタナを離れたあの子のせいだと言い出す馬鹿が現れ、しかもそれが僅かじゃない、かなりの数いたことから考えたら…………。
それでもアタシや、あの子をよく知る人間は思っていたんだ。
「あの子なら、大丈夫だ」って。