“凍てつく守護者” 下
明日、火曜日はお休みさせていただきます。
上も下も分からない。身体中が痛くて息が出来ない。空気を求めて口を開けば、痛みが流れ込んできた。
(痛い……! 違う、冷たい。どうして。僕は…………)
すんでのところで横に跳び、あいつを避けてそのまま川に落ちたんだった。湧水地だ、当然ながら薄氷の下には流れがあり、僕は急激な体温の低下と呼吸困難、溺水の危機にあるというわけだ。
混乱から意識を取り戻した一瞬、僕は【静心】の術を導いていた。それは師匠が僕にくれた言葉のおかげだ。
『ひどく心乱れたときは、【静心】で自分を取り戻すんじゃ。さすれば、本当にやるべきことを迷わずに為すことができるじゃろて』
師匠の笑顔が浮かんでくる。ありがとう、師匠。僕、その言葉は人生の教訓か何かだと思っていたよ。
【静心】【感覚遮断】【障壁】と、いくつも術を展開していく。白術で水を大きく掻き分け、空気を貪る。【異物除去】なんて救命術、まさか自分にかける羽目になるなんてね……! ここにいるのが僕一人で良かった、誰かを助けている余裕なんて、未熟な僕には欠片もない。
川縁に肘を置き、盛大にむせ込んでいると【障壁】が割れた。あれだけ暴れて橋を食い破って、視界の悪い惨状の中でもう僕を見つけたのか!
丸く僕を覆っていた【障壁】に歯を立てた姿のまま、“凍てつく守護者”は後ずさった。奔流が僕の腹から空気を押し出す。痛みは遮断した。自分の体が揉まれて形を変える不快感をこらえ、僕は波立つ水面を黒術で落ち着かせ、何とか岸に這い上がった。
――ゴァァァッ!!
「うっ!」
“凍てつく守護者”の叫び。それは咆哮というよりは、砂岩の谷で自然に開いた穴が風を吸い込むときの音に似ていた。そんな下らない夢想をしたのは、瞬く間に熱を失って白く煙っていく景色のせいだろう。
吐く息すらきらめく氷の粒に変わってしまう。目の前の白と同様に霞んでいく僕の思考。心地よい微睡みの気配に、意識を手放してしまいそう。
(ああ……、眠い…………。なんだか全部どうでも……いい…………)
支えにしていた腕から力が抜けて上体が揺らぐ。その小さな動きが僕の意識を覚醒させた。凍りついた服がパキリと割れる音が遅れて聞こえてきた。なんだ、僕はどうして……!
――オオォオォォ……
気付けば目前にヤツの巨体があった。
「っ! 【焔陣】!」
咄嗟に放ったのは自分の周囲に燃え盛る焔を敷く術だ。相反する気を持つ“凍てつく守護者”は怒り狂ったように足を上下させ、尻尾を振り回す。大地が揺れた。
(今の、うち…………!)
寒さのためか、 恐怖のためか、よろめく足に陽の気を送り込む。すでに気は引いた。後は罠まで連れて行くだけだ。視界は良好、意識もはっきりしている。道は明快。進むだけだ。あとは、ヤツより早く、動かないと……。
――グアアアアアアァァ!!!
「………………あれ?」
僕は思った。こいつ、もしかして体当たりしてくるつもりじゃないか、と。
短い足で踏ん張り、しかし頭は下げて。
「っああああああ!」
僕は脱兎の如く駆け出した。いや、あのときの速さなら兎すら軽がると追い越していただろう。それでもヤツは時折り僕に肉薄した。死の顎だと? そんなの隠喩ですらない。ニールの姿が見えたときにはホッとした。それと同時に、ここからがようやく本当の戦闘開始なのだという冷たい思考が脳裏をよぎった。
土くれを蹴立てて僕を追う“凍てつく守護者”の前には罠がある。僕はその格子状の縄に上手くヤツを入れなくてはならない。それには体当たりを阻止する必要があった。
僕の取った行動はある種の賭け。ヤツの行動は読めていた、後は……喰われるか、否か。
罠との距離を目視して、振り向いてヤツの速度と比べる。ここだ、と思った一瞬、僕は走りをゆるめた。
「馬鹿かっ!?」
誰かの罵声が飛ぶ。思惑通りにヤツは大口を開けて突っ込んできた。
(そうだ、それで良い。僕が欲しければ食べてみろ……!)
世界が音と速度を置き去りにしてゆっくりと流れる。僕は片足を軸にして体を横に倒した。出来るだけ遠くに落下するよう踏み切る時には力を入れて。幾度か瞬きする間には、顎と罠を繋ぐ直線からは僕の姿だけが消えているだろう。
大地が肩を打ち、音が戻った。
短い足で跳んだ獲物は見事に罠の中にいた。ジャハルとフィーが縄を引き、格子状の網が中空に張られた。【固定】の術が素早く飛ぶ。これでヤツの動きは制限された。自由を取り戻すには縄を引きちぎるしかないが、術で強化された太い麻縄だ、糸を切るようには行かないだろう。
それと同時にゲッカの盾が“凍てつく守護者”の鼻っ面に叩き込まれる。ジャハルの投げナイフが目を抉る。苦悶の悲鳴が大気をびりびりと震わせた。
サムがエストックを構え、柔らかそうな腹を目掛けて突き出していた。その横ではガイエンが戦鎚を振りかぶり、エストックの柄を打って深く深く傷を抉る。罠の中の大蜥蜴は身を捩った。まずい、暴れる気だ。あの位置ではニールに尻尾が当たってしまう!
「ニール!」
僕は【障壁】を準備して駆けた。せめてその背中に、触れられさえすれば……。
(間に、合え!)
「…………を我の前に示せ。塞げ、【拡大障壁】!」
「!」
僕の【障壁】がニールを覆うのと同時、フィーの詠唱が終わった。淡い虹色の輝きを持つ半透明な膜が、“凍てつく守護者”を包み込んだ。
――ギィィィイイィ!!
まるで大男の腕を三本束ねでもしたような太さと重さを持つ尻尾が、振り回されるのに合わせて風が唸りを上げる。進退のままならぬ体で、それでもヤツは身を捩って暴れた。硬質な、陶器が割れるような音がして、フィーの【障壁】が砕け散る。大蜥蜴の巨体が仰け反り、大顎が天を仰ぐ。
この隙を逃さず、サムとガイエンがエストックを手に駆け寄る。体重の乗った一撃、二本の剣が突き刺さった。ジャハルが即座にさらなるエストックを手渡す。
「っらぁぁあ!!」
ゲッカがサムたちの退くのに合わせて大盾でぶつかっていった。彼女の高揚した笑みは嵐のように暴力的で、だが美しかった。ヤツの噛みつきにも怯まず、笑いながら盾でいなしている。最初に感じていたよりも身が軽い。
僕もニールも、それをただ見ていた訳ではない。ニールは反対に回って【障壁】ごと体当たりを仕掛けた。薄い膜はすぐに砕けたが、それが与える衝撃は少なくない。特に、傷口には。
――アァアァァ!!
ヤツが仰け反る度に腹には剣が生えていく。僕は僕で、【雷撃】を繰り返しエストックに向けて放っていた。麻縄を抜け出せないまま攻撃を受け続け、そろそろヤツの動きが止まってきたかと思ったそのとき、
「……くぅぅ! もう、無理、ごめんなさ…………!」
「っ! オフィーリア!」
フィーが悲鳴を漏らし、膝から崩れ落ちた。耳栓をしているサムたちには聞こえなかったはずだ。だが、気配で察したのかサムは彼女に駆け寄り抱き上げた。
「このバカ、下がれっ」
「うわっ」
ゲッカがニールの首根っこを掴んで“凍てつく守護者”から引き離す。いつの間にか、空気が冷たさを増していた。
――ゴァァァッ!!
咆哮が、大地を凍てつかせ、厚く氷を結晶させる。剥き出しの頬に痛みが走る。ヤツから放たれた冷気の突風が髪を弄び、僕は腕を上げて目を庇った。ああ、まただ、服すら凍りついて半身が白に染まる。
「くそっ!」
ゲッカが悔しそうに吐き捨てる。
「やられた! まぁたアイツが良いとこ持っていきやがる!」
「……は?」
僕が聞き返そうとするのと、大蜥蜴が地面にめりこむ轟音が辺りを揺るがすのとは同時だった。張り詰めていた冷たさが緩んでいく。あの咆哮は最期の足掻きだったのだろうか。
動かなくなった“凍てつく守護者”を身やると、脱け殻と化した骸の上に飄々とした体の小男の姿があった。




