フロースの夜 下
「すぐに出発したりしないよね? ソーンさんたちに挨拶をしていくでしょう?」
「そうじゃな。ひと声かけるとしよう」
「酒場で二弦楽器を弾く予定だったけど、師匠、貰ってよ。旅路でも、寂しくないように……」
「何を言う。それはジョーにこそ必要なもんじゃ。それにワシにはほれ、自分で作った笛があるわぃ」
師匠が隠しから取り出したのは、ぷっくりと丸い素焼きの笛だ。お腹の大きな小鳥を模したそれは、いくつかの穴を適当に空けているようにしか見えないが、豊かで深い音を出すのだ。
「……でも、そうしたら僕が師匠にあげられる物なんてないよ。ずっと一緒にいてもらったのに、なにかお礼がしたいんだ」
「ジョー、ワシはもう、お前さんからはそりゃあたくさんの物をもらったぞぃ。目に見える物も、見えない物もなぁ。ほれ、このローブにしてもそうじゃ。ジョーが自分で布を裁って縫ってくれたんじゃから」
「でも……!」
「ワシこそ返せる物と言えば、この欠けた盃くらいじゃ。これは毒を退け、万病を癒やす。もっとも、ワシは酒気を抜くのに使うだけなんじゃが……」
「受け取れないよ……。それって師匠に一番必要じゃないか」
魔術というやつは便利そうに見えて厄介で、酩酊やひどい眠気で集中できない状態ではうまく術を導けない。危険な旅路で酔っぱらい、魔物にかじられる師匠なんて想像もしたくない。
思わず師匠のローブを握り締めると、宥めるように頭を撫でられた。
「そうなると、後はあの呪文書じゃが……」
(D……)
Dには確かにひどいことを言われた……。
けど、今までたくさん助けてもらって、友達だと思う気持ちに嘘はない。ここでこのまま別れてしまうなんて……。そう考えると胸が痛んで苦しくなった。
「ジョーが必要だと思うなら、持っているといい」
「……え?」
「ワシには必要のない物じゃからの。一番最初の頁にワシの徴がある。何かに役立つこともあろうよ。……すまんなぁ。結局、一時ではなくずっとお前さんを探索者なる荒くれ者の間に置いてしもうた。ワシでは力にはなれんかったようじゃ」
「そんなことない!!」
「ジョー……」
「……そんなこと、ない」
(だって、僕が勝手に死にたがってるだけの、僕の我儘なんだから……)
「ジョーはこれから、どうするんじゃな?」
「聖火に……。聖火国に行く。お母様が生まれた国だから」
「そうじゃったかの。この歳になると、記憶が揺らぐのよ、ひ、ひ、ひ……」
そう言って師匠は笑った。
僕と師匠は連れ立って“庭”へ行った。遅くなってしまったが、ゲッカは怒っていなかった。フィーはお酒が入っているせいかサムを椅子がわりにして座っていた。嬉しそうにしている下僕の姿に、こんな大人にだけはなりたくないと心に刻む。
師匠の笛と僕の二弦楽器、そこに足踏みと手拍子、即席の打楽器が加わって酒場は大盛況だった。
フィーのアルファラ流の剣舞は、とても激しく情熱的で綺麗だった。逆にゆったりとした動きのゲッカの舞は、見事な体捌きで魅了する美しいものだった。そのどちらも男たちをいたく感激させ、銀貨の雨が降った。……まあ、二人の舞がと言うか、胸と脚がね。約一名、雪原に埋めて頭を冷やしてやりたいと思ったのは、内緒だ。
師匠が、デルタナを明日の朝立つと告げると、まだ会って日が浅いガイエンたちも別れを惜しんで杯を酌み交わしてくれた。探索者の小父さんたちから口々に、餞別の言葉が師匠に贈られているのを遠くから眺める。本当にこれが最後の別れだと思うと、また涙がせり上がってくる。痛む鼻を押さえ、目許を払った。
「寂しくなるねぇ、ジョー。アンタはよく面倒見てたよ。ジジイが勝手にいなくなんないのは珍しいさ」
「……そういうもの?」
「そうさ。明日の朝に立つってのは嘘だろうけど、今こうやって別れの挨拶してんのが、信じられないくらいさ。昔からジジイは、気がついたら消えてたからね」
「……そう。なら、僕は間に合って良かった。宿に戻ったとき、師匠はちょうど出ていこうとしてたから」
ソーンさんは何も言わずに僕の髪をくしゃっと掻き回した。
「ねぇ、ソーンさん、僕もじきにここを立つよ。ジャハルから学ぶものを学んだら、聖火に行く」
「そうかい。きっと、止めても無駄なんだろうね」
「……うん。ごめんなさい」
「謝ることないさ。落ち込んで何も手につかないより、目的がある方がずっといいからね。ただし、一人旅だけはダメ。それだけは絶対に許さないから」
「……わかった。誰か一緒に行くひとを探すよ」
「そうしな。ところであのローブ、いい出来だね。まさか一人で縫ったのかい?」
「そうだよ。丈夫で、暖かくて、たくさん隠しをつけてあるんだ。小金貨を縫い込んであるから、そんなに直ぐには困らないと思う」
「う~ん、面倒見が良すぎる! アンタは男をダメにするタイプだったんだね……」
「えー……」
ソーンさんってば、苦笑いしながらとんでもないことを言う。
「さて。アタシもお別れしてこようっと。おいで、ジョー」
「うん」
ソーンさんの挨拶は豪快で、師匠の背中をバシバシ叩いて激励するというものだった。酒を過ごすな、とか、拾い食いするなとか。さすがに師匠も拾い食いはしないよ。……しないよね?
「師匠……また、会えるよね?」
「そうじゃな。星の巡りが良ければ、きっとまた会えるわぃ」
「僕のこと、忘れないで。お願い」
「ひ、ひ、ひ。自分の名は忘れても、お前さんのことは忘れまいと誓おう。さらばじゃ」
最後の抱擁を交わしたとき、師匠は僕を本当の名で呼んだ。夜道を灯りもなく進んでいく師匠。その背中を僕だけが見送っていた。誰もが、師匠は明日の開門と同時にここを出ていくと思っている。けど、壁なんて彼にとっては障害じゃない。だって、僕の師匠は魔術師で魔法使い、きっとこの世でたった一人の魔法使いなんだ。
(弟子の僕は魔法は使えないけど、師匠に教わった術で誰かを助けるよ。Dに教わった術で、きっと魔王を止めてみせるよ。だから、僕が死ぬ前に、また会いに来てね、師匠……)
今日の星空はとても歪んで見えた。




