フロースの夜 上 ★
「………………ぅ」
(ここはどこだ……? 僕は何をしていた……?)
見知らぬ天井、掛けられた布のざらついた手触り。何をしていて、こうなったのかさっぱり分からない。体はどこも痛くないし、気分も悪くない。
頭を動かすと麻の実を詰めた枕がごろごろという。すんすんと嗅いでみると、ニールの匂いがした。
すると、ここはニールの部屋なのだろうか。見回すと雑多な品々が床に転がっており、その中には確かに見覚えのある革の胸当てなどがあった。
(どうしようか……。帰るべきなのか、このままここにいるべきなのか……)
そもそも、今が昼か夜かも分からなければ、どうしてここに寝かされているのかも分からないのだ。そして、部屋の主が留守の今、僕に分かるのは勝手に帰ったらきっと後で怒られるということだけだ。
(ニールは子どもっぽくて我が儘で、時々、妙なことで怒るんだよね……)
冷えていた指先にも力が戻り、そろそろ起き上がろうとしたその時、戸が開いてニールが顔を覗かせた。こちらを見て嬉しそうな顔になる。僕はその手元に小さな鍋を見留め、感じた異臭がそこから流れてきたのだと判断した。逃げようと動いたとき、ニールに三歩で詰め寄られた。
「待て待て! 病人は寝てろ」
「……病人じゃない」
「こんな、真っ白い顔してぶっ倒れておいて病人じゃないって? センセイは確かにお前が病気だって言ったぞ。内蔵やられてるって」
「それは…………」
「気付かなくて、悪かったな。最近、あんま構ってやらなかったから……」
「あ……」
いつの間にか大きくなっていた手が、頭を撫でる。こうして触れられたのなんていつぶりだろう。僕を見るニールの表情が、本心から気遣わしげに見える。胸が締め付けられる思いがして、その手を振り払えなかった。じわりと肺の辺りに温かさが広がる。
「ほら、これ食べて栄養つけろ、な?」
ずいと突きつけられる小鍋。中身は明らかに人間の口にするものではない気がした。青緑の泥状のもの。青臭さと生臭さが同居する刺激臭が鼻を刺す。
「………………」
どう考えても無理だろう。
「ほれ、食えって。口開けろ。食べさせてやる」
「………………」
僕が黙って首を横に振ると、ニールは急に不機嫌そうに眉をしかめた。ベッドの上に腰掛けていた僕のほうへさらに身を乗り出して、木匙を近づけてくる。
「俺が作ったモンが食えないってのか?」
「………………」
「口開けろ。ほら。開けろってば! 無理やり突っ込むぞ、こらぁ!」
「……むぅ」
鼻までつままれてしまっては仕方がない。僕はそれを受け入れた。
「!!」
反射的に吐き出しそうになったそれを、無理やり飲み下す。
「まっずい!! 何が入ってる? あったかいことで余計にえぐい! まずい! まずくて死ぬ!」
「えっと、フィーの薬草と、魚の肝と、生卵? あ、あとニンニク」
「どうして麦粥にしてくれなかったんだ……。その具材なら火を通して鍋にしてよ、ニール……」
「大丈夫だって、頑張れ、飲み込め。お前なら出来るよ、ジョー!」
「最悪だ……」
でも、この衝撃的な病人食のおかげで全部思い出した。
「僕、どのくらい寝てた?」
「ん~、もうすぐ七つ目の鐘だからな。たぶん、二刻半くらいじゃないか?」
「そう……」
「センセイがさ、お前が腹が痛くて泣いてるのを見つけて、おぶって帰ってきたんだってな。寝ちまったのをここまで運んで、鎧まで脱がしてくれたんだぞ。あとでよく御礼を言っとけよ」
「………………」
ふぅん。好き勝手言ってくれたじゃないか、ジャハル。…………後で御礼に行かないと。
「僕、酒場に行かなきゃ」
「なに言ってんだ。ほら、残りも食えよ。あーん」
「待ってニール、せめてひと匙なめてから考え直して」
「げっ。いやいやいや……」
「………………」
「わぁったよ…………っぶ! まっず!?」
そらみたことか。
「水……!」
「僕にもね」
ニールの渡してくれたマグから水を啜り、口内に残る生臭さを洗い流した。魚の肝のせいで嫌な味がなかなか取れない。ひと息つくと僕たちは併設の酒場まで出ていった。
すっかり出来上がった小父さんたちが卓で楽しそうにしている。ゲッカはどうしたろうか。探してみるが見当たらない。もしかして、本当に儲け話にありついたのかもしれないな。
「てめ、遅っせぇぞ、ジョー!!」
鎧を置いておく部屋から声がした。戸が開いて光が漏れている。僕はそこに引きづり込まれた。装備部屋にはゲッカしかいない。
「楽の音がねぇと踊れねーだろが!」
「……ああ。ごめん。今から取ってくるよ」
「今からか!」
そうか、結局美味しい仕事はダメだったのか。ゲッカはイライラしてはいたが、いつもより大人しい。普段どおりならこの段階でベンチは破壊されているからだ。
真っ白い絹で出来た異国風のドレスを着ているゲッカは綺麗だった。両腕とも手首まで隠れる袖のあるもので、身ごろの丈も足首まである。逞しい首から上半身が隠れていると印象がガラッと変わる。化粧もしているようだ。気になるのはスカートの両側に入ったスリットなんだけど…………。
「なぁ、ジョー。あれ、穿いてなくね?」
「………………」
言うな。小声でも言うな。
「いつも丸出しだけど隠れてるのも……あ、隠れてねーか、ゲッカって安産型だ、しッ!!」
「ひぃっ……!」
ゲッカの拳がニールの顔面に突き刺さる。遅れて微風が僕の髪を揺らした。
あまりの早業に心臓がすくみ上がる。
ニールがベンチを巻き込んで床に倒れ、悪鬼が僕を見た。
「………………」
「待って、僕は…………がッ!!」
…………僕は関係ないのに。ニールのばかやろう。
脳天に落とされた拳骨のせいで痛む頭を、僕は黒術で冷やした。ついでに痛みをなくす【鎮痛】もかけておく。ゲッカを盗み見ると、不機嫌そうに黙り込んでいた。これは良くない兆候だ。普段はぎゃんぎゃん煩いゲッカが静かだと、たいていその直後に大乱闘が始まったりする。それか憂さ晴らしにとガイエンがどこかへ連れて行かれるのだ。
フィーいわく。「ガイエンってば本当に可哀想。いつもフラフラになるまで付き合わされて!」
止めてあげればいいのに、と思うのは僕が浅はかなんだろうか。その、薄情なんだか大らかなんだか分からないフィーが、ノックをして装備部屋に入ってきた。
「はぁい、ゲッカ。準備できた?」
「………………出来たぜ」
「可愛いじゃないの! 似合うわよ、ゲッカ。あら、ジョー、ここにいたのね」
僕は彼女の格好に言葉を失った。上品な灰色兎のマントの下は、ほとんど裸も同然だ。胸とお尻だけを覆う僅かな布の他は、キラキラしたビーズや偽物の装飾品であって白い肌を惜し気もなく披露している。いつもの貞淑なフィーはどこへ行ってしまったんだ……。
「……フィー、その格好は?」
「どう? せっかくのお祭りだから私も一緒に踊ろうと思って、急いで用意したのよ。似合うかしら」
「…………その、すごく、綺麗だよ」
「良かった~。サムったら、ひと言もなしよ。頼りにならないんだから!」
それは目を開けたまま気絶してるんじゃ?
「……寒くないの?」
「平気よ。ガイエンに損をさせた分が取り返せるといいわね、ゲッカ」
「…………………………」
お願いだから刺激しないで欲しいな。
「ジョーは弾くだけでいいの? 負けた分を取り戻すのに、せめて午後からのオービスに出れば良かったのに」
「……オービスは、ちょっとね。参加できない」
「どうして?」
フィーが首を傾げる。ゲッカも僕を見た。
「…………去年、小金貨十枚を自分に賭けて、一番戻りの良かった奴と戦って、瞬殺したら出禁になった」
「んだそれ……。十枚って、アホか!」
「あら、残念ね。勝った分は貰えたの?」
「貰えるかぁ! んな金なんかどこにもないわ!」
「自分で出した分が返ってきただけだった」
「なぁんだ。ひどいわね~」
「ったり前だっつーの。お前の頭がひどいぜ」
「ゲッカぁ!」
そのときは無表情のソーンさんにお説教された。今でも納得なんてしていないけど、ソーンさんには迷惑を掛けられないから仕方ない。
「ジョー、フィラ取ってきてくれよな」
「行ってくる。ニールは……」
「埋めとく」
「わかった」
「……死んでねぇよ」
いつから起きていたんだろう。ニールはゲッカに蹴飛ばされていた。
お読みくださりありがとうございます。
明日も更新します。
★以下、小話★
サム「あああああ」
ジャハル「うるせぇな」
サム「だってあんな、あんな格好で!」
ジャハル「嬉しいんだろ」
サム「嬉しい! でも他の奴に見せたくない! そうだ全員目潰ししよう!」
ガイエン・ジャハル「落ち着け」
サム「ううう…」
ジャハル「ゲッカの服はお前が選んだのか、ガイエン」
ガイエン「まさか。あいつの祖父が街にいるらしい。借り物だ」
ジャハル「ほう、で、ありゃ穿いてンのか?」
月華「穿いてるワケねーだろが! 殺すぞ!」
ガイエン「!?」