ジャハルという男
僕の頭の中はぐちゃぐちゃで、師匠のことやニールのこと、魔王のこと、Dのこと、全てが一気に襲いかかってきていた。
屋根を走る姿を見られたくなくて、【偏光】で僕の体を覆った。遠くから見た今の僕はただの光の揺らめきに見えていることだろう。
足音を消してただ走った。聖堂の鐘楼が高く突き出している。高い場所なら見つかりにくいんじゃないかと考えて、そこへよじ登った。
鐘楼へは、通常なら狭い塔の内側を梯子で上る。鐘がある空間には、立てるくらいの場所が開けている。でも僕はあえて、内側じゃなく外側の、明るい色の石屋根の上に座った。
微風が額の髪を揺らし、涙に濡れた頬が冷たかった。
すぐには何も考えられず、祭りの店が捌けていく様を見ていた。昼食の合図である五の鐘を打ち終わったばかりで、まだ通りも賑やかだ。ここからは夜のための準備になる。昼食をしたためるために飲食店はいっぱいだ。出店の主たちは思い思いに食事をし、それが済めば店を片付けなくてはならない。
今までの流れ通りなら、半刻もすれば男たちがやってきて作業を始めるだろう。そろそろソーンさんも“探索者の庭”に戻る頃だろう。
“庭”のほうを眺めていると、見覚えのある三つ編みが見えた。探索者の小父さんたちと話しながら歩いている。……ゲッカもニールも一緒じゃないのか。
身を乗り出して探してみる。ニール行き付けの食事処の入り口に、よく知っている二人の男女がいた。
「………………」
チクリと針で刺すような痛みを胸に感じる。別に、ニールがどこで何をしていようが僕にはまるで関係がないことだけれど。
(あんなにデレデレして……。リムとは僕の方が先に仲良くなったのに……! ニール、おっぱいばっかり見てるし……)
「お? そんなに見詰めて嫉妬かぁ?」
「!!」
心臓が止まるかと思った。バランスを失った僕の腕を掴んで、ジャハルは笑った。鐘楼へわざわざ上ってきたのか……!
奴が掴んだ場所から悪寒が背中を這い回り、僕は振りほどこうと足を踏ん張った。長靴を【固定】する。でも、ぐらつく体軸にはあまり意味がない。
「離せ!」
「おっと、暴れんなよ。落ちたら死ぬぞ」
「くそっ……!」
力が強い。あの小柄な体のどこにそんな力があるんだ。僕は鐘楼まで引き寄せられてしまった。
「ニールが好きなのか、お嬢ちゃん」
「…………ジャハル!」
「先生だろ、ちびちゃん」
「……次は殺すと言った」
「おお、怖い怖い!」
おどけたように空いた手を肩の高さまで上げ、無精ひげを生やした小汚い口許を歪めて笑いながら、こいつは決して僕に気を許そうとはしていない。
いつでも【緊縛】出来るように左手を空にしておく。ただし、僕に気付かれないようにこんな近くまで来る奴だ、そうそう引っかからないだろう。
僕の虚勢はこいつには意味を成さない。全て見透かされる……。嫌な目だ。
「……お嬢ちゃんはやめろ。前にもお願いしたはず」
「あんなナイフ押し当てるようなお願いなんてあるかぁ? それに、女の子なのは事実だろ?」
「!」
まだ面と向かって二人っきり、ジャハルと話すのはこれで三度目だ。それなのになぜ、こうもひとの神経を逆撫でするのか。僕は奥歯を噛み締めた。
「ほれ、体勢を立て直せよ。放してやる」
「………………」
僕は警戒を崩さずに顎で了承を示した。ジャハルはくちゃくちゃとソーマの葉を噛みながら、ゆっくりと僕の腕から力を抜いた。
(……やっと離れた)
安堵のあまり溜め息が漏れる。だが、すぐに良くない行為だったと思ってジャハルの様子を盗み見た。彼はニールが何をしているかを見るのに忙しいようで、僕の無礼には気付いていないようだ。
「ニールに言やぁいいのに。好きだ、愛してるって」
「……死ね」
「はっ、素直じゃねぇなぁ。ま、ちびで胸がなくて顔色の悪いガキに言い寄られてもニールだって断るわな」
「……チッ」
「おまけに仏頂面で愛想もなし、性格も悪いんじゃなぁ」
「何が言いたい……?」
そろそろ忍耐強い僕も限界だ。ただからかっているだけならば、軽口が叩けなくなるまでいたぶってやる。
「しょっちゅう血の臭い撒き散らして、まぁ、それが自分の血ってんだからお笑いだよ」
「……?」
「どこからだ? 口ん中か?」
「……!」
伸ばされた手を叩き落とす。
「…………口開けて見せてみろよ。傷がないのに血ぃ吐いてるんなら、お前の内臓はボロボロってことだぞ。医者には診せたのか?」
「うるさい」
「チェッ、ガキなんだから、そんな死に急ぐこたぁねぇだろうに……」
「……もう黙れ。それとも口を利けなくしてやろうか?」
「へいへいへい、黙りますよ。けどなぁ、お嬢ちゃん、もうすぐニールの奴ぁここからいなくなるんだぜ?」
「………………っ」
「秘めた想いも悪かねぇが、世の中、言わなきゃ伝わらんモンもあるんだぜ」
「……ニールには言うな。言ったら死ぬほど後悔させてやる!」
むしゃくしゃしていたんだ。いつもなら、いくら腹が立ったからといってこんなこと、しない。けど、ジャハルは僕をイライラさせるし、一番触れてほしくない傷口に無遠慮に手を入れるような真似をするから……!!
「ハッ、ヤる気かよ。いいぜ……来いよ、ちびちゃん」
「このっ!!」
右の脇の下、革鎧に留めた鞘からナイフを引き抜くそのタイミングで、僕の顔面に向かって投げられた物があった。咄嗟に右手でそれを払おうとし、次いでナイフを握った手も振った。
驚くべきは、ジャハルにもまた僕を攻撃するつもりがあったことだ。
(なんだ……? 糸……?)
糸の雨が僕を覆う。細いそれは振り回した素手に絡んで僅かに痛む。馬鹿みたいな手段だが、ちょっとした動きを奪うのと一手潰すには有用だ。身をもって知りたくはなかったことだが。
狭い鐘楼。だが、小柄なジャハルには関係ないだろう。用心すべきだ。
靴底の【固定】はきちんと働いているだろうか、長靴の中の足指が汗ばむ。屋根から落ちないように重心を定めつつ、僕は空いた右手に【雷撃】を……
不意に首に触れた冷たさに、怯む。鎖のぶつかり合う音が、指先で確かめた感触が、首に当たるものを「首輪」だと認識させた。ジャハルの嫌らしい笑い声が耳に不快だ。
(馬鹿にして……ッ!)
「っ!」
言葉を紡ぐことなく、僕の術は指先から迸り、ジャハルに突き刺さる……はずだった。
(なに……?)
違和感に気付くのには一瞬で充分だった。指先に集まるはずの熱が来ない。僕の体を流れる気が形にならない。それどころか、【固定】をかけていた長靴までもがじわりと動いた。
(落ちる!?)
一気に体の熱が下がり、恐怖に喉が鳴った。
「っかしいなぁ、陰の気が強い黒術士ほど、すぐに気絶すんだけどな、これ」
「なんっ……………………くそっ!」
「おっと。やめときな」
せめてナイフで首輪と奴を繋ぐ鎖を断ち切ろうとしたところを、警告なのか軽い音を立てて鎖が揺れた。
ジャハルが口許を歪めて笑う。あれを思いきり引っ張ったらどうなる?
「ちびちゃん、お前に圧倒的に足りないものを教えてやろうか……」
「ひ…………」
おそらく三十フィート落ちて死ぬか、首に大きな損傷を得て死ぬか……。どちらにしても、死ぬしかないのか。
奴の腕が動く。笑みがさらに深くなった。
「やめっ……!」
「それはな、経験だよっ!」
「~~~ッ!」
引っ張られる鎖、その衝撃が首輪までくる前に僕は動いた。抵抗して後ろに倒れ込みたい衝動を飲み込み、前へ、鐘楼の手すりへと跳んだ。恐れていた痛みもなく、僕は抱き止められていた。
「……ちっと大人しくしてな」
「……………………………………ッ!」
片手だけで鼻と口とを塞がれ、刃を突き立てることも叶わないままに僕の意識は落ちていった。