ゲッカの賭けオービス
階下はむわっとした熱気に包まれていた。今、まさに賭け札がやり取りされている。見回したところ、ソーンさんもニールもいない。
客席ではローブのたもとを膨らませた師匠が、何かの肉の串焼きを美味しそうに食べていた。あのたもとの様子からすると、細々した玩具を買ったんだろう。渡したお金は尽きていると見た。
「ジョー、待ってたわよ」
「フィー。あれ、サムは?」
「珍しい果実水を買いに行ったわ」
行かせたわ、の間違いだろう。
「ねぇ、ジョー、ゲッカに賭ける?」
「そうだね……」
ゲッカはフィーたちの仲間だ。盾を使ってぶん殴るのが得意で、個人的な理由から刃物は持たないそうだ。凛々しい顔立ち、浮き出た筋肉を持つ引き締まった体、強いクセっ毛の明るい茶髪を胸の下まで伸ばしている。
彼女は首から股下までを覆う、貴婦人の下着みたいな形の服を身につけている。そう、強くて逞しくて凛々しいが女性だ。恥ずかしげもなく見せつけている脚の付け根からしかそうと分からないくらいだが、女性だ。
ちなみに、ソーンさんとは趣味が似ているらしく、お互いの筋肉を見せあったりする仲だ。探索者になってもう長いらしいが、歳を聞いた小父さんの一人が陶製ジョッキで頭を割られて以来、誰も話題にもしなくなった。
カッとなりやすく喧嘩っ早いゲッカが来てからは“探索者の庭”の酒場では備品が壊れる“事故”が多発している。
さて、今回の賭けだが、当たり前ながらゲッカに賭ける者の方が多い。相手のコブは重量だけはあるが、まるで機転も小回りも利かなさそうな風体だ。油を全身どころか顔にまで塗りたくっていて、柔和な頬と目尻がてかてかと光っている。
「ゲッカに上限まで賭けようかな」
僕の言葉を聞いたカウンターのマディが渋面を作って呻いた。
「あら、だったら私もそうするわ!」
「……えげつない賭け方を教えんでくれや」
「だって、賭けるなら少しでも儲けたいじゃないか」
「そうよ、そうよ!」
僕の横でフィーが楽しそうにしている。踵を上げたり下げたりしている様は、まるで小さい女の子みたいだ。
「あんたらは金貨を乗せてくるからなぁ……。場が荒れるんだよなぁ」
「上限の小金貨三枚ね」
「私も~」
「やれやれ、たまには負けろ」
マディの憎まれ口を背に、客席に移った。師匠の隣でオービスが始まるのを待つ。師匠はめかしこんだフィーにデレデレだ。
「しっかりね、ゲッカ!」
「まぁ、オレ様の活躍に目を見張るんだな。損はさせないぜ!」
フィーの声援に腕を挙げて応え、ゲッカはない胸を張った。一方的な試合を予想してか、野次もあまり熱心じゃない。
試合開始の合図と共にゲッカが動いた。
「やぁあああ!」
勢いよく飛び出したゲッカは、コブの厚い体に拳を叩き込んでいく。痛みと衝撃のせいかコブは後退りし、描かれた線へと追い詰められていく。間髪入れずの殴打に反撃も叶わず、巨体の彼は既にフラフラだ。
「っしゃあ!」
最後の一撃、ゲッカは勝利を確信したかのような叫びを上げて拳を振るった。見ていた僕も他の観客も、彼女と同じように勝負の決着を予想したろう。
確かに拳を打ち込んだ。だが、それはコブの皮膚の上を滑った。
「うおっ!?」
そんな奇声と共にゲッカは見事に円の外へと飛んでいった。
「………………」
「………………」
「……えー、勝者、コブ!」
少数の、だが熱狂的な歓声が上がる。オービスの内側に残ったコブは特にそうだ。一方、避けてあった木箱の山から下半身だけ生やしたゲッカはピクリとも動かない。
「も~っ、ゲッカぁ!!」
スカートを翻しながら駆け寄ったフィーが、ゲッカのお尻をペチペチと何度も叩いた。
「なに負けてるのよ~!」
「いてっ、いてぇ! オレ様のケツを叩くなクソ女!」
「誰がクソ女よっ!」
「いってぇ!!」
真っ赤な際どい衣装から覗く、健康的な日焼けしたお尻に男たちの視線が注がれる。木箱の山の中でもがくゲッカ。そこへ、彼女のお守り役であるガイエンがやってきた。
「ゲッカ……」
「ガイエン、ちょっと手ぇ貸せ……ふぎゃっ!?」
助けてやるのかと思いきや、彼はゲッカのお尻に盛大な張り手を一つ落とした。蹴飛ばされた山猫みたいな悲鳴が上がる。ガイエンもなかなかやるじゃないか。いつも無言で従っている彼も、締めるときは締めるようだ。
「勝つと言うからお前に賭けたのに、丸損じゃないか。しかも上限いっぱい、俺とお前のでふた口だぞ。どうするんだ?」
「てっめ、後でボコるかんな……」
悪態をつくその声音もいつもより弱々しい。ゲッカがお金なんて持ってるわけないから、損は全部ガイエンが被ったんだろう。もう少しすまなさそうな顔をすべきだ。
「どう考えても、ゲッカが悪いよ……」
「そうよねぇ。たまにはガイエンに謝りなさいよ」
「やなこった!」
こどもか。
「これは……、体で払わせるしかないんじゃない?」
「はっ!?」
「なぁに? どうするの、ジョー」
「今すぐ払いの良い仕事を見つけてくるか、夕方から酒場で踊って稼ぐか。大丈夫、楽くらい奏でてあげる。師匠仕込みの二弦楽器で良ければ」
「……ぜってぇ嫌だ! クソぉ、ソーンの奴を探さなきゃ……。ガイエン、おま、後でシバく!」
「ふふふ、頑張って、ゲッカ」
酒場を飛び出していくゲッカを、手を振ってにこやかに送り出すフィー。いや、ガイエンをシバいちゃ駄目だろう。
「……フィーは、負けてもあんまり残念そうじゃないね」
「あら。残念よ~? あんな、はした金なんてどうでもいいけど、負けたことが悔しいわね~」
「………………」
「………………」
はした金……。金貨を、はした金……?
やっぱりフィーは、すごい大金持ちらしい。ガイエンを見やれば、糸目で表情の読み取り辛い大男も、困惑しているようにゆるゆると首を左右に振った。
「馬っ鹿だなぁ、ふた口賭けられるんだったら、どっちが勝っても損しねぇように賭けるんだよ、こういうのは!」
「ジャハル……。仕方ないだろ、ゲッカがどうしてもと言うから買ったんだ。両方ともオレ様に賭ければ稼がせてやるって」
「それで負けてりゃ世話ないぜ! ま~ったく、しょうがねぇなぁガイエンは!」
「まあ、そうだな。で、ジャハルは買ったのか?」
大仰な手振りで力説していた小男は、一転して小声で囁く。
「オレはいつでも逆張りなんでね」
つまり儲けた側か。わざわざ自慢しに来たのか、嫌な奴め。
上機嫌な様子からも、懐は存分に暖まったようだ。
ジャハルはここで初めて僕に気付いたかのように片眉を上げて見せ、ニヤリと笑った。
「これはこれは、ご機嫌うるわしゅう、お嬢様がた」
安い挑発だ。僕は視線を外して無視することにした。
「嫌だわ、貴方の顔を見たら機嫌が急降下よ」
「ひでぇな、フィー」
「あら。私に気に入られたいなら、髭くらいきちんと当たってらっしゃい」
言いながらフィーは本気で嫌そうではない。僕はそっと彼らから離れて、酒場の入り口に向かった。しかし、出ようとしたところで両手に貢ぎ物を携えた下僕に見つかってしまう。
「ジョー! ちょうど良かった、これやるよ。それで、フィー知らないか?」
「…………あっち」
「あ、本当だ、ありがとな。ジョーも一緒に食おう」
「………………」
渡された素焼きの容器は温かい。懐の寂しさ、そして手の中にある湯気を立てている料理を思うと、ジャハルとの同席くらい我慢するべきなんじゃないかという気になる。
お腹がきゅうと鳴ったので、僕は観念してサムについていった。
お読みくださりありがとうございます。
さて。「たった小金貨六枚の損で何を」と思うかもしれませんが、なんと、現在の日本円にして六十万以上の損失です。賭け事って怖い。
ショートソードが一本、10小金貨。
メイスなら一本12小金貨。
フルプレートアーマー一式、1500小金貨。
弓矢を使うなら鏃だって必要だし、10本で1小金貨とかだけど。
凍土の拡大のせいで食材が値上がりしていて、一食につき4銀貨と、物語開始時の二倍になっているので大損ですな。「絶対に勝てる」と調子こいてあんな負け方するとは…ガイエンは怒って良いと思う。笑ってるフィーの金銭感覚がおかしいんです。
追記。
以前に活動報告で「ショートソードが一本、10金貨」と書いたのは、10小金貨の間違いです。申し訳ありませんでした。