謎の老人
男の声だ。まさか、もう追って……?
頭の中に彼らの怒号が甦ってきて体が震えた。怖い。どうしよう。捕まったら殺されちゃう!
「朝っぱらから酔っ払いやがって、このくそ爺ぃ!」
「うわぁ、汚ぇなあ」
「どうしてくれんだよ、このブーツ! てめぇのゲロだろ、何とかしろよ!」
しかし声の持ち主はロランやその手下ではなかった。こっそり覗いてみたら、革の鎧を着けた二人の男が立っていて、二人のすぐ側の石畳にはボロ雑巾の塊が落ちている。いや、もしかして男の向こう側に見えるボロ雑巾がお爺さんなんだろうか?
「カネ払えんのか、あん? ヒトの靴を台無しにしといて、カネ払えんのかって聞いてんだよ!」
チンピラだ!
どうしよう……。
「起きろや、オラァ」
チンピラはお爺さんを蹴飛ばした。何てひどいんだろう。お爺さんはかすれた声で悲鳴を上げ続けていた。お年寄りに乱暴するなんてまともじゃない。
「ちょ、ちょっと!」
あ、つい声が出てしまった……。
「あン?」
「なんだ、このガキィ!」
やってしまった。しかし、声に出てしまったものは仕方がない。頑張って声を絞り出す。男の子の振りをしなければならない。そんなことは初めてだったけれど、出来るだけお行儀の悪いときのレイモンを思い出して、声を低くする。
「やめてやれよ、相手は老人、だろ」
「……」
「……」
チンピラ二人は黙って顔を見合わせた。あ、これは悪い予感が……。
「ぐっ?」
次の瞬間、私は石壁に叩きつけられ、そのまま落ちた。お腹が痛い。なぐられた?
チャリン、と硬い音がする。
あ、私、ナイフ持ったままだった。今落ちたけど。
「ガキは黙ってろ」
「こいつも畳んじまうか」
いけ、ない……。動け、ない。
「うぉぉおい、助けてくれぇぇい、殺されっちまうよぉぉお!」
「チッ、この爺ぃ!」
「くそ、行くぞ」
お爺さんの上げた声に、チンピラ二人は逃げていった。情けない……、助けるつもりが、逆に助けられてしまった。しかも、あんな事があったばかりなのに、学習しないなぁ、私。
「助太刀、感謝するぞい、坊主。ほれ、【鎮静】じゃあ」
よく分からない事を……。あれ、痛みが、引いていく。まさか……
「まほう、つかい……?」
「何じゃそれ、知らんし」
「えー……」
違うの?
「おっほほ、こりゃ良いモン持っとるの、坊主」
「は?」
「このナイフ、古の業物じゃ」
「えっ、だってこれ、厨房から持ってきたやつだと思うんだけど」
「刻印が削られとるの。柄も付け替えられとるし。鍛冶屋に行けばちゃんとした武器になるぞい。腰のヤツよりよっぽどマシじゃ。大事にせぇよ」
「そうなんだ。あの、ちなみに鍛冶屋にいくら払えば良いと思いますか」
「銀貨五枚くらいかの」
「高い!」
手持ちの銀貨じゃ無理!
「とにかく、ありがとうございました。大して助けになれなくて……」
「…………」
あれ?
お爺さん?
「もしもし……あの、寝てる?」
お爺さんは寝てしまっていた。裏路地とはいえ、通路の真ん中で寝ていたら、また誰かに乱暴されるかもしれない。私はお爺さんを引っ張り起こそうとした。
「臭っ!?」
酒と、嘔吐物と、何か腐ったものを混ぜた臭いと、獣? 獣の臭いがする。いったいどれ位お風呂に入っていないんだろう。臭いけど、とにかく運ばなきゃ。
私はお爺さんが倒れていたこの場所が、宿屋の裏口の前だと気がついたので、ひとまずここに入ることにした。でも、入った途端に怒鳴られてしまった。
「そいつは昨日の晩、有り金ぜぇんぶ呑んじまったんだ、うちに入れんじゃねぇよ!」
「そんな……。でも、このままじゃお爺さん死んじゃいます! 休憩だけでも! お願いします!」
「……ちっ、中庭に転がしとけ!」
「ありがとうございます」
お爺さん、文無し、なのかな。
中庭には共同の物干場と、井戸があった。誰も居ない。
お爺さんはとりあえず壁際のベンチにもたせかけた。下手に横にしてそのまま死んだら寝覚めが悪い。ありがたく井戸を使わせてもらうことにして、さて、お爺さんの持ち物の中に、何か水を入れられる物がないだろうか?
そう思って、薄っぺらい袋の中身を覗いてみたが、空の財布と、縁に欠けのある木の盃しかなかった。とはいえ、この盃で用は果たせそうだ。私も後で使わせてもらおう。
下手は下手なりに時間をかけて井戸から桶を引っ張り上げた。盃をよく洗ってから水で満たして、お爺さんの口に近づける。ごくごくと喉が上下して、どうやらちゃんと飲めたようだ。お爺さんは目を開いて叫ぶ。
「ふぉぉ、生き返ったわい」
「お酒、あんまり飲みすぎたら体に毒ですよ」
「いやあ、甘露、甘露」
「聞いてない……」
がっくりと項垂れる私をよそに、お爺さんはごくごくお水を飲んでは私が汲み上げた桶の中身を減らしていく。そして、満足したのか私にも盃を差し出してきた。ありがたく受け取り、喉を潤した。
「ひひひ、坊主、本当に助かったわい。名を聞いておこうかの?」
「なまえ……」
困ったな。
「名は、ありません」
「なんと! そりゃいかん。何か自分で自分に名を付けないといかんの」
「別に。必要ないですし」
お爺さんから借りた盃でちびちび水を飲みながら私は答えた。
私にとって、名はもう枷でしかない。私の名を知る者のなかで、会いたいと望む人間は婆やをおいてすでに亡い。
「そういうお爺さんは?」
「ほ?」
「名前」
「はて……。あれ、何じゃったか」
「えー……」
「最近は“雑巾”とか“溝鼠”としか呼ばれておらなんだ」
「うわぁ……」
ひ、ひ、ひ、とか、笑ってる場合ではないと思われる。大丈夫なんだろうか、このお爺さん。
「はてさて、坊主よ、その返り血はさっきのじゃないの」
「っ!」
私はバッと額を押さえた。
ロランの顔と、苦痛に満ちた叫び声が思い出されて、今更ながら酸っぱいものが込み上げてきた。急いで隅の掃き溜めに行き、ぶちまける。しばらくげほげほと咳き込んでいるところにお爺さんが来て、綱を外した桶を差し出してくれた。はしたなくも口をつけて水を含み、ゆすがせてもらった。
「何があったか知らんが、追われているなら、もうちっと人の多いところに逃げ込んだ方が良い」
「……行く場所なんて……」
「ふむ。そうじゃ、探索者として登録することじゃの。それが良いわい」
「……探索者?」
「そうじゃの。荒くれ者の集まりじゃが、身内を売ることは無いと言われておるの」
復讐の場合は別じゃがの。
お爺さんはそう続けた。
「危険と常に隣り合わせ。それに耐えられるかの?」
「強く、なりたい……。危険は承知の上です。わ、......僕にはやらなきゃいけないことがあるから」
そうは言ったものの、やらなきゃいけないことが何なのか、私にも具体的な事は何にも分からなかった。分かっているのは、もう帰れないという事だけ。そして、強くなければ生きていけないということだけだ。
お爺さんは、探索者の集まる店を教えてくれた。道順は必死で覚え込んだ。
それから、登録には名前が必要だからと、ジョーという名前をくれた。お爺さんの弟子ということにしておけと。
最後に、何か仕事を見つけてこいと言われた。お爺さん……師匠には全くお金がないのだ。いざとなれば私が出せるけれど、それは本当に最後の手段にしたい。まぁ、今日見つける予定の仕事があまりにも薄給だと、失った袋などの小物を買うために必要になってしまうのだけど。
ロランの手下に見つかる可能性があったから、路地ごとに立ち止まって様子を窺いながら進んだ。俯いて、小走りで。教わったままに大通りを歩いて酒場までやって来た。
軒先に下がっているのはエールジョッキの絵が描いてある看板と、探索者のシンボルであるという片手剣と金貨の絵が描いてある看板だ。
雨戸が降りているし、重くて頑丈そうな扉のために中の様子は分からない。
扉の前で開けるための覚悟を決めた。大きく息を吸って、吐く。
さて、気持ちは整ったが、これは私の力で開けられるだろうか。右手で引くようになっている、片側にしか開かない扉だ。私が手を掛けた途端、扉が迫ってきて、ぶつかった。思いっきり。
「~~っ!」
言葉も出ない。
尻餅をついて呻いている私に、影が覆い被さった。
「あら、大丈夫ぅ? 可愛いコちゃん」
可愛いコちゃん?
あの、声が野太いんですが、見上げなきゃ、駄目ですか?
お読みくださりありがとうございます。明日も更新します。