危機
宿に戻ると、夕飯もそこそこに、師匠は僕を寝台へ押し込めた。お風呂は明日にすれば良いとまで言われて、渋々ながら従う。【雷撃】の術を使いすぎて倒れるなんてことをして、心配をかけてしまった手前、文句を言うなんて出来ない。おとなしく敷布にくるまる。
師匠は僕がきちんと寝る支度をしたのを見届けて、部屋を出ていってしまった。もちろん、呪文書は師匠の手の中だ。Dには悪いと思うけど、実はちょっとホッとしている。師匠がきちんと僕に術を教えてくれる方が、あんな変態を頼るより何倍も良いのだから。
……寝藁がちくちくする。酷く体を痛めた馬車の旅に比べて、幾分か休まるこの寝床も、緊張していた日々が過ぎれば羊毛の詰まったマットが懐かしくなってくる。買い物をしたので財布の中身はかつかつなんだけど、どうにかしたいことの一つだ。
そういえばまだ縫い物にも取りかかれていない。裁縫は婆やに仕込まれた淑女のたしなみの一つで、リリアンヌのお得意だ。大きな机がないから布を裁つのは難しいかもしれないな。ハサミなんて職人道具はこの宿には置いてないだろうし。
「…………ああっ、もう!!」
ごろんと反対側に転がって、僕は馬鹿げた逃避をやめた。どんなに頑張ってみても、ニールに負けた悔しさがじわじわ染みてきて、体の中が熱い。
……悔しい。爪が食い込むほど拳を握っても、現実は変わらないけれど。奥歯を噛みしめると、我慢していた涙が零れた。
(悔しい……! まさか、かすりもしないなんて……!)
魔術さえあれば、ほとんどの相手に勝てるなんて、とんだ思い上がりだった。ニールに勝てないんじゃ、他の誰にも勝てる訳がない。だから僕は決めた。魔術を使わずにニールに勝つ。まずはそれが目標だと。
ただ、魔術の勉強をしながら体を鍛えるなんて出来るだろうか? ……いきなり強くなれる魔術があれば良いけど、ないのなら師匠が毎晩かけてくれる、疲れが取れる魔術を教えてもらおう。もし、師匠が教えてくれなければ、Dに頼るのも良いかもしれない。とりあえず、明日のために僕は寝ることにした。
朝が来て、鐘の音と共に体を起こす。いつも通りに食事を終え、身支度をし、今晩の宿泊費を支払う。さてと、今日も仕事を探さなきゃ。得意な仕事、苦手な仕事、どれもこなしていかなくちゃ、僕たちみたいな日雇い労働者は生活できない。雨が降って仕事が出来ない日もそのうちあるだろうし、頑張ってお金を貯めなくっちゃ。
師匠を起こそうとして、意外にふさふさの頭上に立てかけるようにして呪文書があった。こっそりと手に取ってみる。ずっしりと重い、革の装丁の本。縦にしたり横にしたりしてみたけれど、何の記名もない本だった。……師匠の名前が分かるかもしれないなぁと思ったんだけれど。いつまでも“溝鼠”じゃあねぇ……。
「ねぇ、D……D? 返事をしてよ……」
………………。まさか、昨日のアレは夢? このままじゃあ僕は本に話しかける変な子どもになってしまう!
僕は焦って、辺りを見回しながらも小声で呼びかけ続けた。
「D、Dってば……!」
『う~~ん、むにゃむにゃ……もう食べられまひぇん……』
何を言っているんだ、この駄本は。
「起きろ、変態呪文書」
『ひどいっ!? あ、ジョーさん、おはようございます。ってか何です? イビキはうるさいし酒臭いし……最悪ですねここ』
「静かにして。みんな起きてきちゃうよ」
『あはは、私の声は他の人には聞こえませんから大丈夫ですよぅ』
「…………」
それってつまり、ぼくはやっぱり本に話しかける変な子どもってコトじゃないか。
『うわ、ここって相部屋じゃないですか。もっといいとこに引っ越しません? こんなんじゃお勉強なんて無理ですよ?』
「……お金なくて」
『だったらキビキビ働いて、お金稼いで個室に移ってくださいな。こう他人が多い空間じゃ、落ち着いて話も出来やしませんもん』
「簡単にはいかないよ……」
『大丈夫、ジョーが酒場でお尻振って踊れば一発でしょ』
「燃やすぞ」
『ヒッ!? ごめんなさい!?』
朝から疲れる……。僕はまだひんやりする窓に腰掛け、よろい戸を開ける。冷たい空気が清涼感を伴って、むわっとする室内のそれと入れ替わる。でもまぁ、寝ている人もいるわけだから、開けっ放しには出来ないけれど。
『ジョーは裁縫も出来るし、文字の読み書きが出来るんですから、それで稼いだらどうです?』
「え? まさか……、そんなことでは稼げないよ。やったことないし」
『物は試しですよ、頑張ってみてください。そんで、私を養ってくださいよぅ。素敵なおうちに住みたいです~。あと、宝石いっぱい買ってください!』
「……はいはい、わかったわかった」
『絶対ですよ!?』
Dは本なのに、おかしいな。とにかく僕は一足先に“探索者の庭”に行くことにした。迷ったけれど、Dは置いていく。ごちゃごちゃ煩いけど置いていく。だって、師匠の持ち物だもの。
女将さんに師匠のことを頼み、僕は商店街に寄り道をすることに決め、いつもと違う道を歩いていた。細い裏通りも少しずつ覚えていこうと思っている。僕が怪我をさせてしまった彼は、もう、王都へ戻っただろうか。もしそうなら、きっと叔父さんたちは僕を殺したくなるくらいに怒っているだろうな……。
「アレクスさん、やっぱり見つかりませんね」
「くそ、あのガキ、どこに居るんだか……。もうこれで娼館はしらみつぶしに探したことになるよな?」
「……そうっすね。金髪の女の子なんて、見ればすぐに分かるのにいないっすね」
「ああ、兄貴になんて言やいいんだか……」
漏れ聞こえる会話。足を止めたのは偶然だった。すでに記憶の彼方に忘れ去った声は最初、誰だかまるで気付かなかった。不穏な声音に体が固まっただけの、そのほんの僅かな合間がきっと僕の生死を分けた。
アレクスという名と、金髪の女の子という言葉が、痛いくらいに心臓に響く。
彼らはロランと一緒にいた奴らだ。そして、もう一人、いるはず。僕はそっとナイフを抜き取った。刺すためじゃない、刃を走らせるための持ち方。鋭い先端が下になるように握り込む。……できれば、気付かずに立ち去ってほしい、これを使うことなく済ませたい。
息をひそめて待つ間が、ひどく長く感じられた。耳の奥がどくん、どくんと責め立てるように煩い。口内の乾きを舌で湿らせながら、僕は待った。
「旦那が待ってるか……。行こう、ダン」
「はい!」
遠ざかる足音が二人分。どうやら、危機は脱したみたいだ。安堵から深く重い息が吐き出されて、僕はストールの上から口許を押さえた。
「あいつら、行ったな」
「!!」
いきなり耳許で弾けた声に、ナイフを構えて振り返る。そこにはニールがいて、僕の手首を掴んで止めた。
「っぶね! 何しやがる」
「……ニール」
肩から、ふっと力が抜けた。ついでに手指からも力が抜けてナイフを落っことしそうになった。
「ジョーを探してる奴らか、あれ」
「……うん。しばらく隠れていたい。見つかると、厄介だから」
「そうだな。じゃあ、やっぱお前は俺と修行だ」
「……はぁ?」
「相手がガキ一人探してるとして、一人きりと二人でいるのとどっちが見つかりにくい?」
「……二人」
「正解!」
歯を見せて笑うニールは、昨日のことなんてなかったように振る舞っている。だったら僕も、変に意識せずにいたほうが良いのかな。ニールとずっと過ごすかどうかは“庭”に着いてから決めるとして、とにかくここから離れたい。僕はニールの腕を取り、ソーンさんの酒場に向かった。