魔術の手ほどき
宿に戻ると、師匠はすぐさま呪文書に飛び付いた。夕飯もあるというのに僕の言葉に全然耳を貸してくれない。仕方がないので読みながらで良いから食べてもらうことにした。
「おお! おっほほほぅ! うひゃひゃひゃひゃ!」
「…………」
「すごい、すごいぞ、ジョー!」
「……師匠、黙って食べて」
「どうやらワシは、ほとんど全部の呪文を忘れておったらしいわ。たまげたの、こりゃ!」
「師匠、食卓に広げてて良いから、黙ってて」
師匠が奇声を上げ、本を食べながら夕食を……いや、違う、そうじゃない。ああもう、宿に泊まっているひとたち皆がこっちを見ている。
「お、また一つ便利な呪文を思い出せたわい。ほれ、見ておれよ、ジョー」
「はいはい」
「ほれほれ、よいかの、この皿を卓にくっつけるぞぃ」
「えー……」
「ちょ、ちょっと!?」
通りがかった女給のお姉さんが、びっくりした顔で師匠の腕を掴んでいた。師匠はそれを宥めるようにお姉さんに笑いかけた。
「大丈夫じゃあ、ちょっとした奇術の類いよ、ちゃあんと後で取れるわい」
「それなら……。でも、あんまり変なことしないでよ、おじいちゃん? 私が女将さんに怒られちゃう」
「ひ、ひ、ひ。心配せんでよいわぃ」
「…………」
師匠はお姉さんの手の甲をすりすりと擦ってにやけている、気がする。お姉さんが行ってしまってからようやく、師匠は僕の視線に気づいたようだ。
「どうした、ジョー」
「……別に」
「そう怒らんでもええじゃろが。ほれ、【固定】じゃ、こうすると動かなくなる。魔力によって時間の長短が変わる」
「……使い方次第では、とても役に立ちそう」
「そうじゃろ、そうじゃろ! ほれ、靴も盗まれんよう床に固定しておけばよいんじゃ。ああ、しかし、朝になってもくっついておって転んでしまうかの? ひ、ひ、ひ!」
「……僕はそんなことにならないよ? 師匠、大丈夫?」
「…………ジョー、ここは笑うところじゃ」
「……そう?」
この夜は、師匠が本を読んでいる間に、いつの間にか僕は寝てしまっていた。師匠ってば、【固定】を教えてくれただけで、「あとちょっとじゃ、すぐ読み終わるからの……」と言って独り占めしてしまったのだ。ひどいなぁ、僕だって読んでみたかった……。
次の日、師匠が選んだ仕事は街の外へ出るものだった。
最初は戸惑った。だって、僕が知っている場所は、宿と“庭”と、浴場。つい昨日は商店街に連れていってもらった。いずれも人が多く、ロランに見つかっても逃げたり隠れたり出来るような場合だった。
けれど、街の外へ行くなら大通りや広場など開けた場所も通らなくてはならない。浴場へ行くときのように裏通りからこそこそと忍んでいくわけにいかないのだ。
「どうした、外は嫌かね」
「……違う。顔だけ、隠しても良い?」
「ええぞ。じゃが、どうやって?」
「………………」
僕は籠にストールを入れて売っている女の子から、生成りの、あまり上等じゃないひと巻きを買った。銀貨一枚と良い値段がしたが、この際仕方がない。今日の賃金が入ればどうにかなる。ロランに見つかっても今の僕なら勝てるかもしれないけれど、会わないに越したことはない。用心しなくては……。
肝心の仕事だけれど、デルタナの領主が持っている畑に夏野菜の種を蒔くために、事前に魔物を追い払うための細工をするというものだった。どうして領主が畑なんて作っているのだろうと思う。作物を作るのは農民の仕事じゃないかと。
村はある程度の高さの壁の中にあって、畑もその中にある。壁の中は少人数でしか暮らせないからだいたい百人、多くても二百人くらいが村の総人口だ。王都からデルタナに来る途中でもそんな村々の壁の隙間を縫うようにして旅をしてきた。
領主の畑についてソーンさんに尋ねてみると、
「夏は適当に植えて放っておいても何かは育つからね。隠し畑も種がなけりゃどうしようもないし。施しみたいなもんなんだろうさ。適当に収穫して適当に酢漬けにしたって、聖火国へ持っていきゃ金になる。
領主にしたら民の歓心も買えて、腹も膨れて金にもなって、ぼろい商売なんだろ」
ソーンさんは何だか嫌そうに言っていた。誰もが喜ぶならば、どうしてそんなに否定的なんだろうか。理由もなく誰かを悪し様に言うひとではないのだから、この態度にも理由がありそうだ。師匠に聞いてみたら、逆にこう返された。
「ジョー、野菜、作物が育つのはよい事じゃが、そのまま放置しておけばどうなる?」
「……獣が寄ってくる?」
「そうじゃ。鼠が来る、兎が来る、そうすればそれを食べる魔物も来る」
「……大きな魔物は街に入れないけど、鼠やムカデは入ってくる」
「そうなるの」
「…………どうしたら、いいのかな?」
「さての。さぁ、仕事じゃ」
「………………」
領主の畑は夏に限って、採れ頃の野菜は好きに持っていって良いから、街の人々はそのまま食べたり保存食にしたりする。だから畑はなくせない。でも、獣や魔物はやってくる。大鼠、大ムカデ、肉食蝿、大牙猪、山犬、山猫、そして小鬼……。小鬼は他の魔物に追い散らされてしまってなかなか畑には来ないらしいけれど、大量に野菜を盗んでいくから良く思われてはいないとか。
地下の下水道出口から魔物は入り込む……。どうにかしようにも、魔物が出る壁の外では長く作業が出来ないから、強化も難しいのだと、行く道すがら師匠は語って聞かせてくれた。
魔物避けになるのは、嫌な臭いの粉だった。何で出来ているんだか、すごく焦げ臭い。
「よしよし、風を起こして撒いてしまおうな。おお、野苺発見じゃ、もう生っておったか! ほれ、ジョーも食べてみぃ、それを撒いたらもう食べられんぞ!」
「う、うん、やってみる……」
初めての作業に戸惑いながら、壁に這うように枝を伸ばしている木々からまだ小振りなそれを摘まんだ。ほんの少ししか実が生っていないのは、それが本当はもっと後に盛りを迎えるものだからだ。口に含んで味わうと、鼻に抜けるのは懐かしい夏の香りで、涙が出るほど酸っぱかった。
師匠に教わった通りに風を起こす。右手を空に翳して横に滑らせると、ごうと音を上げて大気が渦を巻く。力を入れすぎたかと緩めると逆にほどける。なかなかに加減が難しい。
「こうやって、誰もおらん場所で少しずつ試していこうな、ジョー。呪文書にある文字も、少しずつ教えてやろ」
「うん、ありがとうございます、師匠」
「ひ、ひ、ひ。ジョーは勤勉な生徒じゃからの、すぐに追いつかれそうじゃわぃ」
「……そうかなぁ」
師匠は僕のこと、買いかぶりすぎだと思う。それに、余りにも早いこの学習速度はきっと僕の努力じゃない。才能という言葉だけじゃ説明できない、作為的な何かを感じる気がするんだ。
「それと、呪文書は見てもええが、書いてあるものを口に出して読んではならん。そんな事をすれば術が目の前に出てくるぞぃ」
「えっ?」
「絶対に口に出してはならん。最悪、宿がのぅなるわ」
「…………絶対に、しません。約束します」
宿がなくなるのは、困る。
師匠は笑って僕の頭を撫でた。
正午の鐘が鳴るまでには仕事はあらかた片付いていた。今日は師匠の勧めに従って、“探索者の庭”特製のお弁当だった。
プラーノと言う、溶いた小麦粉を熱した鉄板に平たく伸ばして焼いたものに様々なおかずを挟んだもので、一人分として売られているのを師匠と半分こにして食べる。二人とも食が細いのでこれで充分だ。
ニールもソーンさんも、「もっと食べなくちゃダメだ」というけれど、僕はまだ、ここに来て五日目だ。今までの生活の癖が抜けていない。体力作りもたくさん食べるのも、もうちょっとだけ待ってほしい。
ふと隣を見ると、自分の取り分を食べ終えた師匠が盃で何かを飲んでいる。まさか、お酒じゃないよね? 僕は自分の水袋を確かめたけれど、動さかれた様子はない。
「ぷはぁ、水がうまいの! 甘露、甘露!」
「…………師匠、その水どこから?」
「ん? 術で今、出した」
「………………」
がっくりきた。僕が早起きして、頑張って井戸から汲み上げた水が……。水袋も重かったのに……。
僕の苦労はいったい何だったのか……。
「どうした、ジョー」
「……何でもない。でもその術、後で絶対、教えてね」
「ほ? そりゃもちろんええとも!」
師匠のにかっとした笑顔に、自然と僕の頬も弛んだ。
お読みくださりありがとうございます。
ジョーこと、リリアンヌがデルタナの街に来てまだ五日しか経っていないのでした! イベントてんこ盛りすぎですね。作者もびっくり。
ロランさんがようやく死の淵から起き上がったのが五日目なので、彼が聖火国に旅立つのが七日目。しかし旅立つぜとは言ったものの、まだ描写はしておらず…。さて、果たして見つからずに済むんでしょうかね。