呪文書と、御守りと
お姉さんの手によって運ばれてきたのは、縦の長さが一フィートはある木の箱だった。それは遠目にも異様な雰囲気を持っていた。誰かが唾を飲み込む音がした。それはもしかしたら僕のものかもしれなかった。
卓上に置かれ、濃紫の紐がほどかれる。蓋をどけると表れたのは、革の表に玉があしらわれた凝った装丁の本だった。それは錠によって封をされている。
触れなくてもその本から灼けつくような、凍てつくような、そんな奇妙な空気を感じる。体の中が引き攣れていく感覚。これには、魔法の力が宿っているに違いない……!
「置いておくだけでも嫌な品物だよ。欲しがる者は多かったが、誰にやらせても触ることすら出来なかった。お前がこれを持つ事が出来て、即金で小金貨二十枚が払えるんなら、好きに持っていくがいい」
ニールが無言のまま肘で僕を押した。触ってみろ、ということだろうか。僕は右手をそろそろと呪文書に伸ばした。
パチンッ
封印の錠が音を立てて弾け飛んだ。
『これは、私のものだ……』
僕の唇が勝手に動いた気がした。今、言葉を発したのは僕か?
…………怖い。なんだろう、不意打ちで誰かにねっとりと舐められたような気分。体を知らない手で撫で回された気分だ。
……怖い。
「おい、大丈夫か? 本を取れよ。あと、財布から小金貨二十枚用意しねぇと」
「………………ニール、今さっき、僕、何か言った……?」
「あ? えーと、確か、この本は自分のだって言わなかったか?」
「…………そう。なら、良い」
まるで、僕自身を指して、「これ」は私のものだと言われた気がしたんだ。
勘違いなら、それで良い。
「結構な荷物になっちゃったな」
「うん……」
「一度お前の宿か“庭”に戻って、置かせてもらおうぜ」
「そんな事出来るの?」
「金払えばしてくれるとこもあれば、してくれないとこもあるし。逆に只でやってくれるとこは客から抜いてたりすることもあるし」
「……抜くって?」
「そりゃあ……コレだよ」
ニールは人差し指を曲げたり伸ばしたりしつみせた。何のことかさっぱり分からないけれど、馬鹿にされるのは癪に障るので分かったふりをした。
正午の鐘が鳴り、僕たちは顔を見合わせた。お腹も空いてきている。宿に戻ったらお金を払って美味しいごはんが食べられる。ニールを誘ってみようかな……。
「あの、ごはんだけど……」
「メシだけどお前の宿で……」
どうやら同じことを考えていたようだ。ニールが歯を見せて笑う。
「俺たち、気が合うな」
「そうみたい……」
「俺、弟が欲しかったんだよな。だから、ジョーが来て、弟になったのって嬉しいぜ! なぁ、昨日はごめんな。なかったことにして別の女とやり直せよ。な?」
「……うん、ニールもね」
「ん~、誰かいるかな。ガキかババアしかいねーもんな」
「…………そういうこと言っちゃうから」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
宿に師匠は居なかった。お金は少しだけ財布に入れておいたけれど、まさか賭けオービスで無くしてやしないだろうか。心配だ。
昼食はカリカリに炙った川魚だった。檸檬と香草のソースをかけていただく。パンはないけど、代わりにビスケットがついていた。女将さんの手作りだという。固くて齧ることしか出来ないので、ニールの真似をしてソースに浸してふやかして食べた。パンとはまた違う美味しさだった。
「それにしても、まさか兄貴が前金で寄越すとはな~。あんな大金だぜ? しかもこんな依頼までしてさ」
むしゃむしゃと小魚がニールの口の中に消えていく。この細い体なのに驚くほどよく食べる。そして僕にも食べさせてくる。もう無理だよ、夕食が入らなくなっちゃう……。
「ソーンさんは、昔、僕の師匠に世話になったんだって。さっきの本は師匠の物だから、僕たちにお金が足りないのを知って、報酬として用意してくれたんだと思う」
「でもよ~、それだけじゃない気がすんだよな~」
「……僕のことも、気にかけてくれていると思う。何故かは、分からないけど」
「だな! じゃあ、頑張らないといけないぜ」
「うん、頑張る」
荷物は女将さんが無償で預かってくれたので、僕たちはソーンさんに任された仕事を終わらせることが出来た。酒場では使わなさそうな物もたくさん、何に使うのか分からない物もあった。
ニールに聞いてみると、“庭”は探索者が集まるだけじゃなくて、道具の整備や稀少品の売買も行うそうで、そのためには色々必要なんだって。
「ご苦労さん、ジョー。ニールも」
「俺はついでかよ~」
「はいはい。お疲れ様、ニール」
ソーンさんに頭を撫でられて、ニールは「うへぇ」と呻いていたけれど、避けるようなことはしなかった。それどころか、ちょっと嬉しそうにも見える。
それを見ていると、本物の兄弟のようで羨ましくなった。胸に鈍い痛みが走った。
「おお、戻ったか、ジョー」
「……師匠」
陽気な声に振り向くと、きらきらした茶色の瞳に迎えられた。広げられた腕。
……僕の、居場所。
「おかえり」
「……うん、ただいま」
僕は駆け寄って、その胸に額を預けた。清潔なローブは微かに花の匂いがして、ふわふわの髭がくすぐったかった。
「置き手紙もしなくてごめんなさい。女将さんから聞いたとは思うけど、お金を持っていなくなったこと、怒ってる?」
「まさか! ワシはお前さんを信じておるもの。それに、あれを質から出すためにソーンと戦ったんじゃろ? なかなか出来ることではないわい。頑張ったの」
「そんな……。僕は、ただ……」
顔が熱くなる。何と言って良いのか分からない。
「よいよい、さぁ、お前さんに渡すものがあるんじゃ」
「……?」
「ほれ、これじゃよ」
「……石?」
親指の爪ほどの大きさの石、乳白色の中にヒビのようにも見える黒い不規則な模様がある。それを編んだ麻紐で固定して、腕輪のワンポイントに仕立てている。
「これ、は……?」
「ワシが作った」
「師匠が?」
「そうじゃ。今日はフロースの祭日じゃろ? じゃからな、これを、ジョーに。御守りじゃよ」
「……御守り。僕に?」
フロースの祭日なんてすっかり忘れていた。春の祝いに、子どもが無事に育つようにお祈りをするひとも多い。この春はいつもより寒くて、双星の主座に入るというのに風が冷たかったから、暦を見なくなっていた間にこんなに経っていたなんて……。
掌に乗せられた小さな輪。不思議な温もりを持つそれを、左の手首に通した。まるで最初からそこにあったようにしっくりくる。
「ありがとう、師匠」
「ひ、ひ、ひ」
「笑え、馬鹿!」
「うわっ」
ニールが後ろから腕を回してきた。その右手首には同じく麻紐の、真っ黒な石が填まった腕輪があった。もしかしてソーンさんに貰ったのかな?
「礼を言うときは笑うもんだぜ、ジョー」
「……ニール」
「笑え、ほら、笑えって」
「むぃ……」
ほっぺたが痛い。引っ張るのをやめてほしい。
「どうせだからここでメシも食ってけよ。奢るぜ、それくらい」
「……うん」
「あ、でも先に風呂な、風呂」
「!」
お風呂は……良くない。とっても良くない。
「……あ、ごめん、ニール。僕は宿に帰らなきゃ。ごはんを用意してもらうようになってるんだ」
「ちぇっ、付き合いわりぃの!」
「……ごめん」
「次は逃がさねぇぞ。明日も来いよな!」
「うん。仕事しなくちゃいけないから」
「じゃあ、明日な!」
「また明日……」
断ってしまったら怒ると思ったけれど、ニールは唇を尖らせて文句を言っただけで許してくれた。せっかく仲良くなった彼を失わなくて良かったと、ほっとしている自分がいた。「また、明日」と、そう言って別れたことなんてなかった。……何て心地よい響きだろうか。
明日が来ることを楽しみに待つなんて、考えたことがなかった。明日が来ることが嬉しいなんて、そう思えるなんて、どうしよう、まるで夢を見ているみたいだ。そんな素敵な夢を見ることすら少ないけれど。
師匠の歩調に合わせてゆっくり宿への道を辿りながら、僕は嬉しくて仕方がなかった。
「師匠、僕、友達が出来たみたい……」
「ほぅ、そりゃ良かった」
「うん。師匠は今日は何してたの?」
「ワシか……。う~ん、そうそう、御守りを作ったわ。昼抜きじゃから、はよ夕飯にしよう」
「……銀貨二枚、残しておいたよね?」
「ひ、ひ、ひ。ワシが賭けた奴がみぃんな負けよっての」
「師匠……」
お読みくださりありがとうございます。明日10日月曜日は更新をお休みさせていただきます。
※一フィートは三十センチです。この世界の本としては標準サイズです。
ジョーの腕輪の石はホワイト・ハウライトで、効果は「激しい感情を鎮静させる、外からぶつけられる激しい感情から守ってくれる」というもの。また、忍耐力も養ってくれるそうです。宝石言葉には「純粋な血筋」という意味もあるそう。
ニールの腕輪の石はブラック・オニキスで、効果は「意思を強くし正しい判断力を与える、他人の悪意を跳ね返す」というもの。また、目標を達成するための忍耐力を養うそうです。宝石言葉は「成功、厄除け、夫婦の幸福、秘密」です。
何やら暗示的ですが適当に選びました。