油断
馬車に揺られていてふと気づく。こんな風にボーッとしている場合じゃない。大手門に着くまで時間がないんだ。
私は準備として、ブーツの中に硬貨を何枚か押し込むことにした。婆やが言っていた。レディはもしもの時に備えて貴重品を肌着に縫い込んでおくものだと。下着は私のものではないので縫い込んではいない。革のベストでは落ちそうだし、ズボンは釦を外してはめてでは時間がかかりすぎる。苦肉の策だった。
予想通り、ほんの五枚入れたくらいで馬車は乱暴に止まった。急いで財布の紐を締め、ずだ袋に放り込んでおく。
「立て」
ひとこともなく扉を開けると、男は命令した。
私が立つと、彼は私の腰に剣帯を巻き、小剣を提げさせた。そしてずだ袋を私の胸に押し付けると、顎で「降りろ」と示した。
「私はこれからどうなるの?」
「口のきき方に気をつけろ。お前はもう女じゃないんだ」
「……わかりました」
私の答えに彼は苛ついたような舌打ちで応えた。
何がいけないのか分からない。
首を傾げた私のことが気に入らなかったのだろう、男は私の首もとのシャツを掴んで、ぐいっと引き寄せた。息が詰まる! そのままガクガクと揺すぶられてびっくりして言葉が出なかった。
「!」
「良いか、よく聞け! これから幾人かで組を作り、それぞれ動く。だが、お前は一人きりだ。何故か? お前の正体を知られちゃならんからだ」
「っ!」
「一人でいる奴は狙われる。そんな新品の鎧や服じゃ、すぐに路地裏に引きづり込まれてひん剥かれるのがオチだが、その時、そんな喋り方じゃすぐに女と分かるぞ! そうしたら、娼館に売られて、そこで、終・わ・り・だ!!」
最後の言葉と共に、私は投げ出された。肩から落ちて、頭を少し打ってしまう。
「ぐっ、げほっ、えほっ…!」
地面の、湿ったカビの臭いが鼻を満たす。
喉に火がついたように痛かった……。
「逃げられんぞ。死にたくないなら、賢く立ち回れ」
「うっ……くっ……」
「泣いている暇はない、立て!」
そう、泣いてなど、いられない。
私はまだ死にたくはないのだから……。
大手門には、すでに十人かそこらの少年たちがいた。見たところ、私より小さい子どもはいないようだ。皆、私と同じような格好だった。もう、四、五人で集まって話している者たちもいる。
幌馬車が三台あり、兵士が側に立っていた。大手門から伸びる道は三本、もしかしてそれぞれ別方向へ乗っていくのか。
私は、最後に叔父の部下に何か言っておかなくてはいけない気がした。しかし、振り向くとそこにはもう彼はいなかった。ほっとしたような、残念なような。ざわつく胸をベストの上から撫でた。
「レイモン・リドル子爵令息であるか?」
「はい……」
「一番右手の馬車へ乗りたまえ」
「はい」
馬車には四人の少年がいた。後ろで幌が閉まったので私で最後のようだ。
「……よ、よろしく」
「…………」
鼻を鳴らされただけで視線を逸らされた。挨拶はしてくれないみたいだ。期待はしてない、と言ったら嘘になる。けど、どうせ一人旅だし、私は彼らの仲間になれないんだから、文句を言うのも違う気がする。私は黙って開いた場所に座った。
それから、馬車に揺られ続けて二日間。休憩を挟みながらだったけれど、かなり辛かった。道がでこぼこでお尻が痛いし、夜は野宿だし、着のみ着のままで顔を拭くのがやっとだし。……同乗者は内輪話をしていてこちらを見てはにやにやしているだけだし。ため息しか出ない。
でも、夜に火を囲むのも、初めて見上げた外の夜空も、朝焼けも、どれもが楽しかった。
自由になれた気がした。
同乗者の四人はお互いに顔見知りのようで、いつも固まって行動している。彼らのうち、三人はもう成人済みに見えた。一番背が高いのは赤毛をうなじでくくったひょろひょろした人だ。アレクスと呼ばれていて、すごく冷たい感じで近寄りがたい。
一番強そうなのは黒い髪に浅黒い肌をした、ロランという人で、四人のうちではきっと彼がリーダーだ。偉そうだし、もう一人のがっしりした人とぶつかりあいっこしてもビクともしないくらいに強い。ただ、彼のこちらをじっと見てくる目は、何だか全て見透かされていそうで嫌だった。
後の二人は大柄の男の人と私と同じくらいの少年だ。大きい人は年がすごく上に見える。見た目はいかついし不機嫌そうで、小さな目をぎょろぎょろさせているけれど、他の二人を叱ったり、ダンという少年の失敗を庇ったりしていた。ガストンというらしい。優しい人なんだろうか。
デルタナの街に着いて、馬車はすぐに引き返していった。私はここまで送ってくれた兵士に挨拶をして、彼を見送った。ここからが本当の始まりだ。まずは聖堂教会を訪ねて、導師様にどうしたら良いか教えを乞うのが良いんじゃないだろうか。
よく思いついたと自分を褒めたい。そうと決まれば早速探そう。
「おい、お前、ちょっとこっちに来い」
声に振り返ると、四人のうちの一番下っ端の少年が私を呼んでいる。どうやら私に用事があるらしい。いったい何の用だろう。
「こっちこっち、早く来いったら……」
手招きする少年。後の三人はどうしたんだろう。街を入ってすぐの、脇にある川の土手から呼んでいる。どうやら土手の下に見せたいものでもあるらしかった。
私が側に行くと、そばかすの目立つその少年は、橋の下にいる三人を指した。馬車がすれ違えるくらい大きな石造りの堅牢な橋は、河の両端と真ん中の三ヶ所を柱で支えられている。その一番こちら側の橋脚に隠れるようにして三人が居た。
ここからじゃ、何をしているのかよく見えない……。
「へへ、あいつらが見せたいものがあるってさ」
「何を?」
「知らないよ。なんかだよ、なんか」
嫌だったけれど、私は橋の下まで行くことにした。そうしないとこのダンとか言う少年に手を掴まれそうだったからだ。
警戒していれば、すぐに逃げ出せるはず。三人のうち二人は座っているし、距離を取っていれば……
「あっ……!」
不意に、背中から押されて私は土手を転がった。
しまった、後ろの一人を忘れてた!
頭を守るのに精一杯で、とうとう止まりきれずに河原まで落ちてきてしまう。体中痛い。どこか骨が折れてたりしなきゃいいけど……。痛い、ひりひりする。腕や足をさすって呻いていると、じゃりっと音がして影が差す。
「ぁ……」
「よぉ、オマエのことはレイモンの奴から聞いてるぜ」
血の気の引く音を聞くのは、これで何度目だろう。
私の馬鹿……うかつすぎる。
私の前に立ったのは、大柄な、そう、ロランだった。立ち上がろうとしたところを頭を踏まれて、また地面に鼻をこする羽目になった。容赦も迷いもなかった。こういうことに手馴れているんだろう。嫌な感じで胸がざわざわ落ち着かない。心臓が早くなって、額に汗が滲んだ。
「ちっ、しけてんな」
ずだ袋の中身は、すでに戦利品の扱いで漁られているようだ。悔しくて涙が滲んでくる。
「はな……して……!」
「オマエ、女なんだって?」
「…………!」
「レイにも言われてんだよ……オレ達が守ってやろうと思ってさ」
「い、や……!」
「はは、よく分かってる!」
頭を抑えていた重みが外れたと思ったら、胸を蹴上げられて、私は砂利の上を転がった。痛い。でも、そんなこと思ってる場合じゃない!
ロランは仰向けの私の上に跨がってきた。
腰の小剣が、抜けない。嫌だ、早くなんとかしないと……!
「騒ぐなよ、これ以上痛い目みたくないだろ?」
にやりと、ロランの顔が醜く歪んだ。
ロランの手が私の顎に伸び、ぐいっと上を向かされる。同時に下半身のベルトに手をかけられて、彼が何をする気か、分かってしまって、体の芯が冷えた。
かつて、庭師の男が私に触れそうになったときと同じだ。
頭の中で、「もしもの時は、ナイフか何かで突いておやりなさい、そうすりゃ逃げていきますからね」と、私を抱き締めて言う婆やの声がした。私は誰にも触れることを許してはいけないのだそうだ。そのためには……。
私は、咄嗟にベストに手を入れて、引き抜いたナイフをロランの顔目掛けて突き出した。
「ぐああぁぁあああ!」
嫌な手応え。
何かが私の顔に飛び散った。
ロランは右目のあたりを押さえて地面を転げ回っていた。
……何が起こったの?
でも、逃げるなら、今しかない。
「くっそぉぉぉ!」
「ろ、ロランさん!?」
「てめ、待てこらぁ!」
私はナイフを握りしめたまま、這って土手を登った。途中、何かを蹴り払った気もする。もう、何がなんだか、分からないまま、走って走って走り続けた。そして、気がついたら何処かの路地裏だった。
肺が、縮んだまま空気を中に入れてくれないみたいだ。頭がガンガンして、顔が熱くてたまらない。水が欲しい。水袋……ああ、あいつらに盗られたんだった。寄りかかった石の壁が冷たくて気持ちいい……。
いつまでそうしていただろうか。
誰も追ってこない。
私はようやく立ち上がることができた。足が、ガクガクする。だが、ここに居ても仕方がない。何処か、安全な場所を探さなくては……。荷物は全部なくしてしまった。あるのはブーツの中の数枚の硬貨と、小さなナイフと、身に着けているものだけだ。小剣と厚革のベストがあるだけ浮浪者よりマシだ。いや、私も浮浪者か。
ふと、曲がり角の向こうから、野太い男の怒鳴り声がして、私は身を固くした。
ホットスタートというか炎上ですね、これじゃ。
お読みくださりありがとうございます。明日も更新します。