円の内側 上
鐘の音で目が覚めた。階下からはスープの良い匂いがする。揺すっても起きない師匠はさておき、荷物を全て検めることから始めた。僕の持ち物はといえば、着ている服と貸してもらった下着、長靴、ナイフ。革のベストとショートソード。折れてしまって半端な長さの棒。ソーンさんにもらった高級石鹸、洗って乾かした下着、そして剥き出しの硬貨。元から持っていた小金貨と銀貨に、初日の仕事で得た銀貨と武具を売って中古品に替えたことで得たお金、そこから風呂に使ったお金を引いたら残りは小金貨が六枚、四分銀貨が三枚残った。これが僕の持ち物の全てだ。
師匠の持ち物といえば、清潔なローブ、多分……下着、短靴、空の財布、空の陶製の酒瓶、ふち欠けのある木の盃、ずだ袋。今はそれに汚れきったローブが追加されたくらいか。見たところ借り物だった楽器はきちんと返してきたようだ。師匠の寝床を漁ってみると、財布の中身が随分と膨らんでいた。
思い出そう。師匠は昨日、ムカデ退治で小金貨を十二枚と銀貨を三枚貰ったと言っていた。財布にはそれ以上ある。夕飯代と槍の加工の代金とで四枚の銀貨が減った。そして楽器を借りるために買った小間物のせいで小金貨一枚が減った。だから、小金貨十枚と銀貨が九枚残っていたはずだ。僕は部屋の隅の床に財布の中身をこっそり空けた。なるたけ音をさせないように。
さて、増えていた硬貨は、銀貨が二十二枚と、銅貨が十五枚だった。僕の分と合わせると、小金貨十六枚、銀貨三十一枚、四分銀貨三枚、銅貨十五枚だ。……足りない。あと銀貨が九枚足りない……! そして今日からは宿の代金も食事代も、自分たちで払わなければならないのだ。
「困った、な……」
ここは“庭”に行ってソーンさんに仕事を貰うべきなのか。でも、今日こそは昼間のうちに買い物をしておかないと、財布がなくて長靴に押し込めておくのはいい加減、嫌だ。
考えているうちにお腹が鳴って、そういえば夕飯をほとんど入れていなかったなぁと思い出す。まずは朝食、そしていつも通りに後片付けを手伝って、今日の宿泊費を払っておくべきだろう。今日もここで夕食をいただいて、明日の朝食を摂りたいならば。
階下で温かいスープを美味しくいただく。「卵を少しだけもらったから、おまけよ」とお姉さんが焼いた卵を食べさせてくれた。お礼を言い、宿の前を掃き清めた。そして敷布も洗って干す。師匠の汚れたローブは洗っても洗っても、黒い水を増やすだけで綺麗にならなかった。目が覚めてから次の鐘までの一刻の間の半分くらいを洗濯に使った気がする。最終的に、濃い灰色をしていたまだらのローブは、暖炉の灰のような白っぽい色になっていた。…………師匠のばか。
師匠が起きてきたら冷めていても良いからごはんを食べさせてやってほしいと女将さんに頼み、ついでに一泊の代金を先払いしておいた。女将さんは、僕と師匠は食べる量も少ないし、手伝いもしてくれるからと銀貨一枚まけてくれて、二人で銀貨五枚にしてくれた。
「あの、ありがとう、ございます……」
「いいんだよ。あ、その代わり、代書してもらいたいときオマケしておくれよ」
「はい、喜んで」
ちゃんと考えた上での割り引きだったようだ。女将さん、商売上手だ。
買い物に行く前に、ソーンさんの所へ寄ることにし、“庭”へ向かった。ああ、壁を乗り越えられたら楽なのになぁ。ソーンさんに借りた服のお礼を言わなくちゃ。洗って乾いたら返すことも忘れずに。
厚い木の扉を体重を乗せて押し開けると、やはりというか、ここは賑やかだった。……主に悪い意味でだけど。
「っしゃあ! やったれ!!」
「そこだ、バルクスー!!」
「頼む、頼むぜジャックぅ……」
すごい人だかりだ。何しているんだろう。興奮した男のひとたちが何かを握りしめて人の中心に向かって叫んでいる。それだけじゃない、吼えるような男の声もする。その正体を確かめようと隙間を縫って内側に入っていくと……
「うらぁっ!」
「ぐあっ!?」
下着一枚の男のひと二人が、丸い仕切りの内側で戦っていた。まさに今、一方がもう一方の腕を取り、引き倒して仕切りの外側に転がしたところだった。ギトギトになるくらいに油を塗り込んだ体から飛び散る汗、狂喜の叫びと落胆の嘆き。
帰ろう、今すぐに。
「あら、来たんだね」
「あ……。ああ、ソーンさん……」
人が交雑する中、声をかけてきたソーンさんは紫色の下履き一枚と関節を覆う革当てだけで、体は油で光っており、髪の毛も三つ編みにして垂らしていた。つまり、臨戦態勢ってことなんだろう。
「嫌そうにしなくたっていいじゃないの。アンタも見ていきなよ。次はアタシの番なんだ」
「はぁ、別に、僕は……。貸してもらった師匠のローブと下着のお礼に来ただけで……」
「あら、そりゃご丁寧にどうも。あれ、返さなくてもいいからね」
「そういうわけには…………。でも、うん、じゃあ、ありがたくいただきます」
よく考えれば下着だしね。ソーンさんには何か別のものでお返ししよう。
「今日はお仕事しないんですか?」
「ああ、まあね。今日は祭日だからさ。もしかして仕事探しに来たんだ?」
「宿に泊まるのもお金がかかるし、今日は買い物をして明日から、探そうかと。魔物退治とか」
「ハハハッ、そりゃまた大きく出たね。けど、どうだろうね。実力が未知数の相手に依頼人がつくかどうか」
「…………」
ソーンさんは酒場を見回しながら言った。大勢の大人たち。みな、筋肉質で、体に無数の傷があって、自信に満ちた表情と風格を持っているように見える。対する僕ときたら、鍛えてもいない子どもで、一緒に仕事をするのは何歳になるかも分からない老人だけ。僕ならきっと依頼しない。溜め息が出る。
「ところでソーンさん、これ、何なんですか?」
「おや、オービスを知らない? まあ、そっか。なに、簡単な遊びだよ。円の内側で戦って、相手を外側に出したら勝ち。武器は使っちゃ駄目だけど、他には何の縛りもない。で、今やってるのは賭けオービスさ」
賭け事。つまり、泣いている観衆が握りしめているのが負けた方の札で、大喜びしているひとがカウンターに叩きつけているのが勝った方の札か。
「ソーンさん、これって何時までやってるの?」
「だいたい、六つの鐘までかしら。その頃にゃ酒も入ってぐだぐだよ」
「……師匠が来ても、お金貸さないでね」
「あっはっは、あのジジィはいっつもスるからねぇ!」
「やっぱり?」
そうじゃないかと思った。お金持って出て良かった。でも不安だから早く買い物して帰ろう……。
「昨日はなかなか稼いでたみたいじゃないか。そりゃ賭けで失くしたくはないよね」
「目標額には、届かなかったけど」
「うん? そっか、駄目だったか。アタシに賭けなって言いたいとこだが、アタシが勝っても戻り率が悪いんだよね。銀貨十枚につき銅貨一枚っきゃ戻ってこないのさ」
それは、ソーンさんがすごく強いってことなんだろうな。賭けてもあまり旨みがなさそうだ。ああ、でも、確実に稼げるならソーンさんに賭けるひともいるかもしれない。
「ところでアンタ雰囲気変わった?」
「……覚悟が、決まったから」
「なるほどね」
ソーンさんは僕の髪の毛をくしゃくしゃにした。
「あんま無茶すんじゃないよ。昨日は怖い目にあったんだし、泣いてるかと思ったけど、逆にずんずん危険な方に足を踏み出してる気がするよ。ちょっと立ち止まってよく考えてみても……」
「それは無理」
「…………」
「強くなきゃ何も出来ない。せめて、誰にもちょっかいをかけられないように、自分の身は自分で守れるようにならないと」
「ふぅん。なら、見せておくれよ。ジジィ直伝の魔術の腕前をさ。オービスに参加しな」
「……僕が?」
「ああ。服は脱ぐ必要はないから大丈夫さ。ニールに食らわした技、アタシにやってみな」
「えっ」
どうしよう……。大変なことになってしまった。
お読みくださりありがとうございます。こんなところで切れてしまいますが明日3日月曜日は更新をお休みさせていただきます。
六つの鐘=14時です。こんな時間から飲むな、自由人ども。