決意 ★
熱気のこもった酒場から逃げ出し、裏口の石段に腰を下ろした。剥き出しの手足が少し寒いけれど、今は頭を冷やしたい気分だったからちょうど良かった。涙が勝手に溢れて止まらない。どうしよう、苦しくて痛い。
母様……! 母様、母様!
もう顔も声も思い出せない。
優しかった。撫でてくれた。髪を結ってくれた。抱き締められたら良い匂いがした。ずっと側に居てくれると信じてた……!
「……うっ!」
嗚咽を飲み込む。そうしないと泣いてしまうから……。こんな所で声を上げて泣くわけにはいかない。暗い石畳をぽつぽつと濡らす雫を何とか止めたくて、私は両手で自分の肩を抱いた。ぎゅっと爪を立てた腕が痛かった。痛くていい……もっと痛くてもいいから、涙を止めて……。
「大丈夫か? どっか痛いのか?」
降ってきた声に顔を上げると、そこには私と同じ歳くらいの男の子が立っていた。裏口の隙間から漏れる光でその顔は何とか判別できる。茶色い髪に茶色い目、そばかすの浮いた鼻はすっきりと通って、心配そうな、それでいてどこか楽しそうな表情だ。革のチュニックから伸びる手足は細くて軽やかそう。彼はぺったんこに履き潰した布の靴で音もなく歩みを進めると、私の隣に腰を下ろした。
「どこが痛い? おなか?」
「え……ちがう……」
「じゃあ頭か?」
私が首を横に振ると、彼は私の両手を取って、温かい掌に包み込んでくれた。
「もう泣くなよ。泣いたら幸せが逃げちゃうんだぞ」
「あ……」
にかっと歯を見せて笑う彼に、お礼を言おうとしたその言葉は塞がれてしまった。一瞬のことで体が、頭が、何が起こったのかを理解しないまま、温かい舌が私の唇を舐めた。
「!?」
「おっと!」
思いっきり突き飛ばして。
彼が僅かな段差を落ちて手が離れた隙に逃げた。
宿を目指して走った。めちゃくちゃに手足を振って。汚された唇を手の甲で拭う。何度も、何度も。心臓が煩い。破裂してしまいそう。いっそ破裂してしまえばいいのに……!
涙で前が見えずに、店の灯りのオレンジ色が歪む。不意に何か大きな物にぶつかって足がもつれた。
「ってぇなあ!! なんだ? 女?」
「ガキだ。捕まえようぜ」
「っ……!」
まばたきの間に涙は払い落とされ、こちらへ伸ばされる男たちの手がはっきり見えた。捕まったら終わると、そんな確信からそれら全てを避けていく。けれど、相手がいくら酔っぱらいでも二人相手では難しく、かすった指先で薄物がビリビリと破れた。下卑た笑い声が耳を侵す。
「よっしゃ、捕まえた!」
「やだっ……!」
(師匠……!)
左腕を取られて心の中で助けを求めて叫んだとき、
「やめろ! そいつを離せ!」
……現れたのは先ほどの少年だった。いきなりの乱入者に男たちの動きが止まった。私は逃れようと身を捩るけれどもビクともしない。立ちはだかった彼を見る。細い手足、小さい体、どう考えても勝てないだろうに、それでも私を助けるために……?
「ひっこんでろ、餓鬼」
「そうはいくか。それは俺の女だ!」
少年の言葉に、張り詰めていた糸が切れてしまったような、そんな思いがした。
そうか、彼も私を物のように扱うのか。
誰も彼も、皆、女だという理由だけで、私を好きに出来るとでも思っているのか。
女には何も出来ないと? いいだろう、反撃されないと理解できないというのなら、死なない程度に痛い目を見るがいい!
「……【雷撃】」
「うおっ!?」
「ふがっ」
触れた指先から流し込んだ衝撃に、男たちが妙な声を上げて倒れ込む。何が起こったのかも分からずに、しばらくここで寝ていればいい。そして、突然の出来事に呆然とする少年に向けて、私は右手の人差し指を突き出した。
……師匠は離れた場所の鼠にも当てていた。師匠に出来ることが私に出来ないはずがない。
「え? ええっ?」
「くらえ、【雷撃】!」
迸った衝撃はまるで私自身の怒りのように彼に突き刺さった。
暗い室内に明かりが差し込む。敷布に包まった私にはその人物が誰だか見なくても分かった。まだ他に誰もいない相部屋の、昨日と同じ場所に腰を下ろす気配。師匠は荷物を藁に埋めているようだった。
「ジョー、帰ってこんから心配したぞぃ」
「……ごめんなさい」
「どうしたんじゃ? まさか……何かあったんかい?」
「師匠…」
心配そうな声色に、私の涙が再び溢れてきた。
「私……もうお嫁に行けない……」
「ふぁ? な、何を言うておるんじゃ?」
「汚されちゃったの…だから、どうしよう…。師匠、もう私、女の子でなんていたくないよ…!」
「なんと…! なんとまぁ…」
私は師匠の腕の中でしばらく撫でられるままになっていた。よしよし、とまるで馬を宥めるように全身を掌で擦られると、一人、悔しさに涙していた痛みが薄らいでいく気がする。清潔なローブが触れた頬に心地よい。帰ってきたんだという安心感が、奥歯から細かな震えを取り去ってくれた。
「何があったんじゃ…? 言える範囲で良いから、ワシに教えてみんか?」
「あのね……」
“探索者の庭”を出て、宿に帰ってくるまでのことをゆっくりと話したら、師匠は黙ってしまった。そうだよね、こんな酷いこと…何て言ったら良いかなんて分からないよね。婆やなら、私に何て言ったかしら。
「……力、勝手に使ってごめんなさい。でも、でも……私……!」
「よいよい。使うべきときじゃったんじゃよ。お前さんが無事で本当に良かった……。赤ん坊が出来たらどうしようかと焦ったわい」
「赤ちゃん? キスしたから出来ちゃうの?」
「ないない。ほれ、落ち着くまでもうちょっとこうしておれ……。はぁ、良かったわい」
「師匠……。師匠、お嫁に行けなくなっちゃったから、私、これからどうすると良い?」
「ジョー……」
「はい」
私は師匠の丸い茶色の目を見上げた。困惑したようなその表情に、私も居ずまいを正した。けれど、師匠は白い口髭をもごもごさせると、とんでもないことを言い出したのだった。
「何とも、ただの口吸いじゃし、嫁に行けないとかそんな風に難しく考えんでもええわい」
「!」
「野犬に咬まれたと思って忘れてしまえぃ」
「……犬に咬まれたら、普通は痛くて忘れられませんよ、師匠」
「う~ん、ワシゃもう寝る!」
「ひどい、ひどいよ師匠! 私、私は本当に嫌だったのに! いきなりあんなことされて……びっくりしたのに……。師匠ったら!!」
敷布の上に体を丸めた師匠は、どうやら演技ではなく寝てしまったらしく、多少揺さぶったくらいじゃ起きてくれなかった。師匠の馬鹿……。師匠なら、私のために怒ってくれると思ったのに……。
窓を開いて空を見上げると、細い月が弱々しい光を放っていた。ぼんやりとその青銀を眺め、ふと、私は頭飾りがついたままなのに気が付いた。服もまだ破れた薄布のままだ。
今の私の心と同じくらいに萎んでしまったお月様。けれど泣きたくなかった。弱いままでいたくなかった。ロランに引き倒されたときには恐怖しか感じなかった、でも今日は違う。私は怒った。
咄嗟に反撃したのではなく、明確な意思で力を行使したのだ。理不尽な暴力には屈服しない。魔物と戦い、ひとと戦い、私は生まれて初めて、強くなるということがどんなことなのか、きちんと理解出来た気がした。
「強くなりたい……。もう、女の子なんてやめる。明日からは、私は、ジョー。ただの、ジョー、だよ……!」
女であることで辛い思いをするならば、女でなんていたくない。もう絶対、誰にも女だと分からないように、僕は、自分を偽って生きていく。
師匠の持ち帰った荷物から、服と厚革のベストを出して着こんだ。ナイフを確認し、それから寝床に潜り込む。頭が冷えきったように醒めていて、眠れないかと思ったのに、いつの間にか瞼が閉じていた。
お読みくださりありがとうございます。明日も更新します。
★以下、小話
ロラン 「ハッ! キスくらいで妊娠してたら今頃オレにはどんだけガキがいるんだよ!」
アレクス「言えてる! 俺にも数えきれないくらいいることになるw でも兄貴なら本当に隠し子の一人や二人いたりして…」
ロラン 「オレはそんなヘマしねぇよ! お前こそ!」
アレクス「ないない。あ、じゃあ旦那は…」
ロラン 「ガストンはないな」
アレクス「ダンもないだろうし。あれ?」
ガストン「……………」
この後めちゃくちゃ叱られた。