魔物退治 上
この話を食事中に読むことは、やめた方が良い気がします。用法・用量を守って正しい読書をお楽しみください。
酷い臭いが立ち上ぼり、私の鼻をこれ以上ないくらい虐めている。どうして師匠もソーンさんも平気な顔をしていられるのか不思議だ。
「臭いです……」
「鼻を覆ってなって」
「それでも臭いものは臭いです……」
「ん~? ワシゃ気にならんぞ」
「ジイさん自体が臭いんだからそりゃ気になんないでしょうよ!」
「そりゃそうだ! あっはは!」
「そうかの? まぁええわい」
ソーンさんが言い、小父さんたちが笑う。師匠は不思議そうな顔で首を傾げていた。
良くはない。良くはないよ?
師匠はもうちょっと格好とか臭いとかに気を使った方が良いよ!
そうしている間にも浴場から温かいお湯がどんどん流れてくる。作業のために湯量は絞られているので足を取られるほどではない。私たちは地下への入り口に立っていた。デルタナを二分するように河が流れているのだけれど、下水道はその川とちょうどクロスするように作られているという。計画的に段差をつけて造られたデルタナの街は、河よりも上の地区は浴場からの排水で押し流し、河よりも下にある地域は流れを引いてきて流し続けている。下水道も管理しやすいように大きく造られたのだとか。下水の処理のための大きな建物があると聞いて、王都のベトナスよりも綺麗なんじゃないかと思った。
街路よりもぐっと深い六フィート下にある下水道へは階段を下りていく必要がある。浴場からの排水口は街路とほぼ同じ高さにあるから、ここから勢い良くお湯が噴出していた昨日は大迫力だったなぁと思い出だす。見上げたらなおさらその印象が強い。
下水道の幅は大人の足で六歩ほど、およそ二十フィートになるだろうか、高さよりも横幅の方が広いのは、中央の溝が汚水を溜め込みそれがゆっくりと処理場へ流れていくからだ。今は水が制限されているため、ぬめった壁面が見えている。既に子どもたちが壁に打ち付けられた足場を使って溝に降り、長柄のブラシで汚れをこそいでいた。
「溝に落ちるんじゃないよ。アンタの身長くらいあるんだから」
「は、はい……」
思わず足に巻いてもらった荒縄を確かめる。滑り落ちたら……死んじゃうかも。
半円に形作られた地下への道はひとが入らないように格子が嵌まっていた。それを鍵で外して中に入る。ここからが本格的な仕事だ。あの大きな鼠の親玉はどこまで大きいんだろう。
生き物を殺すのは初めてだ。それが害のある鼠であっても、軽々しくは扱いたくない。
この街のひとのために、鼠には居てもらっては困るのだ。赤ちゃんやお母さんが安心して眠るために、ごめんなさい、あなたたちを退治します……!
角灯と松明が照らす地下道を歩いていく。ソーンさんの言っていた他の二組は別の出入り口から入ったようで顔も合わせなかった。時折鼠を見ては仕留めるということを繰り返している。私も即席の槍で突いてみたけれど、当たっても命を奪うまではいかなかった。
「また逃げた! お前、もうちょっとちゃんと突け」
「ごめんなさい」
「当たるだけマシだが……一応退治しに来たんだからな」
「……はい」
鼠は鳴き声を上げて明かりの範囲から外れてしまった。
一緒のチームの小父さんが唸る。ごめんなさい、わざとじゃないんです。
「おかしいねぇ……」
「兄貴?」
「少なすぎんだよね。こりゃもしかして……」
ソーンさんが首をひねるのと、師匠が私に合図したのはほぼ同時だった。
「来るぞい。ジョーは急いで……」
背後でザバッと水を跳ね上げる音がしたかと、フワッという浮遊感がして、視界が激しく揺さぶられた。
「ああああぁぁぁ!?」
かん高い悲鳴が聞こえて、それが自分の口から漏れているのだと気付くのに長くはかからなかった。
「ジョー!」
師匠の慌てた顔が見下ろせる。天井近くまで何かに持ち上げられてしまっている。首の後ろ、服のだぶつきだか何かに引っ掛かったんだろうか。それも束の間、私は急降下した。
「っ!!?」
舌を噛まないで済んで良かった。冷や水を浴びせられたように体が動かない。槍を持つ手も握りしめているんじゃなくて固まって動かないだけ。
何かが軋る音がすごく煩い。ぶんと振り回される私の目に入ったのは……! 巨大な、余りにも巨大なムカデの体だった。
「ぐあああっ!?」
「レンデル!」
「松明じゃ、松明を押し付けるんじゃ」
悲鳴と、誰かの名を呼ぶ声。師匠の言葉。そうだ、そのために松明を持って入ったんでしょう? でも待って、私はどうなるの!?
「おりゃあっ!」
「――――――――――!!」
異臭どころじゃない、息が出来なくなるほどの焦げ臭い空気が無理やり胸に入り込んできて、私は突き上げるような嘔吐感に驚いて戻してしまった。涙も一緒に溢れてくる。家を追い出されてからの数日で吐くのも慣れっこに成ってしまっている事実にこそ泣きそうだ。
その間にもこの大ムカデは痛みのためにか身を捩り、暴れまわった。上下左右に揺すぶられ、いつ落ちるか気が気じゃない。悲鳴なんて上げている余裕は……
バキッと嫌な音を立てて、私の槍が天井に当たってへし折れた。今にも取れてなくなりそうなその穂先を掴む。
「ジョー!」
「っ!」
師匠の声。私の体は大ムカデの爪から外れて落下した。空いた左手で必死に掴まる場所を探して――指を引っ掛けたのは大ムカデの甲殻の隙間だった。
「そいつの頭を割れ! 出来るかっ!?」
「ソーン……さん……」
できるかなんて分からない。けど、やるしかない!
つるつる滑る甲殻、私はムカデの爪に足を掛けて登り始めた。折れた槍の柄がついたままのナイフを口に咥え、両手はしっかりと隙間や爪にしがみつきながら。
「頭も良いが、そのナイフなら首の付け根に突っ込んで滑らせぃ! ジョーが頭を断ったらとにかく隙間に刃物を入れるんじゃ。奴は死んでも動くぞ」
「チィッ、厄介な!」
容易には終わらなさそうな予感に汗が滲む。しくじれない……!
登りきって、ナイフを手に移すと、嫌が応でもロランの右目を潰した感触が甦る。
「ごめん……なさい……!」
暴れ狂う大ムカデの背の上で、どうしてこんなにも平静でいられるのかは分からない。けれど私は震えもせずに大ムカデの頭と体の間にナイフを入れると、真横に引いて頭を落とした。
重いものが石床に叩きつけられる音が。
大ムカデの断末魔の叫びが。どこか遠くから聞こえた気がした。
私は急に激しくうねりだした巨体に振り落とされ、私は悲鳴と一緒に壁にぶつかった。その間にもソーンさんや小父さんたちが手に手に武器を取って魔物を取り囲み、攻撃していた。
「あうう……」
「大丈夫か、ジョーやぃ」
「あ、はい……」
「こやつらは番うぞぃ。もう一匹来る!」
「なっ!?」
師匠の言葉に、急に場が冷え込んだ気がした。静かな地下にわずかな流水音、それに混じって何か重たいものを引きずるような……
「くそったれが!」
「チッ! とっとと片付けるよ!」
「応!」
「応よ!」
水路から汚泥を撒き散らして現れた大ムカデは、間もなく伴侶と同じ最期を遂げることになった。
「ふぅ、終わったの」
「うん。……あ、さっき、怪我した人は?」
「ああ……。あれかの」
師匠が指した方向には、床に倒れて声もない小父さんと、それを囲むソーンさんたちの姿があった。
「レンデル! しっかりしろ、レンデル!」
「くそ、息が……」
………………。
出血は大してしていない。ただ、お腹の部分に小さくて鋭いもので刺したような穴がいくつかあっただけ。だというのに、その顔はどこか奇妙に感じられた。顔色が悪いってこういうことを言うのだろうか。
「師匠……どうにかして」
「ジョー」
「師匠なら出来るのでしょう? 助けてあげてください……」
「…………」
「お願い。助けて。死なせないで。師匠なら、師匠ならできるんでしょう!?」
師匠は温かな茶色の目で私を見ると、「心配するな」と言うように頭を撫でてくれた。
「黙って見ておれよ」
「うん……」
師匠は倒れている小父さんに近付くと、しゃがみこんでその体をあちこち触っていた。
「こりゃあ、駄目かもしれんの」
「!」
「くそっ……!」
「じゃが……、大ムカデに咬まれても、助かった人間もおる。施療院に運んでみればもしかすると……」
「兄貴、おれが連れていく!」
「……ああ。そうしてやってくれ。とにかく一度引き揚げだ。こんなのがウヨウヨしてるんじゃアタシたちだけだと分が悪い」
ソーンさんたちは帰る支度を始めた。
「師匠……」
「安心せい。死なん程度に治してやったわ。ほれ、あれじゃ、不自然じゃない程度というやつよ。ひ、ひ、ひ」
「ありがとう……」
それから、丸一日かけてムカデの討伐がなされた。残っていたのは子どものムカデで、私が見たのよりは小さかった。けど、戻ってこられなかったひとたちも、中にはいた。