ヨツカに伝わるある伝説
※過去に書いた短編「空亡」http://ncode.syosetu.com/n3611x/ と同じ世界観になっています。先にこちらを読むとより楽しめると思います。
はるか昔、ヨツカという地方を支配する豪族が居た。彼らはある山の麓に住み、その山の神を祀っていた。神は時折彼らに知恵を貸し、ヨツカの一族は神の為山の中に社を建てた。
ある日の夜、山に雷鳴轟き、この世のものとは思えない怪物の咆哮が鳴り響いた。ヨツカの一族は神を案じ、月の光を頼りに社に向かった。
しかし、社に居たのは黒々とした化け物だった、化け物はヤマタノオロチと名乗り、山の神を食い殺したと笑った。ヨツカの一族は震え上がった。ヤマタノオロチは彼らを嘲笑い、一年に一度、新月の夜にとびきりの美女を生贄として山に放てば、ヨツカの一族には手を出さないと言った。
それ以来、ヨツカの一族は一年に一度、とびきりの美女を選び出し、山に放った。誰も反対するものはいなかった、そうしなければ全員食い殺されると皆がわかっていた。
それからしばらくたって、ヨツカタケトと言う男が生まれた。タケトは武勇に秀でており、剣を持った彼は何者よりも強かった。やがて彼は豪族の頭となり、ある女と恋に落ちる。
女の名はルウナと言い、若く美しい女だった。一族の者は皆その恋に反対した、ルウナが一族から遠く離れた身分だった事もあるが、彼女は今年の生贄でもあったのだ。
反対する者たちを前に、タケトは剣を抜き、天高く掲げた。
「俺の考えを改めたいのなら、俺を叩き伏せる他無いだろう」
反対するものも、それには押し黙った。剣を抜いたタケトに敵うものなどいるわけがなかった。すでにタケトの子を身篭っていた彼女はタケトの覚悟を目にして涙した。
やがてルウナはタケトの子を産んだ、タケトと同じく勇敢そうな男児だった。タケトはその子にタケヒコと名付けた。
ルウナの手の中で眠るその子を見てタケトは決心する。
「やはりヤマタノオロチは俺が討つしかあるまい」
ルウナは猛烈に反対した、自らが生贄となれば全ては丸く収まる話なのだ。それに、もしタケトを失ってしまえば、どんなにも虚しく悲しいだろう。
タケトはそれを聞き入れなかった、約束の新月の夜、彼はルウナに見張りをつけ。剣を持って一人社へと向かった。
現れたタケトを見て、化け物は笑った。
「哀れな男、たった二本の腕とその剣だけで、私に勝てると思ったか」
化け物は容赦なくタケトを襲った、だがタケトも応戦する。化け物の身体に二度その剣を突き刺し、悲鳴を挙げさせた。
しかし、月明かりはタケトの背後から忍び寄るもう一つの牙を照らさなかった。
背後から衝撃、気付けば、左腕を失っている。
タケトはバランスを崩し、地面に突っ伏す。もがくが、片手だけでは上手く起き上がれない。
化け物は見せつけるようにタケトの剣を砕いだ。すぐには殺さず、ゆっくりと嬲る。
何度も木と地面に叩きつけられ、タケトの意識はボヤけて来る、まだ立ち向かおうと身体に力を込めた時、何者かが自らを庇うように立ち、手を広げる。
「ヤマタノオロチ様、私が、今年の生贄です」
その声はルウナのものだった。タケトは否定の声を上げようとするが、喉に入り込んだ血が、それを許さない。
「今さら何を持ってこようと遅い、私はこの男を殺さなければ気が済まないのだ」
「この方はヨツカタケト、ヨツカの一族です。貴方様は生贄さえ山に放てばヨツカの一族に手は出さないと言ったではありませんか」
化け物は低く唸る。
「憎たらしい、美しいが利口な女だ。ならばお前の利口さに免じてこの男は生かしておいてやろう」
そう言うと化け物はタケトの顔に自らの血を吹きかける。顔が焼けるような熱さに、タケトはのたうち回った。
「ヨツカタケトと言ったな、二度目は無いぞ、貴様でなくとも今後誰かがこの私に歯向かうようなことがあれば、その時はヨツカの一族とて容赦はせん」
待て、とタケトは叫んだ。ルウナを渡す訳にはいかない。だが彼の右手は虚空を舞うのみ。暗い、視界がどす黒い。吹きかけられた血によって、タケトは目を潰されていた。
どこからその力が漲るのだろうか、彼は立ち上がり、二三歩進んだ、そして、温かい物を掴んだ。
ルウナだ、ルウナの手に違いない。と彼は握る手を強めようとした。しかし、流れ過ぎた血は、彼にそれ以上の力を与えなかった。
すり抜ける手、化け物の嘲笑。
社から逃げ帰ったタケトは自らの不甲斐なさに怒り狂った。最愛の妻を失い、自らの目と左腕をも失ったのだ。
一族の者は変わり果てたタケトの姿に驚き慌てふためいた。怒りに身を任せ暴れるタケトを何とか押さえ込み、洞窟に閉じ込めた。
やがて暴れることに虚しさを感じたタケトは、狂った様に泣いた、嗚咽は洞窟中に響き渡り、まるで獣の咆哮のようになる。
夜が明けるまで泣き続けたタケトは、やがて誰かが自分を読んでいることに気づいた。凛とした女の声だったが、一族の者ではない。
誰だ、と問うとその声は「私はアマテラス、遥か天高くにいる者。朝になり目覚めてみれば、天まで響き渡らんとする泣き声が聞こえ、何事かと様子を伺いに来たのです」と答える。
タケトは自らに起こった事を全て説明した、ヤマタノオロチの事、新月の生贄のこと、自らがそれに敗れたこと。
声はううんと唸って「なるほど、私が眠っている時にそのような恐ろしいことが起こっているとは思わなかった」
「私はなんとしてもあの化け物を討ちとうございます」
「しかし、その体では無理でしょう」
答えに詰まるタケトに、その声は提案した。
「タケトよ、アナタには子供がいるでしょう?」
「はい、ですがタケヒコはまだ生まれたばかりの乳飲み子で、化け物を討つなどとても」
「今から次の満月の夜まで、私と弟の力でその子の一年を一日に縮めましょう。そして、彼に化け物を討たせるのです」
「なんとありがたい」
「しかし、それは貴方が天に舞を捧げている間だけです。休まず、舞い続けなければなりません」
「容易いことです」
「満月の日に使いを送りましょう。その使いと共に、タケヒコは化け物を討ちなさい」
そして、その声は消えた
タケトは一族の者にタケヒコをこちらに寄越すようにと言った。一族の者がなぜかと問うと「神に舞を捧げ、この子に力を授けさせる」と答える。一族の者は力を失ったタケトを哀れみ、彼の言うとおりにタケヒコを彼に預けた。
タケトは舞った。祭事は得意ではなかったが、自らの母を思い出し、なんとか舞った。潰れた目には朝も夜も関係がなかった。彼はそれが神に届くと信じ舞い続けた。
タケトには空腹も疲労も苦では無かった、最愛の妻を失うことよりもつらいことなど無かったのだ。
しばらくたって、ヨツカに剣を持った一人の少女が訪れた。肌の白い美しい少女だった。
「私の名はアマオト、ヨツカタケトの息子、ヨツカタケヒコと共に、ヤマタノオロチを討つようにと、アマテラス様の命によりこの地に参りました」
一族の者はアマオトを連れてタケトが閉じ込められている洞窟に向かった。
洞窟には、精魂尽き果て横たわるタケトと、それを介抱する一人の青年がいた。弱っていはいたが、タケトはまだしっかりと息をしていた。
洞窟を出て、太陽の光にさらされると青年はがっしりとたくましい体格で、一族の者はタケトによく似ていると思った。
アマオトが青年に頭を垂れる。
「ヨツカタケトはアマテラス様との約束通り、この日まで天に舞を捧げました」
「たった今、父から全てを聞いたところだ。父と母の仇を討つためならばこの身など惜しくない」
アマオトは持っていた剣をタケヒコに差し出した。その剣は一部刃が欠けている。
これは、問うタケヒコにアマオトが答える。
「この剣はフツノミタマ、かつて大地を支配していたある化け物を討った剣です。必ずアナタのお役に立つでしょう」
「なるほど、これは心強い。しかし今日は満月、あの化け物は新月にしか姿を表さない」
「私の歌で化け物を誘い出しましょう。アナタに宿った神の力は必ず化け物を討つでしょう」
その夜、満月が天高く登り、月の光が大地すべてを照らす時。タケヒコとアマオトは社へと向かう。
アマオトは周りを見渡すと、タケヒコに向き合う。少しだけ、不安な表情をしていた。
「この先何が起こっても、決して慌てぬよう」
「何が起ころうとも覚悟の上、これから現れるものは父と母の仇だ」
フツノミタマを天高く掲げたタケヒコにアマオトは安心し「それでは」と、歌を歌い始めた。山林の中にアマオトの凛とした声が響き渡る。
不意に「何者だ」と叫び声が上げられ。社の周りをズル、ズルルと這う音。
月明かりに照らされたのは、黒々とした、強大な蛇だった。アマオトは歌うのをやめる。
「我が名はヨツカタケヒコ、ヨツカタケトとルウナの子だ。この山を支配する化け物を討つために来た」
化け物の高笑いが、山を揺らした。
「愚かな、なんと愚かな。人間ごときが私に敵うわけなかろう。私は貴様らに祀られていた神をも食らってここにいるのだ」
「なるほど、たしかに愚かだ」
声を上げたのはアマオトだった。化け物とタケヒコはそちらに目をやる。
額に手を当て、アマオトは更に続ける。
「おかしいと思っていたのだ、ヤマタノオロチは確かに我が弟が討ったはずなのだ。似たような化け物は幾らでもいるが、ヤマタノオロチを名乗るなど有り得ん。なるほど、愚かだ」
遂にアマオトは笑い始めてしまった。化け物はアマオトに叫ぶ「娘よ、恐怖で気でも狂ったか」
「気が狂っているのは貴様だろう。曲がりなりにも神の一人が化け物を、それもヤマタノオロチを名乗ろうとは」
「アマオトよ、一体何を言っている。この化け物は何者なのだ」
「タケヒコよ、こいつは八十神の一人。末弟であるオオクニヌシに女も権力も奪われ、名前すら無い哀れな神だ。まさか人を騙し、女を食らっていたとは思わなかった」
化け物は驚き、唸り声を上げた。「貴様、何者だ」
「恐ろしい、堕落は私の存在すら忘れさせるのか」
アマオトは髪を束ね、天に手を掲げた。その手の先にあるのは、闇を照らす満月。
「我が名はツクヨミ。イザナギより生まれた、夜を統べるもの」
化け物は驚愕した、ツクヨミは、太陽として昼を支配するアマテラスの対の存在で、月として夜を支配する神であり、化け物はツクヨミに見咎められぬよう、月の無い新月の日に女を食らっていたのだ。
化け物は真っ先に自ら保身を考えた。傲慢であろうとも自らとツクヨミの力の差は理解していた。
「ツクヨミよ、私は出雲に祀られているオオクニヌシの親類だ。お前を含むタカマガハラの連中は私に手を出すことなどできないだろう」
オオクニヌシはかつて大地を支配していた神だった。彼は天界の神々に大地を譲る際、彼の一族を手厚く保護することを望んだ。八十神はオオクニヌシの兄達である。
「嫉妬の末に二度も殺した末弟に頼るとは、なんと小さく、醜い神だろうか。他愛もない、私の力を持ってすれば、そもそも貴様を存在しなかったことにすることすらできる」
化け物は恐怖に声を失った。ツクヨミは少女の姿を借りてこそいるが、全身から憎悪と軽蔑を醸し出していた。
声を失ったのはタケヒコも同じである、しかし、自分達がどうなるか、目の前の少女の気持ち一つだということは二人共わかっていた。
「醜い神、貴様ごときにこのツクヨミが手を出すものか。貴様を討つのはここにいるヨツカタケヒコ、そして、闇だ」
化け物とタケヒコは、自らの視界が薄暗くなり始めていることに気がついた、彼らは焦り、月を見る。
すると、満月であるはずなのに、月が欠けている。彼らは驚いた。そうして驚いている間にも、月は欠け続け、その光を失いつつあった。
我に返った化け物は、タケヒコに襲いかかった。ツクヨミがなにか動き出す前に目の前のこの人間を倒してしまえば自らは助かると自分に言い聞かせていた。
しかし、タケヒコは化け物の牙をフツノミタマで受け止め、それを砕いた。しかし、化け物はタケヒコから距離を取り落ち着き払って言った。
「しょせん人間の力では神を傷つけることも叶わぬ」
タケヒコは薄暗くなる視界の中、砕いたはずの化け物の牙が再び生えかわるのを目の当たりにした。
その時、びゅうと風が吹き、木の葉が化け物を襲った。そして何かがタケヒコの目を覆う。背後から、ツクヨミの声。
「タケヒコよ、今から私の言うことをよく聞きなさい。今から少しばかりの間、この地に本当の闇が訪れる、もし闇を目の当たりにすれば、たちまち飲み込まれてしまうだろう。だから私が再び舞い降りて良しと言うまで絶対に目を開いてはならぬ」
「しかし、俺は化け物を討たねばなりません。目を開かなければ化け物は討てません」
「目を閉じたまま、剣を構え振り下ろすだけでいい。あの醜い神は自らフツノミタマに飛び込んでくるだろう」
タケヒコは無意識のうちに剣を構えた。そして、目を閉じる。
目を覆うものが無くなり、タケヒコは闇を感じた。
化け物、ヤソガミの一人は激しく動揺していた。
一陣の風が吹いて、木の葉が自分を襲った。そこまでは覚えている。しかし、それが終わって見れば、目の前に広がるのはただただ、ひたすらの闇であった。
先ほどまで対峙ていたヨツカタケヒコとか言う人間も、ツクヨミも居ない。社もなければ、周りを覆う森すら無くなっている。
化け物は取り乱し、闇の中を暴れた。もう何も失いたくはなかったのだ。小間使いの末弟に女も権力も奪われ力を失った、彼は化け物になりすまし、人間の女を食らった。そうすることで、少しでも自分を満たすことができればよかった。
目の前の闇は彼にとって圧倒的すぎた、闇は訪れるだけで彼から全てを奪い去った。
暴れ回る化け物は、遠く、遠くに、小さく、強く光るものを見つけた。化け物は何も考えずそれに向かった。自らは神である、全てが自分のものなのだ、大地も、生命も、光でさえ、誰のものでもない、自分のもの。
向かうに連れて、眩しいほどに光は強さを増した。やがて触れることができるまでそれに近づいた時、その光が、自らに振り下ろされた。
タケヒコが構えているフツノミタマは、かつてツクヨミの弟であるスサノオが、大地で暴れていたヤマタノオロチを討った剣である。それにより刃が欠けてしまうが、宿した霊力によって化け物を斬るその剣に、刃の欠けなど関係が無かった。
霊力を宿し、光り輝くフツノミタマを構えタケヒコは待った。
待った。決して目は開かずに。
やがて、何かの咆哮が、こちらに近づいてくるのに気づいた、最初の頃は小さかった叫びが、段々とその勢いを増している。
タケヒコは待った、あの化け物の咆哮は、決してこんなものではなかった。
咆哮は地響きとともにこちらに近づいてくる、しかしタケヒコはまだ剣を振り下ろさない。刺し違えても構わない、確実にあの化け物を仕留めなければならないのだ、それが自らの生まれた意味だとタケヒコは固く決心していた。
そして、咆哮が自らの髪を揺らすほど近づいた時、タケヒコは剣を振り下ろした。次の瞬間、耳をつんざくほどの悲鳴、降り注がれる生温かいもの。
タケヒコは何度も剣を振り降りした、剣が空を切るようになるまで、水音が止み、今立っている地面がぬかるむまで、彼は叫んだ、何度も、何度も。やがて彼は、彼が討つべき化け物が絶命したことを確信した。
しかし彼は気が収まらなかった、目の前にあるであろう化け物の亡骸をもっと辱めなかれば気が済まない、その化け物は自らの母の敵である。彼は自らの使命を果たした興奮に負け、目を開いてしまった。
目の前に広がるのは、永遠の闇だった。彼はツクヨミが言っていたことを思い出した。しかし、もう遅い。
タケヒコも化け物と同じように、闇の中を歩いた。おかしい、踏むはずの木の葉を踏まず、ぶつかる筈の木にぶつかることもない。
闇の中を彷徨うタケヒコに、何者かが呼びかける。
「ああっ、どうして、どうして目を開いてしまったのですか」
それは女の声だった、しかし、アマオトのものとは違う。タケヒコはその声のする方に振り返って答えた。
「ここはどこなのだ」
「ここは闇、空亡様の支配する場所です」
「元の場所に戻る手立てはあるのか」
その声は泣きながら答える。
「アナタはもう闇に飲み込まれています。アナタの力でこの闇から抜け出す事はできません。どうして、どうしてこんなことに」
その声は震えていたが、タケヒコは動揺することもなく答えた。
「そうか、だが、俺はの使命はあの化け物、母の敵を討つことだった。それが果たされた今、もう何も望むことはない。思えば俺は奴の無残な姿を見たいがために目を開いたのだ。奴と同じく、俺もまた化け物だったのかもしれない。否、俺は奴を、母の仇を打つためだけの存在だった。それが果たされた今、俺の存在が闇となることに何の不思議があろうか」
そう言って、タケヒコは両の手のひらを目の前に広げた。せめて母の仇を討った手を、もう一度確かめたかった。
しかし、目の前に広がるのは闇ばかり、目の前に両の手があることは感覚でわかるが、それを視覚が捉えることは無かった。
「それで、俺は一体どうなるのだ」
「もう少し時が経つと、私達は地上からもといた闇の世界へと引き返すでしょう。そこは本当に何もない世界、そこに帰ってしまえば、私がアナタとこうやって話すこともできなくなるでしょう」
「すると、どうなるのだ」
「光の世界とは、同時に他の世界でもあります。光はアナタ以外の存在を照らし、アナタ自身の存在も照らすでしょう。対する闇の世界は無の世界、闇はアナタ以外の存在を隠し、何も見えず、何も聞こえません。自らと対比できる存在を失ったものは、やがて自身の存在すら失い、闇に飲まれます」
なんと恐ろしい世界だろうと、タケヒコは身震いした。しかし、仕方のない事だとも思った。
その時、ズズ、と何か大きなものが地面をずり動く音がした。
タケヒコは思わず叫んだ。しかし、それに答える声はない。タケヒコは気づいた。この闇そのものが、元ある場所に戻る時が来たのだと。
覚悟はしていた。しかし、タケヒコは思わず少しだけ後ずさった。どうせなら、どうせならあの時化け物と刺し違えていればよかったとすら思った。
その時、何かがタケヒコの左腕を掴んだ。タケヒコは反射的にそれを振り払おうとした。しかしそれは力強く喰らいついた。それは、何処か懐かしく、温かかった。
闇全体が、タケヒコの体を引き込む。堪えようとするタケヒコに左腕を掴む力が加勢する。タケヒコは右腕でそれを掴んだ。闇はタケヒコの体を引きちぎらんばかりに力を加える。息が詰まり、亡者の声が耳を突く。
やがて、タケヒコを引き込む力が弱くなった頃、まばゆいばかりの強烈な光が、タケヒコの目を突いた。思わず目をつぶり、跪く。
気を落ち着かせ、眼を開く、目の前に広がるのは、先ほどまで自分がいた月光が照らす森と、地面に倒れながらもタケヒコの左腕を両腕で何とか掴んでいる、父、タケトの姿であった。
目が潰れ、精魂尽き果てていようと、タケトはかつて一族を束ねていた人間である。彼はなにか不吉なものが山に降りたっていることを感じた。
彼は一人山に向かった、両手を前に突き出し、木々をかき分ける。やがて彼は、踏みしめるはずの木の葉を踏まず、両の手が空を切り始めていることに気づいた。ただならぬ気配を感じた。
タケトは闇の中を彷徨った。自分の息子を、最愛の妻の忘れ形見を何としても助け出したかった。
視界を失った代わりに、タケトの嗅覚と感覚は優れたものとなっていた。闇の中で、彼はルウナを探した。彼女の香りがする方に向かった。その先にタケヒコがいると信じていた。まるで彼女が導いてくれているかのように、彼はタケヒコに辿り着いたのである。
「なるほど、すでに盲目であるタケトは、闇の存在を感じることが出来なかったのか」
いつの間にか現れたツクヨミが、倒れているタケトの手をとった。タケヒコが空を見上げると、欠けた月が、再び満月に戻ろうとしていた。
その時初めて、タケヒコは全身の生臭さに顔をしかめた。まばゆい月光にフツノミタマを照らした。それはタケヒコと同じように血に濡れていた。
タケヒコは思い出したように「あの化け物は、あの化け物の亡骸は」とツクヨミに問う。
「ヤソガミの亡骸は、あの闇が飲み込んだ。亡骸とはいえ、ああも簡単に神を飲み込むとは、なんと恐ろしい」
ツクヨミはタケトの上体を引き起こし、顔を覗き込んだ。タケトはひどく消耗していた。
「本来ならばタケヒコ、お前もそうなっていた」
タケヒコはその場に跪き、自らを救った父の肩を抱いた。
自らを呼ぶ息子の声に、タケトは「タケヒコよ、成したのか」と問う。
「はい、母の仇、確かにこの手で」
「そうか、私はもう疲れた。一族のことはお前に任せる、心配なのはこの山のことだ」
その言葉が、タケトの覚悟の言葉であること、タケヒコも、ツクヨミもよくわかっていた。
「タケトよ、お前の言うとおりこの山は守護者を失い、いつあのヤソガミのような邪神が縄張りにしてもおかしくない」
ツクヨミが、彼の頬をなでる。
「タケトよ、私と共にタカマガハラに向かい、守護者として再びこの山に戻るのだ」
「なんともありがたいお言葉、一族を護るため、喜んでタカマガハラに向かおう」
しかし、とタケヒコは言葉を詰まらせる。天に向かうことは、その身をこの世から消滅させることでもある。
「タケヒコよ、私は妻を奪われた怒りから。お前の人生を大きく奪った、せめてお前と一族を護ることで、その償いをさせて欲しい。山を降り、一族に伝えよ」
タケヒコは涙を堪え、山を降りた。父と最後の別れに、情けない姿を見せるわけにはいかなかった。
その後タケトが本当に守護者となったのか、誰も分からない。確かめるすべもない。
しかし、その後山が荒れることなく、ヨツカの一族は、末永く繁栄したという。
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