アズラク城の攻防 1
◆
「水も滴るイイ男……うほっ!」
地下水路を抜けて群青玉葱城の一角にある水場で、パヤーニーが言った一言だ。
俺達が地下水路から辿り着いた場所はその部屋の外――中庭へと通じる回廊の一角だった。
なのでとりあえず身を隠す為、巨大な水場へと移動して、総勢六百名(不死隊含む)を待つことにしたのだ。
水場は十メートル四方のプールが四つほどある部屋だ。ここに溢れる水がこの城の飲料水であり生活用水の元になるのだがら、それなりに警備は厳重なのだが、ザーラとカイユームの魔法で警備兵達は皆、夢の世界へと旅立ってもらったのである。
俺達はパヤーニーの道案内により思いのほか早く地下水路を抜けると、石畳の床を開けて地上一階にある回廊の一角に出た。
石畳の床は、まさかこのような場所から地下に繋がっているとは思えないような作りで、再び閉じると周囲との分け目さえ綺麗に無くなってしまう。
とは言え六百名もがこの通路を使用することは想定外だったようで、人が二人並んで通れば一杯というほどに階段は狭い。なので全員が地上へ上がるのに、随分と時間が掛かってしまっていた。
ということで隣室が水場だったことを良い事に、待ち時間でパヤーニーが遊び始めてしまったのである。
「陛下も共に泳がぬか? 気持ちがよいぞ! うむ! 数百年ぶりの水浴び! いやあ、たまらん!」
「パヤーニー、ふけつ?」
「墓の中にずっとおったのだ、サクルよ、仕方が無かろう! お前も来るか?」
確かに歩き続けた俺の身体は、汗に塗れている。
しかし、だからといってこんな所で遊ぶ余裕など無いし、何よりも――
「パヤーニー! これは飲料水なんだぞ! お前、死体だろう! お前なんかが入ったら、皆気持ち悪くて飲めなくなっちゃうだろうが!」
「したい、きもちわるい……?」
俺の怒声を聞いたサクルが肩を落とす。
「い、いや、違う。サクルはいいの。サクルは白骨だし、綺麗だから。ほら、パヤーニーの場合、微妙に肉もあるでしょ? あれはちょっと、見た目でダメかなと」
俺はションボリと項垂れたサクルに言い訳をした。
でも、俺の言い訳はなにやらおかしい。まるで俺が白骨好きの変態みたいになっている。
とはいえサクルの機嫌は持ち直したようで――
「パヤーニー、はやくでる。パヤーニー、きたない。ふけつ。みず、のめなくなる」
俺と一緒にパヤーニーが水から出るよう、促していた。
そうして不承不承水から上がったパヤーニーの言葉が、前述のものであった。
「水も滴るいい男……うほっ!」
どう見てもミイラだし、全ての水を身体の表面に塗られた蜜蝋で弾いているのだから、あまり滴る感じは出ていないパヤーニー。しかしヤツは満足そうに身体を”ぶるるん”と振っていた。
「これでは城を取り戻しても、暫く水は飲みたくない、にゃん」
ザーラのいう事は尤もだ。まあ、俺はマディーナを取り戻したら黒甲将軍府に帰るので関係ないが。
「とはいえ、この水をフローレンスのやつ等が飲むのかと思えば、少しばかり愉快ではないか?」
ジャムカが笑いをかみ殺しながら言った。
ジャムカの本質は意外といたずらっ子で、パヤーニーが水の中に飛び込む事を一切止めなかった。それどころかパヤーニーの衣服を率先して預かる辺り、もはやミイラと仲良しのジャムカだ。
「オレも不死公となれば、本当に今よりも強くなれるのだろうか?」
「ふむ。不死公となるには、高位の魔術師、それから強い怨念と至高の残虐性がなければならんが。だが、なってしまえば間違いなく強くなれるぞ」
「わかった。もっともっと殺しまくる。串刺しも大切か?」
「うむ? 確かに余の場合は、アレが決め手になったのかもしれぬが」
「ふむ。ではオレもフローレンスの聖騎士どもを串刺しにするか」
ジャムカはパヤーニーに衣服を渡しながら聞いていた。
ジャムカの目が輝いているが、その方向性は如何なものだろう?
俺は、出来ればジャムカに不死公を目指して欲しくない。まして聖騎士達を串刺しにしてゆくジャムカなんて見たくないし。
だから俺はジャムカの肩に手を乗せて、やんわりとこう言った。
「ジャ、ジャムカはさ、今のままが可愛いと思うから、あまり無理をしてこれ以上強くならなくても」
「そ、そうか? だが、オレとしてはもっとシャムシールさまの役に立ちたいから……。あ、でもそうだな。不死公になっては、よ、よ、よよ、夜伽が出来ぬものなぁ。あは、あはは」
ジャムカは頬を赤く染めながら、俺の意見を聞き入れてくれた。
「何を言う! 不死公になっても余はビンビンで――は――ないっ! 余のあれがない! 水の中で落としてしまったぁぁああ!」
衣服の上から股間をまさぐったパヤーニーは、すぐに頭を抱えて蹲る。
もう絶対に群青玉葱城の水を飲まない――俺はそう決心した。
「そういうわけだ、ザーラ。オレは人を辞めぬことにする。確かに人を辞めれば強くなれるのは魅力だが、それによって、つ、つ、妻としての務めが蔑ろになってはいけないからな。せっかく勧めてくれたのに、申し訳ない」
「……そうですか。それも良いでしょう。ジャムカさまは未だ人としても成長の途上。なれば、このままでも更なる高みに到達いたしましょうから。でも、もし不死公になりたくなったら、いつでも仰って下さい。ご協力いたしますので……(ちっ。第四夫人の座は、そう易々と手に入らぬか)」
なにやらジャムカがザーラに頭を下げていた。どうやらジャムカが不死公になる為にはザーラの協力が不可欠だったようだ。それに、元を正せばザーラが不死公の有用性をジャムカに教えたらしい。
でも、そうだよな。魔力があってもジャムカは基本的に戦士だから、「死にました、さあ、不死公になりましょう」なんて訳にはいかないし、何より不死公になるという発想も無いだろう。
ということは、ザーラ……。魔族らしく悪い事を考えていたな。最後に変な事も呟いていたし。
「ザーラ?」
「はひっ? な、なな、なんでもないにゃん! にゃん! 周辺の警戒をするにゃー」
俺に顔を向けられたザーラは、慌てた様子でにゃんを連発すると、回廊へと出て行ってしまった。
暫くすると、人と骸骨の混成部隊が水場を埋め尽くしてしまう。
それもそうだろう。いかに城の全てを賄う水場とはいっても、合計六百人が入れば一杯になって当然だ。
遠くからは炸裂音や怒号が聞こえていた。すでにハールーンがマディーナへの攻撃を始めているのだろう。そろそろ此方もネフェルカーラの救出と、内部の攪乱をしなければ。
そう考えて、俺は内心で焦る。
「カイユーム、ネフェルカーラの居場所とジャンヌの居場所は探知出来るか?」
「可能ですが、それをしてしまうと此方の位置も瞬時に覚られてしまいます」
「それでもかまわない。今更逃げる訳にもいかないからな」
どうせこそこそとしてみた所で、ジャンヌとは戦わなければならないのだ。だったら、既に城内へ入った以上、隠れる必要もない。むしろ大々的に俺の帰還を知らせて、城兵の混乱を煽る方が得策だ。
「わかりました――ネフェルカーラさまは、ここから近いですね。ハールーン将軍の迎撃には――フローレンス軍の聖騎士が出ているようです。――ジャンヌは――中庭!? ファルナーズも居ますっ! 近いっ!」
なんとジャンヌは既に此方の動きを察知していたらしく、迎撃の為、ファルナーズと共に二百の兵を率いて間近にいるらしい。カイユームに探知を頼まなければ、奇襲を受けていたかもしれなかった。危ないところだ。
ネフェルカーラも、ここからそれ程離れていない地下牢にいるという。
ハールーンを迎撃しているフローレンスの聖騎士というのは、多分クレアだ。
四千の手勢を中心にして元は敵であった奴隷騎士一万人以上を指揮するなんて、クレアは単なる策士だと思っていたら、案外剛毅な人なのかもしれない。
とにかく報告を聞いた俺は考えを纏める。
クレアの方はハールーンに任せるしかない。そうすると第一優先はネフェルカーラの救出だが、その為にはジャンヌとファルナーズを抑えなければいけないわけだ。
「二手に分かれる! 俺がジャンヌを抑えるから、カイユームとシェヘラザードはネフェルカーラの救出に向かってくれ!」
「ええっ? 私がネフェルカーラさまの救出を?」
露骨に嫌そうな顔をするカイユームは、溜息をつく。
しかし、地下牢といっても数が多い。ネフェルカーラの囚われている場所がここから近いとしても、探知魔法を使った本人であるカイユームでなければ迷う可能性だってあるのだ。そう考えた俺の作戦だった。だから俺はカイユームに頼み込む。
「頼む、ネフェルカーラが居なければ、ジャンヌに勝てないかもしれないから!」
「それもそうですね……わかりました。陛下の為ですからね」
渋々頷くカイユームに、シェヘラザードが苦笑していた。
「まあ、ネフェルカーラは多少横暴だけど、根は善良なのよ?」
シェヘラザードはネフェルカーラの友だと語っていたが、どうやら事実のようだ。緑眼の魔術師を庇う人物を、俺は初めて見た気がする。
シェヘラザードの言葉に反論をしようと試みたカイユームだったが、状況がそれを許さないことを理解していたようで、
「奴隷騎士を少しばかり、お借りします」
そういうとシェヘラザードに頷き、踵を返して地下牢へと続く扉に向かって駆け出した。
シェヘラザードは三十人程の兵を素早く纏めると、カイユームの後に続く。この辺りの手際良さは、さすが大将軍といったところだろうか。
俺は急ぎ水場から出ると、回廊を走り中庭へと向かう。
背後にはジャムカ、ザーラ、パヤーニー、それからサクルと骸骨兵や奴隷騎士が従っていた。
◆◆
中庭に出た俺は、目を細めた。
単純に、午後の陽光が眩しかったということもあるが、目の前に立つ白髪の少女が余りに輝かしかったという理由もある。
「あれがジャンヌか?」
周囲に聞いてみたところで、答えは無い。全員がジャンヌを初めて見るのだから、それは当然のことだった。
「僕がジャンヌ・ド・ヴァンドームだ! 余りの美しさに立ちくらみをしただろう! ねえ! したよね!?」
白髪で紫色の瞳をした少女は、俺の呟きが聞こえたのか、全力で名乗っている。しかし、頭の方はやはり残念なようだ。
「した!」
とはいえ俺は彼女の姿から、もしかしたらそんなに悪いヤツじゃないかもしれない、と思った。
だから話を合わせてみることにしたのだ。
「ほうらね! やっぱり男なんてみんなこんなものなんだよ、ファルナーズちゃん!」
ジャンヌはつるぺたの胸を反らして、大いばりだった。どうやら話を合わせたのは、不正解だったかもしれない。
「というのは嘘だ! つるぺた幼女に興味などない!」
「はうあっ……! ぼ、ぼ、僕は成長の途中なんだっ……でも、でも……がっくし」
方針を変えた俺の一言は、どうやらジャンヌにダメージを与えたようだ。
両膝と両手を地面について、がっくりと項垂れたジャンヌは震えている。
一方でファルナーズは苦しげに顔をゆがめていた。
それでも銀髪ツインテールのファルナーズは曲刀を抜き放って構え、背後には二百人程度の奴隷騎士を従えている。
「シャムシール、殺す……わしも……胸が小さいのじゃ……」
ええっ? 俺、ファルナーズの地雷を踏み抜いた? ていうか、そこ?
結局、方針を転換した結果、状況は悪化したらしい。
「大丈夫だよ、ファルナーズちゃんの魅力は胸なんかじゃないよ! 僕の魅力だって胸なんかではないはずさ! さあ、僕らで上位魔族シャムシールを退治しようじゃないか! シャキーン!」
いつの間にか起き上がったジャンヌが、これまた何処から取り出したのか、変な角のあるカチューシャを装備した。
なんだろう……ジャンヌと向き合っていると、凄く疲れる。無駄に可愛いから余計に疲労感が増すというか……。
「本当に、黒甲王と敵対を?」
「なんだ、あの骸骨兵は? 魔法で召喚したというのか、気味の悪い」
しかしファルナーズの背後にいる奴隷騎士の一人が、ボソリと口にする。
すると周囲にも動揺が広がっているのか、ざわめき、後ずさる者が幾人かいた。
ファルナーズの意思とは反して、彼等は俺と戦う事に後ろめたさを感じているようだ。
そんな敵の心理を汲み取ってか、俺の前に進み出たパヤーニーが前方を睥睨しつつ、威圧した。
「皆々、控えよ! 絶対の君主たるシャムシール陛下を前に、刀を抜き身構えるとは何事か!」
「刀を向けておる相手がシャムシールであることなど、百も承知じゃ。そも、下郎、貴様は何者か?」
威圧された配下を肩越しに見ると、ファルナーズは細眉を寄せた。
「余はパヤーニーである。シャムシール陛下より不死王の称号を賜り、今では陛下の親衛たる不死隊を率いる身だ! そして絶世の美男子と世を賑わせる可能性を大いに秘めた、未完の大器! しかとその目に焼きつけよ!」
絶世の美男子なら、まず目と鼻と口が揃っていると思うぞ、パヤーニー。お前の美意識はずれている。そう思った俺だが、ファルナーズの率いる兵達はその名に恐れ慄いた。
それから何故かジャンヌが口元に手を当てて慄いている。
「か、かっこいい……」
ジャンヌの声は、アニメ的ロリ声だから始末が悪い。妙によく通るのだ。
そのせいでパヤーニーは仰け反り、哄笑を始めてしまった。
「はーっはっはっは! 余、幸せ。それなる白いの! 余の妻になる事を許す!」
それはともかく、ファルナーズ麾下の奴隷騎士達は深刻そうに言葉を交し合っている。
「な、な。黒甲王が上位魔族という噂は本当だったのか」
「見ろ、実際にあれは伝説の”不死公”パヤーニーだし、後ろの骸骨どもは不死隊だぞ……性格は、なんだか聞いていたのと違うが……だが、シャムシール陛下はあんな魔物さえ従えて……」
「だからフローレンスなどの味方になってシャムシールさまに楯突くなど、俺は反対だったのに」
「俺達、死んだら不死隊行きじゃないか……シャムシールさまのお怒りを買ったら……」
なんだこれ?
恐れられているのは結局俺か?
ジャンヌがパヤーニーの求婚を拒絶したのは、ファルナーズが率いる兵達が恐慌状態に陥る寸前のことだった。
「僕を妻に? へぇ……そんな事を言える人なんて、この時代、この世界にはキミ位かもねぇ? でもパヤーニー君、残念だけど僕は死者に性的魅力を感じないんだ――聖なる光……闇に生きる仮初の生を正し、土へと還せ。聖光」
そしてジャンヌが不意に瞳を閉じ、呪文の詠唱を始める。
ジャンヌは頭に歪な角型のカチューシャをつけている。赤黒い色をしたそれの形は山羊の角の様でもあり、悪魔的とも思えるものだった。
それが呪文の詠唱と共に青白い燐光を放ち、まるで聖性を帯びてゆくかのようだ。
俺が首を傾げていると、左で斧を構えていたサクルが苦しみ始め、パヤーニーが”ふるふる”と揺れている。
後ろを振り返れば、五百はいたであろう不死隊が全滅していた。
俺は油断していた。
目の前にいる人物が、ネフェルカーラさえ手玉に取った魔術師だという事を、その姿から失念していたのだ。
カチューシャなんか、どうでもよかった。
「ぜん……めつ?」
禍々しい冑のお陰で、引き攣った顔を見られなかったのは良かっただろう。俺はそうとう慌てた表情を浮かべているはずだ。
「ふぬーーーーっ! 余の部下達を消すとはっ!」
憤怒に燃えるパヤーニーが、角カチューシャをつけたジャンヌに猛然と襲い掛かる。
パヤーニーは両手両足を分離して、その全てから赤い光線を放つという同時多重攻撃を放っていた。
「へぇ、僕の魔法で消滅しない不死者が二体もいるなんて」
しかし当のジャンヌは全ての光線をその身に受けて、平然としている。
結界すら張らずにどうやって凌いでいるのかは不明だが、その姿に俺は戦慄以上のモノを覚えた。
「シャムシール、キミさえ倒せばネフェルカーラちゃんもファルナーズちゃんも僕のものなんだ。だから悪いけど、死んで――」
ジャンヌはパヤーニーを無視して、俺の眼前に現われた。それは、瞬間移動をしたとしか言いようの無い速度だった。
ジャンヌの身長は俺の胸あたりまで。角カチューシャを含めても俺の顎に届く程度なのに、圧倒的なまでの魔力を放出するジャンヌに対して思わず一歩、足を下げてしまった俺。
「へいか、まもる」
横から大斧を振りかぶってサクルがジャンヌに襲いかかる。
しかし右手一本で大斧を受け流すと、サクルの上半身を吹き飛ばす光を放ったジャンヌは、まったく容赦が無い。
「全員討ち取れ」
一方で、ファルナーズの無常な言葉が響く。
同時にファルナーズは飛び出し、ジャムカに斬撃を浴びせていた。
「光速化!」
俺は現状が危機的である事を認識する。
ザーラは上位の呪文を詠唱し、ジャンヌへ向けて放つ準備を始めていた。
よくわからないが、ジャンヌに対して物理攻撃は厳しい気がする。だから俺はザーラの準備している魔法に賭けようと思った。
「(ザーラ、俺が時間を稼ぐ)」
「(にゃん)」
ザーラの赤い瞳に目配せを送り、俺はジャンヌと対峙する。
俺の斬撃を残像を残してかわすジャンヌは、余裕の表情だ。
「ファルナーズちゃん、危ないっ!」
しかしいつの間にか俺の前から姿を消すと、ジャムカの突きを両手を開き、受けているジャンヌがいた。
なぜファルナーズを意味無く庇っているのかはわからないが、今度はファルナーズに背中を斬られている。
「げふぅ! いい斬撃だぁ!」
ワンピースが一瞬だけ赤く染まるが、すぐにまっさらな純白に戻っている。
陶然とした表情を浮かべるジャンヌは、もしかして突かれたり斬られたりして喜んでいるのかもしれないが――そこまで変態なのだろうか?
それにしてもあれは、治癒魔法ではない。治癒ならば、少なくとも服についた血の汚れは取れないはずなのだから。
混乱しつつもジャムカを援護する為に、俺は地面を蹴ってジャンヌの元へと跳ぶ。
「流石はシャムシール王、速いねぇ――でも――刻よ――」
次の瞬間、ジャンヌは俺の背後に回っていた。
◆◆◆
カイユームは地下通路を歩きつつ、幾度も溜息を吐き出した。
ネフェルカーラを救うことも地獄だが、ジャンヌ・ド・ヴァンドームと戦うことも地獄だ。
ついでに言えば、ネフェルカーラと共にアリスが待っていることを既に探知しているカイユームは、シェヘラザードの平然とした顔が羨ましくて仕方が無かった。
「嫌な気配があるわね。随分と強い魔力を感じるわ」
時折現われる城中の兵を殺さないように倒していたシェヘラザードだが、ネフェルカーラが収監されている牢を間近にすると目を細めた。
「皆は周辺を固めて。ここで戦闘になるから、下がっていなさい」
(――へぇ)
カイユームは内心で舌を巻く。
多少剣に覚えのある程度だと思っていた大将軍が、強い魔力を秘めていたことに。
今、力を解放しつつあるシェヘラザードの周辺は風が渦巻き、いやが上にも魔力の高まりを感じさせる。
その力は、今のカイユームを凌ぐほどに膨れ上がっていた。
「シェヘラザードさまは、随分と魔力をお持ちで」
「違うわ。必要な時に使えるよう、普段は貯めているのよ。でもそのお陰で、時間に制限はあるけれど、ネフェルカーラとだって私、互角に戦える自信があるわよ?」
ドンッ――
その時である。
ネフェルカーラが捕えられている牢の扉が吹き飛び、粉塵が暗い回廊を覆う。
それに紛れて、黒と白の衣服を――メイド服だ――着たアリスが重心を下げてカイユームに襲い掛かる。
アリスの豪腕は空を裂き、防御の為に出したカイユームの杖を粉々に打ち砕く。
たまらずカイユームは後方に下がると、変わってシェヘラザードが細身の剣を抜き放ち、カイユームとアリスの間に割って入る。
そこから音速の突きを三連――目にも止まらぬ速さで放ったシェヘラザードだったが、微笑を浮かべながらかわすアリスを見て絶句した。
「なんだ、この出鱈目な戦闘能力は? フローレンスの侍女ではないのか?」
単純な剣技だけならシェヘラザードはアエリノールにも匹敵する達人である。それが、目の前の相手に掠る事も出来ないのだから驚いても当然だった。
「光弓!」
カイユームは僅かに離れた位置から魔法の矢を放つ。これが妹弟子であるアリスに効く筈など無いのは承知の上だ。あくまでも肩越しに自身を見たシェヘラザードに、全てを託してのことだった。
もう、ネフェルカーラが囚われている牢は開いている。
あとはシェヘラザードがアリスの間をすり抜ける隙さえ作れれば、この場の勝利は動かない。
とはいえ、絶え間なく魔法の矢を放ち続けるカイユームの息づかいは激しい。
先ほどパヤーニーを相手に余計な魔力を使ってしまった為でもあるが、それにしてもアリスを抑える為に放った矢は既に千を越える。
一秒間に百発、それを十秒続けただけなのだが、それでもこれ程の光矢を放てる者など、世界でも数える程だろう。
「あなた、一体何者?」
両腕を交差させて防御の姿勢を崩さず、前進を続けるアリスは静かに問う。これ程の魔法を使う相手を、自分が知らなかったという事に驚きがあるのだ。しかし、魔力の質はかつて姉と呼んだ人物に酷似している。だが、目の前の魔術師は――男――なのだ。アリスにとって、これは不可解なことだった。
こうしてアリスの意識が一瞬だけ、完全にカイユームに向いた瞬間。シェヘラザードは音も無く、アリスの横をすり抜け、ネフェルカーラの下へと駆けつけたのである。
「ネフェルカーラ、助けにきたわっ!」
「ぐー、すぴーすぴーすぴーぐー……ほむっ!?」
シェヘラザードが見つけたネフェルカーラは、漆黒の衣はそのままに、しかし両手両足を縛られて見るも無残な姿だった。
だが、そんな状況にも関わらず幸せそうに笑みを浮かべて眠っていたネフェルカーラは、なんだかとても驚いている。
(ま、まずいぞ。おれが見捨てるつもりであったことをシェヘラザードに見抜かれたか? いやいや、そんなはずはあるまい。というか何故ここにおる、ヘラートの指揮は? そもそもおれを助けに来るのはシャムシールではなかったのか? 期待して待っておったのに!)
「シェヘラザード、なぜお前なのだ? おれはシャムシールに助けられたいのだが? というわけで、もう一度寝る……ぐー……」
せっかく助けにきたというのに、ネフェルカーラのあまりな態度に怒り心頭なシェヘラザード。もう、溜め込んでいた魔力を右手の平に思いっきり込めて、再び瞼を閉じたネフェルカーラの顔を二度、三度と引っ叩く。
「起きなさい、ネフェルカーラッ! シャムシールは今頃中庭でジャンヌと戦っているわ! ほら、この巨大な魔力のぶつかり合いをしっかりと認識しなさい!」
とりあえずネフェルカーラはシェヘラザードを見捨てるつもりだったという事を、心の奥底にしまい込んだ。そうすれば、どうせ明後日には忘れるネフェルカーラである。そう、彼女は都合の悪い事など、あっさりと忘却することが出来るのだ。
その上で、「どうせ助けられるならシャムシールが良かったのに」などとのたまっていたら、また眠くなってしまったネフェルカーラ。
いや、もっと言ってしまえば、この状況を脱する事などネフェルカーラにとっては朝飯前――とはいえなくても、夕飯前くらいには可能だ。なのでシェヘラザード達がわざわざ頑張る必要などなかったのである。
という訳で、ここは寝たフリを――と思ったネフェルカーラだったのだが――
「い、いたい! いたい! やめてくれ! おきておる! おきておるから!」
ネフェルカーラにこれ程の懲罰を与えられるのは、もしかしたらシェヘラザードだけかもしれない。
こうして渋々目を開いたネフェルカーラは、不貞腐れたように文句を言う。
「ふむ……はぁ。おれの深謀遠慮もここまでか。仕方が無い、ここから出る。本当はファルナーズを助けようと思っておったのだがなぁ」
「え? ちょ、ネフェルカーラ、どういうこと?」
「どういう事も何も、こんな所、いつでも出られたのだ。それでもここにおったのは、ファルナーズの隷約を解く方策を探る為であったのに」
「え? 私、無駄だった?」
実際、アリスの結界はどうとでもする事が出来たネフェルカーラだが、ジャンヌの結界となると容易くない。だからそこに綻びを作ってくれたシェヘラザードの働きには助けられたネフェルカーラなので、”いつでも出られた”は言いすぎだろう。
とはいえ弱みを他人に見せないネフェルカーラは、いつも通り上から目線でシェヘラザードに礼を述べる。
というより、引っ叩かれたことを単純に根に持って、素直に礼を言いたくなかっただけかもしれないが。
「いや、そうでもない。結界によって外界と隔絶していたのは事実。なれば、今、シャムシールの危機をシェヘラザードよ、お前が来ねば、おれは知り得なかったであろう。感謝せぬでもない」
「そう、それなら良かったわ。それじゃあ、シャムシール達と合流しましょう」
シェヘラザードは微笑を浮かべて、そんなネフェルカーラの内心を汲み取った。
(まったく、手間のかかる千九百歳ね……)
「ふははは! そうだな! おれが危機に瀕したシャムシールを助けるのだ! こうなるとシャムシールはおれのことがさらに好きになってしまうであろうよ! ふは、ふは、ふはははは!」
もうネフェルカーラは、素直に欲望のまま進む道を選ぶ。
あれこれ考えるよりも、目の前の敵をぶちのめしてシャムシールに求められるなら、それが一番ではないかと開き直ったのだ。
その様を見たシェヘラザードは、地下の天井を仰ぎ見て嘆息した。
(シャムシールが危機に瀕さないようにしないとダメなのよ、ネフェルカーラ……)
そんな友の内心など知りようも無いネフェルカーラは、多重結界の張られた鎖を一気に消し去り、空間結界さえもその手に握りつぶしている。
相変わらず傍から見れば出鱈目な魔力で、どうして結界を紙の様に丸める事が出来るのかと思えば、シェヘラザードはあまりの事に目を背けていた。
「あのさ、ネフェルカーラ。シャムシールと合流する前に、外に敵がいるのよね」
「ふむ、アリスか。面倒くさいのう。お前たち、あの程度の者も倒せぬのか?」
鎖から解放されてゆっくりと足を進めるネフェルカーラは、首を左右に振って肩を揉んでいる。
どうやら囚われた実害は肩こり程度のものだったらしい。或いは、先ほどまで寝ていたので、寝違えただけかもしれないが。
――バァァァンッ!
ネフェルカーラが牢から足を踏み出すと、右側から凄まじい炸裂音が聞こえてきた。
「勝手に牢を出ていいなんて、私は言っていないわ」
凄まじい目力をもってネフェルカーラを睨み付けるアリスは、元が美しいだけに恐ろしく歪だった。
牢から抜け出したネフェルカーラだけを意識するアリスはこの時、カイユームなど既に眼中にない。自身が倒したと確信しているのだから、当然だ。
シェヘラザードが周囲を見回しカイユームを探すが、どこにも見当たらなかった。引き連れていた奴隷騎士達はそれぞれ避難をしているようで無事だが、カイユームの気配だけが消え去っている。
「ば、馬鹿な……」
「あの男なら、跡形も無く、ね? ふふふ」
シェヘラザードの狼狽に、口角の端を吊り上げて笑うアリスは不気味だった。
「どうせ牢から抜け出したのだし、ネフェルカーラ、貴女も私が始末してあげるわ」
「ふうん……だが、もう一人貴様には敵がいるようだが? おれの相手などしておれるのか?」
ネフェルカーラはまだ眠り足りなかったのか、欠伸をしながらアリスの後ろを指差した。
粉塵の中から黄金色に輝く髪をもつ、まるで妖精と見紛うばかりの美女がそこには立っている。
しかし纏う衣服はカイユームと同じものであり、若干体に合っていない服の裾を彼女は引き摺っていた。
「なっ……カイユーム! どうしてここにっ!?」
アリスは驚愕に目を見開き、その女の名を叫ぶ。
名を呼ばれた女は左手で顔を隠すようにしながら、ブツブツと呪詛の様に言い続けていた。
「こ、こ、こんな姿、シャムシールさまにお見せ出来るわけが無い……こんな姿になって、ご寵愛が頂けるはずもない……もう、もう、絶対に許さないぞ、アリス……」
「あれ? カイユームって女だっただろうか? まあ、眼鏡があるし……む? あれか、眼鏡がカイユームの本体だったのか! そうだ、そうに違いない! ふはは! 眼鏡に好かれるとはシャムシールも難儀なことよ! ふは、ふは、ふはははは!」
立て続けに欠伸をしたネフェルカーラは、うっすらと浮かんだ涙を指で拭うと、カイユームの本質を見極めた気になって興奮している。
――当然ながらカイユームの本体は眼鏡ではない。
しかしネフェルカーラはカイユームが余りに美しく変貌を遂げた為、現実から暫し遠ざかりたくなったのであった。




