ネフェルカーラの素性
◆
「もっと、もっとだよう! もっと蹴ってよう!」
「蹴られて喜ぶ女を蹴っても、何も楽しくない。それよりも俺は腹が減った。ムハンマーが食べたい。ジャンヌ・ド・ヴァンドームよ、作れ」
「ええっ! 無茶だよう! ネフェルカーラちゃんは捕虜じゃないか! それに僕、ケーキしか作れないよ! そもそも今は僕が縛られているし……ハァハァ」
「ええい! ではもう貴様などとは口をきかん! さっさとここから出てゆけ!」
「ええ、そんなぁ! ファルナーズちゃんは冷たいんだよ! だからネフェルカーラちゃん! もうちょっと構ってよ!」
シャムシール達が決死の覚悟でアカバの町に入った頃、ネフェルカーラはジャンヌ・ド・ヴァンドームと珍妙な会話をしていた。
現在縛られているのはジャンヌの方で、ネフェルカーラはゲシゲシと彼女を蹴る一方、お米のデザートを要求している。
ネフェルカーラが閉じ込められてから、二日目の夜だった。
なぜこのような状況になったのかといえば、理由は至極簡単なことだった。
ネフェルカーラにとってアリスの作り出した結界など、容易く破れる。
だが、その事に気付かないジャンヌではなかった。だからジャンヌがアリスの結界をさらに強化して、ネフェルカーラといえども容易く破れない状態にしたのだ。
これにより、いつでも脱出可能だと高を括っていたネフェルカーラは、自らの迂闊を呪う事になる。
「おれとしたことが、ジャンヌとやらの力量を見誤ったわ」
ネフェルカーラは自嘲気味に笑みを浮かべると、そのまま自身の魔力を高める事に専念した。
これが昨夜の事。
「うわあああん! ファルナーズちゃんがおっぱいを触らせてくれないいいい!」
翌朝――今朝の事であるが――喚きながら地下牢へ現われたジャンヌは鎖に繋がれたまま、まんじりとも動かなくなったネフェルカーラを見た。
昨夜、ファルナーズにまったく相手にされなかった腹いせに、ネフェルカーラとイチャイチャしようと思ったジャンヌである。
しかし、予想以上に元気の無いネフェルカーラを見て、思わず不憫に思ったジャンヌはこう言った。
不憫に思いすぎて、ジャンヌの目からとめどなく涙が流れる。
ジャンヌは二千年以上を生きて尚、感情の起伏が激しいお子様だったのだ。
「ネフェルカーラちゃん……キミの実力なら、そんな鎖は簡単に切れると思うのだけど? そう思って僕、結界にしか細工をしていないよ?」
鉄格子のある窓から地上の光が入り、申し訳程度に牢内を照らす。
うっすらと差した朝日に照らされて青白く輝いたネフェルカーラの横顔は、荘厳なまでに美しい。ジャンヌはただウットリと、吸い込まれる様に緑眼の虜囚を見つめていた。
ちなみにジャンヌはこの日、純白のワンピースを着ており、喋らなければ”聖女”とでも呼べそうな佇まいである。
鎖に繋がれた漆黒の美女を、膝をついて涙ながらに見つめる純白の聖女は、まるで一枚の絵画の様だった。
――とは言え現実とは儚く脆い。所詮二人は変態なのだ。いかに彼女達が美しくとも、その会話は間違いなく破綻に至る。
「ほう。自由にして尚、貴様はおれを封じられる自信があると?」
「まあね。正直、僕ならばキミをどうする事だって出来ると思うよ」
涙を拭いながらも、自信に満ちた言葉をジャンヌは発した。
「ほう……禁忌破りし我が敵に、天啓によりて天罰を与えん」
先ほどまで瞳を閉じていたネフェルカーラが、薄目を開きそっと呟く。
ネフェルカーラとしては、ファルナーズの隷約を解く目的でここにいる。そうであれば、現状でなんら対策が浮かばない以上、ここで大人しくしている方が得策なのだが、ついジャンヌの過剰な自信が鼻につき、虐めてやろうと思ってしまった。
――ドンッ――
小さな地下牢は、その瞬間眩いばかりの光に包まれた。
「ふははははは! ジャンヌよ! その有様で、貴様はおれをどうするというのだ!」
そして腹を抱えて笑い転げるネフェルカーラは、自分の代わりに鎖に繋がれたジャンヌを見て大喜びだった。
ネフェルカーラが使った魔法は、属性で言えば”聖”だった。
しかもこれは”天罰”という系統魔法であり、天使族と呼ばれる神の使途達にしか使えない魔法である。
もっとも、天使族にしか使えないという事を知る者は少ない。
何しろ天罰というより、報復という意味合いが強い魔法なのだ。
自分が攻撃されたなら同じ状況を相手にも与える、というだけの効果しかないのだから、神の使徒たる天使族の専用魔法だとは、あまり聖教国が言いたくなくても当然であろう。
だが、驚いたのはジャンヌである。何しろ彼女はネフェルカーラを強いだけの魔族だと思っていたのだから。
「あれぇ? いつの間に? って、ああーーっ! こんな事が出来るのは……ネフェルカーラちゃん、もしかして……天使族なの!? 魔族って聞いてたのに!」
天井からぶら下がる鎖に両腕を縛られたジャンヌは、ネフェルカーラほど身長が無い為、足が地面に着かない。
一瞬だけ痛みに耐えた表情が、ある意味では背徳的な美しさを纏わせるが、そこはあくまでもジャンヌ。
「ふ、ふわぁ! イ、イタ気持ちいい!」
もう、ネフェルカーラの正体に関する驚愕と、自身の快楽で全身を震わせるジャンヌはどこまでも変態だった。
「知らん。だが、おれの母は自分の事を魔族だと語った。父は人間だ。だからおれは人間だ。あと十八歳だということを忘れるな」
「もう、ネフェルカーラちゃんの設定がよく分からないよ。十八歳ってなんなのさ。キミ、千年を生きる魔女って有名でしょ――ぐえっ!」
鎖でぶら下がりながらブランコの様に揺れるジャンヌが目の前にきた丁度その時、ネフェルカーラは彼女の鳩尾に正拳をめり込ませる。
別に武闘家ではないネフェルカーラだが、その威力はオットー十人分に匹敵した。
「いたいけな少女になんてことを! 気持ちいいじゃないか――ハァハァ」
こんな事を言ってしまう、いたいけな少女はいない。
ジャンヌはどれほどの変態属性を持っているのであろうか。ネフェルカーラもここに至り、流石に眉を顰めた。
純白の人間サンドバックは、物悲しげに揺れている。
サンドバックは叩かれてこそ、価値の生まれるものだった。
「ネフェルカーラちゃん……良かったら、キミのご両親の名前を教えてくれないかな?」
「なぜ貴様のような蛆虫に教えねばならんのだ」
「こ、言葉責め……(ふるふるっ)」
「火。焼け死ね」
鎖に繋がれながら嬉しそうに身を捩るジャンヌの足元に、ネフェルカーラは魔法の火を作った。
あまり大きな魔法ではアリスに探知されるであろうから、ジャンヌは煙で窒息死でもすれば良いと考えたのである。
「ああ、でも……キミの行動で、僕、わかっちゃったな。こんな傍若無人な天使が、昔、たった一人だけいたよ。――キミのお母さんはイズラーイール、でしょう? だからお父さんは、きっとパラディン――げふんっ」
炎に巻かれつつあるジャンヌは事も無げに会話を続けている様に見えたが、やはり煙は我慢していたようだ。
「消してー消してー! 火を消してー!」
喚くジャンヌは、ジャラジャラと鎖を揺らしながら身悶えしている。
「ふはははは! 正解だ! 褒美をやろう! 黒い炎を纏わせてやる!」
ネフェルカーラは指先を”ぱちん”と鳴らす。するとジャンヌの足元にあった火が、見る間に大きく伸びて柱状になった。色はどす黒く変わり、さながら地獄の炎と呼べそうな代物である。
ネフェルカーラはここに至り、ジャンヌを殺せばファルナーズも解放されるから、いっか――と思っていた。ついでに群青玉葱城を灰燼に帰したとしても仕方が無いだろう、と彼女は諦めた。
結局、我慢の出来ないネフェルカーラは脳筋なのである。
「もうー面倒だなぁ」
しかしジャンヌはぼやくと、黒い炎を跡形も無く消してしまう。
その様には、流石のネフェルカーラも茫然としてしまった。
何しろ、一体何をやったのかが理解出来なかったのだ。
炎の燃えた形跡が根こそぎ消えていたのだから、ネフェルカーラとて理解の範疇を超える。
(刻の逆行? あり得ぬ。それに、おれの父母を確かに知っているような口ぶり。こやつは一体……)
ネフェルカーラは生まれて初めて、戦慄を覚えた。
これまでは、敵といっても自身が全力で戦えば何とかなると思えたのだ。しかし、ジャンヌはどうであろう。
というより”戦慄”を一旦脇に追いやり、ジャンヌが自身の父母を知っているという事実に今更愕然とするネフェルカーラは、やはり少しずれていた。
「ネフェルカーラちゃんー。僕をぶって殴って蹴って、そして言葉で虐げておくれぇー」
(ふむ、厄介だが、暫くこの変態に付き合うか。これではファルナーズを助ける方策が浮かばぬしな。
……それにしても、母さまは自分を魔族だと語っていたが……天使だと? 言われてみればおれの容姿が神々しい事、まさに天使であるな。ふは、ふは、ふはは)
今はニコニコとサンドバックであることを楽しんでいるジャンヌだが、刻を操られてしまえば、いかなネフェルカーラとてどうにもならない。
どうにもならないネフェルカーラは、自分がもしかしたら天使かもしれないという喜びで、少しだけ浮かれている。
どうにもならない事はどうでもいいと考えられるネフェルカーラは、ある意味とてもポジティブだった。
――ネフェルカーラはきっと訪れるであろう近未来を思い描く事に忙しい。
(シャムシール、おれはどうやら天使だったのだ)
満天の星の下、寝室の露台にネフェルカーラとシャムシールは肩を寄せ合っていた。
(えっ! いや、そうじゃないかと思っていたさ。だって――こんなに心の澄んだ魔族なんていないからな。ネフェルカーラ――愛してる)
(そんなこと、わかっている。今更言うな――それより――いきなりなんて、恥ずかしいではないか……)
突然ネフェルカーラの肩を抱き寄せ、唇を重ねた後に愛を囁くシャムシール。
当然、これらはネフェルカーラの妄想である――
「どうしたの、ネフェルカーラちゃん? 涎がたれてるけど?」
「む? ちょっと思案に耽っておったのだ!」
こうしてネフェルカーラとジャンヌは、ちぐはぐな幸福感を抱きつつ一日を過ごす事になった。
◆◆
ジャンヌは牢の中、ネフェルカーラ自身が知りえなかった母の素性を語る。
もちろんネフェルカーラの気を惹きたいという欲求に従って、自身の記憶を総動員したジャンヌは懐かしそうに微笑を浮かべていた。
ネフェルカーラの母は、天使族の最上位階たる熾天使。そして父は預言者。
今より、二千年と少しばかり前の話である。
ネフェルカーラの父である預言者パラディンは、魔族に支配されつつあったカフカス大陸で、魔族に対抗し得る数少ない人間だった。
パラディンは弟ゼフィリヌスと共に、各地を転戦してついにジャンヌと知己を得る。
当時でも既に有名な魔術師であったジャンヌは、時の魔族が人類を皆殺しにしようとしている事を知っていた。
もちろんそれは魔王を名乗る一人の上位魔族が巻き起こした征服戦争だった訳だが、だからといって当時の妖精達は人に無関心。東方に住まうという神族も魔王軍に攻め込まれ、大分数を減らしたという。
そうなれば、同じ人類としてジャンヌがパラディンに手を貸さない訳にもいかなかったそうだ。
しかしそんな状態だから、形勢は常に最悪。ジャンヌとパラディン、そしてゼフィリヌスが逃げながら戦っていると、三人の下に四人の熾天使は現われたという。その中の一人が、ネフェルカーラの母だったのだ。
「僕らの前に四人の天使が現われたときは、そりゃあ驚いたよ。だって、僕らは僕が作り上げた亜空間で休息をとっていたんだよ? 亜空間なんて、上位魔族でさえ入って来れないような場所なのにさ」
身振り手振りを交えて語りたかったジャンヌは、当然鎖で両手を縛られているので揺れるだけだ。
ネフェルカーラはジャンヌの話に聞き耳を立てているが、時折ご褒美で蹴ってあげる事も忘れなかった。
「おふぅ! い、いい蹴りだよ! ネフェルカーラちゃん!」
もっとも天使族とは、聖教でも真教でも共に神の使途として描かれる伝説の存在だった。
ジャンヌ達の前に現われた四人は確かに神々しかったが、真実天使であったかどうかはわからない。
あくまでも彼等は自らを熾天使と名乗り、それぞれが天使長の名を名乗っただけなのだ。
このことに、当然ながらジャンヌとパラディンは疑問を抱く。しかしゼフィリヌスは既に聖教の神官でもあった為、彼等を正式に天使と認めたのである。
パラディンはあくまでも義勇騎士であり、ジャンヌは変態魔術師というレッテルが貼られていたので、彼等ではどちらにしても彼等を天使と認めることなど出来なかったという。
「少なくとも天使という名は、あの時の僕等にとって助け舟だったんだよ。素性の知れない巨大な力を持つ四人が、人類の味方でありさえすればよかった。僕とパラディンが警戒した所で、力の差は歴然だったもの。だからゼフィリヌスが受け入れてくれたんだろうね」
そう語るジャンヌの眼差しは、遠くを見つめるフリをしつつ、ネフェルカーラのふくよかな胸を凝視する。
この後、四人の熾天使とパラディン達は大陸西方における魔族の支配から、人類を解放する事に成功した。
しかし歴史は彼等の功績を僅かに歪曲させて伝え、ついには同じ教義を真っ二つに分けたのだ。
すなわち、四人中三人の熾天使に愛されたゼフィリヌスこそが聖教中興の祖となる救世主となる。
そして救世主は、法王として聖教会の頂点に君臨した。
一方でパラディンはいつの間にか恋仲となったイズラーイールと共に、魔族と人の境界領域で暮らす事となった。
というより、これはネフェルカーラの言葉からジャンヌが導き出した推論で、当時の彼等は人類を解放すると、静かに行方を眩ませたということになっている。
或いは彼等が魔族に寝返ったとの説もある為に、聖教においてパラディンは聖人の列にすら連なる事を許されてはいなかった。
だが、そんな風に諸説が生み出される中、パラディンも”預言者”ではないかと考える真教が生まれる。
パラディンとゼフィリヌスが兄弟であった事も、真教は再び注目したという。
その意味において、ゼフィリヌスも”預言者”として同格である、と。
「まあ真相はさ、責任感の強いゼフィリヌスが教会の力を使って戦禍の後の大陸を復興させるよう尽力したってだけでさ……だってパラディンは、本当に戦うことしか知らないヤツだったからね」
といっても、戦場ではもっぱら回復役だったゼフィリヌス。だからパラディンがいなければ大陸の解放は為し得なかっただろう、ともジャンヌは語る。
「で、僕はそのまま教会付きの神官兼魔術師になってねー。百年位かなぁ? 久しぶりに真面目に修行したんだよ。何しろ師匠が三人の熾天使なんだから、色々と学ばなきゃ損でしょー」
しかし百年も経つと、再び魔族の侵攻が始まった。
法王は初代のゼフィリヌスから五代を数え、教会の力は隆盛を極めつつあった頃で、ジャンヌもすでに熾天使と遜色のない実力を身に着けていたというから、一時、戦力は伯仲したという。
「ふむ。その頃か……すでに母も亡く、魔族は大量に現われるわで、当時は随分と恐ろしかったものだ。もっともまだ小さかったおれなど、誰にも相手にされなかったがな」
「うん、僕もネフェルカーラちゃんの存在なんて知らなかったからね。大体、あのイズラーイールが子供を産むなんて、思ってもいなかったもの」
人と天使が結ばれたとき、天使は人となる。そしてその力は子へと引き継がれるのだ。
それは上位魔族や神族も同様で、自身の力よりも劣る種族と結ばれた場合に起こる現象だという。
だから上位種族は、下位種族との混血を好まないのだ。
大体はあっても上位妖精と妖精の混血か、神族とその眷属の混血であろう。
ちなみに人間と妖精は種として同等なので、結ばれたとしてもそのような事は起こらなかった。
「でも、魔族がまた厄介でさぁ。二十人も上位魔族が出てきちゃって。こうなると、僕らも負けそうになっちゃった訳。で、三人の熾天使と時の法王がとある魔法を開発しちゃったんだよー」
「ふむ。それが、”聖戦”だな?」
「そゆこと。それで何とか十二人の上位魔族を討ち取ったんだけど三人の熾天使も肉体を失って、ゼフィリヌスの子孫だった法王も死んじゃってさ。戦には勝ったし聖教国とかいう国も出来たけど、なんか僕はもーやる気を無くしちゃったって訳だよ」
ネフェルカーラは形の良い顎に指を当てて思案した。
”聖戦”とは、聖騎士達の身体能力を飛躍的に向上させる魔法だが、その代償として法王の命が必要だという。
しかし、いかに法王とは言え、唯の人間がその命を差し出した程度で、数十万人の力を底上げする事など絶対に出来ない。
そう思っていたネフェルカーラは、こんな所で回答を得た。
(三人の熾天使、その魔力、か)
「ちなみに僕も熾天使達と一緒に人柱? にでもなろうとしたんだけどさ。見事にハブられちゃって。もうさー、ホント、ないよねー! 百年以上一緒にいたのに、”後は頼む”なんて置き手紙だけで、勝手に死んじゃうなんてさぁ!」
ギシギシと揺れるジャンヌは、千七百年以上も前の話を蒸し返して、怒りに身を捩っているようだ。
ネフェルカーラはその様を見て、ふと寂寥感に襲われた。
「友に、先に死なれるのは辛いな」
「――そう、だね。だから僕は、僕が大好きな人たちには死んで欲しくないんだ」
「だから、弟子にも転生の秘術を伝えたのか?」
「……否定、したそうだね?」
「いや。おれの寿命は長い、永遠といっても差し支えないであろう。だから短命な人の気持ちなどわからぬ。だが――貴様が何故か、自身の永遠を素直に受け入れておらぬように見えたのだ」
「僕は永遠が欲しいわけじゃなく――ハーレムが欲しいんだ! この心にぽっかりと空いた空洞を、どうにかして塞ぎたいんだよ! ハーレムさえあれば、僕は死んでもいい!」
「……貴様の場合、頭の方が空洞ではないか。
まあよい。ともかく、おれは熾天使ということでよいのだな?」
生まれて以来、千と八百数十年。
ネフェルカーラはついに自分の種族を認識した。
何しろイズラーイールとパラディンと言えば真教徒ならば誰でも知る天使と英雄だが、同時に吐いて捨てるほど居る、ありふれた名でもあった。その為、ネフェルカーラは自身の種族に確信がもてなかったのだ。
天使なら背中に羽でも生えるのであろうか? などと考えていたが、頑張ってみてもその気配はない。
やはり父母はありきたりのパラディンとイズラーイールで、自分も平凡な魔族なんだなと考えていたネフェルカーラには、ジャンヌの言葉が朗報だった。
それはともかく、ネフェルカーラは知らないことがあった。
天使達の最上位階に位置したネフェルカーラの母は、聖教国において死を告げる熾天使と呼ばれた。
それゆえに、上位魔族さえも恐れ、怯ませる存在だったのである。
いや、むしろ味方にすら恐れられた殺戮天使がイズラーイールだったのだ。
無論、その力をネフェルカーラは全て受け継いでいるのだから、彼女は上位魔族でさえ上回る非道の力を持っているということである。
「まあ、熾天使という事になるかな?」
「ふは、ふははは! 祝いだ! ファルナーズを解放せよ!」
「無茶だよ! 大体、何の脈絡もないよ、ネフェルカーラちゃん!」
「熾天使には、脈絡など不要!」
「そんな事をいうのは、上位魔族だよ!」
いい加減長話をジャンヌと続けたネフェルカーラは、そろそろお腹が減っていた。
”ぐぅ”と小さくなる腹に左手をあてると、いよいよムハンマーが食べたくなってくる。
しかしネフェルカーラは我慢した。
祝いでムハンマーを持って来い! と言いたいのは山々だが、ファルナーズの方が重要なのだから仕方が無い。
「そうだなぁ。ネフェルカーラちゃんがシャムシールと別れてくれたら、ファルナーズを解放するよ!」
「嫌だ」
「じゃあ僕も嫌だ」
「引っ叩くぞ!」
「ドンと来い!」
ジャンヌの対応も中々に酷いものだ。
シャムシールとネフェルカーラが別れるならば、ファルナーズを解放すると言い放った。
しかも、ジャンヌ渾身の本気眼である。
だが、それだけは絶対に出来ないネフェルカーラの拒絶で、元の木阿弥となってしまう。
「あ、ねえ、ネフェルカーラちゃん。そろそろアリスが見回りに来るから、場所、変わろう? どうせファルナーズちゃんの隷約を解きたくて大人しくしているんでしょう? だったら、彼女には目を付けられない方がいいと思うよ!」
「貴様が掛けた隷約なのだがな。まったく」
「違うよ! 僕の目的は僕だけのハーレムを築くこと! だから、ネフェルカーラちゃんに嫌われるわけにはいかないのさ!」
「もう、嫌っているのだがな」
そう言いつつ、さらっと鎖を外して宙に浮くジャンヌを見つめながら、ネフェルカーラは再び虜囚となった。
ネフェルカーラの言葉を聞くと、地上に落ちてがっくりと地面に両手を付いたジャンヌは、嗚咽と共にポロポロと大粒の涙を零す。
「ううっ……いっぱい蹴ってくれたから、かなり僕の事を好きになってくれたと思ったのにぃ……」
「ファルナーズに何かしたら、もっと貴様を嫌うであろう」
「ええっ! わかったよう……何もしないよう……」
オロオロとするジャンヌは、もう完全にネフェルカーラの虜であった。
――ギィ――
四方を石壁に囲まれた地下牢の扉を、アリスは開けた。
そこには確かに鎖につながれたネフェルカーラがいる。
天井から吊るされた鎖に腕をしっかりと縛られている様を見れば、例え彼女が千年を生きる魔女だとしても、容易に抜け出せないだろう。
何しろ彼女を繋いでいる鎖は、アリスが最大級の魔力を込めて作ったものなのだから。
少なくともアリスはそう信じていたし、現状、鎖に繋がれたネフェルカーラは昨夜と変わらない姿勢で身じろぎもしない。
一方のジャンヌはそんなネフェルカーラの腰に抱きつこうとして飛び込み、見事に迎撃されていた。
しかもネフェルカーラは「ムハンマーを持ってこぬか!」と叫んでいる。
一方のジャンヌは、「だから僕はケーキしか作れないの!」といいつつ撃退されていた。
(とりあえず、ネフェルカーラはお腹が減っているのね)
アリスの理解は、概ね正解だった。
(あら? ネフェルカーラの足も鎖で縛っておいたはずだけれど。まあいいわ。この女が逃げた所で、ジャンヌさまが嘆くだけのことだし……)
アリスはその様を見て僅かに疑問を感じたが、どうせ師匠の思いつきで、足の鎖を取っただけだろうと考えた。
それにしても、幾度蹴られてもネフェルカーラに抱きつこうとするジャンヌは、いっそ何かの稽古をしているかのようだ。
しゃがんだ姿勢からネフェルカーラに飛び込む様は、もう、いっそ相撲の稽古に見えなくも無い。
もっとも、受ける側は黒髪をした絶世の美女。攻める側は、白髪の美少女なのだから見栄えだけは良かったのだが。
とはいえ二人の年齢を合わせると四千歳を超えるのだから、色々考えると大半の人は目を反らしたくなるのではなかろうか。
アリスとて、完全無欠な侍女としての振る舞いを瓦解させる所であった。
危うくジャンヌを引っ叩きそうになったのだ。
しかし、今は何とか堪えて、現状をしっかりと報告する。
「お気づきですか、ジャンヌさま。先ほど、上空を二頭の竜が通過いたしました。その内の一頭は黒竜、となればシャムシールに相違ございません」
アリスの言葉に目を細めたジャンヌは、少しだけ首を傾げた。
男に対する偏見に凝り固まっているジャンヌだから、シャムシールの行動が信じられないのだ。
どうせシャムシールなどネフェルカーラとファルナーズを見捨てて逃げるだろう、と考えていたジャンヌ。それで絶望するであろうネフェルカーラを手に入れ、ファルナーズにも理路整然と男性不要論を説くつもりだった。
「ふうん、本当に来るんだ。王様なんてみんな我が侭で自己中心的で、しかも女なんか道具としか思っていないのかと思っていたけど……」
「だから何度もおれが言っているだろう。お、おれのシャムシールだけは違うのだ」
「ネフェルカーラ、貴女も気の毒ね。そういう貴女のシャムシールが死ぬ様を、わざわざ目にしなければいけないのだから。
――では、私はクレアの下へ戻ります。ジャンヌさまも、あまりここに長居されませぬ様に」
「わかったよー」
ジャンヌの返事を聞くと、踵を返したアリスはさっさと地下牢を出て階段を上る。
「おい、ジャンヌ。お前の弟子は、おれの力に気付いておらんな」
「さあ、どうだろう? 僕の弟子は、僕以上に気が狂ってるから、キミが逃げ出したらそれを理由に住民を皆殺しにしたいのかもよ? だから僕が一生懸命キミの側で結界を張り続けるしかないのさー! あははー」
「笑い事ではないぞ、まったく。貴様がファルナーズを解放すれば、それで全て収まるのだ。貴様の弟子など、おれがさっさと制裁を加えて終わりだというのに」
「それでも僕は、弟子たちが可愛いのさ。だってハーレム要員だもの!」
そう言うと、そそくさと出て行ったジャンヌはきっと、アリスに怒られるのが恐いのであろう。
”ぐぅ”
「あ。おれの食事は?」
ネフェルカーラはふと、小さく鳴ったお腹を見つめた。




