マディーナ動乱 4
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ハールーンとの戦いは全力だったにも関わらず、勝利を収めることが出来なかったクレア。可能であれば彼女はマディーナに居る有力な砂漠民の将を全て配下としたかった。
そう思えばハールーンに易々と逃亡を許したことは無念だが、今後に繋がったともいえる。
何しろクレアは聖光緑玉騎士団の団長と帝国内務卿を兼任する身であれば、麾下の騎士団は国内の治安にあたる事を旨とする部隊へと変わりつつあった。
というより妖精達の弾圧に当てるため、クレアは部下達を帝国中に分散配置していた。
そうなるとクレア自身が動員できる麾下の兵は総勢五万を数えるといえども、今回の遠征に参加可能な者の実数は、その十分の一が精々である。
さらに伯爵となり新たに領土を賜ったクレアは、そのうち千名を領土開発と防備に回さざるを得なかった。
賜った領土はかつてジャンヌが滅ぼした王国首都の跡地であり、ジャンヌの小屋が建つ「禁断の土地」なのだから、確かにクレア以外の者では恐ろしくて開発など不可能であろう。
こうなれば遠征参加も危ぶまれたが、そこは力技でいこうとしたクレアと、宰相ウィルフレッドの微妙な思惑によって他の重臣達を納得させるという経緯があったのだ。
だからこそクレアはこのマディーナ攻略を、何としても成功させる責任があるのだった。その上で自らの力を強化するならば、敵を味方に取り込む必要もあるのだから。
ある日、宰相であるウィルフレッドと朝食を共にする機会を得たクレアは食後の紅茶を飲み干すと、こう言った。
「宰相閣下。私、マディーナを、簡単に落す策がありますわ。ですから今回のシバール遠征、是非にも私を参加させて下さいますようお願い致します」
「内務卿の地位と伯爵位。それだけでも私は卿との関係を疑われているというのに、さらに遠征参加を認めろと? 卿はすでに”聖戦”の発動という強力な武器をクレメンスから引き出した。十分な功績であろう。これ以上の功績は、他の重臣達に妬まれる要因となるぞ。今の貴女はどちらかと言えば、自領の開発を優先させるべきではないかな?」
ウィルフレッドは背後に立つ執事に目配せをして食堂からの退出を促す。それからナプキンで口元を拭うと、クレアの言葉に静かな声で返答を与えた。
ウィルフレッドが口元を拭う動作は何処までも優美で、純白のナプキンには染み一つ無い。
クレアにしてみれば、
(何? 私を誘惑するためにそんな動作をしたの? 素敵過ぎるじゃない……ていうか、なんで執事を下がらせたの? 二人きりじゃない! 朝とはいえ、二人きりになっちゃったじゃない!)
と、思わず見惚れ、妖精と見紛うばかりに美しいウィルフレッドの容姿に釘付けになってしまった。
お陰で俯いたクレアは、ドギマギとした対応になってしまう。
イケメン過ぎる宰相閣下と過ごす朝のひと時は、最近女ばかりで暮らしているクレアにとって刺激が強すぎた。
「う、疑われるのは、閣下が常日頃から私を朝食に招くからですわ」
「私としては、夕食も共にしたいのだがね」
「朝も、夜も……ですか?」
もはやクレアの脳内は暴走モードに突入する寸前だ。
心臓の鼓動が、まるで早鐘のよう。そんな乙女チックな自分に嫌気がさして、何とか冷静さを保つクレアの頬は、微妙に赤く染まっていた。
「私と卿の仲だ。共に過ごすのも悪くなかろう?」
「閣下……! 今はそのような事をお話しているのではなくっ……!」
「……ふむ」
クレアは褐色の瞳を真っ直ぐに宰相に向ける。
(ど、どんな仲なのよ!?)
と、心底問いかけたいクレアはしかし、額から浮かび上がる汗を拭う。
もしかしたら宰相に遊ばれているだけかもしれないと、現実を直視出来る程度にはクレアとて大人なのだ。
ウィルフレッドの目的はあくまでもプロンデルの補佐。
そうであればこそ、帝国の利益を最優先させる為には何処までも合理的な男だ。
だからクレアの提案はウィルフレッドにとって「不可」とする理由がない。何故なら彼はこう考えるはずだから。
(作戦が成功すれば、帝国は楽にマディーナを奪取できる。失敗をすれば、内務卿の地位にありながら遠征に参加し、無謀な作戦を展開させて兵を無駄死にさせたとクレアを糾弾できるのだ)
しかしクレアの予測に反して宰相ウィルフレッドは即答を避け、目元まで延びた美しい金色の前髪を指で弄んでいた。
それからティーカップの隅を指先で弾き、甲高い音を響かせる。
「ではクレア、こうしよう。今夜、貴女が私と夕食を共にしてくれたなら、その件を了承してもよい」
クレアは余りの事に、暫し茫然とした。
ウィルフレッドの仕草が、あまりにも美しすぎて、開いた口が塞がらない。
挙句の果てに、「私と夕食を共にしたい、だと?」と、脳内で反芻すること三度。
(それはもしかして、閨を共にしたいといっているのか?)
正直、動物的な意味の雌である自分としては今すぐにもウィルフレッドを受け入れたいと思ったクレアだが、理性が警鐘を鳴らす。
(やめなさい、クレア。これ程美しい男が、私なんかを真剣に求めるわけが無い。遊ばれているのよ! でも、でもっ!)
クレアの容姿は、十分に美女と呼べるものであろう。だからそれなりに自分自身に自信を持っている。だが彼女は、”美しい男”というモノが何より苦手だった。
何しろ八歳の彼女に呪いをかけた魔族がどこまでも美しい男だっただけに、もはやそれはトラウマとさえ言えるだろう。
顔を真っ赤にしてテーブルの端を拳で叩いたクレアは、大声で叫び、踵を返した。
「わかりました! 今夜また、この邸へ伺いますっ!」
「その前に、どうせ出仕するのなら、私の馬車で共に宮殿へいかないか?」
「それはお断りしますっ!」
こうしてクレアは夕刻、再び宰相邸の客となった。
もはや考慮の余地は無い。
自身の目的を達する為には、ウィルフレッドを頼る他ないクレアなのだから。
「――よろしい、根回しは済んだ。貴女の遠征参加を重臣達も認めるだろう。但し、兵は最大で五千まで。そしてマディーナを落とすのだ。”簡単”だと自分で言ったのだから、その程度はやってくれるだろうね?」
唯二人、広大な宰相邸の食堂で、向かい合って座るウィルフレッドとクレアの会話は本題から始まった。
前菜が運ばれてから今まで、最初に挨拶を交わしてから会話が途切れていた二人だったのだ。
クレアは今夜を予測して、正直口に運ぶ料理全ての味が分からないほど緊張していた。にも関わらす、いきなりウィルフレッドから本題が飛んできたのだから、動揺もする。
この時クレアは厚切り牛の焼肉をフォークとナイフを使い、丁寧に切り分けて口に運ぼうとしていた。
しかし悲しいかな動揺したクレアは肉の切れ端をつるりと飛ばし、床に落としてしまう。
「はっ……? え……? はい」
マディーナを落とす手段は幾つも考えたクレアだが、その詳細はまだ無い。本来ならば、所謂ノープランというやつだった。あくまでも遠征に参加する口実としてマディーナを落とすと言ったクレアは、条件を絞られるなど思いもよらなかったのだ。
(十万の兵とネフェルカーラが居るマディーナを五千人以下で落とせ? 冗談じゃないわ!)
それ程の無茶振りをした当のウィルフレッドは、涼しい顔をしてクレアに微笑みかけている。
クレアは肉を飛ばす程に動揺したが、ここで首を横に振るわけにもいかず、ただ頷くしかない。
もはや、本当に何とかするしかないのだ。
「よろしい。クレア卿に新しい食事を……それでは、用件は済んだね。私は忙しいので、これで失礼する。送りの馬車は用意させてあるので、帰宅の際は執事に申し付けてくれれば、それでよい」
そういえば料理ではなくスープだけを口に運んでいたウィルフレッド。彼は背後に立つ初老の執事に声を掛けてから席を立つと、緋色のマントを靡かせながら巨大な扉の外へと消えてゆく。
一人荘厳な食堂に取り残されたクレアは、とりあえず再び用意された肉を咀嚼しながら、屈辱と苦悩に脳内を荒らされたのだった。
(なんなの? なんなのアイツ! 今日はジャンヌを裏切る覚悟で、一度自宅に帰って勝負下着まで着てきたのに! 抱かないの? 私を抱かないの? 私って、そんなに魅力がない? え? それより……五千でマディーナを落せって……鬼なの!? ふざけるなよ! 今度絶対に殴るっ!)
ともかくクレアは満腹すると、執事に申しつけ馬車に乗る。
その夜、緋色の座面と黄金の縁取りが美しい馬車はクレアの苦悩と反比例するかのように、帝都の舗装された道を軽やかに走り抜けたのだった。
◆◆
ウィルフレッド邸におけるたった二人の夕食会から一週間。宮殿に出仕してプロンデルの愚痴に付き合う以外の時を、クレアは策を練る事に費やした。
プロンデルの愚痴は、
「何故、余がナセルなどと結ばねばならぬ! 全て蹴散らせばよかろう!」
ということである。
これはシバール侵攻に当たって、その目的を全土の制圧とはせず”聖地奪還”に絞った事により生じた戦略の転換だった。
クレアは”聖戦”の発動を提案した。
法王クレメンスには「”聖地奪還”の為」という条件で”聖戦”を認めさせたのだから、表立って征服戦争とする訳にはいかないのだ。
それに現状でシバールの全勢力と敵対すれば、たとえ帝国といえども分が悪い。
だからこそナセルの反乱に乗じてシバールを割る方が得策だと考えたクレアは、ウィルフレッドと共にナセルと結ぶ道を推した。
なのでこうして出兵を明日に控えても、やはりシバール全土と戦いたいプロンデルは不平不満を口にするのである。
クレアは自宅に帰ると、まずジャンヌに尻を触らせてから自室に篭る。
クレアの自室は地下にあり、三面を木製の本棚が覆う、石壁作りの陰気な部屋だ。
そこに魔法の光を灯し、シバールの地図を広げながら考え続けた。
クレアはマディーナの状況を逐次密偵より得ていた。
最新の報告によると、ネフェルカーラとファルナーズが不仲であるという。
当然ながらその事を信じたクレアではないが、もしもネフェルカーラが策を弄しているのなら、そこにこそ付け入る隙があると判断したのである。
(というより、これを利用するより他、手もなかろう)
もっとも、帝国内務卿でありながら、国外の諜報活動にまで手を出すなど越権行為も甚だしい。そこでクレアは宰相であるウィルフレッドに計り、新たな部署を帝国内務省内に設ける許可を得た。しかも、遠征に参加中のこと。その名も帝国内務省外事局というのだから、随分とふざけたものである。
特に外務卿や軍務卿などからは、激しく糾弾されたクレアだった。
「国内だけでは飽き足らず、国外にまで手を伸ばすとは、些か欲が強すぎるのではないか」
とは外務卿より届いた叱責の手紙――その抜粋。
「貴様も武人ならば武人らしく、我が指揮下にあればよかろうものをっ!」
とは軍務卿の叱責。
これらをクレアは柳に風とばかりに聞き流すと、この局長にある大物を据えたのである。
すなわち、帝国内務省外事局長ジャンヌ・ド・ヴァンドーム。そして副局長に驚異のアリス。
彼女達は共にクレアを頂点とする聖光緑玉騎士団にも在籍している身であり、彼女達の武名、あるいは勇名は誰も知らぬ者さえいないのだ。
となれば、彼女達を使いこなすクレアに表立って不平を言う者はいなくなる。
むしろあの二人を帝国の為に使えるのなら、上手く使って欲しいというのが本音なのだろう。
こうしてクレアは軍に先んじて、ジャンヌとアリスをマディーナに送り込んだのであった。
◆◆◆
送り込まれたジャンヌとしては、これからずっとクレアと過ごせると思っていた所へ、妙な依頼がきて不満だった。しかし一度、手伝うと言ってしまった手前、それを翻す事も出来ない。
それにマディーナに行けばネフェルカーラという美人に出会えるのだから――というより、ネフェルカーラを倒さねばならないのだから、ジャンヌとしては頷くより他なかったのだが。
ともかくマディーナへ到着すると流民や移民達が実に多く、街も活気に溢れている事に驚愕した。
ジャンヌがクレアに頼まれた事は、マディーナの開城とネフェルカーラの打倒だった。
当然、打倒した後のネフェルカーラは自由に扱って良いという事だったので、マディーナに入ると俄然やる気が出てきたジャンヌは、まず腹ごしらえを始めた。
「うましっ! この焼肉うましっ!」
オアシスの街に、白髪紫目という珍しい風合いの美少女が歩くだけでも目立つのに、到着早々ジャンヌは両手に串焼き肉を携えて、頬をぷっくりと膨らませながら歩くのだから、アリスは額に手をあてて嘆くのが精一杯だった。
「ジャンヌさま。あまり目立っては、元も子もありません……」
暫く悠々自適に何をするでもなくマディーナの宿で過ごしていたジャンヌに転機が訪れたのは、それから間もなくの事であった。
黒甲将軍とやらがクレイトを撃ち破り、王に任じられたという。
それは別にどうでも良かったが、なんとジャンヌのネフェルカーラが第一夫人になると言うではないか。
「ぐぎぎ……なんという暴虐、なんという横暴……。僕はシャムシールを絶対に許さない!」
暑過ぎる昼間。寝台の上で丸まりながら、涙を飲み込むジャンヌは決意も新たに逆恨みを始めた。
「そういえば、ネフェルカーラは上将軍となりました。それから最近、夜になると何処かへ出かけている由。となれば、太守であるファルナーズに接近なさるには頃合かと」
「わかった。僕の恨み、シャムシールに思い知らせてやるっ!」
完全無欠の逆恨みをシャムシールに向けるジャンヌは、紫色の瞳に暗い炎を宿し、寝台から立ち上がる。
暑いので相変わらず裸なのだが、本人はとてもシリアスな気分だった。
こうしてジャンヌはネフェルカーラが不在のマディーナで、容易くファルナーズの下に辿り着く。
夕刻はとうに過ぎて、執務室の明かりは薄明かりを灯す蝋燭が数本。それでも書類の山に埋もれたファルナーズは、健気にも仕事に励んでいた。
そこで親切心を出したジャンヌは、
「光玉」
なんと中空に一つの輝く光の玉を生み出した。
「わはは。暗がりで文字を読むと、目が悪くなってしまうぞ! おおぉぉぉ? キャ、キャワイイッ!」
執務室までは真面目に”消失”の魔法を使って進んだジャンヌだが、しかしここに至り余計な親切心で全てを台無しにしてしまう。
しかし――それでいい。
そう思ってしまうほどに、眼前の小鬼が可愛かったのだから――。
”ばんっ”
当然、後頭部をアリスの手刀に撃ち抜かれたジャンヌは、はっとなって我にかえる。
「こ、こほん。僕はジャンヌ・ド・ヴァンドーム」
「ほう? 最近の賊は名乗るのか? それにしても、衛兵どもも何をしていたやら。ネフェルカーラが居らんと、魔法の結界もここまで意味をなさなくなるのか? 困ったものじゃ」
ゆらりと立ち上がったファルナーズは、薄青色の着物を着ていた。
それはジャンヌが作り出した白い光に照らされて、幻想的な美となって輝いている。さらに彼女は立てかけてあった曲刀を抜くと、銀色の髪と赤い瞳が怪しく揺らめいて、魔物めいた怪しさも纏う。
ファルナーズの角が、仄かに輝いた。
「話をだけでも聞いていただけませんか、ファルナーズさま。私はアリス。フローレンス外事局の者です」
恍惚とした表情で、涎を垂らし始めたジャンヌはもう使えない。
ファルナーズの可愛さに、再びのぼせてしまったのだから仕方が無いだろう。
こうなればアリスはジャンヌを庇うように立ち、隙を見せない構えでファルナーズに問いかけるより他なかった。
(最悪、太守を討っても、状況が変わるわね。と言うより、ジャンヌさまの倒錯があるから話がややこしくなるのよ、まったく)
「ほう、フローレンスの者がわしに話、じゃと?」
幸いにして、ファルナーズの表情は和らいだ。
というよりファルナーズの方にも思惑があったからなのだが、それこそがクレアの授けた策である。
クレアが言うにはこうであった。
「どうせ敵も馬鹿ではないわ。此方が何かを仕掛けてくると思っているはず。ならばいっそ懐に飛び込んだ方が、得るものも大きいと思うの。だから、此方を利用しようとするであろうファルナーズの心の隙を衝くのよ」
となれば、アリスが言うべき言葉は決まっていた。
アリスは座卓の上に山と詰まれた書類を指差しながら、こう言った。
「……貴女さまは、元はシャムシールやネフェルカーラの上官だったと聞いております。それが今ではどうでしょう。彼等の下風に立つばかりか、このような雑用までも押し付けられて……」
「何が、言いたいのだ?」
「我等は、当面オロンテスが取り戻せればよいのです。オロンテスは我等にとって聖地ゆえ、決して失ってはならぬ場所。それさえご納得頂ければ、我等が手を結ぶ事も可能かと。無論、すでにナセル卿にはご理解を頂いております」
「なるほど。フローレンスはナセルを聖帝と為して後、正式に同盟を結ぶ……そういうことじゃな?」
「左様、ご明察にございます。無論、我が軍はナセル卿のヘラート攻略にも、シャムシール討伐にも協力いたしますわ」
「すると、わしは何をすればよいのじゃ?」
「簡単なことでございます。ネフェルカーラの排斥とシャムシールの抹殺、これに協力していただければ、マディーナの王たることを確約いたしますわ」
「……ほう」
ファルナーズは、眼前に立つ青い瞳のメイド女を見据える。
正直、まさかこれ程露骨な提案がフローレンスから齎されるとは考えていなかったのだ。
つい先日も不穏分子から、シャムシール討伐の軍を挙げて欲しいと陳情されている。
それらは一まとめにして第二親衛隊となしたが、今、目の前の女がする提案は、もっと具体性を持っていた。
(このままでは、本当にシャムシールが討伐されてしまうではないか)
ファルナーズは、自身の頬を冷たい汗が流れるのを自覚した。
(敵はネフェルカーラが考えるよりも、もっと巨大なのではないか?)
そう思えば、握る曲刀の柄にも力がこもるファルナーズ。ここで奴等を斬り、新たな策を練るほうが得策とも思えた。
(しかし……王)
父が為しえなかった野望、そこに我が手が届く機会でもある。
そう思えばファルナーズの心に靄のような欲望が渦巻いた。
(そう、わしはネフェルカーラと違って、シャムシールに愛されている訳ではない。むしろ、お荷物なのではないか? 大体あやつ、わしよりも後に知り合った女を幾人も妻として、わしには何の声掛けも……)
「む、ぐぐぐぎぎぎぎっ! シャムシールめぇぇぇ! ネフェルカーラちゃんだけじゃなく、ファルナーズちゃんの心までも弄んでぇぇ! ――隷約せよ! ファルナーズっ!」
その時、アリスの背後にいたはずのジャンヌは、白い顔を桃色に染めて――その様はとても可愛らしいのだが、ただひたすら激怒していた。
それは、ファルナーズの心を覗き見たからであり、そのことがこの倒錯の魔術師に火を付けたのである。
白髪を靡かせ薄桃色のワンピースを揺らすジャンヌの魔力は今、最大限に迸りファルナーズの精神を縛ったのだ。
ファルナーズは、シャムシールに恋心を抱いていた。
まだ見ぬ絶世の美女、ネフェルカーラはシャムシールの第一夫人になるという。
「許せるかぁぁぁ! こんな理不尽が許せるかぁぁぁ!」
怒髪天を衝くとはこの事であろう。
ジャンヌは両拳を握り締め、怒りのままに魔力をファルナーズへと送り続ける。
普段のファルナーズであれば、これ程の精神支配と云えども耐えたかも知れない。しかし、アリスの言葉によって生まれた心の歪が僅かな隙となり、楔となっていた。
「隷約――ファルナーズの約を解くには、シャムシールの命を奪う事とするっ! それまで、我が意志に反すること能わずっ!」
黒い靄がファルナーズの全身を包み、そして心臓の辺りに集まると、その体に飲み込まれていった。
必死に胸をかきむしり抵抗を続けるファルナーズは、次第に呻き声も小さくなってゆく。
やがてファルナーズは床に蹲り、縋るように手を伸ばした。
「ち、父上……シャム……シール……! 熱い! 体が熱い! 助け……て……!」
全てが収まると、すでに光玉は姿を消していて蝋燭の炎もなく、ただ窓から入る月明かりだけが三人を照らしていた。
部屋をアリスが結界で覆っていたせいで、衛士も従卒もファルナーズの執務室には入ってこれなかったのだ。
時間にして一時間弱。
ファルナーズは誰に気付かれるでもなく、最も助けて欲しい人物にも願いが届かず、その精神を奪われてしまった。
「……ジャンヌ・ド・ヴァンドームさま、何なりと、ご命令を……」
立ち上がったファルナーズは、まず刀を鞘に収めると、ジャンヌに向き直って片膝をつく。
「う、うふふ、うひひ。ま、まず、服を脱いでもらおうかな……でへへ。じゅるり」
ジャンヌはファルナーズの髪や頬を撫でながら、緩んだ口元から変態全開な言葉を紡ぎ出す。
当然ながらアリスの回し蹴りが腹部にめり込んで強かに体を壁に打ちつけたジャンヌは、気を失い連れ去られたのであった。
「ファルナーズ、今は、今までどおり振舞いなさい。そして時が来たら……うふふ」
”消失”を再び唱えたアリスは、堂々と執務室の扉から出て行った。
それでもネフェルカーラ以外の者が、彼女達を探知することは出来ない。
それ程に、彼女も優れた魔術師だったのだから。
こうしてファルナーズは自身の奥底に隷約を抱えながら、日々を過ごしていたのだ。
そしていよいよネフェルカーラが動くというその日、ジャンヌはその効力を顕現させたのである。
◆◆◆◆
こうして城門は、新たにマディーナ王となるファルナーズとの同盟の名の下、帝国の前に開かれた。
宰相ウィルフレッドの無茶振りに何とか応えつつあるクレアは、ファルナーズと馬を並べてマディーナの大通りを進む。
つい数時間前には、ハールーン軍が歩んだ道を逆行して進むのだから、住民達の不審と不安は頂点だろう。
しかし太守たるファルナーズが共にあることで、混乱には至らずに済んでいた。
(ともかく作戦の第一段階は完了した。第二段階は分岐するけれど、シャムシールはどう動くかしらね? マディーナを捨てる? それとも、少数精鋭で救援に来る? 彼の性格だと……きっと来るのでしょうね。くふ、くふふ。それにしても、疲れたわ……)
油断なく周囲を見渡しながら、クレアはマディーナの空気を吸い込んだ。
西方からの塩の香りを僅かに含む、乾燥した大気。
風が砂埃を運ぶと、先ほどハールーンとの戦いで負傷した頬が痛む。
(後でアリスに回復魔法を頼もうかしら)
ハールーンとの戦いにおいて、実は全力を使い切ったクレア。
もはや自身では僅かの回復すら不可能だった。
正直、ハールーンがあれほどの強さを持っているとは考えなかったクレアである。ましてや今は”聖戦”が発動しているのだから、ハールーンの強さは砂漠民の中でも異常だろう。
先々に想いを馳せながら街路を行くクレアは、いよいよ群青玉葱城の中に入ると、ファルナーズの執務室へ向かう。
そこには、ジャンヌとアリスが待っていた。
「ネフェルカーラは?」
「私が地下牢に閉じ込めたわ。封印を五重にしたから、そうそう破れるものではないけれど」
「まあ、ニ、三日持てば良いほうかな? 大丈夫、クレア、心配しないで。僕がこまめに見に行くから!」
「それが余計に心配だけど……アリス。ジャンヌさまから目を離さないよう、お願いするわ」
クレアの問いかけに、ジャンヌとアリスは笑顔を向けて応えた。
三人は家族であり、親友なのだ。
どのような状況や理由があっても、久々の再会は喜ばしい。
ファルナーズは無言で部屋の隅へ行き、円座を置いてゆっくりと座る。
その後、すぐに瞼を閉じて小さな寝息を立て始めた。
隷約とは、主人の命令がなければ、如何なる動きもありえないのだ。
そしてその解放は、唯一、解放条件を満たした場合のみとなる。
ファルナーズの解放条件は、シャムシールの死。この一点であり、さらにシャムシールを殺す事が第一の目的に設定されていた。
こうなればファルナーズが唯一可能な抵抗手段は、睡眠の他ないのである。
これから先、クレアは忙しくなるだろう。
謁見室において、ファルナーズにフローレンスとの同盟を宣言させなければならないし、そうなれば叛旗を翻す奴隷騎士もいるだろう。
手持ちの戦力は直属の四千、それからファルナーズ直属の二万だ。
これでマディーナ市民三十万とネフェルカーラ配下の一万を抑えるのだから、混乱が起きれば苦しくなる。
しかもマディーナの衛星都市には、およそ六万の奴隷騎士が駐屯しているのだ。その上、ハールーンも城外で自由に軍を動かしていた。
だからこそ、クレアには気を抜く暇など無い。次は、これをウィルフレッドと協力して撃滅しなければならないのだから。
そういえばクレアは出征前、宰相ウィルフレッドに内々で指輪を貰っていた。
彼の手から、自身の右手薬指にエメラルドが輝く指輪を賜った時には、
(こ、婚約? でも、駄目なのウィルフレッド! 私にはジャンヌとの誓いがっ!)
と、無駄に心臓が高鳴ったクレアだったが、その理由は明らかに違った。
クレアは執務室から露台に出ると、北の空に目を向けて報告をする。
「宰相閣下。マディーナの城門は我等の為にこそ開き、奴隷騎士の前には無慈悲な壁となるでしょう。もはや周辺を攻撃するに、何ら障害ではありません」
それと同時に、指輪のエメラルドが淡い輝きを放った。
そう、これは念話用の道具。そしてウィルフレッドは天才的な付与魔術の使い手でもあったのだ。
だからクレアの指輪とウィルフレッドの軍靴は連動している。
つまりクレアが指輪をしていて、ウィルフレッドが軍靴を履いていれば、いつでも念話は可能なのだ。
(なぜに軍靴? 仕事以外で私とは話しもしたくないって意思表示?)とガッカリしつつ、いつも踏みつけられている気がして不快なクレアだったが、指輪の出来は素晴らしいし、仕事は仕事である。
「……よくやった。さすが、私のクレアだ。早速、作戦を次の段階に進めよう」
しかしウィルフレッドの返事に、少しだけ気をよくしたクレア。
(べ、別に私はアンタのモノじゃないわよ!)
そう思いつつも、ついにやけてしまった。
クレアはこうして報告を終えると再び執務室に戻り、作戦を次の段階に進めるよう、師匠と姉弟子に声を掛ける。
「まったく、宰相閣下の人使いが荒い事ときたら……! 申し訳ないけれど、二人にもここからはもっと働いて貰わないとならないわ」
アリスは微笑と共に労いの言葉をクレアに掛けたが、ジャンヌはこの時、紫色の瞳をジットリと動かしクレアを見つめて、”ぷい”と顔を背ける。
しかし不機嫌に見えるジャンヌの後ろ姿は、彼女がネコミミカチューシャを頭に乗せている為、妙な哀愁を放つのだった。




