マディーナ動乱 3
◆
ネフェルカーラの軍を見送ると、前庭に集まっている奴隷騎士達は全てがハールーン配下という事になる。
ハールーンが人の耳では聞き取れない音が鳴る笛を吹くと、三十秒とかからずウィンドストームが現われた。
笛はアエリノールが作ってくれたものだが、何故かシャムシールが持っているものと比べると、手抜き感がある。
何しろシャムシールの持っているものは、様々な草花の模様が彫刻された美しい笛なのだ。
それなのにハールーンの持っているものは、まるで”ちくわ”である。
アエリノールの手抜きは激しかった。
「ウィンドストームが来ればいいじゃない!」
アエリノールはそう言っていたが、どうも釈然としなかったハールーン。
アエリノールに面と向かって文句を言う勇気は無かったので、今、目の前のアーザーデに不平を漏らす。
「ボクは別にシャムシールが羨ましい訳じゃないけどぉ、笛は綺麗な方がよいと思うんだよねぇ」
ウィンドストームを待つ間、アーザーデに笛を見せつつ溜息を吐いたハールーンである。
”くすり”と笑ったアーザーデは、
「だったら自分で作れるようになればいいじゃない」
そういってハールーンを宥めたのだった。
ウィンドストームに乗るとハールーンは、配下の奴隷騎士一万に号令する。
黒甲将軍府の前庭は、今、ハールーン麾下の将兵で埋め尽くされていた。
「皆、敵はフローレンスの先遣隊だけれど、いつも通りやろうねぇ」
上空を飛翔する指揮官を眩しそうに見つめる奴隷騎士達は、気の抜けたような声に対し、一斉に返事をした。
「「了承! ハールーン将軍!」」
ハールーンは兵達の心を、何故か鷲掴みにする才能があるらしい。それに盗賊や辺境魔族の討伐でも不敗であり、実はマディーナでだけならシャムシールとさえ並ぶ程の人気を誇る。
マディーナでシャムシールとハールーンが人気となる理由は、彼等の英雄譚が多く劇場で上演されている為だ。
何しろ彼等は元来が奴隷階級。それが戦乱の時代とはいえ、あれよあれよという間もなく、王やら将軍やらになったのだから、人気が出ないはずが無い。まして、そんな二人は親友なのだから。
劇の中でも特に「黒甲将軍の一騎駆け」と「ハールーン将軍の大将軍救出行」は人気が高く、街の子供たちは競って役になりきり彼等の真似をするのだった。
◆◆
マディーナの大通りを北に抜けるハールーン軍を見守るマディーナ市民は、いよいよここが戦場になるのかと身震いする。
市場の商人達もその様を見ると早々に店仕舞いを決め込んで、一気にマディーナ市内は”しん”と静まり返った。
嵐の前の静けさとでもいうのであろうか。
ハールーン軍が通った後を一陣の風が抜けると辺りにあった砂が舞い、建物の石壁にぶつかって落ちた。
ハールーンはマディーナの北門から出ると、軍を横に長く展開させて待機させる。その間に自身は上空に上がり、周囲を油断なく偵察してゆく。
アーザーデもハールーンと同様に空を舞い、周囲に目を光らせる。
「ハールーン、意外と近いところに敵がいるわね」
「そうだねぇ。でも、ボクじゃアレを破れないよぉ?」
ハールーンは一見すると何も無い荒涼とした荒地を指差して、アーザーデに答えた。
「その為に私がいるんでしょう?」
「アーザーデ姉さん、アレを破れるのぉ?」
「ハールーン、アレは消失や幻影の様な個別の魔法じゃないわ、範囲結界よ。だから、破ろうと思えばそう難しいことではないの」
「へぇ」
ウィンドストームに跨りアーザーデの博識に感心しきりのハールーンは、目を瞬かせている。
ハールーンが目を瞬かせると長い睫毛が上下に動く。その妙に色っぽい動作が、アーザーデは少しばかり羨ましかった。
アーザーデも十分に美しいのだが、なんというかハールーンには気品がある。
元はと言えば砂漠民でも火が族の族長が長子なのだから、思えばハールーンに気品があっても当然と思うアーザーデは、軽く溜息をついた。
(シバールに砂漠民の国が滅ぼされなければ、私なんてハールーンと口を利くことも出来なかったのでしょうね……皮肉なものだわ)
とは言え砂漠民の国家が滅びた理由も分からなくはないアーザーデ。その排他的な集合体は、ついに他の民族との交流を拒んだのだから。
(でもこの事を突き詰めればハールーンは、直接的な加害者ではないといっても、ファルナーズさえ恨む対象になるのではないかしら?)
ハールーンにとっては自分の国を滅ぼした男の尖兵――その娘がファルナーズなのだ。たとえ滅ぼされた後、不憫だと思われて拾われ、育てられたとしても所詮は奴隷身分。普通に考えれば鬱屈した想いが溜まるだろう。
(ハールーンは大人になった今、どう考えているのかしら?)
一つ頭を振ると、アーザーデは首を傾げるハールーンに説明をした。
こんな事を今考えても、埒があかないのだ。
「範囲結界というものは点と点を線で結び面と成し、その中にあるものを守護しているのよ。だから、点の一つでも崩せば、維持できなくなるの」
「じゃあ、ボクでも出来るかなぁ?」
「点の部分を見破れれば、ね」
「うぅーん」
一生懸命地上を凝視するハールーンは、しかし数秒後に手を上げて降参した。
「無理みたいぃ。全体を覆う膜みたいなものしか見えないよぉ」
「ふふ、仕方が無いわ。ハールーンは魔力が多くても、あまり訓練をしていないから細かい事が苦手なのね」
「仕方ないじゃないー。教えて貰わなきゃ魔法なんて覚えられないものぉ」
「いいわ、見ててね」
「わかったぁ! あ、でも僕も一つ魔法を使うよ!」
二人は互いに何も見えない地上を見据え、複雑な印を結んでゆく。
途中アーザーデが少し顔を顰めたが、それは結界の抵抗にあった為だった。
(意外ね……結界の一点さえ、これ程高度な魔法を施しているなんて……でも!)
アーザーデは僅かばかりの時間とはいえ、ネフェルカーラに魔法を教わっていた。
元々、魔法の素養が高い砂漠民であるアーザーデは、綿が水を吸い込むように、次々と新たな魔法を覚え、ネフェルカーラをさえ驚嘆させていたのだ。
何よりアーザーデは頭の回転が速かった。だからこそ、魔法理論を覚えてしまえば、その後の応用が容易かったのである。
「よし! ――姿を見せなさいっ!」
アーザーデの声と共に、敵の歩兵、騎兵合わせて四千の軍が顕になる。
彼等は既に陣形を整え、ハールーン軍と対峙する構えを見せていた。
敵からすればハールーン軍は丸見えだったのだから、それも当然のことだろう。
「隕石召喚!」
敵の姿が見えると、ハールーンは間髪いれず隕石を召喚した。
これは、高位の魔術師でも滅多に使えない魔法であったが、ハールーンはあっさりと習得した。
と言ってもシャムシールの軍中にあってはこの魔法を使えない高位魔術師の方が少ないのだが、そんな軍こそ希なのだ。
ハールーンは天空から、燃え盛る巨石を五つ召喚した。
炎を纏ったそれらは、一直線に敵軍の元へ落ちてゆく――はずだった。
しかし、その途上で隕石群は光の塵と化し、キラキラと煌きながら地上へ降り注ぐ。
その様は、星の雨ともいえる有様で、いっそ誰もが見惚れるほどだった。
もちろん、敵に損害など無い。ハールーンの魔力と敵の魔力がぶつかり、打ち消しあっただけの結果である。
「やっぱり、敵にも高位の魔術師がいるみたいね」
「うん、敵にすると魔術師って厄介だねぇ」
ハールーンとアーザーデは顔を見合わせ苦笑したが、しかしそう余裕がある訳ではない。
高度を落すとアーザーデは用意されていた馬に跨り、部隊の中ほどに紛れる。
一応ハールーンは彼女に千騎の護衛を与え、魔法で後方から支援するよう言い含めていた。この千騎は魔法も使う魔法兵達でもあるので、ハールーンにとっては切り札でもある。
ハールーンは軍の中程、本隊の真上にウィンドストームを降下させると、命令を下す。
「矢を放てっ! 前進っ!」
敵は此方の正面を向いて、じっと動かない。
結界が破られ姿を晒してしまう事も、どうやら想定内のことであったようだ。
それでも此方の数に物怖じせず、陣を構えている所を見れば、ハールーンも慎重にならざるを得ない。
敵の陣形は左翼に騎兵が千、中軍の歩兵が二千、右翼の騎兵が千というところ。
ハールーンは戦場を俯瞰しながら敵の陣形を把握して、思案を重ねる。
(敵軍は四千、此方は一万。陣形を整えて踏みとどまる意味があるのかねぇ?)
ハールーン軍の背後にはマディーナの城壁が聳えている。だから敵の援軍に襲われる事は無い。
だだっ広い地平線の先に、フローレンスの援軍が見える訳でもない。
この状況ならば、ハールーンが得意とする包囲殲滅戦術の格好の餌食と出来るであろう。
しかしハールーンは、”隕石召喚”を無に帰することが出来る程の魔術師がいながら、敵が不利を承知で戦うとも思えなかった。
「……罠を疑い過ぎても仕方が無いよねぇ」
「ハールーン、あの程度の敵、突撃すれば蹴散らせよう?」
「うーん、ウィンドストームは正面の敵と戦いたいんだろうけどぉ」
不意に下方から声を掛けられたハールーン。その声はウィンドストームだった。
ウィンドストームの巨体に跨っていると、たとえ地上にあっても平地であれば、戦場をある程度俯瞰することが出来る。ハールーンは周囲を見渡し、何処か浮かない顔をしていた。
ハールーンは現在、前進する歩兵と、その両翼に展開する騎兵達と切り離された地点にいる。
千の騎兵をアーザーデに預け、自身は別の千と共に後方にあるのだ。
所謂”本陣”と言えば分かりやすいのだが、単に督戦する為だけにこの場にいる訳でもない。
後背にマディーナの北門があるとなれば、ここを突破される訳にはいかないのだ。
もちろん現状で敵にこの門を突破で出来る戦力があるとも思えない。何しろ敵軍は四千なのだ。ここに本隊と後衛を残しても尚、ハールーンは八千に攻撃命令を出したのだから、単純に考えて敵の二倍にあたる。これで敵が四千から別働隊を出してここを襲う事など、普通に考えれば不可能であろう。
「別に戦いたい訳では。だが、我が出れば敵を一網打尽に……」
ウィンドストームは巨大な口元から”ちろちろ”と炎を覗かせながら、忙しなく尻尾を動かしている。
間違いなく暴れたくて仕方が無い様子だが、珍しくハールーンが悩んでいる様を見て、我慢をしているようだ。
暫くすると先頭の歩兵同士が槍を交わし始め、両翼の騎馬同士が絡み合う。
ハールーンは単純に五千の歩兵を中軍に、千五百ずつの騎兵を両翼に展開しているのだ。敵に何ら策が無ければ、敵を圧倒出来る戦力である。
しかしハールーンは、眉を顰めることとなった。
およそ半数の敵軍に対して、奴隷騎士が互角。しかもマディーナ軍中最精鋭であるハールーンの部隊が、である。
そのお陰で、中軍の歩兵部隊は一進一退の攻防が続き、両翼の騎馬隊も押し込む事が出来ない。
こうなれば、予備兵力としている自らとアーザーデの部隊を両翼に突入させよう――とハールーンが考えたその刹那。
突如として頭上に暗雲が立ち込め、”ゴロゴロ”と嫌な音が響く。
「――うわぁぁ! これは爆轟雷だよぉ!」
瞬時に巨大な結界を展開したハールーンは流石だが、それでも被害を全て食い止める程ではなかった。
同時にアーザーデも防御結界を展開したが、全てを防ぎきるのは難しい。
とはいえ、ハールーンとアーザーデの下にいた二千は、負傷者こそ出たが、死傷者は出なかった。それだけでも、彼等の魔力の程が伺い知れるというものだろう。
もちろんアーザーデの率いる千騎が魔法兵であり、魔法耐性が高かった事も死傷者の出なかった要因ではある。
だが、爆轟雷を使える魔術師が敵に存在する事に戦慄を覚えたハールーン。
「アエリノール級ってことぉ?」
「洒落にならない」と思いつつ、戦局を決める為には「結局防御を捨てなきゃいけないな」、などと考えたハールーンは、背後で城門が開く様を見た。
(え? 今、自分以外でマディーナから現われる部隊がいる筈もないのだけれど?)
そう考え首を傾げていると、純白の馬に跨るファルナーズが五千の騎兵を率いてハールーンの下に迫ってくる。
見ればその中にはネフェルカーラが処断しに行った第二親衛隊も含まれているのだから、ハールーンと言えども、多少頭が混乱した。
「ファルナーズぅ? 援軍? なんでぇ?」
「ハールーン! 兵を退けっ! わしはフローレンスと盟を結ぶこととしたっ! それ故、あ奴等は敵ではないのじゃ!」
距離が離れていても、ファルナーズの声はよく通る。
未だ上空の暗雲が晴れぬ中、その声に違和感を覚えたハールーンは、ふと上空を見る。
「ファルナーズさまは操られているわっ! 魅了か……契約。最悪の場合、隷約かもしれないっ! たった今、ネフェルカーラさまから念話で教えて頂いたわっ!」
アーザーデが慌てた様子で上空を舞っていた。
確かに馬よりも”飛翔”の方が早いかもしれないが、馬が椅子代わりなんて、ちょっとだけ可哀想だと思うハールーン。
惚けた事を考えたおかげで冷静になり、ハールーンは大体の状況を理解した。
溜息混じりに言った一言が、見事に正鵠を射る。
「ていうことはさぁ、ネフェルカーラさまは敵に捕まったんだよねぇ?」
「う、うん。そう言っていたわ。それで……ハールーンにあとは任せるって……!」
「任されなくても、やるよぉー。だって死にたくないからねぇ……ふふふぅ」
竜の背に括り付けてあった槍を持つと、ハールーンは上唇をペロリと舐めた。
先ほどまで指揮官然として、余裕の表情を浮かべていたハールーンだが、コイツも元来は脳が筋肉で出来ている。ならばこの危機的状況は、彼にとってむしろご褒美でしかないのだ。
「アーザーデぇ。キミの騎馬隊とボクの騎馬隊を纏めて敵軍の中央を突破するよぉ!」
「えっ? 攻めるの? 無理よ! 今は撤退しないと!」
「撤退って、ネフェルカーラさまが敵に捕まってファルが操られているってことはだよぉ……マディーナが落ちたってことでしょお。ボクら、もう帰れないんだよぉ? だからボク達は、正面にしか逃げ道がないんだよねぇ。ふふふふぅ。面白くなってきちゃったなぁ!」
こうしてハールーンは二千の騎兵を主軸に、自身は竜を駆り、縦横に戦って敵中を突破した。
背後に迫ったファルナーズ率いる五千の騎兵は、何故かハールーンを追わず、それが彼等の損害を軽微なものにしたのであろう。
もっともハールーンは、もしもファルナーズが追って来たならば手痛い逆撃を準備していた。
実の所ハールーンはファルナーズがあまり好きではなかった。
何しろ共に育ったとは言え、一方は主家の娘で自身は奴隷だったのだから。
ましてやハールーンは、世が世なら王子とも呼ばれていたはず。
だからその鬱屈した思いは、いつまでも晴れる事がなかったのだ。
そう――ある日、同じ部屋にシャムシールと名乗る奴隷が連れて来られるまでは――
過去の遺恨を思えば、ここでファルナーズが向かってくるならば、これ幸いと殺してしまう事も考えたハールーン。
(でも、シャムシールはそーいうの、嫌いだよねぇ。ファル、自制するんだよぉ。そうしないとボク、キミを殺しちゃうから――いや、違うねぇ。シャムシールのお陰で、ボクはファル――キミをとっくに許してる。だから待ってて、必ず助けるから)
そんなハールーンの想いが通じたのか、ファルナーズは動かない。
ファルナーズにはハールーンの気持ちなど分からなかった。
しかし、だからといってハールーンの隔意に気付きもしないほどファルナーズは鈍感ではなかった。
父はアシュラフの命令とはいえ砂漠民を滅ぼす片棒を担いだ。
だとすればハールーンはおろか、シャジャルとて少なからず隔意を持っていてもおかしくない。
いつか、その時がくれば謝罪しようと思っていた。
だがシャムシールに背いてしまったファルナーズは、もはやその機会を失ったのだ。
(ハールーン。お前なら、わしを殺せたであろうに……何故、去った……? それに、それにわしは……わしは、ここで死なねばいずれシャムシールを殺す事になるのだぞ……! そんなことは嫌なのじゃ!)
もはや自死すら選べないファルナーズは、死をハールーンに託した。
しかし、眼前で砂塵を巻き上げ去ってゆくハールーンの軍は、もはやファルナーズを見ようともしない。
ファルナーズはハールーンの事も、シャジャルの事も大好きだ。
シャムシールの第一印象は最悪だった。何しろ下着も身に着けずに剣を握り、ハールーンに負けたと思えばあっさり転ぶ。
それだけならまだ良かった。
あの時ファルナーズは、転んだシャムシールの股間を思い切り見てしまったのだ。
「あんな粗末なもの!」
と、あの時は思ったけれど、粗末かどうかなど比べた事もないファルナーズである。顔を真っ赤にして逃げる様にあの場から去ると、もう頭から離れなくなってしまった。
いつしかアレが標準だという思いに至り、どんどん逞しくなってゆくシャムシールに心が惹かれてゆくまで、あまり時間も掛からなかったものだ。
「女では、わしだけしかシャムシールのアレを知らぬのだ!」
という想いは強く、けれど決して口には出せない日々が続き、いつしかシャムシールが幾人もの妻を持つと知った日、ファルナーズはただ荒れた。
しかし第一夫人がネフェルカーラならば、自身が勝てる要素が一つもないと思ったファルナーズ。だから密かに身を引くことにしたのである。
それでも、彼は王であり、自分は太守。ならば共に歩めばよいのだ――そう決意も新たにして、やがてはハールーンの隔意も消えよう――そう考えて生きてきたのに――
――もう戻れないのだと思えば、ファルナーズの赤い瞳からは大粒の涙が零れて止まらないのだった。
◆◆◆
突撃の最中、一度だけ槍を交わした騎士と、ハールーンは言葉を交わした。
竜を駆るハールーンに、唯一人対抗しうる人物がいたのだ。
その女は、深緑色の地に翡翠色の紋様をあしらった鎧を着て、”機動飛翔”を使う魔法剣士だった。
「聖光緑玉騎士団団長のクレアよ。お久しぶりね、ハールーン。よかったら降伏なさいな。帝国は砂漠民も受け入れるようになったの。悪いようにはしないわ」
「へぇ、アエリノールを追い落として偉くなったんだねぇ。でも、そっちこそ降伏したらどうだいぃ? シャムシールは誰でも受け入れてくれると思うよぉ?」
「あら、シャムシールなら残念ね。彼、もうすぐ死ぬと思うわよ?」
ハールーンの眉が”ピクリ”と動く。クレアはそんな動揺を見逃さず、さらに言葉を紡いでゆく。
「マディーナは彼の生命線。失えば、今後、どう戦うというのかしらね? もしも彼が私たちに従うというのなら、もちろん厚く遇するけれど」
「……それでも、キミ達の国は魔族もテュルク人も認めないんでしょお?」
「そうね、それが原則ね」
「じゃあ、ファルナーズをどうして味方に引き入れたんだいぃ?」
「くふ、くふふふ。戦う為に手段を選ぶ馬鹿が、何処にいるのよ? 用が済めば、始末するわよ……くふふふふ」
瞬間、ハールーンの槍がクレアの頬を掠めた。
クレアは完全に避けたつもりだったが、避けきれていなかったのだ。そのせいで、クレアの頬に真紅の筋が走っていた。
「逃げるのは上手だねぇ。殺してやろうと思ったのにぃ」
「……いい男だから生かしておいてやろうと思ったのに……くふふ。貴方も死にたいようね……」
クレアは両手を大きく広げると、その周囲の空気を集めてゆく。
それはクレアが纏う暗緑色の鎧に吸い込まれる様だった。そして暫くすると鎧に描かれた翡翠色の紋様が、淡く燐光を放つ。
別にそれを待つ必要も無かったハールーンだが、このクレアを抑えなければ、眼下の騎馬隊が中央を突破し、歩兵部隊が続く事も出来ないだろうと覚悟したのだ。
やむなく眼前のクレアを見据え、ウィンドストームの背にあるべき予備の槍を探す。
「……あれぇ?」
指を”ワキワキ”させながら、槍を掴もうとするハールーンだが、どうやら二本目の槍が無い。
一方、鎧によって身体強化が大幅に可能らしいクレアは、長剣を抜き放った。
ならば近づけさせなければよい、そうハールーンは判断したが、それはどうやら甘かったようだ。
乱雑に剣を振い始めたクレアから、その一振り毎に火球が飛ぶのだ。
無詠唱で”大火球”を飛ばしているようなものなのだから、ハールーンとしてもたまらない。
「ウィンドストームぅ!」
「承知!」
ハールーンはたまりかねて、風竜に炎の迎撃を任せた。
正直、クレアの攻撃ならば、ギリギリでハールーンも凌ぐ事が出来る。しかし、今はあまり疲れたくないのだ。
だから回避に専念しつつ、味方の離脱を支援するハールーンは、余り攻撃出来なかった。
さっき怒りにかまけてクレアに槍を見舞ったのは失策だったかもしれない。
「予備の槍、持ってくるの忘れたよぉ!」
喚くハールーンはクレアの攻撃を回避しながら、たまに頭を抱えている。
とりあえず曲刀を抜いて刀身に炎を纏わせたハールーンは、割と冷静だ。
何しろウィンドストームは世界最速を誇る風竜である。
ならば、いかにクレアが機動飛翔で飛ぼうとも、最終的に追いつけるはずが無い。となれば、絶対に逃げ切れるのだから、安全なのだ。
(それに、ファルのこと……許せないけれど、この女だけであのファルの精神を支配するなんて出来る訳が無い。殺したら真相が聞けないし。でも捕えるとしても、ちょっと無理があるよぉ)
という訳で、ハールーンは頃合を見て逃げ出した。
結局、ハールーン軍一万は、六百の損害を出した。
クレアが率いた聖光緑玉騎士団の損害は八百だったのだから、何だかんだ言っても局地戦で勝利を収めたハールーン。とはいえマディーナを失ったのだから、決して勝利したとは言えないだろう。
のちに”不敗王”と呼ばれ、黒甲帝の至宝と名高いハールーンの不敗伝説は、こうして始まったのである。




