倒錯の魔術師
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カフカス大陸西域を瞬く間に制圧したプロンデルは、聖教国を傘下に収めると自らは神聖皇帝を名乗り、遍く世界を統べる事を帝都フローレンスにおいて宣言した。
その国是は、人族を基盤とした社会を築く事。そして数多の亜人族に虐げられる人族の解放を行う事。
人族とはカフカス大陸に住まい、民族として特殊な能力を持たぬ、寿命が百年以下の者達を指して言う。
民族に分ければ、アヴァロン人、ケルト人、砂漠民、それに遠くはキタイ人などである。
すなわち、妖精や魔族、そして亜人は国境の外に追いやり、領土に一切の侵入を認めないのだ。さらに言えば、国境線そのものが拡大してゆくのだから、つまるところ亜人族達を辺境に追いやる、という事だった。無論その過程で彼等が滅亡しようが、皇帝たるプロンデルは意に介しない。
あくまでも人が人の手により人の為の国家を築く、という名分なのだ。そしてその名分があれば、プロンデルは何処までも戦争が出来る。彼にとっては、それこそが重要なのだから。
だが、それではすまない政治的な部分において、クレアは皇帝に様々な献策をした。
クレアにとって戦争はあくまでも通過点であり、その目的は巨大帝国の恒久的な維持、そして亜人、特に魔族と妖精族の完全駆逐なのだから当然だろう。
だから彼女はまず人族の中で、明確な身分制度を設けた。
民を第一階層と第二階層に分けたのである。
第一階層民は現時点において神聖フローレンス帝国の傘下にある諸都市の平民階級、そして人種としては肌の色が白く、滑らかな髪を持つ者とした。
彼等は皆、皇帝の下に平等であり皇帝は神の代理人とされるのだから、帝国臣民は帝国神民と自らを称するようになった。
彼等は現状帝国において八割を占める。その彼等に選民意識を持たせ、帝国に対する忠誠心を高めたのだから、クレアのこの施政は、まったく帝国の国威高揚に凄まじい威力を発揮したのである。
ただし、建前としては皇帝の下に皆平等を謳ってはいても、現実的な支配構造は必要だ。故にクレアは社会制度としての身分を、第一階層民の中でさらに五つに分けた。
貴族階級、騎士階級、商人、農民、そして別枠で聖職者だ。無論、彼等は皆第一階層民である以上、どの階級に生まれようと自らの努力と力量により貴族に列する事も可能だし、聖職者を目指す事も出来る。
皇帝は帝国神民に平等の機会を与えるといい、民を兵へと変えることにも成功していた。
もっともクレアにとって、貴族だけは無用のものだった。
何故、この階級を作らなければならなかったのかと言えば、西カフカス大陸を制圧するにあたって軍功が著しかった将軍達に報いる必要があったからだ。
もとより小王国の王だったプロンデルの配下は、王族であったり貴族であったり騎士階級である。ならば、功績のある彼等の利権や名誉を剥奪する訳にはいかなかったのだ。
それ故、帝国貴族に列したのは、プロンデル麾下の将軍達や、地方領主達が多い。
彼等を帝国貴族に据える事は、クレアにとって苦渋の選択だった。
彼女と皇帝プロンデルは「侵略戦争の継続」という利害においては極めて一致しているが、その目的が大きく異なっているからだ。
プロンデルにとっては「侵略戦争の継続」こそが目的だが、クレアにとってはその先がある。
ならば貴族階級の存在は、害悪以外の何ものも生まないであろう事は明白だったからだ。
だが、強かなクレアはこの施策を利用して、自身の立場を強化する道を選んだ。
自らを伯爵位とし、帝国内務卿の地位を得たのである。
無論、ウィルフレッドを公爵として帝国宰相の座に据える事も忘れてはいない。
即ち、ウィルフレッドの判断を常に仰ぐと見せかけて、帝国支配領域全てに自身の影響力を得たクレアだった。
帝国内務卿となったクレアは、帝国内における亜人達の弾圧に乗り出した。
まず、妖精であるジーン・バーレットが指揮官だった聖光白色騎士団は即時解体、上級指揮官達は捕えられる限りを捕え、処刑した。
もっとも、これに関してはあまり上手く行ったとは言いがたい。その大半に逃亡を許してしまったのだから、事前に何者かの手が働いていたのだろう。
さらに移民や亜人族が多く所属した聖光黄色騎士団も国是に合わぬとして、部隊を分け、補助軍へと編入した。
補助軍とは、第一階層民を兵である条件とする帝国軍において、第二階層民のみで構成された部隊のことである。
第二階層市民とは、肌の色が浅黒い者や黒い者達で、砂漠民や辺境民と呼ばれる者達だ。
聖教国と呼ばれた頃のフローレンスならば、彼等は逆にフローレンスの地に足を踏み入れる事さえ許されない、不浄の民であった。
しかし帝国は彼等には二十年の軍役の後、準第一階層民へと昇格する権利を与えた。
準第一階層民とは、一代限りの第一階層民のことである。
そして準第一階層民として二代続けば、晴れて、その家は第一階層民となるのだ。
つまり一つの家で合計四十年の軍役を終えれば、誰でもフローレンスの貴族に列する可能性がある、ということ。
こうしてかつては蔑まれた民族も新帝国に未来を託し、命を賭けて戦うことを誓ったのである。
これもクレアの施策であり、帝国の百年先を見据えての考えであった。
帝国宰相となったウィルフレッドも、これら施策の数々が明らかに帝国の為である事を認めざるを得ず、クレアに対する見方を修正した。
ある日、帝都にあるテルニ宮殿の執務室で、ささやかな報告に訪れたクレアにウィルフレッドは聞いたものである。
「貴女には、野心がないのだろうか? 貴女が望んだ地位は、貴女にとって必要不可欠なものであっただろうが、その能力を鑑みれば不足と言えるのではないか?」
「もしも私が野心家であったなら、今頃ウィルフレッド卿、貴方に誅されていたことでしょう。うふふ」
「ふむ。まあ、よい。陛下を誑かすような真似だけはしてくれるなよ」
「あら? でしたらウィルフレッドさまがお相手をしてくだされば、私、満足しますけれど?」
「はは、そんな事をしては、オーギュストに私が殺される」
「あら? 確かにオーギュストとは一晩だけ……でも、それだけですわ。それにしても、そんな事までご存知とは、やはり恐ろしいお方ですね」
「秘密を多く持つ女性は、恐いものだからな。無粋とは思うが、ある程度は調べさせてもらった」
「うふ、うふふ。夜を共に過ごせば、私の秘密など全て宰相閣下のモノになりましょうものを(魅了)……」
「女の魅力など使わずとも、私は君の施策が民を豊かにすると思えば全てを承認する。……君はもう少し自分を大切にした方が良いだろうな」
苦笑を浮かべたウィルフレッドは、クレアの魔力を右手で払う。
クレアはこの時、愕然とした。
魔術師でもないこの男が、自身の魔力を弾くとは思ってもいなかったのだ。
それに宰相に魔法を行使するなど、これは明らかな反逆行為である。
しかしウィルフレッドはさらに右手を払うと、何事も無かったかのようにクレアに退出を促す。
魔術の行使を単なる色仕掛けとして一笑に付した宰相に、クレアは酷く敗北感を感じていた。
「もう報告は終わっただろう、クレア伯。私は忙しい。もしも君が本当に私を愛するとでも言うのなら、話を聞かぬでも無いが、ね」
(この不感症男っ! 私に恥をかかせてっ! 私がアンタなんかを愛する訳ないでしょ! この無表情! 女男! 綺麗な顔だからって舐めるんじゃないわよ! なんなのよっ、もう!)
後に思い返せばウィルフレッドの寛容に、僅かばかりの感謝をしたクレアだが、流石の彼女もこの時ばかりは事の軽重を見誤り、明後日の憤りを抱えながら退出した。
こうしてウィルフレッドの信任を得たクレア主導の下、フローレンスの軍政と内政は改革されてゆく。
しかし、未だ法王クレメンスの影響力は大きい。ことに聖光緋玉騎士団は、副団長フィアナ以下、有力な騎士達が未だクレメンスに絶対の忠誠を誓っているのだ。
とはいえクレメンスが表立ってプロンデルと敵対する事は無い。
そもそも七十歳を超える老齢で、法王など神輿の様なもの。ならば神輿を守る騎士として、現状のまま聖光緋玉騎士団の存続を許しても構わぬ、と、クレアは考えていた。
「いや、今は無理だが法王には使い道もある、か。聖戦を発動させれば、嫌でも聖光緋玉騎士団は動かざるを得ない。くふ、くふふふふ」
◆◆
聖暦一七五ニ年(帝国暦三年)、初夏。
いまや帝都と呼ばれるようになった都、フローレンスから一路西へと向かったクレアは、街道の脇に繁った若草を眺めつつ、長い道のりを行く。彼女は単騎、とある場所を目指していた。
(ネフェルカーラという女、底が知れない。悔しいけれど、今の帝国にはあの女に対抗出来る魔術師なんていないわ……)
数日だが、ネフェルカーラと共に過ごした事のあるクレアだ。思い返すたびに、背筋に冷たいものが走る。
伯爵位を得て帝国内務卿となり、次々と施策を進めるクレアだったが、それゆえに自身の力不足を痛感する事がこの所、多かった。
ことにウィルフレッドに対する劣等感は凄まじい。
もちろん帝国宰相たるウィルフレッドの方がクレアよりも年長だし、クレアがウィルフレッドと同年になった時には違う景色も見る事が出来るだろうが、彼女には彼女なりの焦る理由があった。
「私には、あと五年しか時が無いのに」
彼女の心臓には、かつて魔族がかけた真紅の鎖が巻きつけられているのだ。
それは、八つの時にかけられたものだ。
クレアが二十五歳の誕生日を迎えたその日、鎖が心臓を締め潰す、という呪いである。
◆◆◆
今から十二年前、ある寒い冬の出来事。
クレアの住んでいた村に、黒死病と呼ばれる伝染病が蔓延した。
これは、特に上位の神聖魔法を使う司祭でもなければ治療出来ないし、出来たとしても一日に数人が限度だった。だからこそこの時代、この病にかかることは死を意味していたのである。
だがクレアは、純粋で敬虔な聖教徒だった。
(司祭さまの魔法は祈り! だったら私だって一生懸命祈ったら、神様は聞き届けてくれるかもしれない!)
そう思ったクレアは自身の育った村が伝染病で危険なとき、一人、深い森の中へ分け入り、聖なる泉を前にして膝を折り、祈った。
聖なる泉は、かつてこの村が唯一排出した枢機卿が幼い頃によく遊んだ場所だという――
「神よ、村の皆をお助け下さい――」
当時八歳だったクレアは瞼を閉じて、一身に祈り続けた。
「よろしい、娘よ。お前の願い、聞こうではないか」
「あまり妙な事に首を突っ込まないで下さい、エベールさま」
夕刻に辿りついた泉からクレアは一歩も動かず、いよいよ翌日の朝日が昇ろうかという時刻。
森には生暖かい風が吹き、クレアの褐色の髪を揺らしたその時、宙から漂う声がクレアの耳朶を打つ。
声は二つ。一つは柔らかく低い声で、幼いクレアさえ聞き惚れてしまうような男性のもの。もう一つは、少し怒ったような、それでも十分に気品を感じさせる女性の声だった。
「お、お願いします! 私、何でもします!」
両手を胸元で組み、頭上を見上げたクレアは宙に浮かぶ一組の男女に懇願する。
女の方に「妙なこと」などと言われても彼女は必死であり、藁にも縋りたいのだから当然だろう。
女は灰色のローブを身に着けて、腰に手を当てながらクレアを見守っている。銀髪に赤い目をして長い耳を持っているのだから、きっと妖精なのだろう。
クレアは妖精を初めて見たが、高度な魔法を使えるらしいから、もしかしたら魔法で村人を治療してくれるかもしれない。
しかし――
唇の端を奇妙に歪めた男は、白皙の頬に黒絹の様な長い髪を持ち、真紅の瞳を持っていた。豪奢な衣服は、赤を基調とした長衣の縁に金の刺繍が施されたもの。その佇まいの堂々とした様から、どこかの国の王だと言っても過言ではない程である。
だから、当時のクレアにそれが魔族だなどとわかる筈もなく――この人は神様だ! と思ったのだ。いや、思いたかったのだろう。
「ふむ、ならば契約しよう。俺はお前の村を病から救い、全ての苦痛を取り払ってやる。代償としては……そうだな、お前の寿命を貰おうか。心臓に、誓いの鎖を巻かせてもらうぞ」
「はい、はい! お願いします! 神様!」
涙を流しながら、クレアは頷いた。
その時ちくりと胸が痛んだが、自分の寿命如きで村人達が救われるのならば、神はなんと寛容なのだろう。
そして日が昇る頃、クレアは意気揚々と村へと戻った。
”しん”と静まり返った村からは、昨日あれほど聞こえた苦痛の呻きが聞こえない。
クレアは少しばかり痛む胸を押さえて、小さいけれど暖かい我が家へと足を向ける。
両親と幼い妹も、やはり同じ病で苦しんでいた。
(早く元気になった皆の姿を見たいな!)
今は苦痛の呻きが聞こえないのだから、きっともう皆、大丈夫なのだろう。クレアは足取りも軽く、弾むようにして細い道を歩む。
冬の日差しは珍しく暖かい。小鳥の囀りがクレアの心を優しく撫でていた。
自宅に戻り扉を開けてクレアが目にしたモノは、寝台の上で眠るように死んでいる家族達であった。
暫く茫然とし、床の上にへたり込んだクレアはしかし、意を決して立ち上がる。
(もしかして、もしかして他の家も?)
幽鬼の様に顔を蒼白にして、ゆらゆらと歩き近くの家を回るクレア。
クレアが回った全ての家で、全ての人々が、やはり眠るように死んでいる。
――村は、全滅だった。
「どうして? 神様、どうして――!?」
「願いは叶えたぞ、娘」
村の広場で一人慟哭するクレアの前に、再び黒髪赤目の男が現れた。
見れば、ぞっとする程美しい顔立ちをしている。
クレアは今まで、それほど美しい男など見たこともなかった。だから、やはりこの男を神だと信じてしまったのだ。
「ふ、ふふはははは! 村人の”病”を俺は、死を与える事により取り払ってやったのだ、感謝するがよい、娘よ!」
「――がう。違う! 私が願ったのは、こんな事じゃない!」
足元に落ちていた手ごろな石を拾い、闇雲に投げつけるクレアは、既に半狂乱だった。
爪が割れても土を抉り、宙に浮く男に何かを投げつけるクレアを、男は呆れながら見守っている。
「だが、契約は契約だ。魂が最も満ちる二十五の歳、我が呪縛によりお前はその命を失う――逆に言えば、その歳までお前は決して死ぬ事は無い。お前は村人の命を代償に、黒死病より生きながらえるのだ、喜ぶがよい」
つまり魔族の男エベールは、純真なクレアの想いを踏みにじったのである。
命を賭しても村を救いたかったクレア。だからこそエベールは村人の命を代償に、クレアに十七年の猶予を与えたのだ。
クレアもまた黒死病に冒されていたのだから、結果を見ればクレアの意図とこの契約は真逆のもの。しかしだからこそクレアはただ一人、黒死病に冒されたこの村で生き残る事が出来たのだ。
太陽が沈み星が輝きだす頃、男は地上に下りて、クレアの肩に手を置いた。
クレアの顔は泥と涙に濡れていたが、褐色の瞳に燃えるような怒気を湛えて男を睨みすえる。
「神様じゃ、ないの……?」
両拳を握り締めて、クレアは全ての感情を怒りに転化させていた。
「はぁ……あなた、魔族を知らないの? この人、魔族の中でも上位者よ。私も呪いで使役されてるの。貴女、可哀想だけど諦めなさいな」
夜になり、あたりが冷え込んでくると妖精の女が現われて、二人の間に割って入る。
身を小さくして両肩を抱えるようにしている所を見れば、今まで姿こそ見えなかったが、側にいて気温の変化を感じていたのだろう。
「魔族? 魔族と妖精?」
「ふむ、この女は闇妖精だがな。……まあよい。もはや長居は無用、行くぞ」
踵を返すと、闇に紛れて消えた黒髪の男は最後にクレアを一瞥し、
「因果の理から外してやったのだ、精々、抗え」
と、言った。無論、クレアに意味が分かるはずも無い。
付き従う闇妖精の女は、諦めたような視線を一度だけクレアに這わせ、そっとこう囁いて、消えた。
「諦めなさい、貴女は彼の玩具になったのよ」
「ゆる……さない……私は魔族も妖精も、絶対に許さない!」
クレアの呪詛は、無人の村の中、いつ果てるともなく続くのだった。
◆◆◆
だだっ広い草原の中、小さな小さな川に面した場所に、これまた小さな水車が回る。水車の隣には小屋が立ち、その脇に、やはり大きいとは言えない煉瓦作りの家が立っていた。
クレアは煉瓦家の入り口に立ち扉を押すと、ゆっくり室内に入る。
辺りには散乱した書類や衣類、それから食べかけのパンや洗っていない食器などがある。所謂、汚部屋で足の踏み場もないのだが、クレアにとっては懐かしい場所だ。
入り口から左に進み、食卓の脇を抜けると小さな汚部屋には不釣合いなほど大きい長椅子を見つけた。
そして、長椅子に横たわり大きな鼾をかいて眠っている少女に、クレアは声を掛ける。
「お久しぶりです、ジャンヌ」
「ぐう……すぴー……! むっ! 美女のカホリっ! 誰っ?」
ジャンヌと呼ばれた少女は飛び起きるとクレアの後ろに回り、ベージュ色のズボンを履いたクレアの尻を撫でる。
「いいね、いいねっ! クレアのお尻、可愛くなったねっ! クンクン……あっ! クレア! 男とヤッたな! うわあああん! うわあああん! 僕、もう寝る!」
クレアのお尻に顔を近づけニオイを嗅ぐと、すぐさま踵を返して長椅子に舞い戻ったジャンヌは、とてつもなく美しい。彼女の純白に近い銀髪は立ち上がっても床に付くほど長く、神秘的な紫色をした瞳は深い知性を湛えている。
ジャンヌは再び長椅子に横たわると、全裸にも関わらず大股を広げて不貞寝を始めた。彼女は何も隠す気が無いようだ。といっても隠さなければならない程立派なものもは何一つ持っていないので、やはり問題無いかもしれない。
「ジャンヌ、そのようなお姿では、それこそ男に見られてしまいますよ?」
「大丈夫! ここは男が入れない桃源郷だもん! クレアは知らなかった? ……って、起きちゃったよ。仕方ない、お茶でも飲もうか。おーい、アリス! お茶ー! 僕の分とクレアの分を持ってきてー!」
「はい、只今」
暫くすると、濃紺のワンピースに白いエプロン姿の、アリスと呼ばれた女性が部屋の奥から現われた。
頭にもホワイトブリムを乗せて、どこからどうみてもメイド姿の彼女はその左手にティーセットを乗せたトレイを持っている。
そして右手は書類の山と貸した食卓をかき分けて、適度な空間を作り上げていた。
「ジャンヌさま、どうしてものの数時間でこうまで部屋を汚せるのですか?」
「ふふっ、聞いて驚け! 僕は時を止める事に成功したのさ!」
「時を止めたなら、そのまま後片付けもしてください。それから服を着てください。誰もそんな貧相な胸、見たがりませんから」
言うなりティーセットを食卓に置くと、長椅子に横たわるジャンヌの腹部に強烈な踵落としを見舞うアリス。
彼女の赤茶色をした髪がふわりと揺れて、仄かな柑橘系の香りがクレアの鼻腔を刺激する。
「ぐふぅっ! 見事な蹴りだね……アリス、キミは本当に魔術師なのかい?」
「一応、ここ四百年ほどジャンヌさまに師事しておりますが」
「僕は師匠を足蹴にするような弟子は、育てていないハズなんだけど……」
「これは踵落としです」
「へえ……って! 技の名前なんか、どうでもいいよ!」
腹部を擦りながら椅子から起き上がり、適当な衣服を頭から被るジャンヌは、どこまでも横着だった。
「アリスも、久しぶりね」
かつてと変わらぬ光景に、クレアの表情は自然と柔和なものとなる。
常人が見れば殺伐とした日常も、この魔術師師弟であれば、戯れに等しい。
ここでのみ、クレアは本来の自分を取り戻せるのだ。
かつて師と呼んだジャンヌ・ド・ヴァンドーム。そして姉弟子のアリス。この二人だけには、クレアも真実を打ち明ける事が出来る。
クレアの微笑を受けたアリスは、服から頭を出し損ねているジャンヌを回し蹴りで吹き飛ばし、涼しい顔で振り向いた。
「クレア、久しぶりね。元気だったかしら?」
「元気……とは言えないわ、忙しくて、眠る時間もないもの。でも、自分でやり始めたことをやっているだけだから」
クレアの言葉に頷くと、手際よくカップに紅茶を注ぐアリス。
アリスとクレアはモノが散乱した食卓を前に向かい合って座る。そしてアリスはクレアと自身の手前に紅茶の入ったカップを置いた。
「……あまり生き急がないで。私たちには、転生という秘術だってあるのだし」
「そうね。でも、私には業がある。私は、私の村を滅ぼしたのだから……」
「それは、仕方がないことだったのよ。クレアが悪い訳じゃないわ」
「……結果が悪ければ、それは罪よ。でも、ありがとう。アリス、あなたの優しさにはいつも救われるわ」
アリスがクレアに向ける眼差しは、何処までも優しい。赤茶色の髪は、見方によってはくすんだ金色に見えるし、青い瞳を持っているアリスは、現代日本の男子にとって、完璧なメイドに見えるかもしれない。
クレアも艶やかな褐色の髪に、鳶色の瞳を持っている美人だ。
そんな二人が互いを優しく見つめ合い、笑みを交している。
「眼福眼福……これだから百合は最高だよ、うんっ! でも、僕の紅茶はどこ? なんで僕には紅茶が無いの? まあ、いいや!」
クレアとアリスの二人を見つめるジャンヌの視線は、僅かばかり潤んでいた。そして頬がぷっくりと腫れている。
アリスの回し蹴りは、見事にジャンヌの右頬にヒットしていたのだ。
当然ながらクレアとアリスの間にあるのは友情であり、断じて百合ではない。これが百合に見えるジャンヌは、脳内が色々と残念な要素で満ちているが為に、妄想も逞しいのだ。
ちなみに紅茶は今、弟子のアリスが飲んでいるのでジャンヌの分はもちろん無い。
ジャンヌ・ド・ヴァンドーム。
西の大賢者にして最強の魔術師。そして”倒錯のジャンヌ”と言えば、聖教国フローレンス建国の功労者といわれる。
だが、今の彼女は世間一般に”世捨て人”といわれ、如何なる政体にも関与しないことで知られていた。
しかしそれは世間一般が思うこと。真実は違った。
ジャンヌは、美女のお尻やおっぱいが大好きなのだ。
何故なら、いくら転生を繰り返しても、彼女は”つるぺた”だったから。
だから今は、見事なプロポーションを持つアリスと二人で暮らす事に、満足しているだけなのだ。
しかし、かつての弟子クレアが見事なプロポーションを引っさげて戻ってくれば、それはそれで話が変わる。
この日、クレアはジャンヌに懇々と助力を請うた。
あまり今の生活を捨てたくないジャンヌは、当初、あまり乗り気ではなかったが、しかしクレアの一言で火がついたのだ。
「私のこの身でよろしければ、ジャンヌに全てを捧げます」
この言葉を聞いたジャンヌは何処までも鼻の下を伸ばし、心行くまでクレアの胸を揉み、尻を触った。
そしてクレアはジャンヌに誓ったのだ。
自身の死まで五年間、ジャンヌが力を貸してくれるのならば、誰の下にも嫁がないことを。
しかしこの誓いの際、不覚にもクレアは宰相ウィルフレッドの顔が脳裏に浮かび、歯軋りをした。
(なんであんな女男をこんな時に思い出すの、私! そう、そうよ! アイツがあの時、よく分からない事を言ったからよ。何が、”私を本気で愛する気が”よ! くそう、ふざけやがって! いつか殴るわ!)
ともかく、ジャンヌに全てを捧げると決意したその日、宰相ウィルフレッドへの怒りも新たにしたクレアだった。
「うほっ! これでクレアのおっぱいもお尻も、僕のものだぁぁ! でも、あまり帝国に肩入れする気にはなれないな――あらゆるモノを受け入れる政体こそ、僕は正しいと思うから――」
だが、不意に視線を床に這わせたジャンヌは、ささやかな懸念を口にする。
その姿を見たクレアは微笑を浮かべると、ジャンヌの長く美しい白髪に指を這わせ、こう言った。
「倒していただきたいネフェルカーラという女は、とても美しい女魔族ですよ」
「ひゃぁぁああっほぉぉぉぉう! ハーレムハーレムゥ! 無敵の未来が見えてきたって感じだねっ!」
帝国の拡大に懸念を示した師匠のジャンヌはしかし、あっさりと目先の欲望に屈服した。
美女のお尻の為ならば、世界を征服せんばかりのジャンヌ・ド・ヴァンドームは、まさに倒錯の魔術師。
まだ見ぬネフェルカーラのおっぱいに心躍らせる白髪紫目の美少女は、奇声を発して乱舞した。
あきれ果ててその様を見ていたアリスは椅子から立ち上がり、とりあえずジャンヌの頭頂部に手刀を叩き込むと、大魔術師の意識を奪い、クレアに向き直る。
「一応、私も付いていくわ。ジャンヌさまが何をなさるか分からないし、何より、貴女にも魔法をもう少し教えてあげないと、ね」
こうして、世界でも十本の指に入るであろう魔術師を二人、クレアは聖光緑玉騎士団に迎え入れたのである。
ちなみにクレアはあくまでもノーマルであり、どちらかというと肉食女子だった。




