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セムナーン防衛戦 4

 ◆


「早く門を開けよ!」


 セムナーン北門では、敵を噛み砕く機会を待っていた赤獅子槍騎兵アフマル・アサド・ファーレスの指揮官が、苛立たしげに怒鳴っていた。

 指揮官の名を、ジャービルという。

 彼の苛立ちと門衛達の努力によって、開門作業はいつもより数倍早く進んだであろう。

 ジャービルは敬愛するスルタンを模した黒衣黒甲の鎧を身に纏い、ボアデブル軍の命脈を断つべく馬腹を蹴った。


 巨大な両開きの門が開け放たれると、弾かれたように飛び出した五千の突撃騎兵は、眼前の光景に息を呑む。

 赤々と燃え盛る炎は天を衝き、巨大な隕石群がそこかしこに散乱しているのだ。


 だが赤獅子槍騎兵アフマル・アサド・ファーレスが敵に同情を寄せる事は無い。

 整然と隊列を整えると、ジャービルの号令を待つ。


突撃フジューム!」


 号令一下、砂塵を巻き上げて疾走を始めた赤獅子槍騎兵アフマル・アサド・ファーレスは、ボアデブル軍にとって、もはや隕石以上の災厄だ。

 ジャービルは槍を掲げ、自らが騎兵の先頭に立ち、炎と岩と、敵兵の中を駆け抜ける。

 彼等の掲げる槍は、一歩ごとに敵を貫き、砕き、蹂躙した。

 すでに敵軍の数は、半数程に減っているだろう。

 ダスターンの突撃で半壊したところへ隕石の攻撃があり、息をつく間もなく騎馬突撃である。これで壊滅しない軍など無いはずだ。


「ふん、死肉を漁る胡狼シャガールでもあるまいし、これでは興冷めだ」


 面頬の内側から戦場を見渡したジャービルは、すでに敵が抵抗の意志を手放しつつあることを見て取った。

 獲物は抵抗してこそ面白い、そう思うジャービルはしかし、ふと自らの主を思い出す。

 

(ならば、降伏勧告の一つもしてやろう。何しろ我がスルタンときたら、無用の殺戮を嫌うこと乙女の如し、だからな)


 こんな事を考えつつ、それでも抵抗を見せる敵を槍で一突きに屠っていると、未だに集団としての機能を維持し、激しく抵抗を続ける一団を見つけた。

 知らず口元に笑みを浮かべたジャービルは赤いマントを翻し、その一団の下へと駆けつける。


黒甲王カラ・スルタンか?」


 ジャービルを見つけた一団の指揮官は、額に深い皺を寄せながら、鋭い誰何を発した。

 指揮官は白馬に跨り、黄金の鎧を身に着けた屈強なテュルク人である。そして、額の左右から伸びる二本の角は、恐らく誰よりも鋭い。

 鋭い角が意味することは、テュルク人ならば誰しもが分かる。「武勇、衆人に劣るものにあらず」と。

 それ故ジャービルは、眼前の人物がボアデブルであると断定する事が出来た。


「違うな。俺の名はジャービル。我がスルタンが、貴様如きを相手にするものか――ボアデブル」


「ならば、その黒冑は紛い物か」


「悪いか? 俺は存外気に入っているぞ」


 言うが早いか、ジャービルは槍を閃かせながら、ボアデブルに向けて馬を走らせた。

 ボアデブルは曲刀を巧みに操ってジャービルの槍をかい潜り、懐に接近する。

 下から上へ――ジャービルの腰から胸元を目掛けたボアデブルの斬撃は、しかし身体を捻ったジャービルに回避される。

 だがその時、曲刀の刃先がジャービルの冑に触れた。

 ボアデブルの曲刀は切れ味も鋭く、刃先が触れたジャービルの黒冑は、音を立てて真っ二つに割れてしまう。


「ふむ、中々の腕だな……よかろう」


 何故か納得したようにジャービルは笑い、槍を捨てて曲刀を抜き放つ。


「ふん、角なし(ラーカルン)のテュルク人ではないか。余には貴様と遊んでやる暇などないのだが……まあよい。余に屠られる事を、せめて光栄に思え」


 ボアデブルの言葉には、露骨な嘲笑の響きがあった。

 もはやこの戦いは勝てぬと腹をくくったボアデブルではあったが、せめてもの腹いせに、眼前の敵を屠ってから撤退しようと考えたのだ。

 

 角とは、テュルク人にとって強さの象徴だった。

 テュルク人にとっての強さとは、膂力、動体視力、運動神経などが優れていること、そしてそれらの均衡を意味する。角の形状や大きさは、特化した能力や力の程度を示す目安となるのだ。

 ボアデブルの角は、鋭い。

 鋭角な角は、動体視力と反射能力に優れている事を示していた。

 対して、確かにジャービルに角はない。

 だからこそボアデブルはジャービルを一刀の下に屠り、撤退すればよいと考えたのである。


「一応聞くぞ、ボアデブル。我がスルタンにひれ伏す気はあるか?」


「……愚問っ!」


 降伏を求める言葉を聞くと憤怒の形相を浮かべたボアデブルは、人馬一体となりジャービルに斬りかかる。


「では、角なし(ラーカルン)に敗れて死ぬ事になる貴様は、さぞや汚辱に塗れるであろうな。くははは……」


 上段から振り下ろされたボアデブルの斬撃を容易く弾き返したジャービルは、肩を揺らして笑っていた。

 ボアデブルは太い眉を顰めて状況に不快感を示すが、数合打ち合うとジャービルの実力も分かる。

 右頬の傷が疼く程の使い手だと認識したボアデブルは、不意にサーリフを思い出した。

 そう、ボアデブルの頬に傷を作った男は、元マディーナ太守のサーリフだったのだ。


(あの男と互角、いや、それ以上、か?)


 さらに十合、二十合と剣を交えると、二人はシャムシール軍の奴隷騎士マルムークに囲まれた。

 ジャービルにとってそれは何の問題も無い。しかし、ボアデブルの方は問題しかないだろう。もはや完全に退路を断たれたといえる。

 周囲は既に赤獅子槍騎兵アフマル・アサド・ファーレスがボアデブルの親衛隊を蹴散らし、最後に残った飛竜隊ティンニン・フェルカも地に落とされていたのだ。


 それでもさらに続く斬撃の応酬は、果てる事がないかと思われた。

 しかし、戦いは決して互角ではなかった。

 精神的にも肉体的にもジャービルが圧倒していたのだ。ただ、状況の変化を望むボアデブルが防戦に徹していた為、ジャービルは決め手を欠いていた。

 そして状況は変化する。

 ボアデブルが表情に絶望の色を見せた、その瞬間だった。


「ボアデブル、貴様はどうやらここまでだな……」


 黒馬から飛び降りると、疾風の如く駆け出したジャービルは、瞬時に身体を十に分け、その全てから攻撃を繰り出した。


「ぐっ!」


 ジャービルが放った斬撃を、ボアデブルは八箇所まで辛うじて防いだ。

 しかし右手と左手の両肘に受けた斬撃が、ボアデブルの命運を決したのである。

 速度も動体視力も卓越しているという自負のあるボアデブルが、その両方でジャービルに敗れた。

 無論、ここで勝利したとしても、既に進退が窮まっている状況に対する絶望が生んだボアデブルの油断があったとしても、それは言い訳にしかならない。

 そしてジャービルは横殴りの斬撃を放つと、ボアデブルの首筋に叩き付けた。

 ついに、前セムナーン王は落馬したのである。


角なし(ラーカルン)……では……ない……の……か?」


 地上に落ちたボアデブルは苦しげに息を吐き、手を中空に伸ばした。しかし、ジャービルは一片の慈悲も持たない。

 ジャービルには、角なし(ラーカルン)と呼ばれる事に誇りがあった。だからこそ蔑むようにそう呼ぶ者を、決して許しはしないのだ。

 だが、ボアデブルが卓越した戦士であった事も事実。ならば、冥土の土産という訳でもないが、自身の秘密を伝える事にした。

 ジャービルは左手を額にあてると、長い前髪を上げて見せる。そこには折れているものの、サーリフに匹敵するほど太い二本の角、その根元があった。


「な……ぜ?」


「俺には妹がいてな……妹には角が生えなかった。妹に無いモノを、兄たる俺だけが持っているのも気持ちが悪くてな。それ故に折っただけのこと」 


「ふ、ふふ……はは……黒甲王カラ・スルタンは、その事を知って……いるのか……?」


「さあな。少なくとも我がスルタンは、俺に角があるのか無いのかなど、気にされたこともあるまいよ。あの方が求める者は、ただ才ある者のみ。ボアデブル、貴様も確かに千人長程度の器はあったぞ。くははは」


 ジャービルの言葉に、すでにボアデブルは答えられない。

 宙に伸ばした手は、すでに地上に落ちていたのだから。


 それから間もなくしてジャービルは、オットーの声を聞く。


「投降する者は武器を捨てよ! 奴隷騎士マルムークとしてシャムシール陛下にお仕えする意思のある者は、きっと厚く遇するであろう!」


 ジャービルは再び黒馬に跨ると、周辺の制圧を終えた部下達に宣言をする。


「歩兵も来たか。

 ボアデブルは討ち取った! 赤獅子槍騎兵アフマル・アサド・ファーレス、帰還するぞ!」


 ◆◆


 雨が止み深い霧が晴れると、セムナーン北側の空が赤々と燃えていた。


 暫く降り続いた雨に不吉を覚え、八方に間者を放ったヴァルダマーナ。しかし今しがた瀕死で戻った一人以外の者からは、未だ音沙汰も無い。


「セムナーンに援軍あり。率いる将はダスターン、そしてドゥバーンにございます」


 全身をズタズタに切り裂かれた間者の報告は、ヴァルダマーナにとって予想外と言うほどではない。しかし、早すぎる。そしてドゥバーンがいるという事も疑念を呼ぶ。

 ヘラートへ立ったダスターンを呼び戻し援軍と為すのは当然としても、ならばなぜこれ程の速さで戻れたのだろうか。

 ドゥバーンの部隊は、壊滅したのではなかったか。


 天幕の中、豪奢な寝台から身を起こして間者の報告に耳を傾けたヴァルダマーナは、形の良い顎に手を当てて思案する。

 その背には、やはり身体を起こしたパールヴァティの柔らかい温もりが伝わっていた。


(そもそも、ヘラートへダスターンが向かわなかったとすれば、辻褄は合う。だが何故こうも都合よく雨が降り、霧が発生しているのだ?)


「陛下、もはやシャムシールめを探っていた我が部隊は壊滅致しました。ですが、私がおめおめと戻りましたのも、これから申し上げる事をただお伝えしたい一心でございますれば――」


「何だと? ”余の王の目(ラージャ・アーンク)が、アージェイ、そなた一人だけになったというか!?」


 ヴァルダマーナの顔が、怒りに歪む。

 ヴァルダマーナは密偵部隊とも言える組織”王の目(ラージャ・アーンク)”を作り上げるのに心血を注いだ。

 無論、未だ他国に散らばる人員は要るが、最近では多くをシャムシールの下へ潜入させている。それがただ一人を残して壊滅したなどと、まったく聞きたくもない報告だった。

 そして何より、今、”王の目(ラージャ・アーンク)”のセムナーン方面隊が壊滅したということは、シャムシールの闇隊ザラームは此方の動きを全て把握していた事になる。


「はい、陛下、左様でございます」


「一体何があったのか、申せ」


「はっ。されば――」


 口惜し気に声を震わせるアージェイは、かみ締めた唇から血を零しながら、ヴァルダマーナに昨日の出来事を語り始める。


 昨夜のこと、豪雨の中アージェイは音もなく迫る大軍団を補足した。

 これを急ぎヴァルダマーナに報告するため踵を返すと、闇の中に浮かび上がる銀髪も美しい、美貌の女を見たのだ。

 女は闇妖精ダークエルフのようであり、ただ一人だった。

 気配を覚らせない技量には驚いたが、女が発した言葉にはさらに驚嘆したアージェイである。


「三十三人め……か? 気配は貴様で最後、ならば殺しはすまい」


 その言葉に、女が紛れもなく敵である事を認識したアージェイ。そして言葉の意味を紐解けば、仲間の運命など推して知れる。

 女が嘘を言っている可能性もあるが、アージェイでさえ覚れない気配ならば、他の何者も覚り得ないだろう。

 なにより女の言葉が真実である事は、二本の短刀が雨に濡れても尚、赤く染まった様を見れば瞭然だった。

 しかし彼とて”王の目(ラージャ・アーンク)”の副長である。腕に覚えもあれば、如何なる危地でも脱する術は心得ている。


 アージェイは腰を落とし、女の一挙一動に神経を研ぎ澄ませた。だが銀髪の女は不意に姿を消すと、無造作に血塗れの刃を煌かせた。

 ただ、それだけだった。それだけでアージェイは体中を切り刻まれたのだ。

 泥濘の中に倒れ身を沈めると、泥水の中に自らの血が混じる。アージェイは全身の筋肉を引き締めて傷の深さを確認すると、どうやら全ての傷は致命には至らないもののようだった。

 だが、だからといって状況は好転しない。

 アージェイは泥水の中から顔を持ち上げ、全ての力を褐色の瞳に集めて敵を見据える。

 アージェイは今年二十三歳だが、ヴァルダマーナに仕え始めてから十年になる。幼少の頃より仕えていたのだ。だから、なるべくならこの危地も脱し、情報を持ち帰りたい。もしもそれが望めないのなら、舌を噛み切って死のうと決意した。

 それ程、忠誠心に厚い男だったのである。


「さて、ではヴァルダマーナが何を企んでいたのか、シャムシール王の下で話してもらおうか。無論、自死など許さんぞ」


 銀髪に雨粒を滴らせたその女は、まったく美しい。けれど、泥濘に身を埋めたアージェイを見下ろす赤い瞳は何処までも冷たく、全てを見透かすかのようだった。


「陛下の前でだけ猫を被っているなんて卑怯でござるよ、シュラ。その陰惨で残忍で淫乱な性質を陛下にも教えるでござる! 拙者、断固教えるでござる!」


「ドゥバーンさま、偏見でモノを言われては困ります。私、そのような性質はもっておりませんから……特にその中の一つは、絶対に違いますから」


「ううむ。ならば残忍は撤回するでござる。拷問などはそれほど好んでいないようでござれば」


「拷問は、それなりに好きですが」


「う。シュラはやっぱり恐いでござる。お主も大変でござるな、シュラの趣味に付き合わされるなどと」


 闇妖精ダークエルフの背後から現われたのは、気配を消す気がまったく無いであろう女だった。

 低木に打ち付ける雨音に負けぬほど”がさごそ”と大きな音と立てて歩く女は、闇の中でも輝く青い左目と、闇に溶け込むような黒い右目を持っている。

 言うまでもなく、彼女はドゥバーンだ。

 ドゥバーンはアージェイに同情しつつ、シュラを怯えたような目つきで見る。

 アージェイは朦朧とする意識の中で、お前達は二人とも残忍だ……! と思っていた。

 何しろ全身を切り刻まれた男を前にして、二人とも薄笑みを浮かべているのだから、市井の女達とは絶対に違う感覚を持っているだろう。


「あくまでも捕えるだけです。陛下にとって有力な情報を持っているならば、拷問も有り得ますが」


「いやシュラ、この者を捕らえるには及ばないでござるよ。全ては拙者の思惑通りに運んでいる。なれば戦も勝てるし、ヴァルダマーナはすぐにも帰国せざるを得ないでござろう。この者から引き出すべき情報など、もはや無いのでござるよ」


「ほう、戦はともかく、ヴァルダマーナ軍の動きは何故です?」


「……闇隊ザラームに一働きしてもらい、ヴァルダマーナの妹御をギール城砦から開放したでござろう? アーラヴィーの王妹殿下と言えば、パールヴァティの実妹にして破壊神とも恐れられる女性にょしょう。それこそ鎖ででも繋ぎとめねば、一体何をしでかすかわからぬでござる。なれば、ヴァルダマーナは王妹サラスヴァティーを止める為に、嫌でも戻らねばならぬのでござるよ。あははは」


「ああ、あの任務ですか。我が配下の者が瀕死で戻りましたが、しかし、何ゆえヴァルダマーナはサラスヴァティを地下牢に閉じ込めるような真似を?」


「なんでもパールヴァティはヴァルダマーナを王と認めているが、サラスヴァティは今でも頑なに認めていないそうでござる。その上、姉がヴァルダマーナの妻になったのだから、サラスヴァティとしては面白くなかったのでござろう。怒ったサラスヴァティは街を丸ごと凍らせた、という話を聞いたでござるよ。

 それ故ヴァルダマーナとしても猛獣を檻に入れるような感覚で、やむなく幽閉したのでござろうな」


 ドゥバーンとシュラの会話は、アージェイにとって恐怖を上回る戦慄を齎した。

 全身の痛みも忘れ、身を起こすと泥の中に座り込んだアージェイは、目を見開いて訴える。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、サラスヴァティさまを開放しただと? 何という事をしてくれたのだ! 世界が滅ぶぞ!?」


 アージェイの脳裏に浮かび上がるのは存在するだけで大気を冷やし、あらゆるものを凍らせる絶対零度の魔女、サラスヴァティーの姿だった。

 王と戦妃が全力で戦い、それでようやく地下牢に封印したというのに、またあの災厄が甦るというのだろうか?


 あの時は、街が一つ氷漬けにされた。


 パールヴァティによる結界のお陰で住民が死に至ることこそ無かったが、サラスヴァティの攻撃は酷く無差別なのだ。

 僅かでも害意を感じると攻撃に転じるサラスヴァティは、あの王と戦妃をもってしてさえ手に負えなかったというのに。


「だとすれば、最初に滅びるのはアーラヴィーでござろう。それに拙者の、お、お、夫は絶対無敵でござれば、サラスヴァティなど我等には問題にもならぬ」


「軍師どののオオオットとは、一体何でしょう? ジャービル将軍のことでしょうか? 確かにあの方が負ける姿は想像も出来ませんね。まあ、それはともかくシャムシール陛下がおられる限り、セムナーンは安泰でしょう」


「うぐぐぅ……! むぐぅぅ! シュラ……! ちょっと陛下と仲良しだからと言って、拙者を蔑ろにするでござるか! 軍師と呼ぶなでござる。第三夫人と呼ぶでござるぅ!」


「ドゥバーンさまこそ、未だ陛下のご寵愛も無いのに妻を気取るなど、身の程が過ぎましょう」


「分かっているでござる。分かっているでござるが! ともかく、そこの間者を早く解放するでござる」


「……かしこまりました」


 その時、銀髪の女とオッドアイの女の間で揺れた空気は険悪であり、彼女達の言葉とは裏腹にアージェイは自身の命脈が尽きる事を予感した。

 だからアージェイは目を瞑り、刃の煌きを見ないようにした。首を刎ねられる瞬間を、あえて凝視する必要もないだろう。そう考えてのことだ。


「……ということだ、何処へなりと消えるがよい」


 ――キンッ


 しかし、アージェイが首を刎ねられる事は無かった。

 鞘に刀を収めたシュラはそう言うと、あっさりと踵を返す。

 その後を、ごそごそと付いて行くドゥバーンは、


「ま、待つでござるシュラ。拙者が調子に乗りすぎたでござる。許して欲しいでござるー!」


 などと言って転び、顔中を泥まみれにしていた。


 倒れたドゥバーンに手を差し伸べたシュラは、アージェイに聞こえぬよう、そっと囁く。


「ドゥバーンさま、あれでよろしかったのでしょうか?」


「う、うむ。色々とよくはないが、あの者は間違いなくアージェイ。なれば我が策は成る。あの者ならばきっとヴァルダマーナに報告し、ヴァルダマーナもまた、あの者の言葉を信じるでござろう。だが――そんなことはどうでもよい。シュラ、拙者は第三――」


「それにしてもドゥバーンさまは軍師としては一流ですが、役者としては三流以下ですね」


「だからそんなことより第三夫――」


「しっ。ドゥバーンさま、声が大きゅうございます」


 この後、ドゥバーンの言葉どおり、解放されたアージェイは死力を尽くしてヴァルダマーナの下へ急ぐ事になる。


(ドゥバーン……あの女がシャムシール軍の軍師だと。信じられんが……しかしサラスヴァティさまを解放したとなれば一大事だ!)


 ――アージェイは無様であった。部下達を殺され顔を見られ、その上、殺す価値さえ無いとみなされたのだ。しかし、だからこそこの命を使ってヴァルダマーナの下に戻らなければならなかった。王妹サラスヴァティが開放されたと知らせなければ、アーラヴィーの街が幾つ氷漬けにされるか知れたものではないのだから――


「――ドゥバーンという女は確かにそう言ったのだな? 王妹(いもうと)を開放した、と」


 ヴァルダマーナの顔は、怒りを通り越して蒼白になった。

 しかし、アージェイは既にヴァルダマーナに答えることが出来ない。極度の疲労と大量の出血で意識を失ってしまったのだ。

 しかし、事の真意を確認するまでも無い。

 長年仕えるアージェイはヴァルダマーナにとって友とも言える存在なのだから、嘘を言うはずがないのだ。


「国へ戻るぞ! もはやこの戦場に関わっている場合ではない! それからアージェイに手当てをっ!」


サラスヴァティ(いもうと)が、いつも迷惑をかけてすまぬ」


 ヴァルダマーナの背中に頬を寄せるパールヴァティは、そっと溜息を吐く。

 

「陛下! 黒甲王カラ・スルタンとアエリノールが、およそ一万騎を率い、此方に向かっております! ジャムカの姿もあり、竜が三頭っ!」


 ヴァルダマーナの天幕に伝令の慌しい声が響く。

 ただ戦うだけならば五万対一万であり、此方には戦象もいる。しかし、ヴァルダマーナは急ぎ撤退をしなければならない。ならば、この戦いは過酷なものとなる。


「おのれ、ドゥバーン……」


 結局のところ、ヴァルダマーナの間者を使う事により情報を操作したドゥバーン。むろんヴァルダマーナはその事に気付いたが、今更それをどうする訳にもいかないのだ。

 何より、アージェイだけを生きて返した事にさえ作為を感じるヴァルダマーナは、シャムシールの妻にもなるというドゥバーンが空恐ろしい。

 シャムシールの武力、ドゥバーンの知力、そのどちらにも敗北を喫したヴァルダマーナは、人生初の苦杯を舐めていた。 


 結局、ヴァルダマーナは撤退戦に際し、自身とパールヴァティ、そして十頭の戦象を殿しんがりとした。

 彼の野心を考えれば、万の人数を犠牲にすることなど出来なかったのだ。

 故に、自身とパールヴァティでなんとかシャムシールとアエリノールを抑える。それと同時に十頭の戦象を敵軍に突進させ、混乱している隙に出来るだけ遠くまで撤退しようという作戦だった。

 無論、十頭の戦象には尊い犠牲になってもらう他ない。

 ヴァルダマーナにとっては、苦渋の決断だった。

 

 だが戦象十頭が横一線に並びシャムシール軍の騎馬隊に突進したものの、ヴァルダマーナが望むような混乱は起きない。

 なんとシャムシールの騎馬隊は、戦象が通るであろう道を予測して、騎馬と騎馬の間を開けてしまったのだ。

 むろん、これ程変幻自在な用兵を可能とする者は、セシリアだけである。


「どれ程の将が揃っているというのだ!」


 神象の上で苛立たしげに舌打ちをしたヴァルダマーナは、もはや涙目だった。


 そうなると、哀れなのはただ突進して射殺される戦象だった。

 それにジャムカが容赦なくドゥラの炎を象たちに浴びせている。流石にただの象と竜では勝負にもならないようだった。

 七頭がそうして討ち果たされ、残りの三頭は鎖をかけられて捕獲されたようだ。

 こうなればヴァルダマーナは貴重な戦象の半数までも失い、その上、撤退を行う時間さえ稼げないことになる。

 シャムシールが駆る黒竜に突進しながら、悔しさに下唇を噛んだヴァルダマーナだった。

 白刃を煌かせてシャムシールと刃を交わすヴァルダマーナはしかし、先日よりも力を増しているかの様なシャムシールに唖然とする。


(俺は、この男に勝てないのか――勝てないまでも、せめて一矢報いるだけでも!)


 ヴァルダマーナは、すでに第三の目を開いている。にも拘らず、シャムシールとの実力差は歴然だった。

 

「ヴァルダマーナ! 降れ! 俺達が戦って得をする者は誰だ!? クレイトやフローレンスだろう! 剣を引け!」


 剣戟を交わしながら叫ぶ黒甲王カラ・スルタンを見て、ヴァルダマーナはそれでも首を縦に振らなかった。


(俺は、俺の愚かさを認めることが出来ない。このままシャムシール王に討ち果たされる方が、俺には――)


 そう思ったとき、不意に剣を引いたのはシャムシールの方であった。


「ネフェルカーラ……じゃないな! 誰だ!?」


 その隙に、ヴァルダマーナは身を翻し、パールヴァティに叫ぶ。


「十分だ、パールヴァティ! 今は退く!」


「うむ、どれ程兵の損耗を防げるかはわからぬが……こうなっては致し方ないのう」


◆◆◆


 俺はヴァルダマーナと戦いながら、こう考えていた。

 ヴァルダマーナとパールヴァティは、間違いなく強い。だったら戦い続けて互いに損耗するよりも、味方に引き入れた方がいいだろう。

 クレイトとシバールの間にアーラヴィーが存在すれば、もしも再びクレイトが牙をむいてきたとしても、直接シバールが戦場となる事はない。

 大体、もしも同盟を結べれば、俺がナセルやフローレンスと戦っている間、コイツもクレイトと戦っていればいいんじゃない? なんて名案が生まれたのだ。


「早く奴隷になれ、パールヴァティ!」


 しかし性急なアエリノールは、眉を吊り上げてパールヴァティに迫っている。

 困り顔を浮かべた神族女子は、眉を八の字にしていた。


「それはいくらなんでも、じゃろう?」


 うん、いくらなんでもだと思う。

 そんな時、俺の冑から澄んだ声が聞こえた。


「ごきげんよう、スルタンシャムシール陛下。いきなりだが、マディーナとファルナーズとネフェルカーラは僕が貰ったよ!」


 その声は、ネフェルカーラのものではなかった。

 だが、ならばどうして冑の中に声を響かせる事が出来るのだろう?

 ネフェルカーラが遊んでいる? いや、それは考えられない。ネフェルカーラが冗談のネタにファルナーズを使う事などないからだ。


「ネフェルカーラ……じゃないな! 誰だ!」


 そう、ならばこの声は絶対にネフェルカーラではない。

 凛として澄んだソプラノは、この冑の中で耳に痛い。ネフェルカーラの声音に自然と慣れたのだろうけど、何処までも違和感を感じる声だった。

 大体、マディーナを貰ったとはなんだ? ネフェルカーラがいるにも関わらず、簡単にマディーナが陥落するはずがない。

 そもそもファルナーズとネフェルカーラを貰ったという言葉も、意味がわからないぞ。

 二人が戦って敗れたということだろうか? だとしても、言葉の意味合いから考えて殺されてはいないようだ。


 二人が、敗れた? その考えに、俺の頬に冷や汗が伝う。ていうか、ハールーンは何をしていた? あのチャラ男、まさか大事なときにお散歩か?

 俺が纏まらない思考を続けていると、再び冑の中に声が響く。

 

「僕かい? 僕の名はジャンヌ・ド・ヴァンドーム。可憐で清楚な美少女魔術師さ! ああ、もう、ファルナーズの未熟だけど瑞々しい果実みたいな身体も素敵だし、ネフェルカーラの妖艶な四肢は、もうたまらないね! どちらから愛でよう。ああ、ああ、涎がとまら――痛い! 蹴らないでよ、ネフェルカーラ」


「胸に触れるな、小娘。おれの胸は、シャ、シャ、シャムシールのものだ」


 お、おお……ネフェルカーラ……その胸は俺のモノだったのか。

 なんだか、冷や汗と鼻血が同時に出そうだよ。


「ええ!? 女なのに男のモノになるなんて、キミ、どうかしてるよ! シャムシールなんてただの汚物だよ!」


 喜びも束の間。俺の心に刃が刺さる。


「馬鹿をいうな! 多少薄汚れている場合もあるが、断じて汚物などでは……」


 ちゃんと否定して、ネフェルカーラ! 俺、汚物じゃないから! と思ったが、問題はそこではない。

 湧き出す涙を堪えながら、俺は声を絞り出す。


「ネフェルカーラ、無事だったか……どういう状況なんだ?」


「すまん、シャムシール、おれの策を逆用されたのだ」


「へえ、さすがネフェルカーラ。僕がどうやってこの状況にしたのか、もう分かっちゃったみたいだね! でも、残念だねー! 捕えられていたら、何にも出来ないも――いたっ! もー、足クセ悪いよーキミー。足も縛っちゃうからねー!」


「くっ……あ、や、やめろ!」


「わあ、まだそんな結界を張れるんだぁ。でも、そんなに長持ちしないよね、うふふ! 時間はたっぷりあるし、逆に楽しみだなぁ!」


 なんだろう、小鬼と脳筋とマディーナが変態に拉致された?

 ちがうちがう。

 マディーナは人じゃないから拉致できない。

 ていうことは、やはりマディーナ陥落?

 

 俺の視界は、一瞬で暗転した。

 不幸中の幸いといえば、俺の視界が暗転している間にヴァルダマーナが攻撃を仕掛けてきたらやばかったが、ヤツは脱兎の如く退却している。


「アエリノール、俺はマディーナに戻る! 軍の指揮をよろしく!」


「え? え? なんで? パールヴァティを追おうよ!」


「それどころじゃない! ネフェルカーラが変態に囚われた!」


「え? え? ネフェルカーラが変態でしょ?」


 アエリノール……確かにネフェルカーラは変態かもだけど、今、それはあんまりだよ。


「違う! ネフェルカーラも変態だが、もっと変態に囚われたの!」


「ええっ! じゃあ、変態が凄い変態に囚われたんだね! ネフェルカーラも凄いのに!」


 ガイヤールの上でオロオロとするアエリノールは、とてもパールヴァティを追いたそうだ。

 しかし、変態の件が妙に気になるらしく、首を忙しく左右に振っている。

 もう、どうしていいのか分からないのだろう。

 だが、俺としてはこんな所でじっとしていても仕方が無い。

 セムナーンの防衛は果たした。

 あとはもう掃討戦だが、本来の目的はヘラートのナセル軍とマディーナのフローレンス軍を撃破すること。だから、俺が先にマディーナに戻ってもいいだろう。


「いや、ネフェルカーラを捕えたのは、ジャンヌ・ド・ヴァンドームというヤツだ。とにかく一刻を争う、俺は行くからね!」


「えっ? まって……その名前……その人、大賢者とも最強の魔術師とも言われてる人じゃ?」


 アエリノールの顔が一瞬だけ曇る。

 だが、相手が大賢者だろうと最強の魔術師だろうと知ったことじゃない。

 ネフェルカーラがピンチなんだ。

 ネフェルカーラの胸は俺のものであり、だからそれは俺だけの山脈。ならば、最初に踏破するのは俺でなければ、断じてならぬ! いざ往かん、前人未到の霊峰を救出する為に!


 ちがうちがう!


 マディーナは俺達の生命線だ。

 セムナーンの経済を立て直してもいないのにマディーナを失ったら、全てが崩壊する。

 だから何としてもマディーナを敵の手に渡すわけにはいかないのだ。

 だからこそ、まずネフェルカーラを奪還しなければならない。そういうことだ!

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