セムナーン防衛戦 1
◆
俺は今、広い露台の中央に立ち、右にアエリノール、左にシャジャルを従えている。
早朝、真紅玉葱城こと真紅宮殿の前庭に並んだ奴隷騎士達に、訓示を与える為だ。
俺は声を張り上げた。そして、昨日鏡の前で練習した、なるべくかっこよく見える身振り手振りを交える。
ちなみにこの練習に付き合ってくれたのは、ジャービルとカイユームだ。
あいつら、ああでもない、こうでもないって妙に拘っていたが、俺を一体どんな王様に仕立て上げたいのだろうか……
「聞け、諸君! 余は、シバールの新時代を切り開く! その為にもオロンテスのナセル、フローレンスのプロンデルと戦い、これを破るであろう! されどその前に、このセムナーンにおいて一つの遣り残しがある! セムナーンに塵を残してヘラートへ向かう事など、余には出来ぬのだ!
何が塵か? あえて言おう。余にとって、前王ボアデブルの如きは塵芥に等しい存在であると! 故に、まずもってこれを倒し、セムナーンに安寧を齎すのだ!
されど諸君らには不安もあろう。迫るボアデブルはアーラヴィーと同盟を結び、十五万の兵力を誇る。対する我等は、僅かに三万ではないか、と。
黒甲王たる余が、たった五倍程度の敵に破れると思うか!? 思う者いるならば、即刻この場から立ち去るがよい。止めはせぬ!」
俺はここで一旦言葉を切る。
奴隷騎士達に見捨てられたらどうしよう? なんて少しドキドキしたが、そんなことはないようだ。
「陛下は我等の忠義を疑っておいでか!?」
「立ち去る者など、おりませぬ!」
「我等が命は陛下にお預けいたしておりまする! 何なりとご命令を!」
俺は誰一人去らない事を確認すると、大きく頷いて話を続けた。
「忠勇なる諸君、感謝する! 余は、諸君等を必ずや理想郷へと導く事を約束しよう! 余と共にあれ! 地上最強たる我が奴隷騎士達よ!」
俺の言葉は、静寂を突き破り空気を震わせていた。
全てを聞き終わった俺の奴隷騎士達は、地鳴りの様な歓声をあげる。
「「黒甲王万歳!」」
俺がなぜ、こんな事を噛まずにいえるかといえば、もちろん露台の手すりにカンペがあるからだ。当然のたしなみだろう。
というか昨日、小一時間話し込んで俺の目標みたいなモノを聞いたジャービルが、台本を作ってくれて、カンペも用意してくれた。あいつは見かけによらず、マメなのだ。
もちろんその後は執務室で、深夜に及ぶまで訓示の練習を続けさせられたのだが。
それにしても、最初はこんなこと恥ずかしくって言えなかったんだけど……為せばなるというか、なんというか。
大体ジャービルのやつ、”理想郷”ってなんだよ。台本に変な言葉を入れやがって。
そりゃ俺、自由交易都市を幾つか作って、いずれは奴隷制を廃止して全員を平民階級にしたいなって言ったよ。そしてゆくゆくは民主主義な国を目指したいな、って伝えたよ? 理想だからね。
でもさぁ、そーゆーのまとめて”理想郷”にしちゃった訳か?
まあ、戦の前にごちゃごちゃ言った所で、兵士の頭に何も入らないこと位、俺だって分かるけどさ。
だけど俺なんて、今だって三万人の視線を浴びて、少し足が震えているんだぞ。
”理想郷”なんて言っちゃってさ、皆にそんな期待のこもった目で見られる俺の身にもなってくれよ。
この状況で、
「理想郷ってなんすかー陛下ー?」
とか誰かに聞かれたらどうするんだよ。オロオロしちゃうよ!
実際のところ奴隷制が簡単に廃止出来るとも思わないし、民主主義が絶対に正しいとも思わない。
ただ最低限、戦争を終わらせて平和にすること。それから平和になった社会で、弱者たる民衆や奴隷が虐げられない国を作ること。
まずは、ここからなんだから。
あ、そうだ、平和になって社会が安定したら平民になろう。
家を一軒もらって、そこで家庭菜園とかをやりながら平和に暮らしたい。たまに鹿とかを狩って、街に売りにゆくのだ。
我が身を持って、豊かな平民ライフを実践するのも大事だろう。
平民なら、戦わないな。
戦わないなら訓練をする必要も無いし、勉強の必要も無い。
雨が降ったら家でずっと寝ていよう。ああ、いいなぁ、それ、憧れる。
なんだか、俺の心が桃源郷に飛翔してゆく。
考えてみれば、戦乱を収めて社会秩序を再構築すれば、俺が王である必要はない。
だとすれば、俺は王の退職金としていくらかの金銭を貰って平民になれば良いのだ。
皆は俺を聖帝にしたいようだけど、正直俺は凄く嫌だ。
王でさえこんなに忙しいのに、聖帝になんかされたら、俺、過労死するよ!
絶対、聖帝になんかならないぞ!
ああ、でも後宮はどうしよう。
いや、今ならまだ誰とも何も無いから、このまま有耶無耶にしてしまうのもありかな。
……俺はこうして、自分の未来を夢想することが出来る。
だけど多くの人々は、それさえ出来ないのだ。
一人一人が理想を思い描き、実現が可能と思える世界――それが理想郷――。
なんだ、ジャービル。結局、俺の想いを理解していてくれたのか。
俺は魔剣を抜くと、頭上に掲げる。
「平民」――ああ、なんて甘美な響きだろうか。
俺は自らの未来に希望が漲り、いつもより良い笑顔を浮かべたと思う。
その時、前から突風が吹きぬけ、俺のマントを後ろへと靡かせた。
「出陣せよ!」
「「おおーーっ!」」
”バタバタ”と靡くマントの音は、軍団の大歓声にかき消される。そして続々と各将軍に率いられて門を潜る奴隷騎士達。
一際異彩を放っていたのは、ジャービル率いる黒鎧に赤マントを靡かせた一団。一見すると、全員が劣化版俺、という感じだ。
彼等は遊軍となる、長槍と投擲槍で武装している突撃騎兵。元々は俺がマディーナから率いてきた部隊なのだが、今ではジャービルの直属部隊と化していた。
この部隊を赤獅子槍騎兵と名付けたジャービルは、きっと中ニ病なのだろう。
何にしてもジャービルが率いるようになって、この騎兵隊は我が軍中随一の突破力を誇る部隊となっている。
……俺が直接率いるよりも強くなったようで、少し凹んだ。
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後に、この日のシャムシールはこのように記された。
――新暦元年バフマン月――ボアデブル討伐戦において、皇帝シャムシール陛下は始めて衆人に自らの方針をお示しあった。
陛下が御歳二十歳を迎えられる前、未だ王の身分で在らせられた時分のことである。
そのお言葉は、かくの如きものであった。
「精鋭無比なる余の奴隷騎士達よ! 共に我が理想郷を築く為、いざ往かん!」
その時、三万の奴隷騎士を前にしたシャムシール陛下の威風は、まさに軍神。風に靡く外套はどこまでも優美で、口元に浮かべた微笑は、如何なる敵にも怯まぬ矜持を湛えているかのようであった――
遠い未来、歴史上最強の武将にして至高の政治家と称えられる黒甲帝の夢が、平民になってぐうたらする事だったなどという事実は、どうやら歴史の闇に、深く深く埋められてしまったようである。
◆◆
セムナーンから出陣した各部隊は順調に配置を終え、王たる俺も、作戦通りの位置に陣取っている。
前方にボアデブル軍本隊を望める位置に、俺はアエリノールを率いて黒竜に騎乗していた。
といっても、別に空を飛んではいない。
セムナーンの東門からそう遠くない位置に、アエリノールが乗るガイヤールと共に、二人と二匹で佇んでいる。
おかしいだろ! どう考えてもおかしいだろ! なんだこの作戦! なんでアエリノールと二人で敵の主力を受け止める感じになってるの!
俺の後方、城壁の上には一万の奴隷騎士が配置されている。
これは街の防御に必要な人員だから、割く訳にはいかない。率いるのはオットー。如何にも鉄壁といった筋肉を纏っているから、城壁防御指揮官だ。
支援要員として、カイユームも城壁上にる。奴は部隊の指揮を執りつつ、敵に魔法攻撃を仕掛けるそうだ。
右手を見ればジャムカがドゥラを駆り、上空を旋回している。
その下には、セシリア率いる元クレイト騎兵一万が整然と隊列を整えていた。
右翼は決して突破を許してはいけない場所だけに、最大の機動戦力を置く。
クレイト騎兵は赤獅子槍騎兵に比べれば軽装だが、それだけに高い機動力を誇る。その上、騎射の命中率たるや恐ろしいほど。何しろクレイト騎兵全員が、流鏑馬の名人と言っても過言ではない。
すくなくとも彼等は、二十メートル程度の距離なら百発百中で敵の頭を確実に射抜くだろう。そりゃ、そんな連中が三十万もいたら、大陸を席巻する訳だよ。
さらに遊軍としてジャービル率いる五千騎がセムナーン南門に控える。これはボアデブル軍がクレイト騎兵を突破する動きを見せたら、即座に撃砕する役目を負う。それと同時に、南門へ回り込もうとする敵軍を阻止する事も彼等の仕事だ。
左翼にはドゥバーンが率いる軽騎兵五千が投擲用の槍を構え、粛々と並ぶ。
彼等も俺がマディーナから率いてきた者達だけど、赤獅子槍騎兵と分けて、ドゥバーンの部隊に入れたのには理由があった。
彼等の方が温和な五千人、とでも言えばよいのだろうか。それとも赤獅子槍騎兵に選ばれた者の血の気が多かった、とでも言えばよいのだろうか。
ともかくドゥバーンの部隊は、我が軍中随一の逃げ上手。
これは、悪い意味ではない。
どのような状況下でも統制を失わずに生き残る部隊、それが彼等だ。
つまり怒りに我を忘れる事も無く、闇雲な恐怖に怯える事も無い奴等が揃っている。
今回の作戦において要となる部隊が、彼等だった。
今回ドゥバーンの補佐にはシュラがつく。
シュラの任務は俺が決めたのだが、ドゥバーンもシュラも、最初は不満そうだった。
「拙者、護衛が必要なほど弱くないでござる!」
こんな事を言っていたドゥバーン。けれど、俺ならドゥバーンが仮に百人掛かってきたとしても、多分凌げる。
ということは、やっぱりドゥバーンに護衛は必要なのだ。
「私は陛下のご命令とあらば如何なる事も厭いませぬ。ですが、出来れば陛下をお守りしたく……」
優しいシュラは、伏目がちになりながらこう言っていたが、
「俺は、護衛が必要なほど頼りないかな?」
と言ったら、頬を赤らめながら首を振っていた。
「ドゥバーンさまを、命に代えてもお守りいたします」
その後、シュラにあっさり背後を取られたドゥバーンは露骨に嫌そうな顔をしていたが、結局、手練の闇妖精を振り払う事が出来なかった。
そしてシャジャル。
なんと今回、総指揮を執るのは彼女なのだ。
総司令官代理にして次席軍師のシャジャル将軍、それが今日、我が妹の肩書きである。
だから彼女は紅宮殿の望楼に控え、各部隊を見渡せる位置に陣取り、周囲に目を光らせていた。
とはいえ、軍の総指揮を執るのは今回が始めてのシャジャル。流石に俺が出陣する間際、不安気に眉根を寄せて、俺のマントの裾を掴んでいた。
「あ、兄者……あたしに出来るでしょうか?」
「軍の動かし方は、ドゥバーンに散々叩き込まれたんだろう?」
「はい。でも、初めてですし……」
「シャジャルなら大丈夫! いつも部隊を動かしていただろう? それが少し大規模になるだけだから!」
振り向いた俺は、シャジャルの頭に手を乗せると、軽く撫でる。
それでやっと安心したのか、シャジャルの顔に笑みが戻った。
大体、ドゥバーンが俺にこそっと言ったことがあるのだ。
「シャジャルは天才でござる。魔法もそうでござるが、軍略においても目を見張ります。拙者が負けるとは思いませぬが、もしも拙者がおらぬ場合はシャジャルをお使いなされませ。きっとお役に立ちましょう」
つまりシャジャルはドゥバーンのお墨付きってことだ。
という訳で、俺は大船に乗った気持ちでシャジャルに指揮を任せ、意気揚々とこの場に来たのだが……。
結果、我が軍中に、俺が率いる戦力は無かった!
ついでにいうなら、上将軍アエリノールが率いる戦力も無かった!
ということで、この有様。
右翼に一万、左翼に五千。後方に一万と遊軍が五千。そして中軍が二人……か。どんな陣形だよ!
心細い事この上ないぞ!
大体、俺は王! アエリノールは上将軍だぞ! この扱いは幾らなんでも酷すぎるだろう!
しかもドゥバーンは、俺とアエリノールにこんな事を言った。
「陛下とアエリノール閣下には中軍をお任せいたします。クレイト騎兵共々、お二人は決して崩れぬ壁となって頂きたい。そして敵を上手く我が部隊の方へいなして下されば、首尾は上々にござる」
何が中軍をお任せいたします、だ。数的におかしいとは思っていたんだ。ちくしょう、しかも敵をいなせ、だって……
敵の中軍は見た所、五万はいる。大きく陣を広げる構えだったけど、俺とアエリノールを見て、陣形を狭めていた。
ボアデブル軍は鶴翼の陣形から、凸型の陣形へシフトさせたのだろう。
敵にしてみればセムナーンを包囲して長期戦に突入するよりも、眼前の二人を討ち取れば戦はそれで終わりなのだから、当然の動きだ。
とはいえ俺の強さは昨日、嫌という程味わっているボアデブル軍。だからこそ、相応の兵力を投入しているのだろう。それにアエリノールの武名だってセムナーン攻略戦以降、この東方世界でも轟き始めていた。
だからって、俺とアエリノールの二人に五万も割くか? ボアデブル……。
ナメていた事は謝るから、もうちょっと兵を減らしてくれまいか……。
「うふ! シャムシール、二人っきりだね!」
俺が眼前の敵を見つめ茫然としていると、アエリノールの能天気な声が耳朶を打つ。
昨日セシリアに人類の秘密を聞いたらしいアエリノールは、白金に輝く竜の背を撫でながら上機嫌だった。
眼前の敵など眼中に無いアエリノールは、相変わらず天衣無縫なお馬鹿さんだ。
「ねえ、シャムシール。わたし、昨日セシリアに聞いたの。だから、今からシャムシールとしたいの」
「し、したいって……そんないきなり……」
アエリノールは元気にガイヤールからアーノルドへ飛び移り、俺の正面に座る。
面頬を上げたままの俺は、アエリノールに見つめられて、ドギマギしてしまう。
首を傾げながら俺に迫るアエリノールは、「したい」の意味を分かっているのだろうか?
「だめ?」
「い、いや、アエリノール。今は戦の前だし、何より、遠目からでも見えちゃうし……」
俺としては、積極的なアエリノールが嫌いではない。むしろ、ドゥバーンと違ってガツガツした感じではないから、俺もフラフラと行ってしまいそうになる。
何よりアエリノールの肌は上位妖精だからなのか、間近で見れば、その肌はありえない程のきめ細かさで、驚く程白い。まるで磨きぬかれた大理石のようだった。
普段あまり意識せずに見ていたが、これは美の化身と言っても過言ではないだろう。
「だめ、なの? でもわたし、中々シャムシールと二人きりになれないし……どうせ軍を返せばネフェルカーラと合流するし……そしたら……そしたら……わたし」
俯き加減になって下唇を噛むアエリノールは、本当に意を決しているようだ。
女性にここまで決意をさせておいて、何もしないのは男としてどうなのだろう?
でも、こんな所でアエリノールは裸になるつもりだろうか?
確かにアエリノールは緑の短衣と白いズボン、それに銀の胸甲を装備しているだけの軽装だが……。
俺の逡巡を見て取ったのか、アエリノールは身体を密着させて、しなやかな両腕を俺の首に絡めてきた。
素早い動きだった。
というか、アエリノールにされるがままになってしまう俺。
冷静になれ、俺。ここはもう少しで戦場になる場所だ。
でもアエリノールの吐息が、鼻にかかる。なんだか、甘い空気が俺の周囲を満たしてゆくようだ。
「だ、ダメだよ、アエリノール。ま、まだ俺達、結婚した訳じゃないし……大体、ここは戦場……」
俺は、俺の首に両腕を回したアエリノールの肩を掴むと、やや強引に引き離す。
理性を総動員しなければ、俺はアエリノールの魅力に勝てなかっただろう。
いや、これが普通に夜とかだったらヤバかった。多分、俺はアエリノールに篭絡されていたはずだ。
イヤイヤをするように首を振った俺に、少しだけしょんぼりしたアエリノール。だが、すぐに気を取り直したのか、笑顔になって小さく頷いた。
「うん、そうだね。ここは戦場だもんね……じゃあ、今度でいいけど、かならずしてね……キス……」
へ?
どうやらセシリアがアエリノールに教えた事は、キス止まりだったらしい。
キスくらいだったら、別にいいかな? という気もしてきたが、既にガイヤールに戻ったアエリノールを呼び戻す訳にもいかない。
「……シャムシール、ごめん……わたし、強引だよ、ね? でもね、勝ちたいの。わたし、ネフェルカーラに勝ちたいの……だって今じゃないとわたし、もうシャムシールの一番になれないから……」
俺にそっぽを向いたまま話すアエリノールは、僅かに肩を震わせている。
これは、笑っているのでなければ、泣いているのだろうか?
「シャムシールの一番はいつだってネフェルカーラで……だから、今だけでも、って……ごめんね……」
は……? なにそれ? 俺、初耳! なんで俺の一番が脳筋魔術師なの?
そりゃあ……何かあればアイツに相談するけど、そんなの、この冑があるからだよ!
確かにネフェルカーラは一見するとクールビューティーってヤツで……でも恐いし! ……だけどドジな所が可愛くて……って、あれ? あれ?
「……わたし知ってたんだよ。シャムシールがネフェルカーラのこと、好きなの」
振り向いた上位妖精は、青い瞳から大粒の涙を零している。
ああ、ダメだ。
俺も、俺を理解した。
ネフェルカーラの事を、俺は確かに好きだ。
彼女が第一夫人になるって言ってくれて、本当は嬉しかったんだ。
でも同時に、アエリノールの事だって大好きなんだ。
ああ、俺ってクズだ。
でも、もう、これ以上アエリノールの涙を見たくない。俺は冑を脱いでアーノルドの背に置くと、ガイヤールに飛び移った。
嗚咽を漏らすアエリノールの頬に、俺は唇をつけた。
不意に顔を上げたアエリノールは一度だけ戸惑ったように目を見開いたが、すぐに瞼を閉じた。
俺はそのまま、アエリノールの唇に自分の唇を押し付ける。
そうしなければいけない気がした。
よし、ここから俺の超絶テクニックを見せる!
さくらんぼのヘタを口の中で結ぶ事にかけて、俺の右に出るものはいないのだ!
覚悟しろ、アエリノール!
……
……
と、とろけてしまう。俺、とろけてしまう。
さくらんぼのヘタを口の中で結んだ事はあっても、他人と舌を絡めた事など無かった俺。
口の中でアエリノールの舌と俺の舌が触れあった瞬間、俺は昇天しそうになった。
再び理性を総動員して、上位妖精の涙も、人と同じくやはり少しだけしょっぱいんだな。なんてどうでもいい事を考えながら、俺はアエリノールから身体を離した。
そうしないと、もう戦場に帰ってこれなくなりそうだったからだ。
「シャム……シール?」
唇を離すと、嬉しそうにアエリノールが笑っている。
これでいいんだ。
涙は、アエリノールに似合わない。
「わたしのこと、好き?」
「ああ、好きだよ、アエリノール」
――ギィィン! ギィィン!
俺が微笑をアエリノールに見せた瞬間、背中と肩に数本の矢が命中した。
見れば背後にボアデブル軍が迫り、上空には空を覆うほどの黒い矢の大軍が迫っていた。
俺は慌ててアーノルドに戻り冑を掴むと、すぐさまかぶる。
「ギリ……ギリリ……ムググ……ギリリ」
何かが擦れる音が、冑の中で鳴り響く。
だが、それよりも上空の矢を何とかしなければ!
「うふっ! 全部燃やそう、ね!」
アエリノールは明るく言い放つと、自らの全身を淡い燐光で包みこんだ。そして広げた両手で二つの巨大な魔方陣を描く。
その時、俺の頭が激しく締め付けられた。
冑が小さくなってしまったのだろうか?
冑の外観に手を触れて、小さくなっていないか確かめたが、そんなことはないようだ。
くっ……こんな時に……酷く頭が痛む。
「シャムシールッ! この浮気者めがっ! アエリノールと接吻するなど!」
俺は瞬時に理解した。
ネフェルカーラは先ほどの状況を、何らかの方法で見ていたのだろう。
或いは聞いていただけかもしれないが、どちらにしても、アエリノールと何をしたのか、バレているようだ。
だとすれば、痛みの原因はネフェルカーラの呪い。
でも、だったら接吻にいたる前の状況は知らないのだろうか?
アエリノールはお前に勝ちたいから……って……痛い、痛い。
大体、アエリノールは第二夫人なんだから、接吻っていずれはするだろう! そんなに怒るなネフェルカーラ。
「痛い痛い! ネフェルカーラ許して!」
「許さぬ!」
「今度、ムハンマーを作ってあげるか……ら……」
ムハンマーは、ネフェルカーラが愛して止まないスイーツだ。
しかし、何故か幾度自分で作っても美味しく作れないネフェルカーラは、大体俺に頼むのが常だった。
なぜ俺がムハンマーを上手に作れるかといえば、米を材料にしたスイーツだからである。
米文化で育った俺を舐めるなよ。
「む、む? ふ、ふむ。では、戻ってきたら毎日……いや、それではさすがにおれも太るか? では、二日に一回? む、むむ……?」
「わ、わかったから、早く冑を……!」
「……それとこれとは話が別だ! 誓え! 今後はなんでもおれが一番だ! おれがシャムシールと接吻をしておらぬのに、第二夫人たるアエリノールがおれに先んじた事が許せん! ムハンマーは三日に一回がよい!」
そ、そこなのか……ネフェルカーラの怒るポイントは……。
ちゃっかりムハンマーも条件に入ってるし……。
俺が苦しんでいる間に、アエリノールは極大の魔法を完成させていた。
アエリノールは二つの巨大な魔方陣から二体の炎の龍を放つと、見事に上空の矢を全て燃やし尽くしたのだ。
ああ、これはシャジャルがパールヴァティと戦ったときに見せた水龍の炎バージョンか。
それを二体同時に使役して涼しい顔をしているのだから、やっぱりアエリノールは桁違いなんだなぁ。
って、痛たた……。
「わかった。わかったよ、ネフェルカーラ。今度からネフェルカーラが一番で、ムハンマーは三日に一回作るから」
「あ、あと、お、おれのことも好と言え、シャムシール。そうしたら、その呪い……ではない、頭痛を取り払ってやらなくもないぞ」
あのう、俺、一応、五万人を相手にしている最中なんですが……。
ネフェルカーラさんの相手をしている場合ではないんですが……。
しかし考えようによっては眼前の五万人より、冑の中の一人の方が厄介だ。
ガンガンと頭を締め付ける冑は、容赦が無い。
「ネフェルカーラ、好きだ」
「気持ちが足りぬ」
「ネフェルカーラ、大好きだ」
「誠意が足りぬ!」
「ネフェルカーラ、好き過ぎる」
「どのくらいだ?」
「へ?」
「答えられぬのなら、やり直し!」
「ネフェルカーラ……大好きです……」
「ほう、おれのどんな所が好きなのだ?」
俺はアーノルドを敵中に突入させつつ、ネフェルカーラの名を唱え続ける。
頭は痛むが、戦わない訳にもいかない。
「雷撃!」
「ふむ、そうか。シャムシールはおれの雷撃がそれほど……。うむ、まあ、確かにおれの雷撃は出来が違うからな! よかろう、戻ったら、たっぷりと味あわせてやろうではないか。ふは、ふは、ふははは!」
俺は眼前の敵を屠る為に”雷撃”を放ったのだが、どうやらネフェルカーラは勘違いをしたようだ。
でも、そのお陰で頭痛は解消された。踏んだり蹴ったりの中の不幸中の幸いだ……。
「そうそう。こんな事を言う為に、おれはお前に話しかけようとしたのではなかった。――心して聞け、シャムシール。
フローレンスの皇帝プロンデルとナセルが結びおった。
思えば、フローレンスが出陣した名目はオロンテス奪還の為。それを返還すると申し出れば、ナセルとプロンデルの同盟は確かに容易かろう。
だが、おれとしては解せんことがある。プロンデルの性格は乱を好み覇を競うと聞く。それが同盟などと、悪戯に策を弄したことだ。それゆえ、おれが講じた策の一つが潰れておる。何者かが、暗躍しておるのやもしれぬが。
……何にせよ、近々このマディーナも戦場となろう。なれば、おれもお前からの連絡を常に最優先とする訳にはいかなくなるが、案ずるな……こ、ここ、心は常に寄り添っておるからなっ!」
すでに俺は戦場真っ只中なのだが、そこは案じてくれないネフェルカーラ。
この人はデレようとすると噛むのだろうか? 最後だけ鶏みたいになっていた。ていうか、俺からの連絡が最優先だったのは意外だが。
それよりナセルとフローレンスが結んだとなれば、確かに問題だ。
つまり俺は西方世界全てを敵に回したということ。
あれ?
今の敵は東方……アーラヴィー王国?
ん? 俺、クレイトとも戦ったよな?
おい。何故俺は全世界を敵に回して戦っているんだ! 誰か助けてくれ!




