美華宮殿の密談
◆
ヘラートの上空に辿り着いたネフェルカーラは、想像以上に厳しいナセル軍の包囲を目の当たりにした。
城市の外縁をぐるりと囲むナセル軍は、盛大な篝火を焚き、常に魔法攻撃を続けている。
これでは、市内にいる民達はたまらないだろう。
ヘラートの防御結界は流石にどのような攻撃にも耐えているが、反撃は無い。つまりは、防御に専念せざるを得ない状況なのだろう。ファーティマ渓谷で破れ、戦力の低下が著しいシバール軍であった。
次にネフェルカーラは、ヘラートの中心部に聳える美花宮殿に視線を移す。
豪壮華麗な三層構造の宮殿も、今はひっそりと物悲しく見える。
「うう、寒い。だが、これならば、思ったよりも容易く進入出来るか――幻影」
両腕を抱える様にして暖をとりつつ、震え声でネフェルカーラは新たに呪文を唱えた。
高空を、音速を超える速度で一時間近く飛んだネフェルカーラ。魔力をケチって暖をあまり取らなかったが故に、寒さで全身を震わせている。
もっともネフェルカーラといえども、魔力消費を抑えなければ機動飛翔の全力飛行でマディーナ、ヘラート間を一日のうちに往復することなど出来ないのだ。寒さ位は仕方が無い。
それでもすぐに何事も無かったような表情になり、漆黒の身体をさらに闇に溶け込ませて、悠々と聖都へ潜入を果たすのだから、さすが稀代の魔術師であった。
「こんな時こそシャムシールに暖めてもらいたいぞ、まったく」
文句なのかデレているのか、よくわからないネフェルカーラは高度を下げると、美花宮殿の中枢部にあっさりと辿り着く。
もちろん、宮殿に到達する為には幾重にも張り巡らされた結界があるが、ネフェルカーラにかかれば、そんなものは問題にもならない。
美花宮殿の最上層で、大理石の廊下を歩むネフェルカーラは、幻影によって作り出された闇の中から、すれ違う守護騎士を睨む。
「この程度の魔法も見破れぬ者が守護騎士だなどと、片腹痛い――石化」
自身に気付かない騎士が通り過ぎると、振り返り人差し指を向けたネフェルカーラ。
その指先は”石化”の呪文と共に白く輝き、次の瞬間、守護騎士は物言わぬ石となった。
せっかく節約した魔力を、つまらない理由で浪費するネフェルカーラは、石化した騎士に向けて呟いた。
「命までは取らぬ。明日になれば石化は解けるぞ。が、賊の侵入にも気付かぬ己の未熟を恥じよ」
そして石像の前に回り、こつりと騎士の額を小突いたネフェルカーラ。
しかし力の加減を誤ったのか、石像は後ろに倒れ、見事に砕けてしまった。
石像と化した騎士の名はアフラ。ダスターンと並ぶ、守護騎士きっての俊英である。
「……あ、あの世で悔い改めよ」
アエリノール程の治癒魔法を使えないネフェルカーラは、この状況から砕けた騎士を救う術を持たない。
命は取らないと言った二秒後に前言を翻したネフェルカーラは、珍しく頬を伝う汗を自覚した。
だが幸いな事に彼は「盾騎士アフラ」と呼ばれるほど、防御に長けた男。ゆえに、自身に蘇生の魔法を予め施してあった。そのお陰で翌朝、彼は一命をとりとめたのである。
気を取り直してネフェルカーラは、長い回廊を歩む。
今度すれ違う者は、どうやら魔族の魔術師である。
「これ程至近距離ならば、おれの幻影といえども、さすがに見破られるであろう。ふむ、ヤツが魔族であれば、なおのこと」
嬉しそうに唇の両端を上げているネフェルカーラだ。
しかし闇に溶け込み気配を断って、しかも薄布で口元を覆っている彼女の表情が、相手の魔術師に分かるはずもなかった。
すれ違った瞬間、ネフェルカーラの怒りは限界に達する。
「雷撃」
緋色の衣を纏った魔術師は、その衣服を真っ黒にして床に崩れ落ちた。
彼はシバール第二魔術師団長であり、現在、美花宮殿の結界を一任されている、シバール屈指の大魔術師。
それにも拘らず、彼はネフェルカーラの前に、なす術も無く倒れたのだ。むしろネフェルカーラ自身が、自らの力を省みた方が良いだろう。
そもそもネフェルカーラは、シャムシールによく雷撃を放っていた。
それは、嬉しいとき、怒ったとき、悲しいときなど多岐にわたるが、ともかく、シャムシールはネフェルカーラの雷撃で黒焦げになる事は無い。
だから、ネフェルカーラとしては、こう考えていたのだ。
「シャムシールは人間だし、それで耐えられるのだから、おれの雷撃も威力が落ちたものだ。本気で戦うときには、もっと上位の魔法を使うか」
――違うのだ。
雷撃に耐えるシャムシールの対魔法防御能力が、日に日に高まっているだけなのだ。
シャムシールは、この世界に転移してからというもの、嫌々ながらも一日の休みも無く鍛錬に励んでいる。
その結果、本人が気付いていないだけで、今では限りなくネフェルカーラやアエリノールに近い力を身に付けていた。
なので、ネフェルカーラは化け物基準で魔法の威力を測り、誤認したまま高威力の雷撃を放ったのだから、いかなシバールの大魔術師といえども、ひとたまりも無い。
「こんな事で、賊が侵入したらどうするというのだ!」
だから黒こげの魔術師に捨て台詞を残すネフェルカーラに、一切の悪気はない。いっそ、警鐘を鳴らしている良い人の気分である。
一人を屠り、一人を瀕死にさせておいて、なんという言い草であろうか。
「賊というのはお前の事だ」と、アフラに意識があったなら、きっと言いたかったであろう。
「いかにして進入したか!? 貴様!」と、魔術師も焦げていなければ、問いたかったであろう。
しかし、ネフェルカーラの警鐘に答える者はいない。
”しん”と静まり返った廊下では、彼女がいくら拳を振り上げてみても全てが空振り。
そうなると、ネフェルカーラも初心に立ち返るしかなかった。
「いかんいかん。こんな事をしている場合ではない。シェヘラザードに会わねば」
◆◆
思いのほか閑散とした宮殿内部は、まさに亡国の様相である。
かつては多数いたはずの守護騎士達もまばらで、華麗だったはずの床は磨かれず、砂や泥が至る所に散見された。
ファーティマ渓谷での敗戦は、数多の騎士や魔術師たちを犠牲にし、また離反を誘った。
どうりで、ネフェルカーラが二人としかすれ違わない筈だ。
もっとも、数多く緑眼の魔術師が誰かとすれ違ってしまったら、その度に被害者が増えるのだから、今はこれで良かったのかもしれない。
ともかくネフェルカーラは幻影を解いて、悠々と目的の人物がいるであろう部屋の前に立つ。
――ガチャリ
ネフェルカーラの二倍はあるであろう高さの扉は、純金製の取っ手を押すと、すんなり開いた。
中からは、ネフェルカーラの大好きな香りが漂ってくる。即ち、葡萄ではなく、葡萄酒の香りだ。
ネフェルカーラは後ろ手に扉を閉めると、部屋の中央で酒を煽る黒髪の美女を見た。
目を細めたネフェルカーラは少しばかり羨ましそうだが、流石にここでいきなり酒に手を伸ばす様なマネはしない。
普段いつでも暴走している様に思われるこの魔術師だが、実は全て、彼女なりの価値基準によって行う暴挙。つまりネフェルカーラは自制心を、アエリノールよりは備えているのだ。
長椅子に横たわり、銀杯を手にしたまま酒臭い息を吐くシェヘラザード。彼女はうろんな目を、アエリノールよりはささやかに自制心の発達したネフェルカーラに向けた。
「賊の正体は……貴女だったのね、千年を生きる魔女」
「賊? おれは警告しただけだ。このように無防備では駄目だろう。それからおれは十八歳だ、二百年を生きる大将軍」
シェヘラザードの言葉に、ネフェルカーラの細眉がピクリと上がった。
シャムシールとの年齢差を考えて、最近では十八歳と言い張るネフェルカーラだ。当然誰一人そんな事は信じないが、本人は本気で十八歳説を定着させようとしている。
それこそ、ファルナーズの記憶まで操作しようとしたのだから、恐ろしい限りだ。流石にそれは、危うい所で気が付いたハールーンが止めた。
「ネ、ネフェルカーラ、冗談はやめるのじゃ。お前は千……ん? じゅう……はち、じゃと?」
「そぉだよ、ファル! ネフェルカーラさまはいつまでも十八歳だよぉ! 千九百歳なんて言っちゃダメだよぉ!」
「そ、そうなのか。それでは、わしよりも少しだけ年上なだけじゃな? これからもよろしく頼むぞ、ネフェルカーラ」
「うむ、うむ。今までは千九百歳などと戯れておったが、悪気があった訳ではないのだ。ファルナーズさまも、ハールーンも、わかってくれればそれでよい」
止めたというより諦めたハールーン。そして、ハールーンの目配せにによって、そこに乗っかっただけのファルナーズだが、認めなければネフェルカーラが何をしだすか分かったものではない。
こうして、ファルナーズは部分的な記憶喪失を何とか免れたのであった。
「十八歳? あら? それは言いすぎじゃない? どう見ても二十二、三歳じゃないかしら……ま、私とそれほど歳が変わらない様には見えるわね」
「うむ。まあ、二十二、三歳と思われるならばよかろう。おれは十八歳だが」
呂律の回らない口調で、杯に新たな酒を注ぎながらシェヘラザードは言った。
対するネフェルカーラは、しきりに頷いている。
もう、ネフェルカーラにしてみれば、十八歳でも二十二、三歳でも、本来はどうでも良いのだ。そもそも、千九百二歳から見れば、そんな年齢は一緒の様なもの。だから、シェヘラザードも記憶を操作されずにすんだのである。
そうは言っても、シェヘラザードも随分だ。自分だって二百歳を過ぎているのに、ぬけぬけと二十二、三歳くらい? などと言っているのだから。
「で、賊ではないのなら、うら若きマディーナの行政官どのが、今にも負けそうな私に何の用かしら?」
「ある提案を、聞いてもらいたい。もしも聞き届けてもらえるならば、貴女もヘラートも救われる」
ネフェルカーラの瞳が妖しく揺れる。
ネフェルカーラがアエリノールと違うのは、この点もだ。
彼女は、いくつもの事を同時進行で考える。だから、一方でいかに冗談の様な事を考えていても、もう一方では、怜悧な計算を続けているのだ。
だが、さらに他方ではシャムシールの事を考え続けているのだから、もしも彼女に説教出来る立場の者がいたら、
「たまには集中しろ!」
と、一言言いたくなるであろう。
もちろん、本来は上官であるファルナーズがネフェルカーラに言うべきかも知れない。
だが銀髪の小鬼は緑眼の魔術師について、その傍若無人ぶりは咎めても、それ以外はいっそ尊敬している位なので、どうにもならない。
「わしもいつかネフェルカーラの様に、強く美しく、そして教養のある大人の女になれるじゃろうか?」
ある日、不意にこんな事を言い出したファルナーズに、ハールーンは顔を引き攣らせて頷く事しか出来なかったという。
だが今、ネフェルカーラが話している相手は、ファルナーズではなくシェヘラザード。
彼女が緑眼の魔術師に抱く印象は、現在のところ敬意ではない。いっそ、警戒心と敵意であった。それもそうであろう、散々、救援要請を無視し続け、現れたと思えば賊まがいの事をしているのだから。
シェヘラザードは、怒気をたたきつける様に声を荒らげた。
「提案、だと? 今更現われて、何をぬけぬけと……!」
シェヘラザードは長椅子から起き上がり、手にしていた銀杯がネフェルカーラに投げつけた。
酒気に塗れたシェヘラザードの怒気は、それでも一直線にネフェルカーラ目掛けて飛ぶ。
ネフェルカーラは腰にさした細身の剣を抜き放ち、杯を両断する。そして中に入っていた液体を、身体を開いてかわした。
部屋の隅で、割れた銀杯と壁がぶつかる甲高い音が鳴った。
ネフェルカーラの翠玉の様な瞳と、シェヘラザードの黒曜石の様な瞳が暫し交わり、室内の薄明かりに反射する剣の銀光が、不吉な輝きを見せている。
「ふうん。剣技も中々のものね」
ネフェルカーラから視線を外すと、椅子に立てかけてある剣をちらりと見たシェヘラザードはしかし、そのまま不意に身体を椅子に沈めた。
彼女はネフェルカーラと戦っても敗れるとは思わなかったが、怒りに任せて戦う意味を見出せなかったのだ。
だが、新たな杯に再び葡萄酒を注ぐシェヘラザードは、急に哄笑した。
「あはははは! 私を殺したければ、そうしなさい。でも、それはナセルを利するだけでしょうけどね。あははは!」
顔を右手で抑えながら、狂った調子の笑い声を上げるシェヘラザード。
ネフェルカーラは首を傾げながら、口元を歪めた。
「酒に溺れ、心が折れたフリ、か、大将軍? それが、貴様のナセルに対する最後の策だとすれば、随分と粗末なものだな」
不意に、シェヘラザードは哄笑をやめた。続くネフェルカーラの言葉を、眉間に小さく皺を寄せて聞く。
「だがな。ナセルもそうだが、ヤツの元にはシーリーンという女狐がいる。その様な小手先の策は通用せぬ」
大きく息を吐いたシェヘラザードは、頷き、口元に微笑を湛えた。
「そうね、だから私はファーティマで敗れたのよね。……いいわ、貴女の提案とやらを聞きましょう」
小さく頷いたネフェルカーラは、変わらぬ怜悧な声を出す。
ネフェルカーラの声に、抑揚は少ない。彼女は冗談を言うときも本気の時も、怒っている時でさえ、その喋り方は基本的に平坦。あまり感情を表に出す事は無いのだ。
「まず報告しよう。シャムシールがセムナーンを奪還した」
「そう、目出度いわね? どうして私よりも貴女の方が、その事を早く知っているのかは聞かないけれど、だから私が助かると言いたいの?」
ネフェルカーラに対して、シェヘラザードの声はやや低い。だが、彼女の旋律の様な喋り方は流麗で、豊かな表情をもっていた。
――双極の様な二人の会話は続く。
「察しが良くて助かる、その通りだ。シャムシールが貴様を救う」
「お生憎さま。今の私には父がいない。つまり、それ程の大功を立てた守護騎士でも王にする事さえ出来ないのよ。
それに当初の作戦は、ヘラート軍とクレイト討伐軍でナセル軍を挟撃するつもりだったけれど、今ではそれも無理。
情けない話だけど、もう、我が軍は二万人もいないの。反対にナセルの軍は膨れ上がっているわ。何しろ私から離れて、ナセルを聖帝に、なんて言っている者も多いのよ、今では……」
「それが、どうしたのだ?」
ネフェルカーラの疑問に、シェヘラザードの表情が変わる。
剣を鞘に収め、首を傾げるネフェルカーラの姿は、本当に疑問を感じている風だった。
何より、日々巨大化するナセル軍をまったく恐れていない風体のネフェルカーラを、興味を込めた眼差しでシェヘラザードは見つめた。
崩していた身体を椅子の上で正し、乳白色の衣服を調えたシェヘラザードは、不意にネフェルカーラを手招きした。
「座って。貴女はナセルが恐くないの?」
「厄介だ、とは思うが、恐れる理由にはならん。第一あの程度の男に、シャムシールが後れをとる筈が無い」
「黒甲将軍……彼はそれほど?」
「おれの夫になるのだ、当然だろう」
「あら、そうなのね?」
会話を続けつつ、徐に部屋を物色したネフェルカーラ。彼女は椅子に座る前に、大切なモノを探していた。探したものは、丁度良い大きさの杯である。彼女の顔には、まるで「ようやく酒が飲める」とでも書いてあるようだった。
シェヘラザードの正面に座るとネフェルカーラは、みずから陶器に入った赤紫色の液体を注ぐ。
「水で、割る?」
「いや、不要だ」
互いに向き合って座るネフェルカーラとシェヘラザードは、何処か似通った雰囲気を持っている。
酒を酌み交わしながら、不思議と昔からの知己の様な気がしてくる二人だった。
無言で杯を重ねること三度。
彼女達は本題を語るよりも、葡萄酒の味を楽しみ始めたのである。
「乾酪でも、持ってこさせようか?」
口寂しくなったらしいシェヘラザードが、杯を置くとネフェルカーラに言った。
乾酪とは、少し硬めのチーズの事だ。
「うむ。それも合うと思うが、このままでも十分に美味だ」
「そう、よかった。これは四十年前、父上の誕生祝いと言ってフローレンスから送られたものよ。美味しく無かったら嘘よね」
「ほう、どうりで豊潤な……四十年前といえば、随分と豊作だったしな。その中から厳選しているのだろう」
「そうね。でもネフェルカーラ、貴女十八歳じゃないの?」
「む、む? 前世の記憶がそう申しておる」
この時代、葡萄酒を飲むといっても、専用の杯がある訳ではない。つまり、製法は確立されていても、飲み方には未知の領域が多く残されていた。それにも拘らず、二人は酒の深さを語らい始めたのである。
――ある意味では、時代を先駆けている二人だった。
とどのつまり、二人は根本的に酒が大好きなのだ。
このことで、急速に二人の仲は進展する。
「なあ、シェヘラザード……いや、シェヘラザード殿下」
「ふふ、ネフェルカーラ、貴女に尊称を付けられるのも嫌なものね。せっかくお酒を一緒に楽しめる人に巡り会えたと思ったのに」
「なんだ、今までいなかったのか?」
「そうよ。だって私、これでも聖帝の娘よ? しかも半妖精だし。まともな友達なんて、出来る訳無いじゃない」
「うむ、それもそうだな。では、おれが友になってやろう。おれも、友など生まれ出より千……お、おほん! 十八年で二人目だが」
「うふふふ、少ないのね。でも、ありがとう。私には、二百年生きて初めての友達が貴女よ」
あくまでも十八年しか生きていないと言い張るネフェルカーラを、おかしそうに見つめるシェヘラザードは、父を失ってから初めて屈託無く笑った。
ネフェルカーラの方も、
(すると、おれがエルミナーズと出会ったのは、おれが生まれる前という事になるな。まあいい、これも前世ででも出会ったことにするとしよう。うむ、前世とは便利だな)
などと、頬をほんのりと赤く染めながら考えていた。
相変わらず、無茶苦茶である。絶対に辻褄が合わなくなるだろう。どうせバレた時には暴れて誤魔化すネフェルカーラだ。彼女に話を合わせるしかない世間の迷惑も、少しは考えて欲しいものである。
「それで私の初めての友達は、私にシャムシールを頼れというけれど、具体的にどうすればいいのかしら?」
「なに、まず問題はナセルを聖帝に、と求める輩がいるのは、聖帝に近い王が、かの者だけだからであろう?
ゆえに、シャムシールを王となせば、奴隷騎士共の考えも割れよう。まして、クレイトを破り国土を解放したのはシャムシールだ。そうであれば、どちらの王に支持が集まるかは、自明であろう」
「それはわかるけれど、今の私では彼に酬いる事が出来ないわ。王を任命する権利なんて、大将軍には無いもの」
「方法はある。シェヘラザード、聖典をよく読め。第百三十ニ章五十二節に、こうあるのだ。
大将軍たるもの、聖帝位空白時に限り、その責務を代行すべし。その期日は短きものと心得よ、と」
「それは知っているけれど、禁忌よ。かつて、それを頼りに聖帝を害し、新たな聖帝に我が子を据えた大将軍がいたから」
「それが、どうしたというのだ? 禁忌の権利でも今使わねば、シバールはナセルのモノになるぞ。そうでなければ、フローレンスにでも攻め滅ぼされる」
二人の黒髪の美女は、互いに唇を引き結び、黙り込んだ。
今、シェヘラザードが禁忌を犯してでもシャムシールを王にすれば、次の聖帝は、きっと自分と代われる権利をもつ大将軍を立てようとしないだろう。
それでも、ネフェルカーラはシェヘラザードに禁忌を無視しろという。
――どういうことか? シェヘラザードは考えた。
つまり、全ての黒幕はシャムシール。そしてその望みは、シバール帝国の至尊の地位である聖帝。
次代の聖帝でもなければ、禁忌を為せ、とまでは言えない。
ならばネフェルカーラの提案とは、シャムシールを聖帝と為すのに協力しろ、という事だろう。その為に、まず王の地位を要求するのか。
――これが本当の英雄か。たしかに、これ程の男ならば、ナセルよりも遥かに力強い。
一度、深呼吸をすると、シェヘラザードが言った。
「シバールの、一つの時代が終わるのね? 私の決断で」
答えるネフェルカーラの声は、僅かに熱を帯びている。珍しい事だった。
「違う。始まるのだ、新たなる時代が」
「黒甲将軍が、彼がもしもナセルに負けたら?」
「その時は、おれもシャムシールと共に滅びるだけのこと、ゆえに知らぬ」
「あはは、酷い答えね。でもこの賭けに乗ったら、私だって彼が負けたら滅びるじゃない?」
「勝てば、シェヘラザード、お前の地位は保証する。或いは、王になればよい」
「そんな地位は、もうこりごり。ネフェルカーラといつでもお酒が楽しめる場所にいたいわ。そうね、彼が勝ったら、私も彼の妻にして。序列は気にしないから」
不意に、ネフェルカーラに提案したシェヘラザードの顔は、晴れやかだった。
宮廷内の権力闘争を常に身近に感じ、望まない結婚を拒絶していた彼女が本当に求めていたものは、絶対の君主。
かつて、ナセルならば自分を国から奪い、救ってくれると思った事もあったシェヘラザードは、シャムシールの力強さに心奪われた。
何しろ、ネフェルカーラほどの魔術師を使い、自らが王になるための布石として、遠く離れたヘラートへ派遣する程強かなシャムシール。
それに、武力をもってクレイトまで打ち破り、そのうえ、大将軍たる自分に、あけすけな地位の保証をする。
シェヘラザードは、そんな頼もしい男こそ、自分の夫に相応しいと思った。
まして、友となったネフェルカーラがこれ程に心酔しているのだから、安心もする。それに彼女ならば寿命も長く、容姿も圧倒的に端麗だ。間違っても、自分などに嫉妬はしないだろうと考えた。
もう、頂点に君臨するのはこりごりだし、第二位の地位も嫌なシェヘラザードは、絶対君主たるシャムシールを夢想し、胸をときめかせた。
もちろん、シャムシールに帝国簒奪のような意図はない。今回の事は全部、ネフェルカーラの独断である。
不幸なのは、今も勝手に絶対君主として夢想されたシャムシールであろう。彼の虚像は、今や世界各地で加速度的に大きくなっていた。
――それにしても前に見たときは、少し頼り無さそうな部分があったと思うのだけれど? でも、あの時も二百五十人で一万の敵を蹴散らしたと聞いたわ。思えば、凛々しいお顔をしておられた――
シェヘラザードの夢想は、もう止まらない。
それに、ネフェルカーラと一緒に後宮に入れる事が、だんだんと素晴らしい事に思えてくる。
シェヘラザードが視線を緑眼の魔術師に戻すと、なにやら彼女は口をもごもごと動かし、頬から口元を覆う薄布を揺らしていた。
「シェ、シェヘラザードも妻に!? そ、そ、そそ、それはシャムシールに聞いてみないと、なんとも、もごもご……」
「それでいいわ、聞いてみて。私は彼を、シャムシールさまをサーベ、セムナーンの王にするわ」
「……マ、マディーナも頼む」
小さな声になってしまったネフェルカーラは、出来ればシャムシールにシェヘラザードの提案を言いたくない。
見れば見る程シェヘラザードは美しいのだ。
ネフェルカーラにさえ淡い劣等感を抱かせるシェヘラザードの美の破壊力は、まさに脅威である。
「いいわ、マディーナも、ね。あ、それとネフェルカーラ。シャムシールさまに、シェヘラザードは心より貴方様の勝利をお祈り申し上げております、と伝えてくれるかしら」
「わ、わかった。それも、伝える」
晴れやかな顔で宣言するシェヘラザードとは対照的に、ネフェルカーラは両手で頭を抱え込んでいた。
新たな友は、或いは後の強敵になるのかも知れないのだから。
こうして内助の功とでもいえるネフェルカーラの活躍により、シャムシールは三カ国と絶世の美女を手に入れたのである。




