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マディーナ行政官の一日

 ◆


 シャムシールがセムナーン攻略を成し遂げた頃、遠く砂漠の城砦都市マディーナでは、一人、ネフェルカーラが転寝うたたねをしていた。

 だがネフェルカーラはフローレンス軍進発の報を受けたことにより、いまやマディーナにおける、最も忙しい人物のはずである。

 それもこれも、軍務も政務も中途半端にしか出来ないファルナーズと、軍務も政務も優秀なのだが、家事にしか興味を持たないハールーンのせいなのだ。

 ファルナーズにいたっては、自らの未熟を理解し、それゆえネフェルカーラに政治を託している節もあるのだから、いっそ確信犯。もっとも、それでネフェルカーラが不平を言うという事はない。

 何故なら、彼女は物事を意のままに動かす事が好きだからだ。

 もしもネフェルカーラが心底から尊重し、自分の意見を曲げてでも従うような人物がいるとすれば、既に故人となっているエルミナーズか、或いはシャムシール位のものであろう。

 とはいえシャムシールは、ネフェルカーラを核兵器の如くひたすら恐れているので、彼女を意のままに操ろうなどとは、現在の所、思いもよらない事だった。


 ネフェルカーラは午前中の執務を終えると、午後に目を通すべき書類の一切を座卓の上に置き、横になる。

 それを見計らってか、元サーリフの妻のアーザーデが、盆に瑞々しい果物を乗せて部屋に現れた。


 ネフェルカーラは午前の執務中、何とはなしにシャムシールに声を掛けようとしたが、それをやめた。

 本当は、セムナーンを落とした褒美に、自分の声を聞かせてやろうとウキウキした気持ちでいたネフェルカーラだ。

 だが、熱した気持ちに冷水を浴びせるが如き言葉が、シャムシールの口から飛び出したのである。

 

 ネフェルカーラは、怒りのままにシャムシールと会話する事を避けた。

 そう、彼女は可愛い女を演出したかった。

 いや、演じなければならなかったのだ。

 

 ――ま、まさかシャムシール。おれから目移りするなどという事はなかろうな。


 もちろん、こんなネフェルカーラの焦燥感はそもそもが間違っている。

 シャムシールは別にネフェルカーラに恋焦がれている訳ではないのだから、これは彼女の一人相撲だ。

 だがそんな想いから、彼女はシャムシールに暴言を吐く事が出来なくなってしまった。

 そんな己の変化に戸惑いつつ、ネフェルカーラは怒りを口の中で反芻した。


「アエリノールが第二夫人だと? ジャムカとやらが妃になるだと? おれというものがありながら、シャムシールめ、一体何人の妃を侍らすつもりだ。

 そもそも、第二夫人になるのはシェヘラザードと決まっていように! それが政治的に良いのだ、愚かものめ!」


 自身の婚姻を自由意志で決められないシャムシールこそ、いっそ可哀想に思えてくる。

 しかし、ネフェルカーラは後に世界十大美女にその名を連ねる程の女性なのだから、そんな彼女を妻にするのなら、それも仕方が無いことかもしれない。

 ちなみに世界十大美女の内、八人までもが同時代人でありシャムシールの妻になるのだから、いっそシャムシールは自由意志で妻を選べなくて正解だったのであろう。


「あらあら、ネフェルカーラさまはご機嫌斜めですか?」


 腕枕をしつつ天井を睨んでぼやく緑眼の魔術師に、優しく声を掛けるアーザーデ。

 アーザーデの特徴は、豊かな黒髪と豊かな胸。そして健康的な褐色の肌である。漆黒の衣服を纏ったネフェルカーラとは対照的に、彼女は薄赤色の長衣を着ていた。長い衣は襟元や袖の部分に金の刺繍が入り、アーザーデの身分の高さを示しているが、しかしながら官職で言えばネフェルカーラの下である。

 アーザーデの官職はこの時”書記官カーティブ”とでも言うべきもので、行政官ハーシブであるネフェルカーラの補佐が仕事だ。

 ネフェルカーラは知識も教養もあるアーザーデを、実に重宝していた。


 ここマディーナは、武官こそ人材が揃っているが、文官となると自身とアーザーデしかいない、と考えているネフェルカーラだ。

 もちろん、文官がいくらいないとネフェルカーラがいってみても、行政機構としての文官ならば存在する。つまり、あくまでもネフェルカーラは優秀でなければ文官も武官も、それと認めない、ということなのだ。


 それにしても、ネフェルカーラが自分の事を文官と思っているあたりが面白い。

 明らかに魔族なのに本気で人間だと思い、どう考えても武断派なのに文官だと考えるネフェルカーラの自己評価は、一体全体どうなっているのであろうか?

 シャムシールならずとも、こんな奇妙奇天烈な女性には恐怖感を抱くはずだ。

 もっとも、最近では魔法の弟子とも言えるシャジャルが、ネフェルカーラをかなり理解しつつある。


「つまり姉上は、素直な捻くれ者なのですっ!」


 ある日、ネフェルカーラについて首を傾げるシャムシールに、シャジャルが言った言葉がこれだった。

 シャムシールとしては、ネフェルカーラを既に姉と呼ぶシャジャルにも慄いたが、同時に、シャジャルのネフェルカーラ評にも驚いた。


 ――そんなヤツいねぇ! いてたまるかっ!


 その時はそう思ったのだが、後々考えてみると、納得出来なくもなかったシャムシールである。


 という訳で素直な捻くれ者に、マディーナにおける唯一の高級文官と思われているアーザーデは、ネフェルカーラの脇に座ると、柘榴ざくろ無花果いちじくが盛られた盆を差し出した。

 

 横になりながら、器用に柘榴の実を取って食べるネフェルカーラである。当然ながら、彼女は相変わらず頬から口元を覆う黒布をしているので、食べる時には軽く捲っている。それにも拘らず、何故か捲る動作が見えないアーザーデは、首を傾げていた。


「斜めどころではないぞ、アーザーデ! おれの機嫌は今、直角だ!」


 どうやらネフェルカーラのご機嫌は、九十度になっている。

 いっそ、こうなると怒っていないのではないか? と思えてくるが、ネフェルカーラは真剣に怒っていた。


「ふふ、それは大変でございますわね」


 しかしネフェルカーラの機嫌に関して、アーザーデはそれ以上言及しない。どうせ数時間も経てば、今の怒りなど忘れるネフェルカーラである。むしろ怒りの原因を根掘り葉掘り聞く方が、後の禍根を残す事を知っているアーザーデであった。


「それよりもネフェルカーラさま。流民の流入が一段と増しましたわ」


「ふむ、そうであろうよ。ここは遠からずフローレンスとぶつかる戦場となるのだからな」


 あえて話題を変えたアーザーデに、一言答えると、無花果を抓んで背を向けたネフェルカーラ。

 アーザーデはその様をみて、一礼すると立ち上がる。


 互いに、それ以上のことは口にしない。

 今のマディーナにはネフェルカーラの手腕によって、十万の兵が二年は戦えるほどの食料が蓄えられている。

 加えて水源からの水道設備を整え、下水道も都市中心部から徐々に拡張していた。

 であれば、流行り病の可能性も激減しているし、戦となれば予備の兵は必要である。

 流民の流入は大歓迎であった。


 もちろん密偵に潜入される危険性は、その分増大する。

 だが、そこはネフェルカーラだ。


「……アーザーデ。おれとファルナーズさまが不仲、との噂を流しておけ」


 執務室を後にしようと歩くアーザーデに、ぶっきらぼうなネフェルカーラの声が響く。

 どうせ密偵に入られるなら、利用してしまえばよい。

 ネフェルカーラもアーザーデも、そう考える程には強かである。

 だが、今度ばかりはネフェルカーラも安易に過ぎた。


 ネフェルカーラとて敵の策士として、クレアの存在は意識していた。だが、それでもネフェルカーラは、騙しあいに関して絶対の自信を持っている。

 確かに、ネフェルカーラが仮に謙虚に考えたとしても、地力の差により敗北はありえない。何故なら、魔法を使えば、見破れない嘘は大幅に減るのだ。そして、ネフェルカーラと同等の魔法を使える者は、世界に五人といないであろうから。


 だが、恐るべきはクレアであった。

 自身がネフェルカーラにもアエリノールにも及ばない事を、重々知っていたのだ。

 ならば、自分自身では倒せない相手を倒すには、倒せる相手を連れてくれば良い。

 そう考えて人類最強との呼び声も高い大魔導師を、プロンデルの軍門に招き入れたのである。

 こうなれば、互角の魔力と互角の知力の戦いだ。むしろ油断がある分、ネフェルカーラが些か不利になるかも知れなかった。

 

 そうだとしても今のネフェルカーラには、人類最強の魔導師が敵側に付いた事など知る由も無い。

 ネフェルカーラはアーザーデを見送ると、機嫌の角度をさらに上げた。

 もはや思考はシャムシールの事に絞られる。それはそれで、ある意味、恋する乙女なネフェルカーラ。

 もっとも、これ以上機嫌の角度を上げると、徐々に下がるのだから、本末転倒なネフェルカーラである。


 今、緑眼の魔術師は瞼を閉じ、考えていた。


 ――アエリノールを第二夫人にする、などという暴挙としか思えないような案を、何故シャムシールは受け入れるのか?

 

 そもそもネフェルカーラは嫌々だが、シャムシールの第二夫人にはシェヘラザードを、と決めていた。

 これは、話し合ったわけではないが、ドゥバーンの策とも通じているはずだ。

 そうであればこそ、シャムシールが聖帝カリフになるにあたり、「血統」というつまらない伝統を気にする必要がなくなるのだ。

 もとより聖帝カリフとは、その血によって選ばれる事はない。

 だが、それでも聖帝カリフの血は尊いのだ。

 何より先代のカリフ――つまりシェヘラザードもだが――は、かの魔王を退けた男の血を引いているのだから尚更である。


 ――まったく。

 

 大きく息を吐きながら、ネフェルカーラはぼんやりと呟く。


「別に血統に拘る必要もない、か。思えば、シェヘラザードは美しすぎる。まあ、おれの方が間違いなく美しいが、それでも万が一シャムシールが目移りするかもしれん。

 アエリノールは頭が悪いし、そもそもドゥバーンなど、おれと比べれば宝石と駱駝の糞ほども差があろう。

 ジャムカとやらは気になるが、それとてもおれと比べれば……ふは、ふはは。

 むしろ、これで良かったのかもしれぬぞ。

 ……だが、シェヘラザードとシャムシールを仲違いさせる訳にもいかん。うむ、ここは……丁度良い時期だ……よし、決めた」


 ネフェルカーラは、一度瞼を開くと、ゆっくりと円座をどけた。

 円座を枕に再び仰向けになると、窓から差し込む日こそ暑いものの、風が心地良かった。


 風が、座卓の上にある紙の書類をぱらぱらと捲る音が、どこまでも前向きなネフェルカーラの耳に響く。


「ん、む……だが、昨日は半日しか寝ておらんから、少しばかり眠い……起きたら、やるか……ふあ」


 ネフェルカーラの処理能力は、とてつもなく高い。

 魔法云々ではなく、もしも知能指数を図れるならば、天才の領域に達しているだろう。

 あらゆることを合理的に思考し、最短で処理してゆくのだから、いかに忙しいといえども、半日は寝る余裕があるのだ。だが、元来が怠け者のネフェルカーラは、働けば働くほど眠くなる。

 大きな欠伸を一つすると、揺らぎ始めた意識を迷うことなく、眠りという名の箱舟に委ねたネフェルカーラだった。


 ◆◆


「む? 寝過ごした」


 執務室の窓から入る涼風のお陰で、目を覚ましたネフェルカーラ。

 自身の周囲に飲みかけのチャイが二つあるところを見ると、ファルナーズがやってきて、暫くしてから用事か何かで去ったのであろう。

 むろん、残された二つの陶磁器から推測されることは、アーザーデがチャイを淹れ、ファルナーズと談笑した事を示している。

 チャイを入れる道具は、ネフェルカーラの執務室に一通り揃っていた。

 それは、ネフェルカーラがチャイを淹れる名手であるから、ファルナーズが贈り、与えたものである。

 事実ネフェルカーラは料理が下手でも、茶を淹れる事は神懸かり的に上手かった。

 手際もさることながら、茶葉を選ぶ選定目も確かなものである。


「アーザーデめ。なぜ食器を下げぬのか」


 それにしても、身体を起こしたネフェルカーラの不満は、まさに不当。

 何しろアーザーデは書記官カーティブとして多忙な身。にも関わらず、涼しげな顔でネフェルカーラの世話をするのだから、いっそ超人的ですらあるのだ。

 まして今日、彼女がファルナーズと談笑したという事は、休息を取るネフェルカーラの代わりにファルナーズの用事を受けた可能性もある。

 そんな彼女が自身の側に居ればこそ、ネフェルカーラはシャムシールがいない寂しさを、僅かでも忘れる事が出来るのだ。ネフェルカーラはもっと、アーザーデを大切にした方が良いだろう。

 もちろん、アーザーデの方も一人は辛い。

 サーリフが亡くなって以来、心底から頼れる存在を持たない辛さが彼女にはあったのだ。

 アーザーデも、元はエルミナーズに引き取られた奴隷だった。

 奴隷といっても、エルミナーズはハールーンにもアーザーデにも、自身を母と呼ばせていた。

 そうであればアーザーデは、ファルナーズ、ハールーンと共に過ごした時間も長い。だが、二人に対して年長者であるアーザーデは常に、彼等の良き庇護者であらねばならぬ、と自身を律していたのだから、その心は空虚になるばかりであったのだ。

 だからこそ、エルミナーズと親友であったネフェルカーラと心が通じるという事もある。

 エルミナーズも、ネフェルカーラに負けず劣らず傍若無人だったのだから、アーザーデがネフェルカーラを見る目は、かつて若き日の母を見る思い、なのかもしれない。


 ともかく、開け放たれた窓から外を眺め、星の位置と月の位置を測り、大よその時刻を確認したネフェルカーラ。

 

「うむ。まだ日が暮れてそれ程の時は経っておらんな」


 少し歩いて、大きな扉を開けると、ネフェルカーラは露台に出た。

 ネフェルカーラがやらねばならぬ事とは、シェヘラザードと話すことである。

 力を急速に失いつつあるシェヘラザード。

 幾度も救援を求める使者がマディーナを訪れていたが、その度に、ファルナーズに会わせることなく追い返していたネフェルカーラである。

 さぞや、シェヘラザードには恨まれていることだろう。

 もっとも、合理的に考えればマディーナ軍が救援に赴いたところで、もはや焼け石に水なのだ。

 もしもシェヘラザードがそのことに気が付きつつも、救援を求めているのなら、相当に追い詰められている事だろう。

 だが、それで良いのだ。そうでなければ、シバールの大将軍ライース・アルジャイシュたるシェヘラザードに、マディーナの行政官ハーシブでしかない自分が対等に話せるはずもないのだから。

 本来はその上で、シャムシールの第二夫人にならないか? という話を切り出そうと考えていたネフェルカーラ。

 だが、今は少し考えが変わっている。

 あくまでも、シャムシールとシェヘラザードが敵対しなければそれで良い。

 何にせよ、ヘラートの救済を代償にすれば、弱っているシェヘラザードは大概の要求を飲むほか無いであろう。


 少し眠り体力を回復させてから、無理せずヘラートへ飛ぼうと考えていたネフェルカーラは、頭を掻きながら溜息をつく。


「これでは今日中に帰ろうと思ったら、全力で飛ばねばならん」


 夜の砂漠に吹く風は冷たい。

 ネフェルカーラの長い髪は今、風に揺れて肩を流れている。

 これで空を飛べば、その体感温度はさらに下がるであろう。


(嫌だなぁ)


 と、心底思うネフェルカーラは、それでも自らの持つ勤勉さを総動員して、呪文を唱えた。


機動飛翔アル・ターラ

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