セムナーン攻略戦 1
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セムナーンとの睨めっこは、さらに三日程続いた。
闇隊の報告によれば、セムナーンに残った軍は、ジャムカ率いる二万だけとのこと。
元は、カザン率いる西方遠征軍三十万だったのだから、随分と減ったものだ。
もちろん、カザンも残りの二十八万を率いて本国に帰った訳ではない。無事、帰途につけたのは二十二万程だったようだ。
そう考えれば、クレイト軍は、この遠征で六万もの損失を出したということか。
とはいえ、此方も元は二十五万。それが今や、俺が率いて来た一万を合わせても十五万なんだから、損害の大きさは此方が上じゃないか。
ま、兵が減ったのはダスターンのせいだ。
なんて事をいうと、ダスターンが拗ねるので、俺は決して口にしない。
何しろ俺も、今年で二十歳になる大人だ。
男として大人になれていないが、年齢的には大人になる。
空気だけは読めるんだ……俺。
でも、このままでは童貞のまま二十歳か。日本では童貞のまま三十歳になると魔法が使えるようになるというが、俺は既に魔法が使える。二十歳前なのに、俺は既に悟りを開いたのだろうか?
いや、断じて違う。
俺は眠い目を擦りながら、うっすらと瞼を開けた。
少しだけ涙が滲んでいるのは、決して童貞だからではない。
そろそろ朝日が昇る時間の様だ。
天幕の隙間から、矢の様な朝日が入り込む。
朝の澄んだ空気は、天幕の中で吸い込んでも気持ちよい。
場所が草原なだけに、乾燥した空気がとても爽やかだった。
俺は寝台から身体を起こすと、すぐに鎧を身に着ける。
普通、将軍と言えば鎧を一人で着たりしないし、将軍の鎧なんて大体は仰々しく、一人で装備するなど無理なのだが、俺の鎧はその辺も違う。
軽いし固いし、何より俺の自由意志で伸びる。
もちろん胴鎧は体を挟み込み、前後を留め具で留めるのだが、正直、そのまま被ってもいけてしまう仕様だ。
このあたりの仕様に関して、俺はネフェルカーラに、実に感謝している。
便利過ぎる鎧をありがとう。
ちなみにクレイト軍との対陣中、ドゥバーンが俺の天幕に忍び込む事はない。むしろ、忍び込めないのだから、それは当然のこと。
なぜならオットーが、常に外で俺を警護しているからだ。
双剣を手に、椅子に座ったまま眠るオットーは、わずかな物音にも反応する。
三国志の好きな俺が、思わずオットーの事を典韋と呼びたくなった程だ。
だがそれは、縁起が悪いな。
何しろ典韋は曹操を守って死んでしまうのだ。俺が曹操かどうかはともかく、オットーを典韋になぞらえるのはやめておこう。
でも、武器を剣から戟に持ち替えてくれないかな? と期待してしまう。
戟そのものはシバール軍に無いけど、ハルバード的な武器を改造してオットーに持たせれば、きっと良い感じになるぞ。
それはともかく、褐色の髪に褐色の無精髭を生やした筋肉元男爵は限りなく強そうだし、何より実際に強くなっている。だからドゥバーンが仮に実力行使に出たとしても、その力量はオットーに遠く及ばないのだから、俺の天幕には決して入れないのだ。
俺が装備を整えて天幕を出ると、直立不動のオットーが騎士の礼を取る。
その時だけは、左手の剣を鞘に仕舞い、右手の剣を胸元に掲げるオットー。まさに忠義の塊だ。
「……シャムシール。どうせドゥバーンは貴方の妻になるのだろう? ならば、あえて追い返す意味がわからんのだが」
礼を崩すと、夜露に濡れてしんなりとした髪を掻きあげたオットー。珍しく、俺にプライベートな進言をしてきた。
なにやら様子がおかしいぞ?
オットーの足元には、碗と匙がおいてある。
これは恐らく、ドゥバーンの懐柔作戦。
深夜、腹をすかせたオットーに食事を差し入れて、自らの味方に引き込もうというドゥバーンの浅はかな作戦だろう。
ふむ、そんなもの、俺はまるっとお見通しだぞ。
まあ、昨日もアエリノールとドゥバーンは一悶着あったし、彼女が焦る気持もわからなくない。
ここまで来ると、悪いのは俺だという気もしてくる。
――となれば、オットーのいう事も尤もなのだ。
ネフェルカーラとドゥバーンを妻にするという話から、俺は逃れられない気がする。逃げても、今度はアエリノールに追い詰められるだろう。
それに逃げた所で、別に結婚したい人がいる訳でもない。
いや、シャジャル。彼女となら良い家庭が……とも思うが、皆を失ってまでシャジャルを選べるか? と考えると、どうも違う。
でもまてよ。後宮というからには、何人奥さんが居ても良いのでは?
だとすれば、シャジャルも……ふ、ふはは。俺にも運が向いてきたのか?
いや、ダメだ。シャジャルは別に俺の妻になる事を望んでいるわけじゃない。「強引に」っていうのは良くない。
ともかく、俺はオットーに返事をした。
「差し出がましいぞ、オットー」
「はっ」
既に俺は冑を被っている。
とすれば、ネフェルカーラが聞いている可能性もある。ならば迂闊な事は言えないのだ。
だから、俺は冑を指差してオットーに納得してもらう。
なのでオットーは、慇懃な返事とは裏腹に、苦笑を浮かべた。
俺の場合、天幕を出ればすぐに本営だ。
そして、数歩歩けば俺の椅子が用意されている。
まだ朝靄が晴れる前の時刻。東の空が白み始め、セムナーンの城壁の影が此方に向かって伸びつつあった。
「おはようございまする」
既にドゥバーン、ジャービル、ダスターンをはじめ、セシリア、シャジャル、アエリノールも揃っている。皆で俺の起床を待っていた様だ。ちょっと早起きした感があっただけに、恥ずかしい。
なんだよ、俺が一番のお寝坊さんかよ!
でもまあ、今日は、セムナーンに総攻撃をかけるのだから当然か。皆、気合十分って顔してるしな。
俺は、対クレイト戦線に関して、今日、決着を付ける旨を宣言していた。
昨日、本営に諸将を集めた会議の席で、俺はこう言ったのだ。
「皆、ここまでご苦労だった。皆の苦労は、いよいよ報われるだろう。明日、我等はクレイトに勝利し、セムナーンを奪還する。
――だが、気を緩めるな。
我等はセムナーンを奪還した後、ナセルを討ち、フローレンス帝国を撃滅しなければならない! そして我等は、比類なき戦果と名誉を得るのだ!」
その時の諸将の目の輝きといったら、異常な程だった。
ちょっと皆のやる気を引き出そうとして、大言を吐きすぎたかもしれない俺。
その時振り上げた拳に、ちょっとだけ後悔が宿っていたと思う。
「黒甲将軍の御為ならば、如何なるご命令も遂行する所存にござる!」
その時、いきなり椅子から下りて跪いたドゥバーンが叫ぶと、次々に皆、椅子を飛び降りて跪いていた。
「シャムシール閣下の御為に!」
「我等、黒甲将軍の御命令とあらば、地獄といえども征服してご覧に入れる!」
ダスターンの部下達まで揃って跪いているんだから、俺はもう、逆にどうして良いかわからなくなちゃったからね。
ただその時だけは、空気を読まないアエリノールのお陰で助かった。
いきなり俺に抱きついて、
「わたし、シャムシールの為にがんばるね! それで良い奥さんになるの! うふふっ!」
と言ったお陰で、ドゥバーンとの口喧嘩が始まったのだ。
「ア、ア、アエリノールどの! つ、妻になるのは良いとして、い、いや、決して認めたくはないが……お主、第四夫人以下の序列で納得するのでござろうな?」
声を上擦らせながら、必死にオッドアイでアエリノールを睨むドゥバーン。
「なにそれ? やだよ! わたしは第二夫人が良い!」
頬を膨らませながら、アエリノールが応戦する。
「そ、それでは拙者より序列が上になるではござらんか!」
「いいじゃない! わたしの方がシャムシールの奴隷になって長いし!」
アエリノール。奴隷落ちしたのはオマエとセシリア、そしてシャジャルだ。ドゥバーンは志願奴隷騎士だったから、決して奴隷身分だったわけじゃないぞ。
と言いたかったが、彼女達の言い争いに、俺の入る余地は無かった。
「なっ! せ、せ、拙者など、心はいつもシャムシールさまの奴隷にござる!」
ドゥバーンが、ついに曲刀の柄に手をかけた。
むろん、流石にそれを見過ごすアエリノールではない。一瞬だが、その目が細くなり、射抜くような眼光を湛える。
「ははは、黒甲王の後宮は、人材が豊富でよろしいですな。金髪の美女に、黒髪の美少女。どちらも人が羨むこと間違いなし。
お妃さま方、夫君の前で、見苦しいとは思われぬか?」
ここに至り、ついにダスターンが助け舟を出してくれた。
「そ、そうでござるな。き、妃同士で争うなど……ま、ましてや、お、お、夫の前でござれば、良くないでござるなっ!」
「そうだね。妃同士、仲良くしなきゃ。ごめんね、ドゥバーン」
そして、争う二人は嬉しそうに、”しゅん”とした。
おかしいだろう。
そんな感じで、最終的に本営は諸将の笑い声に包まれ、昨日の会議は和やかに終了したのだった。
ん? あれ?
ダスターン、俺のことを王っていった?
まあ、いいか。
◆◆
一つ咳払いをすると、俺は再び諸将を見回した。
足元まで下りていた深い朝靄が、ゆっくりとだが晴れつつある。
沈黙の中、皆が俺の言葉を待っているのが、ひしひしと伝わった。
「三万を預ける、右翼を率いてくれ、アエリノール」
「了解!」
いつの間にかずいぶんと席次が上がったアエリノールを見て、俺は言った。
もはや俺から見て、最も手前の席に座っているアエリノール。なんでだ?
ドゥバーンの席次も随分と上になっている。
ぶっちゃけると、左右の最前列に彼女達がいるのだ。
これが妃効果というものだろうか?
まあ、それはそれで、今回ばかりは丁度良い。
どうせアエリノールには、千人長という枠を超えて、万人将さえ率いてもらおうと思っていたのだ。アエリノールの席次が上という事は、諸将が彼女を認めたという事に他ならないだろうし。
それにしても、しれっと答えるアエリノールの態度は、実に凛としていた。
先日の負傷で自身の鎧も失ったアエリノールは、有り合せの鉄鎧を改造した胸当てを着けている。だが、その下に着ている緑色の衣とのコントラストが絶妙で、不思議な威圧感があった。
将軍と呼ばれても、既に違和感の無いアエリノール。
元々、聖光緑玉騎士団の団長だったんだから、それもそうか。
「セシリアは、アエリノールの補佐を頼む」
「承知! さすがシャムシール! そうこなくちゃ!」
セシリアは、左拳と右手の手の平を合わせて、”ぱん”と乾いた音を鳴らしていた。
実際のところ、三万の軍を率いるのはセシリアになる。
右翼を率いると言っても、アエリノールはガイヤールに乗って一人軍隊化するので、副将の方が重要なのだ。
そして金髪と赤毛の二人は、本営から早足に立ち去る。
「ダスターン、六万を預ける。左翼を頼む。マフディはダスターンの補佐を」
「はっ」
ダスターンは椅子から立ち上がると、一度俺の下まで歩き、跪いてから踵をかえした。
マフディもそれに倣い、俺に頭を下げると踵を返し、ダスターンの後に続く。
「一万を予備として陣に残す。輜重隊の防御だ! そして残りの三万を中軍とし、俺自らが率いる! いくぞ!」
俺も椅子から立ち上がり、言った。
そして颯爽とアーノルドの下へ向かう俺。
すると、残っていた諸将が一斉に立ち上がり、俺の後につき従う。
外套をジャムカにあげちゃったから、かっこよくマントが翻らなかったのがとても残念だ。
「ドゥバーン。地上を頼んだぞ」
「はっ。この妻にお任せ下され!」
まだ妻じゃないだろ、ドゥバーン。
昨日ダスターンに「妃さま」と呼ばれたので、妙に嬉しそうな彼女。
真剣な眼差しと、僅かに緩んだ口元は、確かに美少女以外の何者でもない。
それなのに、何故か少しだけウザイのがドゥバーン。
まあ、軍を率いれば彼女の強さは他を冠絶するのだから、この程度のことは我慢するとしよう。
「あ、兄者! あ、あたしは何をすれば?」
「いつも通り部隊を率いつつ、攻撃魔法を頼む」
「は、はいっ! 久しぶりに兄者と戦えて、とても嬉しいですっ!」
歩く俺の横に並んだシャジャルは、青い冑の面頬を上げて笑顔だ。
朝日に照らされるシャジャルの笑顔は、弾ける程に眩い。もはや太陽より眩しいくらいだ。
なのにシャジャルの口からは、「俺の妻になりたい」という言葉は出てこない。俺はあくまでも彼女の兄止まりの男なのだろうか。
嬉しそうなシャジャルを見て、少し切ない。
「ジャービルは闇隊を率い、敵の混乱を図れ。但し、出来るだけ殺すな」
「承知。無用な殺戮は、それ程せぬ所存にて……くくはは」
ジャービルの声は陰惨だ。
多分、何人かは無用に殺すんだろうな。
この性格だけ直れば、ジャービルも良い奴なんだけど。
「オットー。今日はドゥバーンの護衛を頼む」
「承知した。しかしシャムシールは?」
「俺は、ジャムカを捕らえる」
「ふむ。そうか。だが、ジャムカが必ずシャムシールの前に現われるとは限らぬではないか?」
オットーは、俺の命令に難色を示さなかった。
もう、俺が戦場で何者かに後れを取るとは思っていない様だ。
そして、ドゥバーンの弱点も知っていればこそ、素直に頷くのだろう。
だが、ジャムカを捕らえる、という俺の発言には疑問を持ったようだ。
「現われるんだよ、必ず」
俺は肩越しに、オットーに言った。
面頬を下ろし、皆と別れてアーノルドに乗る。
この戦力差で、もしもジャムカが勝負を捨てるつもりが無いのなら、彼女が勝利する方法は唯一つだけ。
――戦場で俺を倒すこと、だ。
総司令官が居なくなれば、戦線は崩壊するのだから。
それに、ジャムカはダスターンを与し易しと考えている。少なくとも、俺が居なくなれば敵ではないと思っているだろう。
反対に、アエリノールとは絶対に戦いたくないはずだ。
だからこそ、ジャムカは俺に一騎打ちを挑んでくる。
だが同時に、これは俺の賭けでもあった。
ジャムカを捕らえれば、此方の勝ちでもあるのだ。
もちろん、敵を全滅させるという選択肢もある。だが、今回それは、選びたくない。
「なあ、アーノルド。俺はジャムカに勝てるかな?」
「主殿が勝利し得ぬ敵など、おりませぬ!」
俺の不安を打ち消すような、アーノルドの力強い返事。
空に上がった俺達は、左に旋回すると自軍の陣容を確認する。
俺は自分に言い聞かせた。
――勝利条件は、セムナーンの奪還とジャムカの生存だ。
しかし、アエリノールが難なくやってのけたジャムカの捕縛は、果たして俺にも可能なのだろうか?
俺とジャムカの実力は、互角の様な気がするんだが。
ま、何とかなるだろう、多分。
設定集に、シバール周辺の地図を加えました。




