雨音の中で
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ドゥバーンとカイユームは早馬を飛ばして、ようやくサーベの門を潜った。
おりからの雨によって外套がずぶ濡れになっていたが、そんな事を構う気にもなれない程、ドゥバーンの内心は焦っていた。
本来は、カザンがサーベに到着する前に話をつけるつもりであったのだ。
そうであれば、黒甲将軍の異名と武威も、サーベを無血で奪還する交渉材料になりえた。しかし、カザンがサーベに入った後ともなれば、住民全てを人質に取られたも同然である。
ドゥバーンは、深く被った外套のフードを捲ると、馬を下りて、サーベに唯一ある宮殿に入った。
一方、カイユームの方は溜息混じりに外套の雨を払い、眼鏡の位置を気にしつつ宮殿に入る。
宮殿は、空中都市と名高いサーベにあって、さらに最も標高の高い位置に作られていた。故に、二人は低い雲の中にいて、さながら深い霧中を歩いている様な感覚だった。
それにしても、正直、カイユームにしてみれば、護衛も伴わずに、たった二騎で敵の拠点に入ってしまうドゥバーンの神経が信じられない。
自分は最悪の場合でも死なないが、ドゥバーンは死ぬのだ。
(死ぬのが怖くないのか? コイツ)
と、他人ごとながら思うカイユームである。しかし、この状況でドゥバーンに死なれると、確実に自分が罪に問われる事を思えば、天気と同様、どんよりと憂鬱な気分になる未来の大魔導師だった。
元々、シャムシールには、護衛を二十騎程用意して貰っていた。
しかし、カザンが軍勢を部下に預けて、自身は早馬でサーベに退いた、と聞いたドゥバーンが、あろうことか、敵将に余計な提案をしたのである。
「我等、カザン殿に目通り願いたいだけでござる! ここは、通行の許可を頂きたい。我等、サーベにおいて、要らぬ戦闘を避ける為の交渉をしたいだけにござる!」
この様にドゥバーンに言われたクレイト軍の武将は、唸っていた。この男も、「要らぬ戦闘」については理解している。だが、自らに交渉する権限がないのだ。さりとて無条件で使者を通しても、叱責は免れない所であろう。故に悩んでいた。
だから、ドゥバーンは敵将の心理を読み、譲れる部分は全て譲って、害意が無い事を主張したのだ。
「無論、カザン殿を害するつもりなど、毛頭ござらん。何であれば拙者と、これなるカイユームの二人を通していただければ、それで十分にござる」
カイユームとしては、カザンがこの場にいない以上、帰りたかった。ついでに言えば、敵将がこの場を通さないと言うなら、全力で諦めても良い。
ただでさえ敵中で心細いのに、これ以上進んでしまえば、もう、どうして良いか、分からなくなりそうだった。
しかし結局の所、敵中で交渉すること二日、見事ドゥバーンは敵将を説得して、街道の通行権を得たのである。しかも、その件に関して、不本意ながらカイユームはかなりの貢献をさせられた。
もちろん護衛の二十騎は、最初にドゥバーンが提案した通り、シャムシールの下へ帰す事になった。カイユームとしては酷く残念で、心細い限りの結果である。
もちろん、交渉中も敵軍はサーベに向って後退していた。だから、一歩も進んでいない、という訳ではない。ただ、悠然と進むシャムシール軍を警戒しつつの後退だったので、牛歩の如く、という有様だっただけだ。
それ故、敵将との交渉が済んだドゥバーンとカイユームは、それから一日足らずでサーベまで辿り着く事が出来たのである。
カイユームがドゥバーンを助け、カザンの下へ向かわなければならなかった理由は、実は更なる恐怖心があったからだ。
敵将とドゥバーンの交渉を、ぼんやりと見ていた彼の下に、突如、シュラとザーラが現われたのである。
彼女達は「幻影」を使い、悠然と敵中を闊歩していた。
クレイト軍に見えない事を良い事に、カイユームに手を振って笑顔をみせるのだから、たまったものではない。
毎時、ジャービルには念話にて定時連絡を入れているカイユームであったが、あの疑い深いジャービルのこと、自分に不手際があった場合、彼女達の任務は知れていた。
恐らく、ジャービルはこのように命じたのであろう。
「カイユームがいながら、未だ敵の軍中で足止めされているとは、如何なることか? ヤツが速やかに任務を達成出来ぬようならば、消せ。シャムシールさまのお為にならぬ!」
ジャービルにとって、シャムシールの為とは全てに優先する。故に、主の為にならぬとあらば、その命令は、まさに苛烈極まるものとなる。そして、最近ではどうやらザーラもシュラも、シャムシールに心酔しているのだから、彼女達もジャービルの命令を心底から是としていた。
となれば、未だ組織の色に染まらないカイユームである。思うことは一つだった。
(消されてたまるか!)
カイユームは冷や汗を隠しながら、敵将にこっそりと魅了をかけた。
保身の為にも、任務の達成に励むしかない。
励まなければ消されて、素体ごとシャムシールに献上されてしまう。そのシャムシールは、あのネフェルカーラを妻にするというのだから、いったいどれ程の大悪魔なのかと、カイユームは、まったく気が気ではなかった。
「まったく。この私に、死んで幼女の素体に入れなどというあの男こそ、実は魔王なのではないか? ああ、怖い怖い」
カイユームは、何時ぞや言ったシャムシールの冗談を、とても真摯に受け止めていたのである。
カイユームは、サーベの誇る空中宮殿に足を踏み入れると、油断なく魔法探知を発動させた。
長い回廊には、様々な壁画が描かれている。どうやらその一部に、罠が仕掛けられている様だった。それらを、クレイトの呪術師に気付かれぬ様、丁寧に解除すると、宮殿の上空に向けて魔力を放つ。
カイユームの放った魔力は、厚く垂れ込めた黒雲の中で、淡い光を放つ魔法陣を形成した。
ドゥバーンの身に何かがあったとしても、あのシャムシールは自分を許さないだろう。
カイユームの恐怖感は今、敵中にあることよりも、シャムシールとジャービルに対して敏感である。そして、心中にある恐怖感が告げていた。今回の任務達成は必須である、と。
それ故カイユームは全身全霊を掛けて、この宮殿中枢を破壊せしめるだけの殲滅魔法を、準備したのである。
◆◆
クレイトの西方遠征軍総司令官であるカザンは、その遠征の過程において、自身の国をも建てていた。
彼がシバールに到達する前のことである。既に三カ国程滅ぼし、二カ国を皇帝に献上して、一カ国を拝領していたのだ。
故にカザンは、直属の部下に陛下と呼ばれる。そして、彼等の前では、自らを王と名乗っていた。
「陛下、シャムシール将軍よりの使者が参っております。いかが致しますか?」
カザンは仮の執務室とした部屋で地図を広げ、シャムシールを迎撃すべき地点を探していた。
セムナーンまで退く事は、決して出来ない。クレイト軍に篭城戦は無理だ。兵を、その様に育てていない。となれば野戦で勝つしかないが、竜を失った今、敵の魔法が脅威である。
サーベに帰還した理由は、急ぎ都市を破壊し、敗戦の憂さを兵達に晴らさせる為だが、実の所、カザンはそれが不快であった。だから帰還すると、すぐに部屋に篭り、雨天を理由に破壊を先延ばしにしていた。
「どのような用件なのだ?」
降伏勧告であろうか? と、カザンは思い、入り口に立つ部下を、細い目で睨み付けた。
そうであれば、即座に斬ってしまえば良い。しかし、そう断定するには早かった。
降伏勧告であれば、そもそも、撤退中の部下が通す訳が無い。とすれば、部下達では判断出来ぬ事、という事か。
「はっ。ジャムカ将軍を返還したい、と。ただ、詳しくは、カザン王にお会いしてからお話する、との一点張りでして」
口ごもる部下の様子を見て、カザンは口元を歪めた。条件があるという事だろう。それも、何かは大体予測がつく。
「ふむ。ここへ通せ」
だからカザンは広間ではなく、この場に使者を通す事にした。
腹の探り合いをする気は無いが、あまり部下には聞かせない方が良い事もある。こうなれば、急ぎサーベに戻った事を喜ぶべきであろう。交渉材料は、高値であるほど良いのだから。
声もなく笑うカザンは、円座に座り、使者を迎える準備をした。
「お初にお目にかかります。拙者、シャムシール将軍の使者、ドゥバーンにござる」
差し出された円座に座り、手を付き頭を下げるドゥバーンは、外套を脱いでも未だ濡れている。窓からも、”ざあ”という雨音が聞こえ、雨脚の強さを窺わせた。
「雨の中、遠路はるばるご苦労。して、何用か?」
「はっ。このサーベを、我等の手にお返し願いたい。されば、こちらにはジャムカ姫をお返しする用意がござる」
「ふむ。俺としては、ジャムカを返してもらい、サーベは返さぬ、というところが一番なのだが、な」
手を二度鳴らし、茶を運ばせたカザンは、もう一人、カイユームを見て怪訝そうな表情を浮かべた。ドゥバーンに比べて、濡れていないのだ。いずれ魔法の類で乾かしたのであろうが、こちらの呪術師がそれを探知出来なかった、という点が気になる。宮殿内の魔法は、全て監視させているはずだった。
「私は副使のカイユームにございます。カザン殿にはお察しのことと存じますが、現在、この宮殿は、私の管制下にあり、あらゆる魔法、呪術は、これを通しません。無論、私の力以外は、ですが」
カザンの視線に気付いたカイユームが、ドゥバーンと事前に話し合っていた通りの自己紹介をする。
「ふむ。おかしいとは思ったが、それは脅しか?」
「滅相もございません」
カイユームは頭を下げると、勤めて慇懃な声で言った。
当然ながら、カイユームは恐怖感で胸が張り裂けそうである。結局の所、クレイト本国に放ってある闇隊からは有力な情報が入らなかった。となれば、ドゥバーンが言った言葉は、
「カザンがサーベの住民を人質に取るならば、我等には宮殿の人々が人質にござるよ。カイユーム、空中宮殿の魔法防御を無力化し、殲滅魔法の狙いを定めておくでござる!」
だった。
当初、なんと無茶な事をいう女だ! と思ったが、よくよく考えて見れば、兵力の大半を残してサーベに帰還したカザンである。
実際の所、この可能性も読んでいたからこそドゥバーンはカイユームを伴ったのだが、そうとは聞かされていないカイユームにしてみれば、寝耳に水も良い所であった。
だが、「敵の呪術師すべてをねじ伏せろ」、という話ではないのだし、確かにカイユームには、やってやれない事もない。
何よりカイユームは、背後に迫るシャムシールとジャービルが怖かった。だから、ドゥバーンの命令を聞き、任務の達成に全力を注ぐしかなかったのである。
「ふむ。中々に手際の良い事だな」
「我等も命が惜しいゆえ、相応の対策は立てた、ということにござる」
腕を組み、口元を歪めたカザンは、余裕を見せている。対するドゥバーンも、一口だけ茶を啜ると、柔らかい声で応じていた。
「ふむ。だが、街一つとはねっかえり一人では、いささか釣り合いが取れぬなぁ。もし俺が断れば、どうするのだ?」
「サーベを力尽くで奪い、ジャムカ姫を殺し、カザン王……貴方の首を、必ずヘラートの城門に晒してご覧に入れまする」
黒い瞳と青い瞳を持つ少女は、凄惨な笑みを浮かべてカザンを見据えた。その顔に真実を見たカザンは、唇の片端を軽く持ち上げると、左手を僅かに上げた。
すると窓から一本の矢が飛来して、ドゥバーンの黒髪を掠め、背後の石壁に鏃が当たり火花を散らした。
「俺の方も、貴様等如きは、いかようにも殺せるのだが、な」
カザンの言葉に、ドゥバーンは答えない。ただ、ちらと左に座るカイユームを視界に入れて、彼の顔色が青くなっている事を確認した。
(これで良い。我が事成れり)
ドゥバーンは、内心で安堵した。
もちろん、代わりに焦ったのはカイユームである。痛いのは嫌だし、死ぬなどもっての他だ。
「はぁ、よろしいか。この様な事は言いたくありませんが、私は、仮に死んでも別の身体で甦るだけです。しかし、あなた方はそうではない。命は、大切なものです。
……それにこの話は、互いに利があるのですから」
小さく溜息をついたカイユームだったが、このままではドゥバーンの命が危ないと思った。
この場の自分も、死ぬかもしれない。いや、最悪、それは構わない。しかし、ドゥバーンが万が一にも死ねば、自分の存在が危うくなるのだ。何しろドゥバーンはジャービルの妹だし、シャムシールともただならぬ関係の様だ。
ならば、むざむざドゥバーンを死なせて自分だけ復活しようものなら、あの悪鬼共に一体何をされるやら知れたものではない。だからこそ、カイユームは必死でカザンの説得を試みた。
「利、か?」
幸い、カザンの視線はカイユームに向けられた。
カザンの細く鋭い視線に目を反らしたくなるカイユームだったが、ぐっと堪えて説明を続ける。
「はい、カザン王。ここで貴方が退いて、失うものは何でしょう? そもそも必要の無いサーベだけです。対して、ジャムカ姫を連れ戻せば、ベルゲ陛下に恩を売ることが出来ます。さらに、軍中に有能な将軍を復帰させる事も出来る。
そもそも、サーベに食料が無い事も調べがついています。となれば、住民を生かしてサーベを開放すれば、我が軍は食料さえ放出せざるを得ない。何しろ、我等は救援軍ですからな。これは、我等にとって打撃でさえありますよ?」
「ふん、わかっておるわ。しかしお主、明け透けに自軍に不利になるような事まで喋って良いのか?」
「構いません。私の任務は、サーベを無血で手に入れること。それ以上ではありませんから」
「ふはは、良かろう。俺も、無用の血を流すことを好む訳ではない。ただ、殺さんと部下共が騒ぐのでな。まあ、ジャムカと交換であれば、黙らせる事も出来よう」
知らず、ドゥバーンは薄刃の様な笑みを浮かべていた。
彼女はカイユームとカザンの心理を、掌に乗せ操ったのだ。
別に、彼女がカザンを説得する必要は無かった。どの様な形であれ、カザンが了承すれば良い。その為に彼女はカザンを脅し、カイユームを怯えさせる必要があったのだ。
一歩間違えば命を失いかねない中で、ドゥバーンは彼等にそれと悟らせる事無く、空間を支配し続けたのである。
オッドアイの少女は、シャムシールという主の為ならば、あらゆる者を利用する。それがたとえ味方であっても、冷徹な判断に基づき、緻密な計算を重ねて、策の中に組み込むのだ。何より、自分の命さえ一個の道具と見做すのに、何の躊躇いも覚えないのであった。
◆◆◆
交渉によりシャムシールがサーベ開放を成し遂げた頃、遠くオロンテスで、ついにナセルが動いた。
この頃ナセルは、内には暴動を鎮圧し、外には魔族を打ち倒し、政略をもって領土を広げている。故に”砂漠の鷹”という異名を得て、僅かの間に、シバール最大最強の君主と目されていた。
そのナセルがオロンテス王城の広間に武将達を集め、ついに宣言を下した。
黄金の椅子から立ち上がり、純白のマントを肩に掛けたナセルは、右手を大きく払った。
「今こそ君側の奸、ウルージを討つ! フェリドゥーン陛下を援けまいらせよ!」
「おお! 援けまいらせよ!」
言葉を唱和する武将達を尻目に、階を下りると、ナセルは真紅の絨毯を大またに歩く。
すでに出陣の準備は整っていた。
彼に真っ先に従う武将は、シーリーン。次いで巨漢のザール、それからテヘラ王メフルダートが続く。
この日、オロンテスを発した兵は十五万。
ナセルは、全軍を動かした訳ではない。オロンテスに五万、リヤドに五万とテヘラに五万の兵を残している。
無論、これでヘラートを包囲するのは至難の業だ。しかし、これこそがシェヘラザードの策を潰す作戦なのだった。




