ヤズド会戦 1
◆
ダスターンは、眼前に迫るクレイト軍を見つめ、ごくりと唾を飲み下した。
シャムシールの言う作戦では、夕刻までのらりくらりと戦ってくれれば良い、との事だった。
しかし、ダスターンの経験上、のらりくらりと戦えるほど、クレイト軍は甘くない。そう思えば、前方にクレイト騎兵の巻き上げる土煙を見て、背筋に氷を押し付けられた様な気分になるダスターンだった。
「敵が前進しています。こちらも、前進するでござる。それから、魔法兵達には、なるべく派手な殲滅魔法の展開を命じて下され」
黒髪を後頭部で束ねた少女が、ダスターンに進言した。
普段は妙にシャムシールに擦り寄って、荒い息遣いが若干気持ち悪い少女だが、今の眼光は鋭い。
少女の黒と青の瞳がそれぞれ別の目的をもっているかの様に輝いて、ダスターンは尻込みする。
実際、ダスターンがシャムシールに言われた事は、こと戦闘指揮に関しては、全てドゥバーンに任せるように、との事だった。
ダスターンには理解し難い事だったが、根拠はあるらしい。シャムシールが言うには、先のマディーナ会戦における勝利は、ドゥバーンの頭脳無しには有り得なかったそうだ。
それにしても、とダスターンは思う。
(可愛いではないか……)
シェヘラザードのたおやかな美こそ至上と思うダスターンだったが、今、横に並ぶドゥバーンの凛とした顔に、つい見惚れてしまった。
妙な息遣いさえしていなければ、簡素な革鎧に身を包んだドゥバーンの姿は、しなやかな美しさを持った闘神の様に見えなくも無い。
「ドゥバーン、もう少し衣服に気をつ――」
ダスターンは、衣服や装飾品に気を使わぬシャムシールの千人長に、戦場らしからぬ助言を与えようと思った。ヘラートでは並ぶ者無き美丈夫の助言である。きっと少女は喜ぶであろう。ダスターンがそう思ったとしても、それは過信ではない。
――なのに。
「拙者、シャムシールさま以外に見られたくないでござる。ダスターン将軍、呆けていないで、早く命令をするでござる」
ダスターンの言葉が終わる前に、ぴしゃりとドゥバーンは言い放った。
自分に見惚れる男がいることを、彼女は知っていた。何より、着飾った自分が美しい事も知っている。しかし、シャムシールに対しては、自分が着飾る意味が無い事もまた、ドゥバーンは本能で知っているのだ。
それに、ドゥバーンにとってはシャムシールが「神」過ぎるので、他の男が「塵」に見えているだけの事。
ダスターンごときに、一体何が分かる? と言いたげなドゥバーンだった。
――確かに、天才と馬鹿は紙一重という――
ならばと、ダスターンは已む無く、この若干痛い少女に、今回の戦いの勝利を賭けてみる事にした。
「全軍、長槍隊を前面に立て、騎馬の突進を阻みつつ前進。後方より、殲滅魔法にて敵を迎撃する!」
ダスターンは、馬上で号令をかけた。
マフディは頷き、右手を振り上げ、大きく前に倒す。そして、およそ十三万の軍が前進した。
騎兵は、両翼に展開させてある。
ドゥバーンは、敵が包囲しようとしてくるであろう事を読んでいた。故に、もっとも機動力の高い部隊を左右に配置して、敵が広がりを見せたならば、これを撃退するつもりだった。
その際、左翼をシャジャル、右翼をダスターンに任せる手筈である。
だから、全軍の前進が開始された今、ダスターンはマフディを伴って、右翼へと駆けた。
「では、ドゥバーン! あとは頼む!」
「承知したでござる!
伝令! シャジャルへ連絡! 魔法兵団の攻撃とは別に、前方に大きな水溜りを作るよう、伝えよ!」
ドゥバーンは騎兵同士のぶつかり合いに関して、全体的にシバール軍が不利だと考えている。だから、正面から来る騎兵に関しては、泥濘を作って、その足を鈍らせてやろうと考えたのだ。
無論、他の魔法兵が大規模殲滅魔法を使うのは、その思惑を悟らせない為である。
シバールの陣から、巨大な火球が幾つもクレイト軍へと飛んでゆく。
しかし、それらが敵騎兵に到達する事はなかった。
クレイトの魔法兵団は、防御に特化している。所謂、東方における呪術と呼ばれるものだろう。攻撃よりも、あらゆる防御を得意とする魔法体系であった。
突如、晴れ渡った空に、厚く垂れ込めた雲が現われた。
戦場を押しつぶさんばかりに低く下りた黒雲は、局地的な大雨をクレイト軍に齎した。
それは、紛れもなくシャジャルの魔法だった。だが、シャジャルが行った事はそれだけではない。
そこに雷撃を加えたのだ。
魔法で天候を変化させ、雷撃を走らせる。
無論、クレイト軍は魔法防御のお陰で、雷撃を直接受ける者は居なかった。
しかし雨を薄い膜に変えて、シャジャルは敵軍の一部を覆った。そして、そこに雷を落としたのである。
これは、流石にクレイトの誇る呪術師団といえども、防ぐ手立てがなかった。
「ふう。水を伝う雷……上手くいった!」
シャジャルは前方で上がる悲鳴を聞いて、ほっと安堵の息をついた。
これは”雨”を練り上げ、アエリノールに聞いた”水妖精”を十体召喚してから”雷撃”を連発したものだ。
それぞれ単体の魔法では、各撃魔法であったり補助魔法に過ぎないが、なんとシャジャルはそれらを組み合わせて、殲滅魔法に変えてしまったのである。
しかも、魔法兵団が集団で作り上げた殲滅魔法、”大火球”よりも遥かに高い効果を齎していた。
「なっ! 上手くいった所ではありませんぞ、姫っ! 五百から千の敵は、今の一撃で倒れたでしょうっ!」
シャジャルの側に馬を寄せる若者は、やはりシャジャルと同じく青い瞳をしていた。
彼は現在シャジャル直属の百人長だが、数ヶ月前にシャジャルが千人長になった事を知り、矢も盾もたまらず彼女の配下に加わった、水が族の奴隷騎士である。
だから、彼はシャジャルの事を「姫」と呼ぶのだ。
そして彼は、水が族最強の誉れ高い、戦士でもあった。
その男が、十二歳と十一ヶ月のシャジャルに、ただ感嘆し、目を見開いている。
しかし、シャジャルの返事はそっけない。冑の内に覗く瞳は伏目がちで、自身の実力に不満気な様子だった。
「そうかな? ネフェルカーラやアエリノールなら、もっと多くの敵を倒すと思う。ドゥバーンは夜伽が出来るし……とにかく、あたしが兄者の役に立つためには、もっと強くならないと駄目。あと、夜伽もしっかり出来るようにならないと」
シャジャルの意志は、明確だった。
ただ、シャムシールの役に立ちたいのである。
もっとも、ネフェルカーラとアエリノールに関してはその通りかもしれないが、ドゥバーンに関してのみ、シャジャルは騙されていた。
「早く……大人になりたいな……」
「ひ、姫ぇぇ!」
ちなみに、夜伽の意味を知らないシャジャルの発言に、水が族の忠臣は卒倒しそうになっていた。
今、シャジャルは水が族に相応しく、濃青色の鎧を身に着けている。冑も同色で、所々に翠玉で装飾が施された、気品溢れる仕様だった。
この鎧はシャムシールがシャジャルを溺愛する余り、”へそくり”とやらを全てつぎ込んで、彼女に与えたものである。
シャムシールにしてみれば、相応の理由もあった。
シャジャルは未だ十二歳。ならば、無骨な奴隷騎士や守護騎士の中にあって、指揮を執る時に可愛い顔を出しているのはマズイのでは? と考えたのだ。
それ故、面頬を下ろすと、さも屈強そうな武将の姿になるシャジャルだった。
もっともシャムシールの、このシャジャルに対する溺愛ぶりが、ドゥバーンの虚言癖に火を付けたとも言える。
ある日、シャジャルがシャムシールにこの鎧を貰い受けると、嫉妬に狂ったドゥバーンが、
「よ、夜伽も出来ぬお子様の分際で、分不相応な鎧を頂くなど、言語道断でござ、ござるぅ! そういう物は、せ、拙者の様に、夜伽も出来て、仕事も出来る者にこそ相応しいのでござるぅ~!」
と、言ったのだ。
当然、シャムシールとドゥバーンは、そんな関係ではない。
そして、シャジャルは夜伽の意味を知らなかった。
結果としてシャジャルの中で、どこでどう間違ったものか、夜伽と軍略、或いは作戦立案がイコールで結ばれる事故が起こったのだ。
シャジャルは、全軍の歩みに合わせて、ゆっくりと馬を進ませる。
敵の前衛が、泥濘に足を取られている姿が見て取れる。シャジャルは、容赦なく第二撃目を見舞った。
呪文の詠唱が終わると、シャジャルは腰帯にさしてある曲刀を確認して、少数の本隊を率いる兄に思いを馳せた。
「……あたしがもっと強かったら、きっと兄者は一緒に連れて行ってくれただろうな。あたしの夜伽が上手だったら、全軍を任せてくれるんだろうな……」
シャジャルの声は、部下の誰にも届かない程に小さい。いや、むしろ届かなくて幸いだ。
そして、彼女は軽く下唇を噛んで、面頬を下ろした。
シャジャルは魔法使いとして、間違いなく天才だった。軍略家としても、稀有と言える程に炯眼だ。
しかし、自身をネフェルカーラやアエリノール、或いはドゥバーンと比べてしまうが故に、決して自らを高く評価する事が出来なかったのである。
一方、シャジャルに嘘の知識を植えつけた張本人はといえば――
前方で巻き起こった雷撃を、ドゥバーンは口元を綻ばせながら見ていた。
彼女にとってはクレイト軍の足元がぬかるんで、馬の足が遅くなれば、それで十分だった。
しかし、シャジャルの働きは、それだけではなく、遥かに高い効果を齎している。
敵は、浮き足立っていた。
クレイトの前衛は、軽騎兵である。
だからドゥバーンは自軍の前衛を、あえて長槍を持たせた重装歩兵にしていた。何故なら、敵は乱戦にならない限り、騎乗射撃を主に攻撃してくるはずだからだ。
巨大な盾を構えた重装歩兵に、矢は通らない。加えて、長槍が狙うのは馬である。故に、敵がこれを崩す事は難しい。時間が稼げるはずである。
――だが。
敵の足が止まり、浮き足立っているのなら、時間稼ぎだけではなく、攻撃も可能になる。
ドゥバーンは、シャムシールの寵愛を独占するシャジャルの青い瞳を思い浮かべ、一つ頭を振る。
(悔しいが、シャジャルの実力は本物だ。愛される資格はある――でござるが、やはり拙者の方が――えっぐ、えっぐ)
ドゥバーンは戦場全体を俯瞰し、怜悧に考えを巡らせつつも、脳の何処かに腐った部分を残している、あくまでも変態女だった。
「弓隊、斉射二連!」
意味の分からない悲しみを瞳に湛えて、ドゥバーンは、馬上から命令を下した。
これは、ドゥバーンが考案した戦法で、弓隊を、射る隊と矢を番える隊に分け、二列に並べる。
そうする事で、絶え間なく敵の頭上に矢が降り注ぐ事になるのだ。
シャジャルの雷撃で混乱し、泥濘に足を取られるクレイト騎兵は、ドゥバーン考案の弓隊にとって、絶好の的だった。
クレイト軍からは絶望の悲鳴が上がり、一時、無残なまでに指揮系統が乱れた。
シバールで言えば、万人将級の者が、シャジャルの雷撃によって倒れていたからだ。だから、結果として混乱が長く続いていた。
ジャムカでさえ、ドゥバーンの弓隊によって愛馬を失った。そして無様にも、身体を泥の中に埋めて、矢を凌いだ。
「くそっ! 退け! 一端退けっ!」
ジャムカは、泥の中から身体を起こし、主を失った馬に飛び乗ると、声を嗄らして叫んでいた。
ジャムカは、自身の不甲斐なさに舌打ちする。
(敵は、ダスターンよりも手ごわい)
ダスターンが相手だと考えて、迂闊に突撃を仕掛けた事を、ジャムカは後悔していた。
「だから、同じ過ちは繰り返すまい」
負けた事は仕方がない、とジャムカは考えつつ一目散に後退する。
彼の部下も、やはりそれに従う。
ここで死ぬ部下は、その程度なのだとジャムカは考えていた。
だからと言って、自分の指揮が拙かったとも思い、反省するジャムカである。
ジャムカは、戦うことなく敗れた先陣を纏め、カザンの前に平伏した。
「申し訳ありませぬ、叔父上。悪戯に兵を損ねたこと、申し開きも出来ませぬ」
「構わん。連戦連勝という訳にはいくまいよ。一度の失敗は一度の成功によって償え」
カザンの声は、ジャムカに重くのしかかる。
未だ二十歳に至らぬジャムカにとって、今年三十五歳の叔父、カザンは、何かにつけて勝てない相手であった。
カザンはクレイト皇帝ベルゲ・ハンの異母弟であり、ジャムカの叔父、そして類稀な戦上手である。事実、クレイトの西方遠征は、カザンなくしてこれ程の戦果はありえなかった。
単に戦のことだけを考えればカザンは、皇帝よりも優れた指揮官だろう。何より、戦士としても、ジャムカは未だ、カザンに及ばなかった。
そうでなければジャムカはとっくに彼に挑み、地位を奪い、クレイト西方遠征軍の主将になっているだろう。
無論、それはジャムカの血統が、カザンと比べて遜色のない事を意味している。しかし、クレイトにおいて血統の重要性は、あくまで第二位だ。常に実力のある者が、より高い地位に就く。至極、簡単な社会なのだから。
◆◆
ドゥバーンは、上空を見上げ、鳶が旋回している姿を見て苦笑した。
「死体を漁るのは、もう少し待つでござるよ」
太陽の位置は、大分低くなっている。
シャムシールの本隊が現われるまで、もう少しといった所だろう。
しかし、敵は呪術師団を動員して泥濘を乾かし、固めてしまった。
そもそも、晴天を雨に変える方が難しいのだ。晴れている空を維持するだけなど、思えば簡単だろう。
だから再びクレイト軍が攻めてきても、ドゥバーンは動じない。
ドゥバーンにとっては敵が攻めて来ようと、じっとしていようと、どちらも変わらない事である。
ドゥバーンは、再び弓隊に命じた。
「斉射せよっ!」
命令は確実に守られ、敵は倒れてゆく。
しかし、混乱も停滞もしていないクレイト騎兵は、実に早かった。
馬蹄の音を轟かせて、一気に重装歩兵に迫る。
「騎射は効かないでござるよ」
その時、ドゥバーンの目が細められ、口元が引き結ばれた。
一頭の真紅の竜が、騎馬に先駆けて前衛に迫ったのだ。
それは炎を撒き散らし、重装備の歩兵を焼いてゆく。
これでは、重装備であった事が災いとしかならない。兵達は、鎧を脱ぎ捨てる事もままならず、高温に焼かれてゆくのだ。
たまらず、ドゥバーンは魔法兵団に水の魔法を唱えさせた。
その時ドゥバーンの眼前で、信じられない事が起こった。
前衛の歩兵達が雷に打たれ、倒れたのだ。
雷を発したのは、空から飛来したもう一頭の竜だった。
薄い青色の身体は、風竜の一種だろうか? と、ドゥバーンは頭を悩ませる。
しかし、雷を扱う風竜など、聞いたことがなかった。
それよりも、竜が現われたとなれば、こちらも次の手が必要だ。
「弩弓隊、前へ! あれなる竜を狙え!」
赤竜を駆るジャムカは、特に表情を変えるでもなく、弩弓から放たれる巨大な矢をかわした。
そもそも、当たる訳がない、と思い、眉を寄せて不快感を顕にする。
水色の竜を駆るカザンは、かわしつつも、巨大な矢を剣で叩き折った。
カザンは、ドゥバーンの敷いた陣を見て、騎兵だけでは勝てないと判断したのだ。だから、竜を駆り、自ら陣頭に出た。
そして、指揮を執る黒髪の少女を見つけ、薄い眉を顰めた。
「的確だが……この程度、か?」
「敵の指揮官、でござるか。流石の拙者も雷には肝を冷やしたでござるが……ふふ、少し、遅かったでござるよ。さあ、シャムシールさま、ご存分に暴れて下され!」
カザンは、眼下にいる黒髪の少女が微笑んだ気がした。為に、猜疑が鎌首をもたげたカザンは、褐色の瞳で戦場を俯瞰し、油断なく観察する。
これ程的確に指揮をする者が、どうして二倍はあろうかという敵に、正面から挑むのか。思えば、おかしな話だった。
その時、クレイト軍の本陣から、悲鳴と火柱が同時に上がったのである。




