ダスターンの戦い
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ダスターンがヘラートを進発したのは、ティール月(七月)の二十日であった。
ダスターンは、シバールきっての武門の家に生まれた、今年で二十八歳になる勇将である。
彼は、膂力ではテュルク人に劣り、魔法では砂漠民に劣ると言われるシバール人の中にあって、その双方において両民族を凌ぐ力を有していた。
つまり、堂々たる体躯はテュルク人に劣らず、魔法を操っては、火と風を友とする男なのだ。加えて、風貌は涼やかだった。
黒い瞳に知性を湛え、日に焼けた褐色の頬を覆う黒髪は、陽光に照らされると紫の輝きを帯びる。そんなダスターンに熱い視線を送る貴婦人も、シバール首都へラートには、少なからずいるのであった。
「将軍、この戦に勝利すれば、いよいよご運が開けますな!」
ヘラートからサーベへの行軍中、総勢二十五万の軍勢を率いる総大将ダスターンに、意気揚々と話しかける男は、マフディという名の副将であった。
彼は、ダスターンに従い戦場を往来する事、およそ十年。ダスターンにとってマフディは、公においては忠実で有能な部下、私においては、竹馬の友である。
だが今、ダスターンは、マフディの発言に対して苦笑する事しか出来ない。
確かに、この戦に勝利すれば、武勲は比類なきものであろう。しかし、それはあくまでもシバールが存続していればこそ、である。
今のシバールは、クレイト侵攻を含め、内憂外患の状態であった。
その件に関しては、大将軍たるシェヘラザードや同僚のアフラと十分に協議し、対策を立ててからの出兵だ。
だから、本来は安心して彼等に後方を任せていればよい、とは思うのだが、一抹の不安が残るのだ。
やはり、ダスターンはナセルの動きが気になっていた。
先のマディーナ動乱の折、兄王アシュラフが反逆したとしてシャムシールに処断されると、オロンテスに届けられた兄の遺体を前に、涙に濡れたナセルである。
だが、シャムシールの処断に異を唱える事も無く、ファルナーズのマディーナ太守就任が正当である、との認識を内外に示し、兄の行動を糾弾する姿勢さえ見せた。
「肉親として兄の死は、悲しい。されど、王としての兄は、判断を誤った」
アシュラフの葬儀を済ませると、喪も明けぬうちに、兄王の一族を裁いたナセルであった。
王子、王女を共に国外追放としたのである。
そして、リヤドを自らの物にした。
たった二月で、オロンテス王位とリヤド王位を、ナセルは手に入れたのである。
さらに、テヘラ王メフルダートに圧力をかけて、その妹を妻にしたナセルは、実質三カ国を支配する大王と言えた。
となれば、勢力は聖帝に迫る勢いである。
そのナセルが、二十五万もの大兵力を東方に向けているヘラートへ侵攻してきたならば、いかにアフラが防戦しても、防ぎきれるものではない。
ふと、ダスターンは苦笑をやめて、周囲を眺めた。
ヘラート以東は、緑豊かな大地が広がっている。大河からの支流が幾本も走り、その周りには森林が生まれ、生命を育んでいた。
必然、牛や羊が放牧されているし、様々な作物が育てられている。ここは、シバールきっての穀倉地帯であった。
クレイト軍は、全ての物資を現地調達するという。となれば、ダスターンが万が一にも敗れれば、今、目にしている全てが奪われ、焼き尽くされるだろう。
やはり、後顧を憂えていても仕方が無い。
目の前を見据えて、ダスターンはクレイト軍を撃滅すべく、全身全霊を注ぐ、と決意を新たにした。
「マフディ、俺はな、別に功を立てて王になりたい訳じゃない。ただ、騎士として人々を守りたいだけだ。
……ことに今、シバールは風雲急を告げている」
「はっは。誰がダスターンさまに野心がおありになる、などと言いましたか。
運が向くとは、此度の戦に勝てば、シェヘラザードさまが振り向いてくれるのでは? ということですよ。
私にはシバールの未来など分かりかねますが、将軍の幸福の材料くらいは分かりますので、ね」
「なっ!」
ダスターンは、赤面した。
元々、彼の肌は、シバール人としては色が白い。だから、顔色の変化が分かり易いのだ。
ダスターンの顔色が、頭上に巻いた赤布と変わらぬ色になってしまうと、場所も弁えずマフディは大声を上げて笑った。
ダスターンとマフディの二人が楽しそうにしている姿を見て、麾下の将兵達は緊張を和らげた。
いかに彼等が不敗の軍団といえども、次の敵は残虐非道で鳴るクレイト帝国である。皆、一様に、恐怖に顔を強張らせていたのだ。
だが、指揮官達に緊張や気負いが無いのならば、「いつもと変わらない戦いだ」そう、兵達は思えたのである。
◆◆
ダスターンが軍を率いてサーベの近郊に到着すると、クレイト軍の前衛部隊が、街を薄く包囲していた。
月はモルダート(八月)へと流れ、三日が過ぎている。
サーベは、山間の高地に築かれた城砦都市で、空中都市とも呼ばれる要衝だった。
とはいえ、街としての規模はそれ程大きくない。ゆえに、守備部隊は一千名である。そして今、それを包囲するクレイト軍の数は、およそ一万騎程だった。
「あの旗印は?」
ダスターンは、朝靄の中、林立するクレイト軍の旗を眺めやる。
「カザン王配下、ジャムカ将軍の軍ですな」
ダスターンの声に答えたのは、マフディだった。
マフディは弓の名手でもある。故に、人並みはずれて視力が良かった。
「あの程度の数ならば、敵ではありますまい。しかし……」
マフディが、目に掛かる水色の髪を指でかきあげつつ、言った。
髪と同色の瞳が油断なく周囲を見やり、僅かの違和感を感じている。
深い朝靄の先が気になるが、斥候の報告では、敵軍はやはりサーベを包囲する一万騎だという。
確かにサーベ周辺に、これ以上のクレイト軍は確認出来ない。ならば、一万対二十五万では、勝負にもならないだろう。
それでもマフディの違和感は、悪寒に変わりつつある。
陣を固めて様子を見るべきかもしれない、とも思うのだ。だが、それを進言する理由がない。
ダスターンは左手を上げて、全軍を停止させた。
「敵を、退ける」
敵が此方の動きに気づいていない、とは思わなかった。
まさか、この大軍に気づかぬ程、クレイトの将軍が愚かだとは思えない。
ならば、この大軍を前にして、ジャムカというクレイトの将軍は、サーベの囲いも解かず、待ち構えていた事になる。
――舐められている。
ダスターンの脳裏を、屈辱感が彩った。
斥候の報告でも、敵が潜んでいる気配はないという。
ならばと、奥歯をかみ締め、ダスターンは騎兵のみを呼んだ。
「マフディ! 俺とお前で一万騎ずつ率い、敵を攻撃する! 挟撃だ! いくぞっ!」
「はっ!」
その他の部隊には後詰を指示し、ダスターンは馬腹を蹴った。途端に、彼直属の騎兵が後に続く。
マフディも上官に倣い、逆方向へ馬を駆けさせた。
騎馬隊を南北から大きく迂回させて、サーベを囲むジャムカ軍に迫るのだ。
ジャムカ軍とて、全てが騎兵なのは見ればわかる。故に、ダスターンは互角の機動力と思われる騎兵のみで、攻める事にした。
それに、敵軍の二倍である二万騎を動かすのだから、負ける要素などない。
朝靄を切り裂いて、ダスターンは敵軍に迫った。
すぐに、ダスターン軍とジャムカ軍の戦端は開かれた。
刃鳴りが響き渡り、朝靄の中で、剣と槍が交差し、火花がはじける。
ダスターンの槍は、すぐさま敵兵の喉を貫き、頭蓋割った。
時を同じくして、別働隊を率いるマフディも、サーベの北側からジャムカ軍を攻め立てていた。
この挟撃に、たまらずクレイト騎兵達は崩れ、東へ、雪崩をうって壊走を始めた。
もとより、ダスターンとて深追いをするつもりはない。
だが、敵軍の脆さに拍子抜けする思いで馬を駆り、敵を狩ってゆくダスターンは、僅かに油断したのかもしれない。
「あの敵、要所で引き返し、将軍を引き付けている? 罠か?」
マフディは敵の脆さに危惧を覚えたが、先頭を駆けるダスターンに進言するほどの確信を得られなかった。
だが結局の所、マフディの危惧は、最悪の形となって実体化したのだ。
ダスターン軍がジャムカ軍を追い、緩やかな下り坂を下りてゆくと、朝靄の中から大軍が現われた。
緩急をつけて逃げたジャムカに、ダスターンは見事に釣られたのである。
しかも、ダスターンはジャムカを追っていた。
ジャムカは、ダスターンの前で馬首を返すと、徐に馬を下り、部下に愛馬を託した。
すると、すぐさま一頭の竜が舞い降り、ジャムカはそれに騎乗したのである。
「待たせたな、皆。反撃して良いぞ」
ジャムカは、視線をダスターンに向けたまま、不貞腐れた様な声で、部下達に命じた。
自らが罠に落ちた事を悟ったダスターンは、それでも諦めはしなかった。
索敵を怠ったつもりはない。とすれば、敵将が上手だったということだ。
ダスターンは、歯噛みした。
何がシバール最強の騎士か! と、自らを責める思いのみが強くなる。
「将軍、お退き下されっ! してやられましたっ! ここは私が抑えます!」
既に、鎧に幾つもの矢が刺さっているマフディの絶叫が聞こえた。
クレイト騎兵と切り結びながら、此方を見やり、心配げな表情を浮かべる忠臣の姿が、ダスターンの視界に入る。
ダスターンの正面には、蒼い竜に跨った武将が現われた。ジャムカである。
ジャムカは中空に竜を静止させて、ダスターンに向けて口を開いた。
「名のある将か? オレはジャムカ。クレイトの将だ。勝負しろ」
ジャムカは、ダスターンにとって幼く見えた。
実際、ジャムカは二十歳を過ぎていない。まず、端整と言って良い顔立ちだが、頬に残る赤みは、幼さの残滓だった。
それでも、竜を駆り戦える、というのは、ダスターンにとって脅威である。
ダスターンは、竜に騎乗することは出来ても、操って戦う事は出来ないのだ。
だからダスターンは、ジャムカを勇敵と認め、名乗る事にした。
「ダスターンだ!」
ダスターンは、ジャムカに向けて左手を翳し、風を巻き上げる。
まずは、竜を殺そうと思ったのだ。
仰向けにして、腹に槍を穿つ。
それから、ジャムカと名乗る男を討ち取るつもりだった。
しかし、ジャムカは竜を巧みに操ると、あろうことか、背面飛行で上空からダスターンに迫った。
頭上から突き出される槍に、ダスターンは何とか対処したが、無傷という訳にはいかない。
背中と肩に、二撃程受けてしまった。
「将軍っ! はやく撤退をっ!」
ダスターンは、再びマフディを見た。
鎧は、既に原型を留めていない。顔にも深い傷を負っている様で、左頬から下が、赤黒く濡れていた。
マフディはダスターン程ではないものの、シバールにおいては強者に入る。それが僅かの間で、傷だらけになっているのだ。
それに、ダスターンに従う兵も、かなり数が減っていた。
ならばマフディの言は、尤もである。
ダスターンは、死ぬわけにはいかないのだ。
背後に、二十三万の兵を残して敗死するなど、もってのほかである。
「全軍、退けっ!」
屈辱に顔を歪めながら、ダスターンは馬首を返す。幸い、ジャムカがダスターンを追う事はなかった。
それでも撤退戦はダスターンにとって、数多の戦歴の中、最も苛烈なものとなった。
左右から現われるクレイト軍は、皆、強く剽悍であり、雑兵ですら、二合、三合と斬り合う事があったのだ。
しかし、ダスターンにとって幸いだった事は、背後をマフディが守ってくれた事であろう。だから常に正面の敵に向かい、切り抜ける事にのみ専念する事が出来たのである。
◆◆◆
この日、ダスターン軍の損害は、九千六百人を数えた。
早朝の数時間で、戦闘に参加した兵力のうち、半数近くを失ったのだ。
見事な敗北だった。
そしてそれは、ダスターンにとって初めての事でもある。
一騎打ちで、怪我を負ったのも初めての事だった。
サーベは再びクレイト軍に包囲され、ダスターン軍は、それを遠巻きに眺めるだけである。
だがダスターンは、陣を堅固にし、徐々に前進するよう、部下に指示を出した。
クレイト軍とは、サーベという名の空中都市を挟んで対陣しているのだ。
ダスターンは一度だけきつく瞼を閉じると、長期戦を覚悟した。
その時、靄が晴れ、サーベの先にある山や丘に林立する旗が見えた。
陣は敷かれていない。ただ、そこに兵が居るだけである。しかしそれは、紛れも無くクレイト軍だった。
そして、上空には数頭の竜が舞い、時折、咆哮をあげて、シバール軍を威嚇している様である。
「まったく、偉い目に合いました」
昼が過ぎた頃、歩兵達が忙しく陣を築いていると、全身血塗れといった体で、マフディが帰還した。
ダスターンの背後を途中まで守っていたのだが、どこかで逸れてしまったのだ。
「いやぁ、ジャムカとは二度と戦いたくありませんな。つけ入る隙がまったく無い。一撃も入れられず、命からがら逃げてまいりました! はっはっは」
どうやら、マフディもあの男と一騎打ちをしたのか、とダスターンは思った。
それにしてもマフディは、その傷程に、体力の損耗は激しくないようである。
無事に帰還したことは嬉しいが、血塗れの鎧を纏って哄笑するマフディは、ダスターンにとって、妙に不気味に映った。
「マフディ、無事で何よりだが、お前はどうしてその傷で、生きていられるのだ?」
「ああ、言っておりませんでしたかな? 私は、治癒魔法が一番得意なのですよ」
ダスターンは、今日、二度目の苦笑をした。
そういえば、この友人は、どれ程激しい稽古で怪我をしても、翌日にはケロッとした顔で現われていたものだ、と、思い出したのだ。
「さて、シェヘラザードさまを振り向かせる為には、まずジャムカを倒さねばならんとは、将軍も難儀なことで」
「まったくだ。さらに背後には、カザン王とやら言う化け物が控えているのだから、たまらんぞ」
マフディは、盛夏の風を浴びるダスターンの横顔を見て、呆気にとられた。
今まで朴念仁だと思っていた上官が、シェヘラザードへの想いを素直に肯定しているのだ。
一度の敗北によって、吹っ切れたモノがあるのだろう。
多分、ダスターンはさらに強くなる。そう、マフディは思えて口元が綻んだ。
だが、マフディの怜悧な頭脳は、現段階でダスターンがクレイト軍に勝てない事も理解していた。
――今回ばかりは、俺も本気でやるしかないか。もっとも、本気でやっても、ダスターンを生きてヘラートへ帰す程度の事しか出来んかもしれんな――
マフディは、かつてシバール有数の武門の家に拾われた、奴隷騎士である。
彼の主は、彼を奴隷として扱わず、一族の者として育てた。
ただし代償として、彼の主はマフディに一つの事を誓わせた。
それは、次期当主を、命に代えても守ること。
つまりマフディにとってダスターンは、命を賭しても守るべき存在なのである。




